SF百科図鑑

サターン・ゲーム The Saturn Game ポール・アンダースン

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サターン・ゲーム The Saturn Game ポール・アンダースン

もしわたしたちが、何が起こったのかを理解し、未来に再びより悪い悲劇が起こるのを回避するために、何が大事かを理解するのなら、まずあらゆる非難を排除することから始めなければならない。あれは、誰の過失でもなかった。不合理な行動は一つもなかった。なぜなら、最終的な結末は誰にも予測できなかったし、事態の本質は手遅れになるまで理解できなかったからだ。あの悲劇を知り、それに立ち向かった人々が心の内外で発揮した根性こそ、もっと評価すべきものだ。悲劇の入口は現実の至る所に口を開けている、それが現実だ。そしてその向こう側の現実は、こちら側の現実と全く違うということも。時の化身クロノスが横切ったのはただの地獄ではない。人間の経験のとば口なのだ。
──フランシス・L・ミナモト「土星の下の死・否定的観点」(アポロ大学通信、二〇五七年、ルナ、ライバーグ)

「〈氷の市〉が地平線に見えてきたぞ」ケンドリックが言う。塔は青く輝いている。「ぼくのグリフィンは翼を広げて飛んでいる」その大きな虹色の輝く羽根に当たって、風がひゅうひゅう鳴る。マントは肩から後ろに舞い上がり、空気が首周りの鎖帷子をたたき、ケンドリックを寒気で包む。「ぼくは身を乗り出して、きみを目で探している」左手の槍で体のバランスを取る。ウェイランド・スミスが打ち込んだ鉄の兜が、月光を浴びて青白く光る。
「ええ、グリフィンが見えるわ」リシアは言う。「高く遠く、中庭の壁の上に彗星のように浮かんでいる。わたしはもっとよく見るために、ポーチコの下から外に出たわ。門番がわたしを止めようとして、袖をつかんだけど、わたしは蜘蛛絹の布を破って外に駆け出した」妖精の城は彫刻の氷が溶けて蒸気に変わるように揺らめいている。情熱的にリシアは叫ぶ。「本当にあれはあなたなの、ダーリン?」
「そこにとどまるんだ!」アルヴァーランが一万リーグ離れた神秘の洞窟から叫ぶ。「わたしの送るメッセージはこうだ。もしこいつが島のサー・ケンドリックだと王が疑えば、竜を使って襲わせるか、きみから救いのチャンスを奪うだろう。戻るのだ、マラノアの姫。そいつがただの鷹だと思い込んでいるふりをするのだ。きみの言葉に信念の魔法を授けよう」
「ぼくはずっと空高くにいる」ケンドリックスが言う。「占いの水晶球を使わない限り、妖精の王はこの獣に乗り手がいるとは思うまい。ここからぼくは都市と城の様子を窺う」そしてそれから──? 先は分からない。ただ分かっているのは、姫を救わねばならない、さもなければ死ぬということだけだ。救出にいったいどれだけかかるだろう。あと何夜、姫は王の腕に抱かれるのか?
「きみたちはヤペトゥスを見張る当番だったと思うが」マーク・ダンツィヒが遮った。
その乾いた口調に他の三人は驚き、しらふに返った。ジャン・プロバーグはとまどいに、コリン・スコビーは苛立ちに顔を赤らめる。ルイ・ガルシラソは肩をすくめてにやりと笑い、シートベルトで固定した体の前にある操縦コンソールを見る。一瞬、沈黙と影と宇宙からの光が船室を充たす。
観察を容易にするために、室内の灯りは、計器盤の薄暗い光を除き、すべて消されている。太陽側の船窓は目隠しを降ろしてある。他の窓はどれも星が充満しており、あまりにも数が多く明るいので、その間の暗闇は光に溺れてしまっているようだ。天の川は銀色の流れ。船窓の一つからは、土星の半球が見える。昼側の半球は、青白い金色と、輪の中央に位置する豪華な帯であり、夜側の半球は、雲を照らす星灯りと月光のかすかにちらつく光である。それは月にかかる地球と同じぐらいの大きさに見える。
