SF百科図鑑 ケティと絞首刑執行人 Kaeti and the Hangman キイス・ロバーツ


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ケティと絞首刑執行人 Kaeti and theHangman キイス・ロバーツ


そしてわたしは一度壊れた娘に触れ
大理石が血を流しているのを知った。
ジェイムズ・エルロイ・フレッカー。


それほど遅い時間ではない。二〇時を過ぎて間もなくだ。だが毎日続く熱気によって、低く垂れこめた一面の雲が奇妙に霞んでおり、高い白亜色の丘の間からは、いつもよりも速く光が消え去った。ケティは独房の窓のひとつのそばで腕を組んで立ち、鉄柵越しに見える長い坂を見上げていた。その偉大な前史的彫刻は、今やほとんど目に見えず、茶色の輪郭は草に隠れていた。頭には一群の小さな形が群がり、この距離からだと蟻のように小さい。〈巨人〉を閉め出しているワイヤー・フェンスの下に、一羽のアヒルが見える。ケティは少し微笑んだ。あの生き物たちは、何だろう。いったい何を見つけたのか。何がそんなに面白いんだろう。そう思う自分に気づいた。
ケティは少し位置を変えた。一時間もつっ立って、ゆっくりと光が変化するのを眺めていた。今はほとんど青みがかっている。だが、また変化するだろう。ほんの一瞬の間だが、激しい赤が流れ込む。その後夜になる。今までどうして気づかなかったのかと思った。たぶん見る時間がなかったのだ。あるいは、わざわざそうする気にならなかった。ケティは、鉄棒の一本をつかみ、手を上下に滑らせた。工場だったころから、鉄柵はここにあったのだろうか。そのようだ。基盤のモルタルは、さほど新しく見えない。
四二七号の女看守スティンプソンは、本のページをめくり、脚を組み替えた。きっと仕事に退屈している。だが、自分も五二歳で、給料百七十ポンドなら、ほとんどのことがうっとうしくなるだろうと、ケティは思った。スティンプソンは、すぐに灯りをつけるだろう。ガラスの傘の中に下がった、ただひとつの裸電球が、天井の中央、三メートルの高さにあった。
少なくともこの二、三日の間に、自分の服だけは返してもらえた。ともかく一部は。ケティはいつもの気に入りの縞のセーターと、割といいジーンズを着ていた。肩を緩める。そうすれば、背中の深い曲線を強調できると知っていた。そうすれば、相手がこちらを見るだろうということも。間違いではなかった。なぜなら、相手はほとんどすぐにページをめくったから。ケティは古い石の窓枠に両肘をつき、顎に両手を当てた。光はほとんど消えそうだ。けっきょく、夕焼けは今日は見られそうにない。「字が見える?」ケティは気安く言った。「目が疲れない?」
女看守は答えなかった。だが一瞬後、腰につけているインターコムから小さなビープ音が聞こえた。どこかで調整係がスイッチを入れ、それに従って灯りがついた。ケティはまた微笑んだ。灯りがつく時間は嫌いだった。夕暮れの景色が台無しになり、あまりにも早く夜になってしまうから。でも、少なくともケティは、他人の楽しみを妨害してやった。「何読んでんの?」ケティは言った。
スティンプトンは、ケティを見て本を掲げた。カバーは明るい色で、タイトルは〈無限の殺人〉だった。「へえ」ケティは言った。「そんなの読んでもいいんだ、知らなかった──」
女看守はしばらく、色のない少しとび出た目で見ていた。ケティは独房を渡って、ベッドの上に横になり、手の上に頭を乗せた。「ちょっと読んで」ケティは言った。「面白そう」
女看守はパイプ椅子の上で少し体を回し、ケティが視野に入るようにした。そしてまた本を掲げた。ケティは少しどきどきした。はっきりした理由はなかったが。呼吸をととのえようと頑張った。どきどきは治まった。ここ最近、このどきどきは時々起こる。医者がくれた薬が少しは効いたが、それよりも自分で調整したほうがうまくいくことが分かった。大したことはあるまい、本当に。だが、もし鼓動が速くなるなら、時間のスピードも速くなるんじゃないかという奇妙な考えが浮かんだ。それだけはいやだった。
医者について考えた。あの先生はなかなか悪くないわ。どっちかというと好きかも。細身で顎に髭がある。でも、なんとなく年齢よりも老けて見える。きっと、つらい人生を送ってきたのだ。もしわたしのしたようなことをあの先生がしたのなら、絶対面白かったのに。昨日の朝、医学的な検査があると聞いた。ケティがあれに耐えられるかどうかを確認するためと言ってた。あれ──遠回しに今何といわれてるかはどうでもいいけど。「社会への借金の返済」というのが最後に聞いた言い方で、けっこういいかもと思った。もっとも、宗教熱が高まっている今は、「造物主との面会」という言い方が人気だけれど。ケティは肩をすくめた。たぶん、検査はないのだろう。またいつものしょうもない監獄のジョークなんだ。
ケティは煙草を吸おうかと考えて、やっぱりやめようと思った。これ以上問題を起こさないようにと──スティンプソンから──言われていた。それに、あと三、四本しかない。代わりに、ベッドの頭の上の小さなロッカーからライターを取った。筐体は透明なプラスチックだ。まだ油が四分の三ある。たぶん持つだろうし、少し余るだろう。はじめライターをもらったときは、少しびっくりした。だが、先週は、二四時間の監視体制になることを理解していなかった。ケティは手持ち無沙汰にライターを二回つけた。女看守がまたこちらを見た。ケティはライターを吹き消した。ケティがバルブを放すまで、ガスがシューと出る音がかすかにした。ライターをまた下に置く。看守が交代したら、スコティにやってみようっと。スコティなら、きっと煙草を差し入れしてくれる。自分の噛み煙草を一、二口くれるかも。それぐらいスコティには余裕なのだ。
ケティはベッドの上で尻を動かした。自分がいちばんやりたいのは、最後にもうひと暴れすることだと、しばらく考えた。だがその考えもしぼむ。その機会が与えられても、今の自分には無理だと分かっていた。行動の時は終わったのだ。今は考える時だ。でも、何も役に立つ考えは浮かばないようだ。あたしの頭は、どうして水曜の朝より先のことを考えようとしないんだろう、と、ぼんやり思った。その後も世界は続くのだ。でも、あたしには関係ない。あたしに関する限り、世界は止まるんだ。ケティはまた、軽く肩をすくめた。頭の中でいろんな想念が渦巻くんだろうと想像していたのに、何も浮かばない。ただぼんやりと、頭がぐるぐる回って、いまいちばん気になるあのことに、戻っていくだけだ。はじめは考えるたびに、ある種の衝撃があった。でも今はなくなったも同然。これも普通なのかしら、と思った。
