SF百科図鑑 ユニコーン・タペストリィ Unicorn Tapestry スージー・マッキー・チャーナス


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ユニコーン・タペストリィ Unicorn Tapestry スージー・マッキー・チャーナス


「待って」フロリアは言った。「あなたの言いたいことは分かるわ。しばらくは新しい客はとらないことにしたのよ。でも私が話すまで待って──こんなこと信じないでしょうけど──まず電話をして、最初のアポを取って、それからあの男は自分の相談ごとを持ちこんできたの。『私は自分が吸血鬼だという妄想にとらわれてしまったようなんです』」
「なんですって!」ルシールは面白そうに叫んだ。「電話でいきなりそんなことを?」
「それでその、私は何とか、自信を取り戻すと、その男に言ったわ。明日初めて会う前までに、詳しいことを調べておきたいのでって」
二人はクリニックのスタッフルームの外にある小さなテラスに座っていた。ウエストサイドの山の手にある家を改装した建物だ。フロリアは週に三日ここに勤めている。残る二日は、セントラルパーク南部にある自分のオフィスだ。そこでフロリアは、今回の患者のような個人客を診ている。ルシールはいつも大げさに反応する、フロリアの一番大事な仕事友達だ。フロリアのニュースが明らかに気に入ったようで、いすに座って熱心に身を乗り出し、コカコーラの瓶の底のような眼鏡ごしに目を見開いている。
ルシールは言った。「その男は、自分が生き返った死体だと信じてると、あなたは思うのね?」
眼下の道路の突き当たりで、二人の子供がスケボーに乗っているのがフロリアには見えた。そのそばにいる男は、五月の陽気だというのに、ウールのキャップと、重苦しいコートを着て、壁にもたれかかっている。今朝フロリアがクリニックに着いたときから、その男はそこにいた。もし死体が歩くなら、完全に生き返ることもないまま、あの男のように、ニューヨークを堂々と歩いている者もいるだろう。
「どんな質問をするか、微妙なところまで詰めておかないと」フロリアは言った。
「で、この〈吸血鬼〉さんは、どうやってあなたに回って来たの?」
「その男は、北のほうの大学で働いているの。学生に教えたり、研究をしたり。そして、突然消えた──文字どおり、跡形もなく、消えたのよ。一ヵ月後、この町に現れた。大学の学長は私の知り合いで、男を私のところに送ってきたの」
ルシールはずるい目で見た。「あはは、あなたは真に受けてるのね。親切に友人として言わせてもらうと、これは古典的で簡単な話。抑圧されたインテリが、ちょっとほらを吹いて、魅力的な女をものにしようとか、そういったことよ」
「あなたは、私のことを知りすぎ」フロリアが、後悔の微笑みを浮かべながら言った。
「おえっぷ」ルシールがげっぷをした。ひびの入った白いマグカップでジンジャーエールを飲んだのだ。「あたし、パニック状態の中年オヤジなんて、もうたくさんよ。辛気くさすぎるもん。そいつはやめといたほうがいいわ。魅力的には聞こえるけどね」
出た、いつものお説教よ、とフロリアは思った。
ルシールは立ち上がった。背が低く、体重が重い。何かの儀式で着るローブのようにばたばたする、ゆるい服を着るのがお似合いだ。歩くと、小さなテラスの縁に並ぶ植木鉢に咲き始めた花を、服の裾がこする。「ただでさえ過労気味なのに、こんな男にかかりあってたら、無駄な仕事を増やすだけ。この男はやめときなさい、気をつけるのよ」
フロリアはため息をついた。「はいはい、分かった分かった。もっとゆっくりするって、みんなに約束したしね。でも一分ほど前に、あなた自身が言ったわ──友人として親切に言わせてもらうとって。私がどうなるって言うの? まさか、ドラキュラ伯爵だなんて言わないでね! もうやめて!」
大きなポケットの中を手探りして、ルシールはつぶれたタバコのパッケージを出し、顔をしかめながら火をつけた。「あなたからのアドバイスを、私が真剣に考えることにしてるのは知ってるでしょ。冗談を言ってるんじゃないわ。フロリア、私、何を言えばいいっていうの? あなたが何ヶ月も苦しんでいるのを、ずっと聞いてきた。あなたに必要なのはプレッシャーのはけ口なんだと分かった。いやなことにはノーと言うようにすることだって──その矢先にまた、新しい症例だなんて言い出す。私の思っていることは分かるでしょ? あなたは、自分自身の問題を棚に上げて、他人の問題に逃げ込もうとしているだけ。
分かった、分かった、そんなににらまないで。頑固なんだから。少なくとも、チャブスのことはもう乗り越えたんでしょ?」これは、フロリアがしばらく逃れたいと思っている、ケニーという厄介な担当患者に、フロリアが与えたコードネームだ。
フロリアは首を振った。
「何で? あの男はもう見捨てるって、何週間も前に誓ったじゃない? すべての人のために最善を尽くしていたら、疲れ果てて抜け殻になっちゃうわよ。あなた、絶対また体重が落ちたでしょう。目の周りの不自然な隈から見て、ちゃんと寝てもいないようね。まだ夢の内容を覚えられないの?」
「ルシール、いじめないで。自分の健康の話はしたくない」
「じゃあ、その男の健康はどうなの──ドラキュラさんの。あなたに会う前に、身体検査を指示したの? それに、何か心理的な問題が──」
「あの男を医者送りにして、厄介払いしたほうがいいって言うんじゃないわよね」フロリアが辛辣に言った。「あの男、電話口で、投薬治療や入院の予定はないって言ってたわ」
思わずフロリアは、通りの端を見ていた。ウールの帽子の男は、ビルのふもとの歩道で体を丸めている。寝ているのか、気を失っているのか、それとも死んでいるのか。都市には病気が満ちている。あの病的な男やそれに似た連中に比べれば、あの〈吸血鬼〉、あの文化的なバリトンの声、自制心のあるアプローチのどこが病的だというのか。
「つまりあなたは、その男を他の人に渡す気はないわけね」ルシールは言った。
「まあ、もう少し分かるまではね。ねえ、ルース──その男のせめてルックスぐらいは、知りたいと思わない?」