前方にヤペトゥスがある。宇宙船は衛星の周りを周回しながら、良好な視野を維持するために回転している。船は夜から朝に変わる線を既に越え、内側の半球の中央辺りに到達している。むきだしの穴ぼこだらけの地表を夜に置き去りにして通過し、いま、太陽に照らされた氷の国の上空を飛んでいる。まばゆいばかりの白さが、閃光や光のかけらを散らして輝き、天に向かって幻想的な形を解き放つ。圏谷、クレヴァス、青に縁取られた洞穴。
「ごめんなさい」ジャン・ブロバーグは、小さな声で言う。「きれいね、信じられないぐらいきれい──ゲームで行って来た場所と同じぐらい──びっくりしたわ」
「はん!」マーク・ダンチヒが言った。「君は来るべき冒険に多大なる期待を抱き、その結果、ゲームの中でそれとよく似た環境を作りあげたということさ。そうじゃないとは言わせないぞ。おれはこの八年、似たような行動を何度も見てきたんだから」
コリン・スコビーは荒っぽいしぐさで答えた。回転による重力はあまりに小さく、感知できるほどの体重を与えてくれない。コリンの体は空中を飛んで、人でいっぱいの部屋を越え、化学者にぶつかる間際に、辛うじて取っ手をつかんで体を止めた。「あんたは、ジャンを嘘つき呼ばわりするのか?」うなるように言う。
たいていの場合、この男は陽気にはったりをかます。たぶんだからこそ、この男の態度が突然恐ろしく感じられたのだ。コリンは三十代半ば、大柄で灰色の髪の男だ。着ているカバーオールもその下の筋肉を隠すことはできない。顔に寄った皺が、その顔の無骨さを引き立てている。
「お願い!」ブロバーグが叫ぶ。「喧嘩はいやよ、コリン」
地学者はジャン・ブロバーグを見返した。ジャンは細身で、繊細な容貌をしている。四十二歳という年齢と、長命措置にもかかわらず、肩に垂れかかる赤茶色の髪には白いものが縞のように混じり、灰色の目の周りには皺が刻まれている。「マークが正しいわ」ため息をつくように言う。「わたしたちはここへ科学のために来ているのであって、白昼夢を楽しみに来ているのではないのだから」手を前に伸ばしてスコビーの腕に触れ、恥ずかしそうに微笑んだ。「あなたはまだ、ケンドリックの性格がまったく抜けていないんじゃない? 勇敢で防御的で──」言い止める。この早口のしゃべり方は、リシアの口調の面影があるどころではない。ジャンは唇を押え、赤面した。涙があふれ、空気に乗って流れ出す。無理に笑ってみせる。「でも、わたしはただの物理学者ブロバーグ。宇宙飛行士トムの妻、ジョニーとビリーの母親──」
その視線が土星の方向に向かう。家族が待つ船を探すように。星ぼしの間を、太陽の光を帆に受けて走る星のような姿を、ジャンは実際に目で探したのかも知れない。だが、今その船は遠くにある。クロノス号ほどの巨体ですら裸眼には見えない。何百万キロのかなたでは。
ルイ・ガルシラソは、操縦席からきいた。「おれたちのささやかな喜劇、コメディア・デラルテの何がいけないって言うんだ?」アリゾナなまりのまのびした口調が耳に心地好い。「着陸はまだだいぶ先だし、それまでは自動操縦でいくんだから」小柄で浅黒く器用なこの男はまだ二十代だ。
ダンチヒは落ち着き払った革のような表情をしかめてみせた。節制と長命措置のおかげで、六十代の年齢にもかかわらず、小さな体にしなやかさを保持している。自らの顔の皺や後退する頭髪すらもギャグにしてしまう。だが今はユーモアを放棄している。
「きみたちは、何が問題なのか分かってないということかね?」鷲鼻の先端が、拡大された衛星を映すスキャナーのスクリーンに突き出される。「全能の神! おれたちが着陸しようとしているのは新しい世界なのだ──小さいけれども、世界には変わりない。しかも、おれたちの想像を越えた奇妙さがある。おれたちの前にここへ来たのは、無人の飛行探査艇一機と、着陸してすぐにデータを送るのを止めた着陸探査艇一機だけだ。計測器とカメラにだけ頼っているわけにはいかん。目と脳を使うべきだ」スコビーに向かって言った。「コリン、ほかの連中がだめでも、きみだけは骨の髄まで理解してなきゃならん。きみは地球だけでなく、月でも勤務していたんだから。人類があちこちに入植し、多くの研究を重ねてはいても、それを越える厄介な驚くべき経験をしたことがないわけではないだろう?」