インターコムがまた鳴った。女看守が出た。「四二七番のスティンプソン、三一二号室です」受話器からかすれた小さな話し声が聞こえる。だが、看守がしっかり耳につけているので、ケティには何を言っているのか聞き取れなかった。最後に看守は言った。「お待ちください」そしてまた、冷たい目でケティを見た。「お客さんよ。ミスター・ロドニー・アクロイド。会う気はある?」
一瞬とまどった。どういうわけか、心臓がひどくどきどきしたからだ。ケティは上体を起こした。「ええ、会うわ」いったいあの男は、何が望みなんだろう。もちろん、上訴なんてありえない。ケティのようなケースでは。弁護人は既に上訴を願い出ているのだ。でも最近は、上訴が認められない事案があまりに多い。ケティは立ちあがり、小さなスチールミラーの前に行った。その縁はしっかり壁に組み込まれている。髪を櫛でとかし、小さなテーブルに座った。女看守を見る。看守も見返した。ケティはまた、時間の奇妙な収縮と拡張について考えた。外部の時間はせいぜい二、三分しか経過していないのに、永遠に感じる。ついにインターコムが警告音を鳴らした。来客を告げるランプが点灯し、ドアが内側に開いた。
普段着のロドニーを見るのは不思議な感じだった。チェックのシャツ、きちんとプレスしたズボン。ケティは立ち上がって、ロドニーのほうへ行きかけた。だが、立ち止まった。規則を破って、ロドニーを困らせたくはない。今は。「こんちは、ロッド」ケティは言った。「元気?」
「悪くないよ」ロッドは言った。「ちょっと疲れてるが」黒革の書類カバンをもっている。スティンプソンがすぐに手を伸ばしたが、ロッドは振り向いて、カバンの外側についたセキュリティ・チェック済みのタグを見せた。そして座った。女看守が鋭く言った。「少し動いてください。囚人がはっきり見えないと困りますので」
ロッドは看守を見たが、おとなしく椅子を移動した。そして両手を合わせ、しばらく頭を垂れて座っていた。「あのね、ケティ、元気かね? ここでの待遇は悪くないか?」
ケティは考えた。最初の日から本当に最悪だった。果たしてあれ以上ひどくなりようがあるのか。全裸の身体捜索はきっと、基本的なシステムの一環なんだろう。スコティかジェイムスンが担当だったら、あんなにひどくなかっただろう。でも最初からスティンプソンがケティ担当だったようだ。だからきっと、スティンプソンはこの仕事に適任なんだろう。スティンプソンの顔に浮かんでいる表情が単純な憎しみだったら、まだましなのに。でも憎しみはその一部に過ぎない。「ええ、大丈夫」ケティは言った。「あの人たちも、楽な仕事じゃないと思うし」一瞬、間を置いた。「たくさん本を読んだわ」そう言って、頭を上げた。「あの男について、何もかも分かった。丘の上の老人」
ロッドはうなずいた。「ああ、あれはかなり立派だな」また沈黙。沈黙が続くのが怖い。ケティは軽く腕に触れ、背中をそらした。「ロッド、何が望みなの? なぜ来たの?」
ロッドは両手を膝の上に広げた。スティンプソンがすぐに言った。「手はいつも見えるところに置いて」ロッドはまた看守を見て、両手をテーブルの上に置いた。「きみに会いに来た」ロッドが言った。
「わざわざロンドンから?」
「そうさ。わざわざロンドンからだ」
あたしのほうから会話をリードするなんて変だわ、とケティは思った。どう考えてもロッドの役目なのに。ケティの責任は減るどころか、かえって増えているようだ。「忙しかった?」ケティは言った。
「うん」ロッドは言った。「すごくね。休む暇もない」
ケティはうなずく。理解できる。最後に聞いたときは、同じ罪名の訴訟五〇〇件。「でも気にしないで」ケティは言った。「けっきょく、お金になるんだから」
ロッドはケティを見た。その目は痛みに満ちている。「うん、そのとおりだ」
ケティはまたロッドの腕に触れようとした。「ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ」
「そのとおりだ」ロッドは言う。「わかってる」また見上げた。「たぶんきみは信じないだろうが、わたしは弁護料を受け取らないんだ。きみのようなケースでは」
ケティは微笑んだ。「なら、馬鹿ね」ケティは言った。「誰かが代わりに得するだけよ。ただ国に戻るだけ」
ケティはけっきょく煙草をもらおうと決めた。だがその考えをロッドは読んでいたようだ。ポケットから煙草のパックを出し、一本に火をつけてケティに渡した。そしてパックをテーブルに置いた。
「ありがと」ケティは言った。そしてありがたそうに、煙草を吸った。「で、新しい家はどう? もう引っ越した?」訴訟が延々と続いて、ある意味ケティは嬉しかった。最初の一、二週間で、自分の事件の概要についていろいろなことが分かったから。
ロッドは首を振った。「まだだ。でも先週の週末、行って来た。リビングを少しいじってきたよ。あと寝室のひとつも。だから何とか住めるようにはなった」
「どんな感じ?」とケティ。
「すてきだよ」ロッドは言った。「ほんとにすばらしい」間を置く。「デニスは〈チルターンズの森〉が気に入ったようだ。そのちょうど端っこにあるんだ。周囲は樅の木で覆われている。森林局管理の森だ。でも道路の向こうはブナの木だ」微笑む。「今ごろの季節はちょっと退屈だよ。前にフレンチ・ドアを開けたままにしたことがあったが、一晩中、大きな四気筒の蛾が飛んで飛んでうるさかったよ」
ケティも微笑み返した。「慣れれば平気だけどね」また動悸が始まった。ケティは抑えた。だが一、二秒の間、すごくひどくなった。ロッドに気づかれないといいけど、と思った。「デニスは元気? あの子、どうしてる?」
「ああ、問題ないよ」ロッドは気楽に言った。「あと数週間は何もない。実際、特に心配はしていない」ロッドの顔を一瞬、陰りがよぎった。ケティは気づかないふりをした。「うまくいきそうね」ケティは言った。「あたし、いつもそう言ってたでしょ」
ロッドは唇を引いた。「ケティ、質問していいかね」
「ええ、きいて」
「きみが全部やったのか?」ロッドは言った。「判決内容どおりのことを、全部やったのか?」
静まり返った。こんな話題になる前に、看守が止めるべきだったのに。これは少し規則違反だ。だがケティは身を乗り出し、目を閉じた。一言でも言い間違えてはならない。この夕べが台無しになってしまうから。ケティは肩をすくめた。「それが大事? あたしは有罪判決を受けたのよ。それで十分でしょう」
ロッドは答えず、ケティを見ながら座っていた。ケティはまた肩をすくめた。もうどうでもいいこと、これ以上はたくさん。「だって、あたしがやったから」ケティは言った。「とにかく、その大部分を。でも初めから、それは分かっていたでしょ」そして、灰皿代わりの割れた皿に煙草の灰を落とす。「あたしがやってないと言ってたら、何をするつもりだったの?」