ルシールは低い欄干でタバコをもみ消した。下の通りでは警官が歩きながら、駐禁切符を切っている。警官はビルの角で寝ている男に見向きもしない。二人は一言も発せずに警官が歩くのを見ていた。ルシールが言った。「そうねえ、あなたがドラキュラを手放す気がないのなら、私に経過報告してくれるかしら?」


男は正確に約束の時間にオフィスに入って来た。やつれてはいるが、優雅な姿だ。印象的。針金のような灰色の髪は、短くくたびれ、ずっしりした顔を目立たせている。あごは長く、頬骨は高く、花崗岩のようなほほは、冬の厳しい気候にさらされたように落ち窪んでいる。フロリアが前もって記入するように渡しておいた事前問診シートに書かれた名前は、エドワード・ルイス・ウェイランドだった。
男は、吸血鬼事件の背景についててきぱきと話した。ケイスリン大学での生活について、皮肉っぽく説明した。学者同士の競争のプレッシャー。学部・学科間の醜い争い。学生の無関心。管理部門の不正。経歴について知っても、その有用性は限られていると、フロリアは知っている。記憶によってゆがめられてしまうからだ。だが、自分の病気について語るための準備的な説明をすることで気持ちが安らぐのであれば、そこから始めるのが一番だ。
とうとう、男のエネルギーは衰え始めた。男は角張った体をがくんと椅子に沈め、あの恐るべき出来事へとおっかなびっくり説明を続けながら、その声は次第に平板で疲れた調子になっていった。睡眠研究所での夜の仕事について。夢の研究のためまどろんでいる若い被験者を見るうちに、血を吸う妄想を生じたこと。とうとう大学の同僚を使って、その妄想を実行しようとしたこと。男は拒絶された。それからパニックが起こった。うわさが漏れ、男は銃で撃たれ、永遠にブラックリスト入りした。男は逃げた。それから悪夢のような期間が過ぎた──男は詳しくは話さなかった。正気に返ったとき、男は恐れていた事態が自らの逃走によって招来されることを悟った。キャリアの崩壊。そこで男は学長に電話し、今、ここに来ている。
この独演会の間中、フロリアは、オフィスに入って来たときの立派な学者が次第に消えて、恥と恐怖にさいなまれた男が椅子に背中を丸め、発作のように両手を引っ張りあうのを見ていた。
「その手は何をしてるんですか?」フロリアはやさしくきいた。男はぽかんとしていた。質問を繰り返す。
男は両手を見下ろす。「闘っているんです」
「何と?」
「最悪の事態と」男はつぶやく。「その最悪の事態についてはまだ話していません」フロリアはこの種の変化に耐性はない。長い指はジャケットのボタンをいじるのに忙しく、男はつらそうに、ケイスリン大学での攻撃対象が女性であったことを話した。若くはないが、美人で活発だったという。この女は、教授の退官を記念した講演会──名誉あるセミナー──が行われた年に初めて男の関心を引いた。
終生独身の臆病なウェイランドが、この女のぬくもりを求め、その拒絶にあう姿が目に浮かぶ。フロリアは、この男を過去から引っ張り出し、今現在の時間と場所に連れて来なければならないと思った。だが男はあまりにも見事に自分の世界に入り込んでいるため、邪魔する気になれなかった。
「このごろ、大学に出没している連続婦女暴行魔の話はしましたかな?」苦い口調で男は言った。「その男の本の一節を借用しました。この女は任意では応じないでしょうから、私は強引にでもこの女から取るつもりでした。つまり血液を取ろうとしたんです」床を見つめる。「これってどういう意味でしょう──他人の血を取るなんて?」
「どういう意味だと思うんです?」
落ち着きない指で引きねじられていたボタンが取れた。「エネルギーです」男はつぶやいた。「年老いた学者、歩く死体、吸血鬼──つまり私を、温めてくれる」
沈黙、伏し目がちの目、丸めた肩、すべてが生命の危機によって追い詰められていることを示している。きっとこの男はセラピストが夢に見る理想の相談者、最近フロリア自身も極めて必要としているタイプになるだろう。知的で感受性豊かな相談者。専門家に同伴して聴いてもらえれば、すぐにこの男の心のわだかまりは解けるだろう。有望な出だしにうれしくなり、フロリアは先を急ぐのを抑えることにした。沈黙を我慢していると、やがて出し抜けに男が言った。「あなたは全然メモを取りませんね。テープにでも撮っているんですか?」
パラノイアの兆候だと思った。珍しくはない。「あなたに知らせて同意を得ることもなく、テープに撮ることはありませんよ。同様に、かってにあなたの大学での記録を取り寄せることもありませんし。でも、自分なりの指針を立てて、ここで言ったりしたりすることに混乱が生じた場合の参考用に、セッションが終わったあとにはメモを作ります。メモを他人に見せたり、あなたのことを実名で他人に話したりすることはありません、約束します──もちろんケイスリン大学のシャープ学長は別ですけど。シャープ学長への報告だけはどうしても必要ですから──あなたが書面で許可した場合だけですよ、他の人に話していいのは。それでよろしいかしら?」
「失礼なことをきいてすみません」男は言った。「あの──事件のせいで私は──ひどく神経質になってるんです。あなたの助けを借りて、何とかこの状態を乗り越えたい」
時間切れだ。男が帰ると、フロリアは外に出てヒルダに確認した。ヒルダは、このセントラルパーク南部のオフィスで四人のセラピストと共有している受付嬢だ。ヒルダはいつも待合室にたくさんの新規相談者を待たせている。
今度の相談者について、ヒルダは言った。「あの男の人、本当にどこかおかしいんですか? 私、恋しちゃったみたいなんです」


水曜の夕方、オフィスで相談者が集まるのを待ちながら、フロリアは〈吸血鬼〉に関するメモを走り書きしていた。