屈強な男は落ち着きを取り戻した。答えるときには、その声にアイダホの山々のような静けさが戻ってきていた。「そのとおりだ」スコビーは認めた。「地球をいったん離れたら、情報が多すぎるなどということはあり得ない。それを言うなら、情報が十分だということすらあり得ない」そこで言葉を切る。「とはいえ、臆病さは、せっかちさと同じぐらい危険なものだ──あんたが臆病だという意味ではないよ、マーク」慌ててつけ加える。「なにしろ、あんたとレイチェルは、そうしようと思えば、オニールの快適な家で優雅な年金生活だってできたんだから──」
ダンチヒはくつろいで微笑んだ。「おおげさに聞こえるかも知れんが、これは挑戦なんだよ。同じぐらい、おれたちはここの探査が終わったら、故郷に帰りたい。〈バー・ミツバー〉に孫の一人や二人が生まれるのを見に行かないとな。そのためには、生きて帰るのが絶対条件だ」
「おれが言いたいのは、あんたがあんまりびびってると、必要以上に悪い事態に陥るのがおちだってことだよ──あっ、気にしないでね。たぶん、あんたの言うことは正しいよ。おれたちは、夢遊びを始めるべきじゃなかったんだ。あの強烈なビジョンに、おれたちはちょっとばかり熱中し過ぎてしまった。もう金輪際止めような」
だが、スコビーの目がふたたび氷河に戻ったときも、完全に科学者の冷静さをとり戻してはいなかった。ブロバーグやガルシラソも同様である。ダンチヒは手のひらを拳でたたいた。「あのゲームに──」ほかの誰にも聞き取れないほど低い声でつぶやく。「あのいまいましい子供だましのゲームに、正気のかけらもあるはずがないだろう?」



ひとびとは、今以上に正気になることはないのか? きっとないだろう。
その問いに答えるには、まず多少の歴史を学ぶべきだ。初期の産業宇宙開発計画が破滅から文明や地球を救う希望をもたらしたとき、姉妹惑星を開発することよりも、まずそれについて、より多くの知識を得ることが必要なのは明らかだった。そのための努力は、まず最も敵対性の少ない火星から始めなければならなかった。現地へ小さな有人宇宙船を送ることを、自然法則が禁じるわけではない。むしろそれをためらわせるのは、たかが三、四人の人間を一ヶ所に数日いさせるだけのために、多くの燃料や時間や努力を費やさねばならない馬鹿らしさゆえであった。

J・ピーター・バユク号の建造には、更に多くの時間と費用を要したが、最終的に、事実上一個のコロニーが、巨大な日光帆を広げ、一〇〇〇人の人間を目的地へ、半年で比較的快適に運ぶ段階になって、ようやく利益を生んだ。その利益は、コロニーが衛星軌道から地球へ向けて、自らの目的のためには必要のないフォボスの有益な鉱物を送り出すと、圧倒的なものになった。むろんコロニー自体の目的は、本当に徹底的な時間をかけた火星の研究に向けられていた。それには、火星表面全体への予備探査船の着陸及び長期滞在も含んでいる。
この程度述べれば思い出すには十分だろう。木星に至るまでの太陽系内縁全体について、同じような基本理念のもとに数かずの探査が成功を収めたことを、いちいちつまびらかにするまでもない。ウラジミル号の悲劇は、水星への再探査の理由となった──そして左翼的で政治的な形で、英米連合を〈クロノス〉計画に駆り立てた。
その船の命名は思った以上に的を射ていた。土星への航程には八年かかるのだ。
健康で生き生きした精神を保つ必要があるのは、科学者だけではない。船員や技術者や医師や警官、牧師、エンターティナー、コミュニティ全体を構成するあらゆる身分の者が正気でなければならない。全員が非常事態に備えて、二つ以上の技能を要求されたし、定期的で退屈な訓練でその技能を維持する必要があった。環境は制限的で、過酷だ。地球との交信はすぐにビーム経由となり、世界市民たちは、たかだか孤立した村落に過ぎないものに閉じ込められた。さて、何をすればいいだろう?