ロッドはまだこわい顔をしていた。「きみを弁護した。無罪を得るように頑張った」
ケティは首を振った。「無理よ。法律上認められないし」
「だからきみは、上訴を断ったのか」
「一部はね」そう言ってケティは、煙草をもみ消し、もう一本つけた。「おかしいわ」
「何が?」
「弁護士って、金のためにだけ動くと思ってたから。法律と正義をはき違えてるとか、そんな感じ。じゃああなた、いつもこんなことするの?」
「こんなことって?」
「面会に来ておしゃべりするの。裁判に負けたのに」
「いや。いつもするわけじゃない」首を振った。「確かにたいていの弁護士は、金目当てだよ。損するために頑張るやつは、絶対いない。たぶんわたしも他の弁護士と同罪だろう。自分を特別な人間に見せたいわけじゃない」微笑んだ。「弁護士というのは、利益にならないことには関わり合わない。たぶん、だからわたしは大した弁護士じゃないんだ」
ケティは急に振り向いた。「あなたは──」そう言って、止めた。「あなたは大丈夫よ」
「ありがとう」そう言ってロッドは、また手を合わせて考えた。「あの件について、話したいかね?」
「ええ、もちろん。今はどうでもいいことだし」ロッドが質問するのを待った。それはロッドの仕事だ。ケティのじゃない。
ロッドはまた唇を引き締めた。「よし、じゃあ、サー・ハリーだ。ハリーは入閣を控えている。影の首相だと言う人もいる」
ケティは大して面白くなさそうににっと笑った。「ああ、黒人のサー・ハリーね。ブレイヴァーは剣は使ってないわ。本当に。持ち歩いてるカバンに、何が入ってたか知ってる?」
ロッドは首を振った。
たぶんロッドは仕事がら、似たような話を前に聞いたことがあるはずだ、とケティは思った。だから、今更ショックは受けるまい。「板ガラスが何枚も」ケティは言った。「売春婦の顔に押し付けるの。それから、楽しむ」
ロッドの表情は読めない。「でも、それで人は死なない」ロッドは言った。
「ええ、そうよ」ケティは煙草を吸った。「でも結局、ハリーはそれで満足できなかったのね。そして、ランベスであの子をやった。それから、ハットン・ガーデンの件」思い出すような顔をした。「たった一四歳だった。通りをうろついてたのが間違いだったのよ」
弁護士は目を細めた。信じられないことだ。だがこの注意深い監獄訛りでしゃべる疲れた顔の娘は、かつて〈第一世〉と言われていたのだ。道を踏み外すまでは。「ケティ、証拠は何かあるのかね?」
「アレックスがいる。ハットン・ガーデンの件を目撃しているわ。そういうことに関しては天才よ。いつも絶好の場所に居合わせる」首を振った。「ただ、本人はもういないけど。どうせ、誰も信じなかっただろうしね」
「きみ自身が──撃ったのか?」
「いいえ。あの時は違う。あたしはおとりだった。誰かがあたしを巻きこんだ。アレックスが来るのはちょっと遅かった」
ロッドは眉をしかめた。「警察は何か見当をつけてたと思う?」
ケティは肩をすくめた。「たぶんね。でもそんなことでお偉いさんを追及しても無駄でしょ? 無理」
ロッドはうなずいた。「いいよ。じゃあ、サージャンストンは?」
「ああ、あの人。ちょっとしたやり手で、税務署と組んでもうけてた。民間の債権取立屋。けっこういい業績だった」顎を引いた。「あたしのパパもやられた。あたしもそれで路頭に迷った。だから、アレックスの世話になったの」
「何があったんだね?」
ケティは肩をすくめた。「離婚したの。つまり、あたしのパパが。馬鹿よね。年を考えても」首を振る。「で、ワンズワースにあばら家を見つけた。汚い小部屋とキチネット。共同トイレ。とにかく、パパはちょっとしたトラブルに巻きこまれた。あっという間に」灰を落とす。「パパはいつもお酒だけが楽しみ。たいていの人と同じ。で、ちょっとした内職を始めたの。それをサージャンストンが見つけた。あらゆる男を手なずけてたのね。ある夜、二人の護衛とともに踏みこんだ。もちろん、ちゃんと令状持ってね。適法に。でもそれでパパはだめになった」
「それで、お父さんはどうしたの?」
ケティは考え深い顔になった。「パパは、本の虫になったわ。何でも読んだ。何百冊も買い込んだ。それが人生になった。面白いわ、考えることは教育」
「それで?」
「あいつらは、本を差し押さえた」ケティはあっさり言った。「全部。パパには空の本棚だけ残して」また間を置いた。「最後に会ったとき、パパはメセドリン中毒だった。あの分だと、もう長くないと思う。今ごろはもう、倒れているかも」
「ケティ──」
「次に狙われたのは、知りあいのおばさん。アレックスとあたしのアパートの隣の人。最初はそんなに派手じゃなかったの。五年間待った」短く微笑んだ。「帳簿外リストって言ってたわ」そう言って、煙草を吸った。「いい骨董品をたくさん持ってたの。お祖母さんのものだったらしけど。宝石とかそういうやつ。中には何百ポンドするのもいくかあった」考え深い顔をした。「頭をガスオーブンの中に突っ込まれたわ。国が養わなきゃならない老人の口減らしよ。あいつらはともかく、それで利益を得た。アレックスが見たの。そしてとうとう我慢できなくなった。アレックスは、あいつを消そうといった」また思い出すような表情になった。「頑固な男だったから」ケティは言った。「もちろん、ほとんどの相手はポーランド人だった。ただ、求めない相手には何もしなかった。いつも子供には優しかったわね」
「どうやって──消したんだ」
「簡単よ」とケティ。「裁判で認定されてるのがほとんど正しいわ。あいつは、自分の家を改装中だった」ケティは鼻をくんくんさせた。「五千ポンドで。で、あの内装業者を選んだわけ。アレックスがつきとめた。だから、他の連中が業者を見張ってる間に、アレックスとあたしが下に行った。雨よけのために、セロファンを貼って。アレックスは、いつもクライアントの右足からやるんだぜと言ってたわ」乱暴に煙草を消して深く息を吸った。「それから、ホールの内装をやり直したの」ケティは言った。「すごく個人的な色彩にしておいた」
相手はひるんだ。そして言った。「奥さんと子供がいただろ」
ケティはうなずいた。「ええ、知ってた。シュリーでの生活の代償を払うべき時だと思ったわ」
ロッドは拳でテーブルを叩いた。「ケティ、なぜ今まで言ってくれなかったんだ」
ケティは肩をすくめた。「勝ち目はなかったわ。もうすんだことでしょ? どっちにしろあたしは負けたの」そしてロッドを見た。「どっちにしても、調べようと思えば調べられたはず。帰ってからいろいろやってたんでしょ?」
ロッドはまたテーブルを叩いた。次第に興味をひかれていた女看守が、少しびくっとした。「やってはみたよ。どんなに頑張ったか、分かってもらえれば──」ロッドは、唾を飲みこんだ。「記録はなかなか開示されなかった。われわれに、国家機密法まで適用しやがったんだ」