【相談者は、事件と背景を説明した。精神病歴なし。セラピーの経験なし。個人的な経歴は非常に平凡で、その空虚さにすら気づかないほどだ。ドイツ人移民の一人っ子。学歴は普通。人類学のフィールドワーク。ケイスリン大学の教授職へ。肉体は健康。経済的にも問題なし。仕事にも満足している。住宅も快適(現在はニューヨークのホテルに滞在中)。結婚歴なし。子供なし。家族なし。宗教なし。社会関係は仕事関係に限定されている。余暇には──本人いわくドライブ。酒に関する質問には反応があったが、アル中の兆候はない。肉体的には年齢(五〇歳以上)と身長の割に、動きが滑らか。猫のように警戒心が強い。途中で明らかに体が硬直していた──かすかに身を守るようにかがめる──これは中年の年齢に伴う緊張だろうか? パラノイア的な自衛本能? 声は快活で、かすかななまり(ドイツ語を話す家族あり)。仕事への復帰を考えてセラピーに参加。】

安心した。フロリア自身はほとんど緊張を強いられることなく、作業を進められそうな条件だ。今や、〈吸血鬼〉のセラピーをするという決断に関して、ルシールの反論に防戦できる。
結局ルシールは正しかった。フロリア自身、注意を要する問題を抱えている。主に、一年以上前の母の死に起因する不安や疲労だった。フロリアの結婚の失敗は、惨めな状態の原因にはなったが、ここまで終わりのない憂鬱はもたらさなかった。知的には問題状況は明らかだ。両親ともいなくなれば、フロリアが表面にさらされてしまうのだ。自分と避け得ぬ自分の死との間に入る人間は誰もいない。感情の原因を知っても何の役にも立たない。その原因となる感覚を変えることはできそうにない。
水曜日のグループセラピーはまた失敗した。リサは再びヨーロッパの死のキャンプを体験し、誰もが泣き叫んだ。フロリアはリサを止めて、変えたかった。解放され輝きを帯びるリサの声の、震えるような恐怖を消し去りたかった。だがどうやったらいいか分からない。専門書に書いてあるテクニックの中から使える手法を引っ張り出してくるのが関の山だ──怒りに任せて踊りなさい。そのころの自分と話してみなさい──セラピストが参加している生きたプロセスの一部として独自に行われるのならば有効だが。本来本能的であるべき反応を頭で考えるようではうまくいかない。グループ全員の心痛がフロリアを麻痺させた。振り付け師のいないダンサーみたい。すべての動きを知ってはいても、この人たちが奏でる音楽に合わせられないのだ。
機械的なぎこちない動きをするぐらいならば、引き下がるほうがましだ。何もせずに、罪悪感を感じているほうが。ああ神様。あのグループの利発で経験豊富な人たちは、私がいかにでくの棒か知っているに違いない。
バスに乗って家路に就きながら、下町のオフィスを共用しているセラピストの一人に電話しようかと思った。この男は、学生に見学させながら、フロリアと合同でセラピーを行うことに興味を示していた。水曜日のセラピー・グループはこの案に興味を示すだろう。今度提案してみようかしら。パートナーがいれば、フロリアのプレッシャーは減り、グループはまた活性化するかも。フロリアがやめたくなっても、パートナーがあとを引き継いでくれそうだ。もちろん、あとを引き継いで、ついでにフロリアの得意客も持って行ってしまうだろう。
ああ、なんて素敵、いったいパラノイアなのは誰よ? 素敵な同僚について考えるのはサイコー。神様、私、グループセラピー自体を終わらせたいと考えてるなんて気づきもしなかったわ。
新しい相談者を得て、その〈吸血鬼〉話から逃げようとして、自分の逃避願望をあらわにしてしまったのかしら。相談者を助けようとして、逆にそこから助けを得るのは、これが最初ではないだろう。前の上司のリグビイが言った。そういう相互扶助こそが唯一の真のセラピーなんだって──それ以外は全部まがいもの。大した完璧主義者だったわ、あのリグビイという爺さんは。しかも、たくさんの若い理想主義者を輩出した。世界を救おうと熱心になれるような。
熱心。でも有能とは限らない。ジェーン・フェナーマンもかつて俗世間で生きていた。フロリアはジェーンを救う能力がなかった。今夜のグループのメンバーなのに、欠席しているジェーンは、鍵のかかった病棟に逆戻りしている。病院の人が処方する沈静剤で意識が朦朧としていることだろう。
何でいまさらジェーンのことなんか? 自分にきつく問いかける。バスが揺れながら止まるのに逆らって、体を支えながら。どんな相談者でも自由にグループセラピーをやめて、態度をはっきりさせる権利がある。フロリアのキャリアの中で、この種の出来事は初めてでもない。ただ今回に限って、結果としての憂鬱や罪悪感を振り払えずにいるというだけだ。
でも、あれ以上ジェーンに何をしてやれたというのだ? いったいどうやったら、人生はジェーンが思うほど恐ろしくないと、ジェーンの恐怖には実体がないと、毎日が苦痛と危険の坩堝ではないのだと安心させてやることができたというのだろう? いや、できない。


フロリアは、相談者が予約をキャンセルした空き時間に、新しい本のためのメモを書いていた。本の内容は、サラリーマンと自営業者を比較した浮沈の分析だったが、新しい個所に入るたびにつまづいた。ぐるぐる回る気分を晴らすものがほしかった。
ヒルダが、ケイスリン大学からの電話をつないだ。ドゥ・シャープ。ウェイランド博士を紹介した男だ。
「ウェイランド博士はきみの有能なセラピーに入った。これで、博士はわれわれが〈温情休暇〉と呼ぶものを消化中なのですと説明すればすむよ」ドゥの声は長距離電話のせいか、遠く聞こえる。「何か、予備段階での意見は?」
「状況判断には時間が必要です」
ドゥは言う、「あまり時間をかけんでくれよ。今のところは、博士のポストに他の人間を就けろという圧力に耐えているが。博士の敵がここにはいる──ことにああいう舌鋒鋭いバスタード(やから)には敵が多い──ケイスリン・センターの人間研究部門の指導者職に適した人間を選ぶ調査委員会を作れといっておる」
「民族研究部門ですわ」フロリアが反射的に訂正する。いつものように。「どういう意味ですの、〈バスタード〉って? ドゥ、あなた、ウェイランド博士が気に入っていらっしゃったのでは? 『頭がよく、礼儀正しく、古風な紳士を、フィニーやマギルに譲り渡せとおっしゃるのか?』あなたがおっしゃったんですよ」フィニーはチャックで締めた尻の穴のような口と、激しい闘争心を持ったフロイト主義者で、マギルはオフィスのジムでくだを巻いているような男だ。