決められた任務。市民計画の推進、特に船内環境の改善業務。調査、本の執筆、課題研究、スポーツ、趣味クラブ、手工芸作業、より私的な交渉──あるいは、広範なビデオテープのレパートリー。だが〈中央制御装置〉は、二四時間中、わずか三時間しか使用できない。だれも受動的習慣に身を委ねる勇気はない。
ひとびとは不平を言い、口論をし、派閥を組んでは崩し、結婚やもっと曖昧な関係を結んでは別れ、時々子供を生んでは育て、尊敬し、嘲笑し、学び、恋いこがれ、大半の者は、人生にかなりの満足を見いだした。だが、才能のある者のかなりの割合を含む一部の者を悲劇へと導いたのは、〈心理ドラマ〉だった。   ──ミナモト


夜明けが氷を通りすぎ、岩の上に落ちた。光は薄暗い上に不安定だが、ガルシラソが着陸のために欲する最後のデータとしては十分だった。
モーターのヒスノイズは消えた。衝撃が船体を揺り動かし、着陸ジャッキが船体を直立させると、静寂が降りた。船員たちはしばらく無言だった。窓の外のヤペトゥスをじっと眺めていた。
船員たちのすぐ周囲は、 太陽系の大部分の領域を支配しているあの荒廃に満ちていた。ぼんやり見える平原は目に見えて湾曲しながら地平線で消えている。人間の頭の高さから見ても、三キロほどの距離までしか見えない。もっと高くにある船室からなら、更に遠くまで見えるだろう。だが、そうしても、かえって星ぼしの間で転がる小さな球の上にいるという感覚が強まるだけだ。地面は宇宙塵と砂利で薄く覆われている。ところどころに、小さなクレーターやとがった岩塊が、地表の岩盤から突き出し、長い、ナイフのような、真っ黒の影を投げている。光の反射に邪魔されて、目に見える星の数が減り、天は夜色のボウルをひっくり返したように見える。天頂と南中点の中間に見える土星の半球とその環が、美しい景観をもたらしている。
氷河もまた同様に、景観に華を添えている──一つといわず複数の氷河が重なっているのかもしれないが、誰にもよくは分からない。ただひとつ分かっていることは、遠めに見るとこのヤペトゥスという星は、軌道の西端で明るく輝き、東端では光が鈍るということだ。というのも、この星の片面が白っぽい物質で覆われている一方で、他の面はそうではないからだ。その境界線は、この衛星が永遠に向き合っている惑星の、ほぼ真下を通っている。〈クロノス〉から放たれた複数の探査機は、この層が厚く、ところどころで変化する謎のスペクトルを持っていることを報告したほかは、たいした情報をもたらさなかった。
いまこの時、四人の人間が、穴ぼこだらけの空虚な景観を見渡し、世界の縁の背後に隠れた驚異を目の当たりにしている。北から南へかけて、城壁、銃眼胸壁、尖塔、溝、峰、断崖、その輪郭や影が、無数の幻想風景を展開している。右方では土星が琥珀色のやわらかい光を投げかける。だが、その光は、東からのきらめきの中にほとんど埋もれかけている。そこでは、太陽が無数の星の一つほどの大きさに縮み上がっている。光の強さこそまぶしくて直視できないほどではあるが。山頂の真上に太陽はある。銀色のきらめきがまぶしく爆発し、ダイヤモンドのかけらのように光が砕け散り、寒々しい青と緑の色を散らしている。涙がにじむほどのめまいを感じながら、目は風景がちらつき揺らめくのを見る。まるでそこが夢の国、妖精の国との国境線のように見える。だがいかにこの眺めが繊細な複雑さに満ちていようとも、その下には寒気と荒々しい衛星の巨塊が感じられるだけだ。ここには〈氷の巨人〉も住んでいるのだ。
始めて言葉を吐き出したのはブロバーグだった。「〈氷の市〉だ」
「〈魔法だ〉」ガルシラソが低い声で言う。「〈おれの魂は永遠にわれを失い、彼の地をさまよう。それが望みに反するという確信もない。おれの洞窟は、こんなふうではない、こんなふうでは──〉」
「ちょっと待て!」ダンチヒが警告の声をあげる。
「ああ、そうだよ。想像力は抑えてくれ、頼むから」スコビーがすぐに正気に返って忠告したが、必要以上に冷たい口調に聞こえた。「探査機の送ってきたデータによれば、急坂は、その、グランドキャニオンに似ていることが判明している。そうだとも、おれたちが思ったよりも凄い地形なんだよ。だからこそ余計に謎めいているんだと思う」ブロバーグに向き直る。「こんなふうに氷や雪が刻まれているのを見るのは初めてだな。ジーン、きみはどうだ? カナダの少女時代に、たくさんの山や冬景色を見て歩いたと言っていなかったっけ?」
物理学者は首を振る。「いいえ、一度もないわ。ありえない気がする。いったいどうやったらこんな景色に? ここには気候の変化はないはず──それとも、あるの?」