ケティは見た。「でも、あなたは大物の法廷弁護士でしょ。法律はどうなってたの」
「法律にはたくさんの抜け穴がある。飾りの網カーテンみたいなもんだ。われわれでも完全に理解できるものではない──」顔をこすった。「いいよ、続けて」
ケティは考えた。「そのあとも、二、三回やったわ。同じようなことを。スリとか。殺しはしなかったけど。哀れなやつにはトラブルがつきもの」髪を後ろに撫でつけた。「実際、よく働いたわ。噂はすぐに広まった。あたしたちは家をきれいに改装して、また夜になると出かけ始めた。ちょっとした自警団員になったわ」頭を振った。「もちろん、裁判沙汰にはならない。民主主義では、その程度のことは見逃されるから」
ロッドは見上げた。「銀行の件は?」
「ああ、銀行ね。最初は考えもしなかった。でもお金が必要だった。とにかく、誰にも怪我させてないし。分かってるでしょうけど」煙草の箱を弄んで、脇に置いた。「本当にラッキーだった。誰も厳しくチェックする人がいなかったわ。だから問題なかった」
ロッドは両手を膝に置き、はっと思いだして、手をテーブルの上に戻した。
「文化大臣は?」
ケティは悲しげにうなずいた。「ええ、その話になると思った」見上げた。「ちょっとした民間プロジェクトだと言ってたわ。本当にくだらんと、アレックスは断固反対した。でもあたしも同じぐらい頑固だった」爪を見た。「あたしのばあちゃんが、古い工場があるのを覚えてたの。いつもばあちゃんが退院したらそこに行くとばかり思ってた。それが、この新しいアイデアのとっかかり。ワンズワースのプアハウス。ドアの上を石造りにした。時間はかからなかった。一生かかるわけじゃない。今度だけはうまくいった」また見上げる。「どうせもともとパパもそうする予定だったし。それに他にも、知ってることがいくつかあった」微笑んだ。「でも、一一番目の掟だったかしら? 〈汝飢えるなかれ──〉だからあたしたち、掟を守ったの。またクリスチャンになったのよ」
ケティはしばらく考えた。「文化大臣は、そういうのを望んでいた。サウジアラビアでは、誰かに鼻を切られそうにならないと、ドアから鼻を出さないと言うし。でも次に起こるのはそういうこと。田舎の店で万引きしてるようなやからには。子供なら指を切られる」間を置く。「でもすごくよかった。花がそこら中に咲き乱れて、素敵なスピーチ。お国のためのクリスチャンとしての務めよ。もしそうしないと、自分たちがどうなるか分かってるし」また考える。「パパは仕事がなかったし。でもそんなこと、どうでもいいでしょ」
「つまりきみは、自分一人でやったんだな」ロッドが言った。「他の誰も関与してない」
「ええ。目の見えない人からお金を集めた。国がやってるのと似たようなこと。愚か者はスナイパーも雇えないし」ケティは笑った。「それから女大臣は、視察に来たわ。みんなと握手。最後があたし」
ロッドは顔をこすった。「それできみの隠れ家がばれたわけだな?」
「ええ。そうに違いないわ、今考えると」首を振る。「アレックスと同じようにやりたかった。でもそれはばかげた考えで、あたしはあまりまじめに考えてなかった。みんなさぼりまくって、ろくな仕事をしやしなかったの。あたしの尻を叩くだけで。止めてくれればよかったのに」肩をすくめる。「どっちみちチャンスはなかった。あたしは先を見失って、CSに駆け込んだのよ──」
「すまないけど」女看守が言った。「話はもう打ち切りよ」最高の部分は終わったと判断したのだろう。きっと、本を読むのと同じぐらいは面白かったはずだ。
「最悪」ケティがうなった。「どっちみち、あたしたちおしまいだから。ねえ?」
ロッドはまだ頭を垂れて座っていた。「ケティ、まだわからないのかい? 終わりって何だ? きみは何を証明しようと──」
ケティはロッドを見た。「もちろんわかってた。みんながわかってたわ」間を置いた。「面白いでしょ? 伯父さんのロンが肺癌で死んだわ。何年も前。何度も手術で切ったけど、すぐに別の場所に再発。最後は、人形劇の〈パンチ・アンド・ジュディ〉みたいな悲惨な声だった。家族が面会に行くたびに泣いてたわ」首を振った。「でもあたし、煙草はやめない。人間ってそういうもんよ──」
「ケティ」相手は言った。ためらって、手を伸ばし、ケティの手を取った。
「囚人と個人的接触は許されないわ」すぐにスティンプソンが言った。ロッドは看守に向き直った。看守は睨み返した。三〇秒も睨み合っていたが、とうとう看守が目を伏せた。
「そもそも、あの女は何だったの?」ケティは言った。「女軍人とは思えない。次に思ったのは、交通婦人警官。それとも泥レスラー?」
ロッドはケティの顔を上げた。ケティの目は表情が全くない。「実際のところ、あたしは子供の世話をしてたし」
ロッドは警告するようにケティの指をつかんだ。だがケティは無視した。「ああ、そうよ。あの女は、あたしたちに訓練をさせていたの。時々、いらいらしていた。でも理解できるわ。いやな仕事だけど、誰かがやらないといけない──」
「ケティ、頼む。きみは、自分をだめにしてる」
「あら、いいのよ」ケティは軽く言った。「どうせあなたが帰れば、あたしはうまく逃げてやるから」
「何だって?」ロッドは言った。「何だって?」振り返った。その顔は花崗岩のようだ。「この──人は、ひどい精神的ストレスに見舞われてる。それは、あなたにもわかるでしょう。繰り返したくはないが、いかなる形であれ、受刑者を傷つけたり、いじめたりしてはならない。分かったかね?」
女看守はむすっとしていた。「自分の任務ぐらい分かってるわ」そう言って目をそらした。
ケティはロッドを見た。印象付けるために、この男が法廷で多少無礼な発言をするのを見たことがある。たぶん弁護士はみんなそうだ。だが、今のは本心で言ったのだと分かった。「そんなこと言っても無駄よ。全部知ったからといって、別にあたしに近づいたわけじゃないし」首を振った。「あなたはあたしの状態が知りたいのね。心の中で本当はどう感じているか。でもそんなことしても無駄。あたし、何も感じたくないし。何も変わってないわ、あなたと全く同じ」
ロッドは優しくケティの爪をもんだ。「あたしが本当にやったらどうしようって、思ってたんでしょ」ケティは言った。「もし口から出まかせでなかったら」微笑んだ。「自分でも時々どうだろうって思うわ。だからこんなにおかしいの。でもだったらとっくにやってるはずよね。ここにいないはずよ」間を置いた。「きれいな爪でしょ。あたし、自分があまり好きになったことはないわ。でも爪だけは好き。ハシバミの実もつぶせない。欲求不満の主婦を思いだすわ。あるいは神父。ワニスも塗れないぐらい繊細。あなた、指をドアにでも挟めばよかったのに」ロッドは手の力を緩めた。ケティは少し前に動いた。ロッドの手の感触、思いがけない温かさに、ケティの中のずっと忘れていた何かが動き出したようだった。ケティは今こそ、かつてないほどに、はめを外したい気分だった。そうすれば連中はすぐに、あたしを連れだし、けりをつけてくれるだろう。「何よりつらいのは待ってること」ケティは言った。「それこそ、非人間的な感じ」