ドゥがペンか鉛筆で歯をたたく音が聞こえる。「そうだねえ、私は博士をたいへん尊敬しておる。時には、鼻持ちならないばか者をこき降ろしてくれるので、快哉を叫ぶこともある。だが、どうしようもなくいまいましい男で、一緒に働くのはたいへんだという評判を得ていることも否定できない。あまりに冷たく、自己充足的なんだよ」
「うーん」フロリアは言った。「そのことにはまだ気づいていませんわ」
ドゥは言う。「そのうち分かるよ。君自身はどうだね? 君の人生は?」
「そうですね、いきなり美術学校に戻りたいと思ってるなんて言ったら、何て言います?」
「私が何と言うかって? 馬鹿言うな、と言うに決まってるよ。せっかく得意なことを一五年も続けてきたのに、全部捨てて、大学の一〇一スタジオ以来指一本触れていない領域でやり直すって言うんだろ? もし神様がきみを絵描きにするつもりだったら、はじめから美術学校に入れていただろうよ」
「あの当時は美術学校を考えていたんです」
「重要なのは、今やっていることが君は得意だということだ。私は君の研究成果を取りまとめる立場だし、自分の言っていることは分かっている。ところで、私がいたグループのアニー・バーンズに関する新聞記事を読んだかね? あれは重要なポストだよ。アニーはきっとワシントンで働くことになると、私にはずっと分かっていた。君にはっきりさせておきたいのは、君の〈卒業生〉はとてもよくやっているから、君が辞めることを言いだすなんてとんでもないということだよ。ところで、モートンは何と言っておるんだ?」
病理学者のモートは、フロリアの恋人だ。まだこのことは話しあっていない。ドゥにもそう言った。
「喧嘩したわけじゃないんだろ?」
「ダグラス、そんな話はやめてくださいよ。私の性生活には何の問題もありません。私にとって問題ないのはそれ以外のことなんです」
「単なる詮索好きだよ」学長は答えた。「何のための友達だね」
二人はもっと軽い話題に移った。だが、電話を切ったとき、フロリアは不機嫌だった。友人がこんな風に詮索して親切にアドバイスをするのなら、自分も考えていた以上におおっぴら且つ熱心に助けを求めなければならない。
本の執筆ははかどらなかった。まるで自分の思考をさらすのをいやがっているみたいだ。あらかじめ考えられる反論に対処して、批判できないようにしなければ気がすまない。本も完全に行き詰まった──他のすべてと同じように。座ってそのことを気に病みながら、自分が書いている物までだめになったのは、いったい何がまずかったのだろうと考えた。すでに二冊のいい本を書いているのだ。三冊目が行き詰まったのは、どうしてだろう。


「でも、何を考えているんです?」ケニーが心配そうに言った。「それは、ぼくのやるべきことじゃないですか」
「あなたはどう思う?」
「さっき言ったとおり、混乱してますよ」
「私の立場で考えて。私があなたにするようなアドバイスをして」
ケニーは眉をしかめた。「それは言い逃れですよ。ぼくの中の一部は、あなたのように話しています。でもそのあと、多重人格のテレビ番組みたいに、自分と会話してるんです。それがぼくのやり方なんですよ。ぼくがそうしている間、あなたはただ、座ってるだけです。ぼくは、〈あなた〉からの助けがほしいんですよ」
フロリアは書類キャビネットの上の時計を見た。もう二〇回目だ。今度は解放される。「ケニー、時間よ」
ケニーは椅子から丸い不機嫌な体を上げた。「どうでもいいんですね。気にかけているふりをしているが、実際は──」
「また今度よ、ケニー」
ケニーはオフィスから出ていった。その跡に、フロリアを使って何とか決断の手伝いをさせるための撒き餌をばらまいているような気がする。ため息をついて、窓辺へ行き、公園を見渡し、春の終わりの新鮮な辺りいっぱいの緑で目と心を満たそうとする。憂鬱を感じる。二年間の治療過程で、ケニーとの関係は膠着状態だ。ケニーは自分の助けになるほかのセラピストのところへは行こうとしないし、フロリアもケニーを追いだせない。最後にはそうしなければならないと分かっているが。そのひ弱な横暴さが、ケニーの繊細なもろさを隠すことはできない──
次の予約はウェイランド博士だ。フロリアは自分がウェイランドと会うのを喜んでいるのに気づく。これ以上ケニーと対照的な相談者は求めようがない。背が高く、痩せていて、思わず引き寄せたくなるような威厳のある顔、上質の服、素敵な大きい手──全体として、優れた外見の男だ。カジュアルなスラックスや軽いジャケットや、ノーネクタイのシャツなどを着ているが、その印象は、完璧なゆとりに満ちている。たいていの客が好むパッド入りの椅子よりも、木製の籐の椅子を好む。
「こんにちは、ランドーアー先生」ウェイランドは重厚な声で言う。「私のケースについてのご判断をお聞かせ願えますか?」
「私は自分を判断者とは考えていません」フロリアは言った。できれば、ファーストネームで呼びあうような親しい関係へ話を持っていこうと決めていた。この古風な男をいきなりファーストネームで呼ぶのは作為的な感じがするだろうが、寄席の演目の二人のキャラクターみたいに、お互いを〈ランドーアー先生〉、〈ウェイランド博士〉などと呼びあっている状態では、セラピー可能なほどに親しくなることはできまい。
「エドワード、私の考えはこうよ」フロリアは続けた。「この吸血鬼事件について、知る必要があるわ──それがそのとき、あなたの自意識にどう結びついていたのか、それはいいことなのか悪いことなのか。あなたの人生を複雑にしてしまうような〈吸血鬼〉になりたいと、あなたを思わせるにいたったものは何なのか。知れば知るほど、この吸血鬼の概念が二度とあなたに必要なくなることを保証する方法に近づけるわ」
「私を公式に相談者として受け入れてくれるという意味ですか?」ウェイランドは言った。
単刀直入に思ったことを話している、と気づいた。問題はない。「そうよ」
「それはよかった。私も、治療の目的を考えています。私はどこかで、ケイスリン大学で復職してもよいほどに精神の健康が回復しているというあなたの証明書が必要なんです」
フロリアは首を振った。「それは保証できないわ。もちろん、そのためにがんばることは可能よ。あなたの精神状態がよくなることが、ここでの治療の目的なんだから」
「それが当面の目的に対する答えだと思います」ウェイランドは言った。「その点はあとでまた話しましょう。正直言って、今日は作業を先に進めたいんです。あなたと話してから、すごく気分がよくなりました。今日あなたに話すことを、昨夜考えてきたんですよ」
フロリアは、ウェイランドに操られているというはっきりした感覚を持った。コントロールしているという感覚が、この男にはどれぐらい重要なのだろうか、とフロリアは思った。そして言った。「エドワード、私のほうは、口頭での試問は十分役に立つぐらい行ったと感じているわ。今度は少し違ったことをしようと思っているの」
ウェイランドは何も言わない。フロリアを見ている。夢の内容を覚えているかときくと、ウェイランドは首を振って否定した。
フロリアは言った。「今度は、夢について語ってほしいと思うの、目覚めながら見る夢よ。目を閉じて、白昼夢を見てくれる? それからその話をきかせて」
ウェイランドは目を閉じる。奇妙なことに、前よりも脆さがなくなったように見えた。より強く監視されることで心強くなったかのような。
「今どんな気分?」フロリアは言う。
「落ち着きません」まぶたが震えている。「目を閉じるのは嫌いです。目に見えないものが私を傷つける」
「誰があなたを傷つけるの?」
「もちろん、吸血鬼の敵です──たいまつを持って叫ぶ農夫の群」
どう解釈すればいいか、と思う──若き博士号取得者たちが大学院からあふれだして、ウェイランドのような先輩学者のポストを狙っている? 「今時、農夫が?」
「毎日何の仕事をしているにせよ、おろかで、暴力的で、信じやすくて、軽い頭で星占いを信じ、カルト宗教やその他を信じ、心理学のさまざまな学派を信じるような連中は、まだたくさんいますから」
ウェイランドがフロリアをあざ笑っているのは間違いない。フロリアがウェイランドの希望に従うことを拒否したことを考慮すると、フロリアを馬鹿にしたいと思うウェイランドの欲求は健康だ。だが、今すぐ直接処理する必要がある。
「エドワード、目を開いて、何が見えるかを言って」
ウェイランドは従った。「四〇代前半の女性が見えます。賢そうな顔。黒髪は灰色が混じっています。骨格の割に、肉がついていません。病気か見栄のためでしょう。スラックスと、かなり皺の寄ったろうけつ染めのブラウス──〈農夫〉スタイルという言葉で表現できると思います──左側に食べ物のしみがあります」
何よっ! 顔を赤らめてはだめ。「私のブラウスに、何か農夫を示すものがあるの?」
「具体的にはありませんが、私に関して言えば、吸血鬼としての私について言えば、たいまつを持った農夫は、あなたがたやすく変わりうる存在ですから」
「あなたは、妄想を振り払う助けをするのが私の仕事だと言ったけど、この作業はあなたには苦痛で恐ろしいものかもしれないわね」
ウェイランドの表情に何かが光った──驚き、おそらくは警戒、再び手の届かない場所に消える前に、何とか手を触れたい存在。急いでフロリアは言った。「その瞬間に、あなたには自分の顔がどう感じられるの?」
ウェイランドは眉をひそめる。「私の頭の前方にあるものとしてです。どうして?」
自分に対する怒りの感情とともに、フロリアは隠された感情に手を伸ばすのに、間違った方法を選んでしまったと悟った。逆に敵意を呼び起こしてしまったのだ。フロリアは言った。「今あなたの顔は、私には、表現の道具というよりも、感情を隠すための仮面のように見えるわ」
ウェイランドは椅子の中で落ちつかなげに動いた。全身の仕草がこわばり、防御的になった。「おっしゃる意味が分かりません」
「触ってもいいかしら?」立ち上がって、フロリアは言った。
椅子の腕をつかむウェイランドの手に力がこもった。椅子は鋭いきいという音で抗議した。ウェイランドは反論した。「これは、会話による治療だと思っていましたが」
肉体への接触に対する強い抵抗──リラックスさせないと。「あなたの顔の筋肉を私がマッサージして緊張をほぐすのがいやなら、自分でやってみる?」
「馬鹿にされるのは好きじゃありませんな」ウェイランドは立ち上がって、ドアに向かった。ドアはウェイランドの後ろでかちりと閉まった。
フロリアは椅子にもたれかかった。扱いに失敗してしまった。比較的たやすい仕事だという最初の目算は明らかに間違っていたのだ。そのせいで、先を急ぎすぎてしまった。肉体接触を試みるには早すぎた。ウェイランドのよりやりやすい方法でやらせながら、しっかりした信頼関係を作っておくべきだった──つまり会話によって。
ドアが開いた。ウェイランドが戻ってきて、静かにドアを閉めた。椅子には座らず、部屋をぐるぐる回って、窓辺に行き、くつろいだ。
「今しがたの子供っぽい振る舞いを許してください」ウェイランドは言った。「あなたのこのゲームのせいで、ついつい」
「慣れない、自分でコントロールできないゲームは、フラストレーションがたまるものよ」フロリアは言った。ウェイランドが答えないので、フロリアはなだめるような口調で続けた。「あなたを侮辱しているわけではないの、エドワード。あなたが乗せようとしている軌道から外れる必要があるの。あなたは、自分の古い安定を取り戻そうと必死になっているように感じるわ。
でもそれは目的であって、出発点ではないの。目的に着く唯一の方法は、このやり方なのよ。治療のプロセスは、列車を運転するようにはいかないの。あなたはただプロセスの進行を助けるだけ。ちょうど木を育てるようにね」
「このゲームもプロセスの一部ですか?」
「ええ」
「あなたも私も、ゲームをコントロールしないと?」
「そのとおり」
ウェイランドは考えた。「もし私がこのやり方に同意したら、私に何を求めます?」
注意深くウェイランドを観察したが、もはや狂気から勇敢に回復しようと頑張る不安げな学者ではなかった。違った種類の男がいた──バリヤーを張り、計算している。この変化の意味するところは分からない。だが、自分が興奮し始めているのを感じた。つまり、フロリア自身も軌道に乗ったという意味だ──何かは分からないが。