「ケティ」ロッドはまた言った。「ああ、ケティ──」そしてケティの指の間をとても優しく撫でた。ケティは緊張した。「ねえ、やめて」ケティは言った。「変な気持ち──」
ロッドはため息をつき、手のひらでケティの指を包んだ。「ケティ、何と言ったらいいのか分からない」
「それでいいわ。何もないから。心配しないで」眉をしかめた。「面白い。でもまだ、何年も先のことのような気がする。明後日の朝なのに。ずっと来ないような気がまだする。まだ人生が半分残ってるみたい」
インターコムが鳴った。すぐ看守が立った。「すまないけど、面会時間は終わりよ」
「ああ、わかった。ありがとう」やっとロッドはケティの手を放した。ほとんどくらくらする気分。子供のころ見たこわい夢みたい。ロッドはしばらくじっと下を見て座っていた。それからカバンを開いた。「ためになる文学は持ってこなかった。そういう気分じゃないだろうからね。でも刑務所長は、こういうのなら差し入れても構わないと言うから」そして、煙草のカートン一つと、ライターを渡した。
「あら、ありがと」ケティは言った。「ありがとう、ロッド。本当に嬉しい」ライターを取った。自分のは薄い黄色だが、これはピンクだ。「かわいい」ケティは言った。また感情的になっている。馬鹿みたいに感謝する気持ちになっているのだ。クリスマスの靴下の中身を出した小さな女の子みたいに。
ロッドは立ち上がった。「他に何かできることはあるかね? 何か?」唾を飲んだ。「きみは、一つリクエストしていいと、所長は言っていた」
ケティはまつげをこすった。「そうね──あたし、新しい洋服が欲しい。あと、髪をセットし直したい」
「二つは、だめよ」女看守が言った。
ロッドが振り返り、看守が驚くような口調で言った。「それで一つだ」そしてまた向き直った。「洋服のサイズは?」
「一二号」ケティは言った。「それと──選んでくれるの? すごく嬉しい」
「わたしは──いいとも」ロッドが言った。「ケティ、わたしは──」
「もういい」ケティは言った。「ロッド、出て行って。行ってよ──」ケティは横を向いた。
時間がまたいたずらをしているようだった。ドアの閉まるカチッという音までに、ひと時代が過ぎたような気がしたから。ケティは窓辺に戻り、鉄柵を握った。もちろん外はとっくに暗くなっている。玄関の警備用照明の照り返しと、ずっと向こうのにある高いラジオ塔の、星のような光だけだ。すぐに、他の光が動き去るのが見えた。最初は白、次に赤色。車は加速して、カーヴする北側道路を走り去った。
またドアが音を立てた。もちろんスティンプソンだ。ゆっくりと振り返って、肩を壁にもたれた。「いいわ。やってちょうだい」
打撃は科学的精密さだった。熟練していた。最悪なのは腹へのパンチだった。ケティは体を二つに折り、肺は空気を吸おうともがいた。やっとの思いで起き上がったときも、あえいでいた。「やるわね。あなたはずっと右翼だったの、それとも仕事のせいでそうなったの?」腕をケティの顔に巻きつけている看守の目の色が変わるのが見えた。同じパターンが繰り返された。だが今回は最後に看守が後ろを向いた。どすんと音がして、光が溢れた。ケティは四つん這いに倒れた。指の間から大きな血の滴が一つ、また一つ流れた。「腕が落ちたわね、四二七番」ケティは言った。「今度は手加減したから、別に言いつけないわ──」そう言って、横向きに転がった。インターコムの音が聞こえ、辺りの景色がちらつき始めた。


*****


次に目が見えるようになったとき、ケティはベッドの縁に座っていた。医師がいた。看護婦がたらいをもっている。医師はティッシュで拭き、それを捨てて、別のティッシュでまた拭いた。ケティの唇を巻き上げ、頭を傾けて拭いた。「よし。これでいい。楽にしなさい」それから肩越しに言った。「ミスター・マクドナルドを入れてくれるか? できれば今すぐ」そして、巻いてある脱脂綿の塊を取った。「そら、しばらくこれで押さえていなさい」医師は背を伸ばした。その顔も花崗岩のようだった。「何でこんなことになったんだね?」
スティンプソンが両手を広げた。「突然様子がおかしくなったのよ。頭を壁にぶつけ始めた。あたしが押さえなきゃならなかった」
医師の唇が真一文字に結ばれた。「きみはそう言うだろうな。わかった。本当かね、ケティ?」医師の手はまだケティの肩に置かれていた。
ケティは黙ってうなずいた。医師は脱脂綿を外し、舌打ちした。「大丈夫。心配要らない、大した傷じゃない」ケティは脱脂綿をもとの場所に戻した。
独房は混みあっていた。歯医者が助手を連れて来た。女性の所長代理も来た。所長代理は困った顔をしていた。たぶん夕食中か何かだったのだろう。尻に手を当て、ケティを見下ろした。「本当は何が起こったの?」
歯医者もケティの頭を傾けた。小さなペンライトをつけ、指で優しく探った。「歯が二本緩んでるようだ。わたしの見る限り、大したダメージじゃない」立ちあがって、手を拭いた。「数日で治るよ」そう言いながらも、困った表情をしていた。
「わたしはまだ答を待ってるのよ」所長代理が言った。
ケティは部屋の反対側を見た。所長代理も視線を追った。ロッドが置いた場所に、一〇〇本入りの煙草の箱がはっきり見えていた。スティンプソンは今のところはそれに触れていないようだ。だが、代わりにライターが盗まれていた。「スティンプソンが言ったとおりよ。ごめんなさい、あたし、自分がどうなるかよく分からないの。でも、二度と起こらないわ」ケティは言った。
医者はケティの両脚をベッドに乗せた。そして優しく肩をもんだ。もう一度、重々しい表情で見下ろした。「ケティ、間違いないのか? 本当に、本当にそれでいいのか?」
疲れたようにケティはうなずいた。「ええ、本当よ。もう大丈夫」医者は首を振り、持っていた小さなカバンを開いた。ケティはすぐに抵抗した。「やめて。やめて、お願い──」
「きみ」医者は看護婦に言った。そしてケティの手首をつかみ、前腕の内側を消毒した。「心配ないよ。眠くなるだけだから」
「眠りたくないわ」ケティは必死で言った。「お願い──」だが医者はきかなかった。「選択の余地はないんだよ。静かにしてなさい」麻酔注射のかすかな痛みを感じ、プランジャーがゆっくりシリンダーに入っていくのが見えた。医者は脱脂綿で押さえながら、針を抜いた。「数を数えてごらん、いい子だ──」