「思いついたことがあるわ」フロリアがゆっくり言う。「あなたのいうこの吸血鬼の話は、あなたの話以上に、あなたの過去にも食い込んでいるし、現在のあなたにも影響している気がする。まだあなたの中にあるのよ。私のセラピーのスタイルは、過去と同じように現在も扱うということ。もし吸血鬼の概念が現在の一部なら、その方針に従って処理するのが肝心」
沈黙。
「吸血鬼であるというのはどういうことか話して。今もそうなの?」
「あなたは知りたくない」ウェイランドは言う。
「エドワード、話して」
ウェイランドは言う。「私は狩るんです」
「どこで? どうやって? どういう種類の──獲物を?」
ウェイランドは腕ぐみして、窓枠に背中をもたれた。「言いましょう、どうしてもというなら。夏にはこの都市に、たくさんの候補者がいます。エアコンも買えないほど貧乏で、屋根や非常口で寝ているような連中。でも分かったんです、そいつらの血は、酒やドラッグですっぱくなっていることが多いと。売春婦も同じです。バーには近づきやすい人がたくさんいますが、煙と騒音だらけです。それに血も汚れています。狩り場の選択は慎重さが必要なんです。私はよく、開店時の画廊や、夕刻のミュージアム・ショーや、夜のデパートなどに行きます──女性に近づきやすい場所に」
そして楽しむのね、女性のほうもハントに来ているのなら、とフロリアは思った──男性のパートナーに近づくために。でも、この男は結婚したことがないと言った。ここをもう少し探ってみよう。「女性だけを?」
ウェイランドはフロリアに皮肉な視線を投げた。まるで、フロリアが思ったよりも少しだけ利発な学生だと気づいたかのように。
「女性を狩るのは、時間とお金がかかります。一番いい狩り場は、セントラルパークにある、〈ランブル〉と呼ばれる場所です。ホモの男性が相手を見つける場所ですよ。私も夜にそこを歩きます」
フロリアは、待合室に会話と笑いのかすかな音をきいた。たぶん、次の相談者が来たのだろう、と、ためらいがちに時計を見ながら、悟った。「ごめんなさい、エドワード、でももう今日は時間──」
「あとちょっと」ウェイランドは冷たく言った。「あなたがきいたんですよ。答えを最後まで言わせてください。ランブルで私は、酒やドラッグのにおいがしなくて、健康そうで、藪の中で〈それする〉のに固執しないような相手を探します。そういう男をホテルに誘うんです。少なくとも、相手は私を安全だと判断しますよ。自分よりも年上で、力が弱そうで、危険な狂人ではなさそうですからね。だから、私の部屋に着いてきます。そこで、相手の血をいただくんですよ。
さて、もう時間切れのようですね」
ウェイランドは出て行った。
フロリアは、ウェイランドの今も続く妄想の中に受け入れられた喜びと、ウェイランドの状態がはじめ考えた以上にかなり悪いという落胆との間で引き裂かれて、座っていた。ウェイランドとともに安楽な時を過ごそうという希望は消え去った。ウェイランドのはじめの説明は、ただの──パフォーマンス、演技だったのだ。それを捨てることを余儀なくされたウェイランドは、すべての重荷をフロリアの上に投げ落としたのだ、あまりにも過大で──奇妙で──一度に理解することは不可能だ。
次の相談者は、パッド付きの椅子を好む。ウェイランドがセッションの一時間の冒頭部分で座っていた木の椅子ではない。フロリアは木の椅子を後ろに下げた。アームレストがフロリアの手の中で外れた。
フロリアは、ウェイランドに触れようという自分の提案に対し、ウェイランドが断固として抵抗したことを思い出した。ウェイランドの指の握力によって、アームレストの接続部が壊れ、そのシャフトは、ばらばらに外れて床に散らばっていた。


フロリアは、スタッフ会議のあと、クリニックのルシールの部屋に入った。ルシールは、両目の上に濡れた布をのせて、カウチの上に寝ていた。
「あなた、今日は顔色が悪いと思うけど」フロリアが言った。「どこが悪いの?」
「夕べひどい目にあったの」ルシールは陰気な声で言った。「チャブスとのセッションのあとで、あなたがどんな気分か分かる気がするわ。まだあの男から逃げられないの?」
「ええ。先週、私の代わりにマーティに診てもらうように計らったんだけど、困ったことに、いつもの時間に来なかったのよ。だめだったのね。私が話したかったのは、ドラキュラのことなんだけどね」
「ドラキュラがどうしたの?」
「あの男は、思ったよりも頭がよくて、強くて、病んでいたわ。それにたぶん、私は自分が思うほど有能でもなかった。あの男はすでに一度、途中で帰ろうとしたわ──ほとんど私の手から離れかけた。私、モンスターを扱うコースなんて取ってないし」
ルシールはうめいた。「いつかみんなモンスターになるわよ」こう言ったのはルシールだ。クリニックでは他の誰よりも長時間働いている。そのせいで夫は悲惨な思いをしている。ルシールは、布を持ち上げ、畳み直して、注意深く額の上に置く。「もし、相談者が途中退場するたびに一〇ドル払っていたら──実はね。その男のことで、あなたとマダムXをトレードしようと思うんだけど、どう? マダムX、覚えてる? ブレスレットをじゃらじゃらいわせて、目にはインコみたいな化粧をして、犬を怖がるあの女よ。今は、空から自分の上に何か落ちてくるのを恐れているわ。ちょっと待つだけでいい──きっとそのうち、三歳のとき通りかかった犬が頭上を飛んでいる鳩みたいに足におしっこをかけたのが原因だったと分かるんじゃないかしら。どう、いい取引でしょ?」
「どうかしらね」フロリアは笑った。「でも、私最近、この件にはまってて──つまりね、自分のいわゆるスキルを磨くって意味でよ。グループ・セッションが邪魔なんだけど、あとは進まない本にない頭をひねったり、いろんなことで──あれがセラピーかどうか自信はないわ──吸血鬼なんて──ね、つまり、以前は、私の頭の中に、この種の案件でステップを間違えないような振り付け法が、たとえ間違いをしでかしてもいつでも修正できるようなパターンがあったのよ。でもそれがなくなったの。まるで自分がたくさんの機械仕掛けの行動をしているだけのような気分。自分がセラピストとして有用だと感じさせていたような感覚が、消え去ってしまった」
うわっ、と、自分の声が陰鬱な自己憐憫の口調に陥るのを聞きながら思った。
「ドラキュラに文句を言ってはだめよ」ルシールが言った。「あなたが自分で引き受けると言い出したんだから。少なくとも、本人はただあなたの手を煩わせるだけじゃなくて、彼自身の問題に集中してほしいと思ってるわ。始めた以上は、続けないとね──そのうち光が見えて来るわよ。さて、私はタイプライターのリボンを交換して、シルヴァーマンの自己萎縮に関する最新ベストセラーのレビューに戻らないとね。公平に評価できる気がしてるわ」元気よく立ち上がった。「私が気を失ってゴミ箱に倒れないように、気をつけててくれる?」
「ルース、私、この件について書いてみたいのよ」
「ドラキュラ?」ルシールは、書類留め、ペン、輪ゴム、古い口紅などでいっぱいになった机の引きだしをかき回した。
「ドラキュラ。その研究論文──」
「ああ、そのゲームなら知ってる。可能な限り多くのことを書き殴り、それを読み上げて、相談者との間で何が起こっているのかを調べる方法。運がよければ出版できる。いいじゃない! でも出版するつもりなら、汚い論文に書き殴ってはだめよ。本にしなさい。ほら、テーマができたじゃない。今まで時間を費やしてきた辛気くさい統計学の代わりに。これはほんと、エキサイティングよ──フロイトの狼人間に関する本の隣に並べるにふさわしい事例研究だわ、考えてみた?」
フロリアは気に入った。「何て本かしらね──運はなくても名声にはなる。どっちかというと悪名でしょうけどね。どうやったら同僚たちに本物だと信じさせられるかしら? 最近は吸血鬼ものがあふれているし──ブロードウェイやテレビのドラマに始まって、いたるところにある本やら、映画やら。みんな、私がただ流行の尻馬に乗ろうとしてるだけだって言うわ」
「いいえ、違うわ、あなたがやるのは、この男の妄想がいかに流行と関係しているか示すことよ。魅力的テーマだわ」リボンを見つけたルシールは、タイプライターの露出した内側に恐る恐る触れた。
「もし小説化するなら、ペンネームを使うわ」フロリアは言う。「流行の波に乗って、自由に言いたいことを言っていけないわけがある?」
「ねえ、あなた、今まで小説なんて一語たりとも書いていないでしょ」ルシールは血走った目でじっと見た。「あなたがベストセラーを書けるという証拠はないわよ。むしろ、あなたは今までに、セラピーの経緯に関して正確に記録するための記憶力を訓練してきている。それを無駄にするのは馬鹿だわ。ガチガチの専門書こそふさわしい──この分野に生きるどんな女性にとっても、自慢の種になる。あなたのドラキュラの身元事項を調整するにあたって、著作権侵害にならないよう、法的助言をきちんと得ておいたほうがよくてよ」


籐の椅子は修理する価値がなかった。寝室にあるもうひとつの同じものを、代わりにオフィスに置いた。不思議だ。経歴からすると、ウェイランドは五二歳だ。外見からすると、筋肉質タイプではない。ドゥにきけばよかった──でも、正確には何と言って? 「ところで、ドゥ、ウェイランドは、サーカスのムキムキマンとか、鍛冶屋でもやってたことがあるのかしら? こっそりバーベルを上げてるとか?」本人にきいてみようっと──でもまだよ。
クリニックの若いスタッフの何人かを小さなパーティに招待し、他の友人数人も呼んだ。素敵な夕べだった。あまり飲む人たちではない。つまり知的な会話が保証される。客たちは長いリビングを歩き回り、あるいは窓辺に二人三人と並んで話ながらウエストエンド通りを見下ろしている。
モートが来て、部屋の雰囲気が温かくなった。アマチュアの室内音楽の仲間とのセッションを終えたばかりで、チェロを演奏した喜びにまだ輝いている。その声は、大柄な男にしては意外なほど軽い。時々フロリアは思う。チェロの深い音色こそが、本当の声ではないのかと。
他の客と話しているフロリアの横にモートは立っていた。心地よいその巨体に寄りかかったり、手を腰に回してもらったりするまでもない。二人の関係は長い。お互いの存在にたやすく喜びを感じることをことさらにアピールする必要も隠す必要もない。
モートは興味を音楽からたやすく次の好みの話題に移した。運動選手の力と技術についてである。
「今書こうと思っている論文はこういう問題を扱っているの」フロリアが言った。「背か高くて痩せた男が、並外れて強いということがありうるのかしら?」
モートは独特の考え深い顔で歩き回る。答えは否定のようだった。
「でも、チンパンジーはどうです?」若いクリニックの職員が言った。「わたし、テレビで動物使いをしている男とつきあっていたんですよ。カレいわく、三歳のチンパンジーでも、強い男を倒すことができるとか」
「すべては肉体的条件によるなあ」他の誰かが言った。「現代人は軟弱だから」
モートはうなずいた。「一般的に人類は、他の動物に比べて脆弱にできている。筋肉の付着点(インサーション)の問題なんだ──筋肉が骨にどういう角度で付着しているのか。ある角度は他の角度よりもてこの力が強く働くんだ。そういうわけでヒョウは自分より大きな動物を倒せる。流線型の体型に、とてつもない力を与えるのは筋肉の構造なんだ」
フロリアは言った。「もし人間の筋肉の付着点がヒョウと似ていたら、かなり普通と変わって見えるかしら?」
「訓練した目でないと違いは分かるまいね」モートは言った。内なるビジョンに呆然としたような声だ。「なんということ、何という運動家なんだ──ヒョウ並に強い男がもし十種競技に出たら?」
他の客が帰っても、たいていの場合と同じくモートだけ残った。筋肉であれ何であれ、付着点/挿入(インサーション)に関する冗談は、すぐに、より表現豊かで動物的な音へと変わったが、そのあとフロリアは、モートとここちよく寄り添って語り合っている気分ではなくなってしまった。肉体の動きが止まると、すぐさまフロリアの心は新しい相談者へと移っていた。あの男についてモートと議論する気にはなれない。そこでフロリアはできるだけ穏やかにモートを送り出すと、グラスにオレンジジュースを入れて、キッチンのテーブルに一人で座った。
自分の人生を叩き壊してしまった、反抗的な吸血鬼の自我を備えた、あの切羽詰った灰色の髪の学者、ウェイランドの自我の再統合へと、いかにして近づくか?