抵抗しようとしたが、無駄だった。既に麻酔が効き始めているのが分かった。「一、二、三、四、五」ケティは言った。「一、二、三、四、五──五──」


*****


ケティは目を開いた。横向きに寝ていた。毛布が掛けてある。小さな部屋に太陽の光が入ってくる。はじめ、目がはっきり焦点を結ばなかった。例えば、顔の前の謎めいた明るいしみ。目を凝らしていると、だんだんはっきり見えてきた。小さな花瓶だ。
スコティが部屋の反対側にパイプ椅子を置いて座っている。微笑んだ。「ハロー、お嬢ちゃん、気分はどう?」
「いいわ、ありがとう」夢見るようにケティは言った。「本当に」そして手を上げかけた。「それは何?」
「わからないわ」看守は言った。「下にあった花。どれが何という花かは、見分けがつかない。でもきれいでしょ? 気に入ってもらえるかと思って──」
「ええ。きれい。ありがとう──」眉をしかめた。昨夜のことを断片的に思い出し始めた。そして全部思い出した。ロドニーが来たこと、その後いろいろあったこと。「今何時?」
「もうすぐ九時」看守は言った。かすかに心が痛むような声だ。ケティは頑張って上体を起こそうとした。医師に悪気がなかったのは知っている。でも医師は、ケティから一二時間を奪ったのだ。人生の残りの三分の一を。頬の小さな傷ごときの代償としては、大きすぎる。
突然めまいがした。ケティはあえぎながら後ろに倒れた。スコティが慌ててやってきた。心配そうだ。「大丈夫、すぐによくなるわ。気分がよくなったら、お茶を持ってこさせるから」スコティは言った。
ケティはため息をついた。あたしには選択の余地はあまりないらしい。目を閉じる。突然、眠気に襲われる。パニック状態のようになって、必死で払いのける。時間がどんどんなくなっていく。またあの時間の収縮が始まったのだ。だが今度のがいちばんひどい。これ以上浪費するわけにいかない。今、ほとんど手遅れというときになって、考えるべきことがこんなにあるのは不思議だわ、と思った。心の中で、静かな会話を始める。ロドニーがきかなかった質問、あるいはケティが答えようとしなかったこと。
「アレックス? ええ、二年ほど前に知りあったの。ディスコで。いや、あたしはディスコなんてあまり行かなかったけど。毎日のように行ってる友達がいてさ。でも行ってよかったと思ったわ。アレックスは、一味違ってたもん。ほら、背が高いし。ポーランド人だって言ったっけ? でも分かんなかったと思うわ。話してるのを聞かない限り。生まれてからずっとイーストエンドに住んでたって。でも家ではポーランド語を話してたってさ。お母さんは、すごくおいしいアップルパイを作ってくれたって──」
「アレックスも大学に行っていた。生物学に詳しかった。微生物とか、淡水魚とか、そういう。でもどうせ信じなかったでしょうね。アレックスは、〈タワー村〉でゴミ回収の仕事もしてたの──」
「なに? ううん、最初は違った。長い間、アレックスが何をやってるか知らなかったの。興味もなかった、本当に。初めてつきあい始めたころ、アレックスは、川にハウスボートを持ってた。かっこいいボートで、いつも自慢してた。いつもニスを塗ったり、いろんな手入れをしてた──」
「ええ、アレックスには面白い友達がいたわ。時には夜中まで座って語り合ってたものよ。あたしは途中で疲れてベッドに入ったけど。そのことで、後で喧嘩したこともあるな。でも、あたしはその程度のことだと思ってた。ただ話して──それから笑い転げて──」
「なに? そうよ、みんなよ。ある朝、警察が現れた。何百人も。犬とか、いろいろ連れて。持てるものを全部持ち去ったの。それだけ。そのあと全員逮捕。〈川を掃除するんだ〉とは叫んでたわね。その年、〈失業者対策〉が終了──」
「あんなに怒ったアレックスを見たことなかったわ。アレックス以外の人でもね。何日も、あたしからその話は出来なかったわ。もし話したら殺されかねない雰囲気だったわ。あれのせいで、何年も前にママとパパが逃げ出したんだ、と言ってた。もううんざりだ、これ以上逃げたくない、何かを取り戻したいと言ってた。実際、無理もなかったかも。そして、また別の事件が起こった。もしチャンスがあっても、あの頃に二度と戻りたくはないわ。絶対に──」
「ねえ、起きて」スコティが言った。「おいしい紅茶よ」心配げで、少し警戒しているように見える。自分は心の中の会話の最後の部分を声に出していたのだろうと、ケティは悟った。
ケティは注意深く両脚を降ろした。めまいが戻る。ほんの一瞬。だが、本当にさっきよりも気分がいい。紅茶もおいしい。熱くて、甘い。でも最初の一口で、口の怪我がいかに痛むかが分かった。注意深く舌で探る。唇が完全に腫れてるわ。一マイルも飛びだしてるような感じ。鏡を見る。実際、見た目よりもひどい感じ。でも腫れてるのははっきり分かる。あざがだんだん現れてくる。一、二日すればはっきり見えるだろう。
ケティはその考えを慌てて打ち消した。無理だ。考えられない。
「朝ごはんは?」看守が言ったが、ケティは首を振った。「無理だわ。でも紅茶をありがとう。おいしかった」どっちにしろ、ケティはここ何年も朝食を取っていない。セーターを脱ぎ、小さなたらいで洗い始める。ジーンズも着替えたい。けっきょく、それを着たまま一晩寝てしまった。だがちゃんと体を洗わない限りは、あまり意味がない。「スコティ、後でシャワー浴びていい?」
「もちろん」スコティは言った。「予約入れておくわ」そしてインターコムを使った。
ケティは小さなワードローブからニット服を出した。少し古く、片方の肘はほとんど擦り切れている。だが少なくとも着ごこちはいい。それに──また考えてしまう──いちばんいいのは後にとっておかないと。窓辺に歩き、下を見下ろす。天気は崩れそうで、灰色の雲が西の空から走ってくる。丘陵地帯も灰色に見える。低い坂では、長い草が風にそよぎ、海のさざなみのよう。〈巨人〉の上には誰もいない。だがほとんど驚かない。あそこで雨に打たれたら、隠れる場所は遠いのだ。だが、ケティならそんなことは気にしない。何キロも、歩いて、走って、ひたすら止まらずに進みたい、と思った。そして、ただそのことに感謝したい。人間の価値がときどき大きく変わることがあるのは、驚くべきことだ。
ケティは、その考えを他の邪念とともに払いのける。注意深く。まだそんな時じゃない。
インターコムがまた鳴る。小さなドアのライトが光る。スコティが言う。「お客さんよ、ケティ。所長」
「いいわ」ケティは言う。また鏡を見る。急いで髪をブラシする。それから、いったい女所長がなぜわざわざ、と思う。たぶん習慣のなせる業か。