壊れた椅子について、木を壊したウェイランドの大きな手について考えた。もちろん、木が古く、糊も乾いていたせいだ。そうでないとあんなことはできない。何しろ、ウェイランドは人間であって、ヒョウではないのだから。


三度目のセッションの前日、ウェイランドは電話をよこし、ヒルダに伝言を残した。明日は予約した時刻にオフィスへは行けないが、もしよろしければ、ランドーアー先生にいつもの時刻に中央公園の動物園に来てほしい、という内容だった。
わたし、あの男の言うがままに、ここから動物園くんだりまで行くのかしら? だめよ──でも、どうして断るの? あの男に自由にさせておいて、違った条件下で何が起こるかを見てみればいい。しかも今日はいいお天気。きっと五月の陽気はもう最後よ。蒸し暑い夏が始まる。フロリアは嬉々としてケニーのセッションを早々に切り上げ、動物園に歩いていくための時間を工面した。
 平日にしてはかなりの客が集まっていた。身なりのよい若妻が、ベビーカーで清潔な元気のいい赤ん坊を運んでいる。ウェイランドはすぐに見つかった。
ウェイランドはアザラシの巣とにごった緑色の池を囲むレールによりかかっている。肩にかけたジャケットが、長い背中に優雅に垂れている。フロリアはウェイランドが粋でちょっと異国風に見えると思った。通り過ぎた女が振り返って見るのに気づいた。
ウェイランドは道行くすべての人を見ていた。この男は私が背後から近づいているのに気づいている、という印象を持った。
「オフィスから外に出ることは、いい気分転換ね、エドワード」フロリアは、ウェイランドの近くの柵へ近づきながら、言った。「でもこれは、ただいい空気を吸うだけのことじゃないわね」太ったアザラシが優雅な彫刻のように、コンクリートの上に寝ている。目を幸福に閉じ、毛皮は日光で乾いている。半透明の水彩の赤褐色だ。 
ウェイランドは柵から体を起こす。二人は歩く。ウェイランドは動物を見ない。その目はひたすら群集を追っている。そして言う。「あなたのオフィスのあるビルで、誰かが私を見張っていました」
「誰が?」
「いくつかの可能性があります。うわっ、何てひどいにおいだ──同じような環境に閉じ込められた人間も似たようなにおいがしますがね」風船を取りあって、動物園から音楽時計の下へ向かいながら叫んでいる子供二人を、ウェイランドはよけた。
二人は公園を北へ向かう登り坂の道を歩いた。歩幅を少し広げることで、フロリアは遅れずについて行けた。
「それがたいまつを持った農夫?」フロリアは言った。「あなたを追ってるのは」
ウェイランドは言う、「なんて子供っぽい発想」
いいわよ、じゃあ他の手を考える。「あなたこないだ、ランブルで狩りをする話をしたわね。その話に戻っていい?」
「お望みなら」ウェイランドは退屈したような口調だ──自己防衛? 間違いない──この読みは正しいという自信があった──そう、間違いない、この男の問題は、自分の受け入れがたい側面を〈吸血鬼〉の幻想に変容させてしまうところにある。この男の世代の人間にとって、ホモの衝動と向かい合うのは破滅的なことであり得る。
「あなたがランブルで誰かを拾うときには、お金を払うの?」
「大抵は」
「お金を払うことについてはどう思うの?」怒らせるのを期待しての発言だ。
ウェイランドは軽く肩をすくめる。「別に。パンを買うために人は働きますよ。実際、私だってすごく頑張って働きます。なぜ自分が生活するために、稼ぎを使っていけないんですか」
なぜこの男は狙い通りの反応を示さないのだ。困惑して、フロリアは立ち止まり、噴水の水を飲んだ。それから歩き続けた。
「一度獲物を捕まえたら、どうやって──」言葉を探す。
「襲うのか?」ウェイランドがひょうひょうと言葉を継いだ。「首のここに、押すと脳への血流を妨げる点があるんです、そこを押すと意識を失う。そこまで近づくのは別に難しくはありませんよ」
「性的な行為の前にするの、それともあとに?」
「可能ならば前にです」淡々と言う、「そして性的行為の代わりに」振り向いて、歩いている道を見下ろす花崗岩の露出した場所へと続く坂道をゆっくり登って行った。そこに腰を降ろすと、今来た道を振り返った。今日スラックスで来てよかったと思いつつ、フロリアは横に座った。
ウェイランドは大してショックを受けていない──その状態からは程遠い。もうひと押ししないと。このままクールな状態を保たせてはならない。「女性より男性を獲物にすることが多いの?」
「その通り。一番簡単な手を使いますよ。男性のほうが女性よりも常に近づきやすい。女性は何かの賞品みたいに壁を作っているか、繰り返し子供を生んで、肉体的に衰え、不健康な獲物にしかならないことが多いからです。最近では状況が変わってきましたが、ゲイの男性が未だに最も近づきやすい獲物なんです」女性の歴史に関する予期せざるひどくゆがんだ認識に対する驚愕からフロリアが回復する間に、ウェイランドは快活に付け加えた。「あなたは本当に注意深く表情をコントロールしますな、ランドーナー先生──不満のそぶりすら見せない」
自分が不満を持っているのにフロリアは気づいた。ウェイランドが性的に男性オンリーでなければいいのに、と思っている。ああ、何てこと。
ウェイランドは続けた。「まだあなたが私を、すでに何かの犠牲になった相手を狙って、獲物にするだけだと思っているのは疑いありませんね。世の中はそういうものです。狼は群の端を歩いているものを狙います。ゲイの男性は、人間の群から保護を拒否され、同時に自らをアピールし近づきやすいようにすべく奨励されています。
他方、狼と違って、私は殺さずに栄養を得ることができます。それに、私の選ぶ獲物たちは、殺さざるを得ないような脅威を私に与えることはありません。自分たち自身が外れ者ですから、私の真意が分かっても有効に非難することはできないのです」
ああ、なんとうまく、完璧に、非情に、この男はホモのコミュニティから自分を遠ざけていることだろう!「で、どんな気分、エドワード、その人たちの目的に関しては──つまり、あなたに対する性的期待については?」
「私が獲物に選んだ女性が抱く性的期待に対する感情と同じですよ。興味ありません。しかも、私の飢えが高まると、性的興奮は不可能になります。私の肉体が反応を示さないことに、誰も驚かないようですよ。灰色の髪の男は不能であたりまえだと思われているのは明らかです。私には願ってもないことですよ」
下を子供たちがラジオを振りながら通りすぎた。ラジオのアンプで拡大されたずんずんいう音、泣き声や話し声が混じりあって耳に残る。フロリアは見るともなく子供たちの姿を目で追いながら、自分の不能を冷静な無関心の口調で話す男など聞いたことがないと思い、また驚いた。この男に自分の問題についてきちんと話をさせられるようになったのだ。最初のセッションのときと同じぐらい流暢に話しているが、今回は演技ではない。この男はフロリアが期待するよりも、それをいうなら吸血鬼について知りたいと思うよりも多くのことを話し、フロリアを圧倒する。何てことよ。フロリアは耳を傾け、理解したと思う──いったい何の役に立つ? いまは、ちょっとしたクールな真実を求める時だ、と思った。この男がこの信じがたい詳細をどこまで話せるのか見極めるのだ。全体構造を捉えるのだ。
フロリアは言う。「ご存知だと確信するけど、簡単に体を許す人は性別にかかわらず、病気を持っていることが多いのよ。最後の健康診断はいつ?」
「親愛なるランドーアー先生、私が健康診断を受けるとすれば、最初で最後のものになるでしょう。幸い私は大して必要を感じません。大半の深刻な病が──例えば、肝炎──私には、獲物の皮のにおいによって分かるのです。警戒して私は吸血を控えます。病気になることもよくありますが、私はそういうとき誰にも邪魔されない場所にひきこもって回復を待ちます。どんな病気よりも医者の関心のほうが私には危険なのですよ」
下の通りを見ながら、ウェイランドは穏やかに続けた。「私を見るだけでは、私の個性的な体質の手がかりはまったく見つけられないでしょうな。でも信じてください、寝ぼけ眼の開業医がほんのちょっと詳しい検査をするだけで、私が普通とは違った驚くべき特質を備えていることが分かるのです。私は必死で健康を維持していますし、例外的に堅固な体を備えているのです」
個性的であり、肉体的に卓抜しているという幻想。それがこの男を向こうの世界に追いやっている。