女所長は背が高く、白髪混じりの頭だ。紺色の制服を着て、他の職員と同様、ベルトにインターコムを持っている。「ありがとう、ミセス・スコット。二人だけにしてくれる」スコティはためらって、後ろを向いた。「ありがとう、ミセス・スコット」所長は鋭く言った。「おはよう、ケティ。座ってちょうだい」
ケティはベッドの縁に座った。ここへ来てすぐ、一度だけ所長を見たことがあった。本当に高慢な女だと思っていた。だが今は心配そうな顔をしている。所長はスチームフレームの椅子に座り、持っていたクリップボードを見た。「デンマン医師からの報告よ。非常に気になる内容。昨夜の出来事についての」所長は素早く目を上げた。だが、所長がケティの腫れて色を失った唇に既に気づいていることはケティにはわかっていた。「医者はその場でなされた説明に、必ずしも満足していないわ」所長は唾を飲む。「わたしはこれ以上詮索しないけど、医者はあなたの怪我が、自分で傷つけたものではあり得ないと考えている。何か付け加えることはある?」
ケティは煙草の火をつけた。もし所長がケティの戸口の糞の後始末の手助けでもするつもりなら、完全に的外れだ。「あたし、野犬収容所に行ったことあるわ、子供のころ。ここみたいな部屋があって、野良犬を収容していた。飼い主が飼えなくなった犬とか。ドアにはこんな掲示板があったわ」目を細める。「〈ここにいる動物たちは、死ぬためにここに来たことを忘れるな〉」頭をぴくりと動かす。「だから、同じ掲示板を外にかけたらいいのよ。みんながときどき思いだすように」
所長はクリップボードを見直し、また頭を上げた。顔はひどく疲れている。「ケティ、物事を今よりも困難にしちゃだめ。お願いだから」ため息。「あなたの考えは分かるわ。もしわたしがこの仕事が嫌いなら、こんなところにいないはずだって」頭を振る。「信じないだろうけど、神に誓って、わたしはここに来る必要はなかった。誰もね。わたしはベストを尽くすだけ、わたしなりに。だって、わたしは恐怖にとり付かれてるから。わたしがここにいなくても、誰か他の人が来るだけ。その人は、わたしほど頑張るとは限らない」ボールペンを叩く。「ケティ、あなたに訴えたいのは、もしうちの職員に不満があるなら、何か言うべきことがあるなら、言って欲しいってこと。今。きちんと調査すると約束するわ。徹底的に」
ケティはため息をついた。心臓がばくばくして、突然激しい思考が脳裏に押し寄せた。もし知っていることを話せば、自分を生かさねばならないはずだ。証人として。どれぐらい? 三日? 一週間?
ケティの目は光った。そんなことはすべきでないから。スティンプソンのおかげで数時間か。アレックスならどう思っただろう。自分の声が話すのを聞いた。遠くに聞こえる感じ。「ごめんなさい。何も言うことはないわ。事実はそこに書いてある通り」
所長は拳を握った。一瞬、その拳をクリップボードに叩きつけるのではないかと思った。所長は、穏やかに拳を下に降ろした。「どうして、ケティ? いったいどうして──」
ケティは首を振った。ただ生きるか死ぬかだけの問題ではなかったから。とにかく、自分は勝ったのだと分かった。イエス・キリストやガンジーといった人たちのように。今までも今も、自分は理解したことはない。でも勝った。「ごめんなさい。とにかく、言えないの。言うべきことが見つからない」
所長はまたため息をついて、ベルトのコミュニケ―ターを押した。「いいわ、ケティ」そう言って、ためらった。「気が変わったら、わたしを呼びなさい──いつでもいいから」まるで「あなたの残りの人生の間」と言っているようだった。実際そういう意味だったから。
「いいわ──本当に、ありがとう」ケティは言った。
所長はドアのほうを向いた。「今日の午後、美容師が来るから。それと──もう一つのものも。他に必要なものはある? 何でもいいから」
「いいえ、ありがとう」ケティは言った。
朝の運動は一一時だった。わずか一五分。厳格なローテーションで、各囚人に割当が回ってきた。いったいなぜ最後になって、死刑囚たちを別々にする必要があると連中は感じているんだろう、と思った。古い建物の裏に設けられた小さな庭をゆっくり周回した。実際、庭は全体で二つしかないが、もう一つは消音ガラスのマンサード屋根がついている。その中を覗けるのは一回だけだ。ケティは高さ六メートルの壁を見上げた。何年も前は工場だったというのは面白い。本当に皮肉だ。だが周囲何キロにもわたって別の建物がないのは、連中にとって理想的だった。国というのはどうしてこう、気に入らないものを隠したがるのだろう。誰もが国の考える通りに敏感なら、今までどおり公衆の面前に堂々と出すべきなのだ。そうすれば誰もが見に来られるのに。たぶん国は、誰も見に来ないと思っているのかも。乞食が丘の上の巨人像を見たら、何と思うだろうか。収穫物を守り、土地を肥沃にする神。動物や女も。
ケティはスコティを向いた。「ずっとここで生活してるの?」
「まさか。家が大都市にあるから来るだけよ。つまり、ドーチェスター」
「うん、知ってる」
「ここはおかしな場所。まだ、名前の発音の仕方もよく分からないわ。人によっては〈サーン〉という。人によっては〈チャーン〉という。よくわかんないわ──」スコティは話し続けたが、ケティは、ちらちら自分を見る視線を意識していた。もしあのことを打ちあけたら、スコティが所長に何を言うか知りたいが、どうせ、自分を助けるつもりはないだろう。自分のために何かしようという気はないだろうし、それでいい。だが、一時間以内に噂は監獄中に広まるだろう。やはり、不審に思わせたまま放っておくほうがいい。もう二、三回は、大変なことがありそうだ。ケティは振り返った。「スティンプソンが看守長ね?」
スコティはまばたきした。「ええ、そうよ」
ケティはうなずいた。もちろんそうだ。所長は善意だったろう。でもけっきょく見せ掛けだけだ。実際に監獄を管理しているのはスティンプソンなのだ。
スコティは腕時計を見た。「あら、もうすぐ時間よ。二〇分後に洗礼があるわ」
ふたたび、他に誰もいないタイルの長い部屋にいた。服を脱いで、最寄りのシャワー室に行く。途中、こっそり体を見下ろす。幸い何も見えない。あざになりにくい体質なのだ。ドアを押そうとすると、スコティが警戒した様子になった。「開けたままにしておいて」
「どうして?」ケティは言った。「あたしがばかなことをしないように?」看守を見た。「あたしがすると思うの?」相手は答えなかった。そしてドアを閉めた。
ケティは本当にいい気分だった。ちょっと昼食も食べた。自分でも驚いていた。でも、本当はそんなはずはないのだ。不治の病にかかった人がいかに殊勝に振舞い続けたかについての話は何度も聞いた。理解できなかった。病気と死に釘付けにされて、他にやるべきことなど何がある?
一日は思った通りに進んだ。他の日と変わらない普通の一日。だが少なくとも予期していたとりだ。つまり、何が見えるというのだ。天使の一群でも見えるというのか? ありえない。
もう一つびっくりすることがあった。一三時に来客があったのだ。最初は簡単な健康診断だと思った。その男は体重計に似た道具一式を持っていて、その一つはスライド式枕がついていたから。子供のころ以来、そういう道具は見たことがなかった。男はその道具を降ろした。「靴を脱いで。乗りなさい。そのままでいい」ケティは理解した。
ケティは男を見た。背の高い若者だが、体格はいい。濃い金髪はやや伸びすぎで、薄い口髭を生やしている。ジーンズをはき、かすれたロゴの入ったTシャツを着ている、〈鯨を救え〉。「いいわ。話をしに来たの?」
「いや。友達から引き継いだ。あいつはいつも忙しい」ノートパッドにメモをとっている。「はい、いいよ」男は言った。
ケティは眉をひそめながらまた男を見た。「あなたの名は?」
男は見返した。「スティーブン」
「なら、あなたをステップと呼ぶわ。人にはかりを踏ませる(ステップ・アップ)から」
一瞬男は怪訝な顔をした。謎めいた表情が消えたように見えた。男ははかりのアームを上限まで上げた。「背中をつけて。頭を上げて。いいよ」アームを降ろした。ケティはどいた。「ステップ。あなた、自分を労働者階級と呼ぶ?」ケティには奇妙な考えが浮かんだ。けっきょく、みんなが来るだろう、公開処刑にするなら。それならタイバーンのために、チェーンのアイスクリーム屋にも来て欲しいわと思った。
男はパッドにまたメモをとり、その場で少し計算した。それから驚いた顔をした。「もしぼくがそうでないなら、他に誰もいないさ」そして、はかりを二つ折りにし、腕の下に抱えた。「時には一日一二時間働くよ。たくさんの人がかかわっている。きちんとやらないと──」
「スティーブン」突然スコティが言った。スティーブンは振り向いた。また驚いた顔。「ああ、じゃあ、さよなら──」ケティはまた妄想にとらわれた。この男は言おうとしたに違いない、「また明日」と──。
その後すぐ洋服が来た。大きな段ボール箱に入れられ、中にはティッシュペーパーが詰めてあった。ケティはそれを出して振り、かざした。看守が息を飲んだ。「ケティ、きれいな服ね!」
「うん、素敵ね」プラスチックのハンガーがついていた。本当に可愛いブルー。トウモロコシの花の色。白い襟。短いフルスカート。「着てみたら」スコティが言う。「さあ、着てみなさい──」
ケティは首を振った。「いいわ、これでいいの」そして包みを覗いた。他のものがある。コロンのボトルと、小さな箱。開けてみた。〈エルメス〉。「ああ、信じられない。信じられない──」
ドアライトがチカチカ光った。すっかり忘れていたが、看守の交代時間だ。スコティは立ち上がった。どうしようか決めかねている表情だ。ケティは、スコティが帰る手助けをすることにした。「もう会えないかもね」ケティは言った。
相手は唇を噛んだ。「そうね、二、三日休みをとったから──」
「よかった」ケティは言った。「庭の手入れでもしたら。素敵ね」一瞬、二人は見つめあった。小柄なスコティは、独房をわたってケティを抱いた。「あなたがしたことはどうでもいいわ。ここでは、あなたはすばらしかった──」スコティは言った。
「それはいいの」ケティは言った。「見て──」小さなボトルをスコティの手に押し入れた。看守は驚いた顔をした。「受け取れないわ。わたしには──」
「いいのよ」ケティは言った。「使わなくていい。なくなるだけだし──」
ジョンソンが美容師を連れて来た。一瞬ケティは見た。驚いた。黒人だと予想もしなかった。顎骨の辺りの顔幅が広く、やぶにらみの目がぎらぎらしている。黄色いナイロンのオーバーオール。ハンドケースを持っている。それをテーブルに置き、道具を並べ始める。鋏、櫛、ピンクのプラスチック・ローラーの箱、ローションのボトルやジャー。「こんちは。名前は何?」ケティは言った。
黒人娘はケティを見た。「ケリー」娘は言った。長い間見たこともない髪型だった。全体が小さな豚の尻尾のように編まれている。一つ一つがきれいな黄色いビーズで仕上げられている。すごくエスニック。自分がもしあんな髪型だったら大変だろう、と思った。「すてきね」ケティは言った。「今日は何をしてくれるの?」
相手は答えなかった。直接は。答える代わりに、前に歩いてきた。手を出した。それからためらっているようだった。ケティは微笑んだ。「大丈夫。ただの髪だから。みんなのと同じ」
ケリーは優しく触れた。「とてもいい髪だわ。美しい。ふさふさで──」唇を噛んだ。「どん