「たぶん、この衛星の半分だけがむきだしになっているのも、同じ現象によるのだろうな」スコビーが言った。「直径一七〇〇キロメートルしかない物体が、気体を持っているはずがない。凍っていようがいまいがね。ただし、彗星のように、星が透過可能な物質でできた球なら話は別だが。そうでないことは既に分かっている」まるでみなに示そうとするかのように、スコビーは近くの道具箱からペンチ一丁を取り、ほうり投げ、ゆっくり落ちる途中でそれをつかんだ。スコビー自身の地球上では九〇キロに達する体重は、ここでは約七キロだ。このことから考えて、衛星は本質的に岩でできているに違いなかった。
ガルシラソはこれ見よがしにいらだちを示した。「分かりきった事実や理屈をいまさら応酬するのはやめようや。いまは答えを探すべきときだよ」
ブロバーグは歓喜にはじけた。「そうだよ、外に出るんだ。あそこへ行こう」
「待て」ガルシラソとスコビーが熱心に同意する一方でダンチヒが反論する。「深刻な事態は避けるのだ。注意して、一つ一つ準備をーー」
「いいえ、無理よ。こんな素晴らしい景色を前にしては」ブロバーグの声が震える。
「そうとも、ぐずぐずしてる場合か」ガルシラソが言う。「少なくとも、今すぐ予備偵察が必要だ」
ダンチヒの顔のしわが深くなる。「お前も行くという意味か、ルイス? しかし、お前はパイロットだ!」
「地上でのおれは一般アシスタントですよ。あなたたち科学者のコック長であり、瓶洗い係です。目の前に探検の対象があるのに、おれが座ってさぼりたがるとでも思ったんですか?」ガルシラソは声を抑えた。「しかも、おれが悲惨なことになっても、誰かが船を飛ばし、クロノスからちょっと無線指示と、最終ランデヴーの遠隔操作を受ければすむ」
「そいつは合理的だ、マーク」スコビーが言った。「執務規程に反するのは確かだが、規程はおれたちのためにあるんだ、その逆じゃない。移動距離は短いし、重力は低い。しかもおれたちは危険には注意を払う。重要なのは、あの氷がどういうものか分かるまで、このエリアでおれたちが注意しなけりゃならない悪魔の正体は分からない。いや、ともかく急いでやってみよう。戻ってからプランを練るんだ」
ダンチヒがこわばる。「忘れるな。万が一のことがあったら、助けは一〇〇時間の彼方なんだぞ。こんな予備調査をしたところで、戻るのには大して役に立たんし、土星やタイタンから大きな船を出すのはもっとかかる」
暗黙の侮辱にスコビーは顔を赤くする。「ならこのことも忘れるな。地上ではおれが隊長なんだぞ。おれは今すぐの調査が安全かつ有益だと言うよ。そうしたいなら残るがいい。実際、そういうやつは残らないとな。船を無人にしてはならないという限りでは、規程は正しい」ダンチヒは、数秒相手を見つめてからつぶやく。「ところで、ルイスは行くんだな?」
「ああ!」ガルシラソは叫び、声が船室に響き渡る。
ブロバーグは、ダンチヒの垂れ下がった手をたたく。「大丈夫よ、マーク」優しく言う。「あなたの研究のためのサンプルを持ち帰るわ。その後なら、どういう手順をあなたが最善と考えようが、わたしは驚かないわ」
ダンチヒは首を振る。突然、すごく疲れた顔になる。「いいや」単調な声で言う。「そうはならん。分かってのとおり、わたしはこの探査を興味深い研究のチャンスと考えた頑固な産業化学者に過ぎない。宇宙を旅する間、わたしはひたすら雑事にかまけてきた。その中には、わたしが開発する時間をほしいと思っていた発明二つも含まれていることは知っておろう。きみたち若手三人、ロマンチストの三人は──」
「おいおい、やめろよ、マーク」スコビーが笑おうとする。「たぶん、ジーンとルイスはそうかも知れんが、おれは違うよ。ハギス料理並みに接点がない」
「きみたちは、年々ゲームに興じてきた。ついにはゲームがきむろん読みたいものの大半はみたちをもてあそぶようになった。今起こっているのはそれだよ。きみたちがどんなに動機を正当化しようがね」ダンチヒが友人の地学者を見る目からは、それまでの敵意が消え、意地悪い目つきに変わった。「きみはデリア・エイムスを呼び戻そうとしてるんだろう」
スコビーが気色ばんだ。「デリアがどうした? デリアとおれの間の問題だ。ほかの連中に関係ない」
「あとでデリアがレイチェルの肩に寄りかかって泣いたことと、わたしに秘密を漏らしたことを除けばな。心配無用、わたしは言いふらしはしないよ。とにかくデリアは乗り越えた。だがもしきみがデリアをきちんと思い出せば、三年前にすでに自分の身に起こったことを理解するだろう」
スコビーはあごを引いた。ダンチヒは口の左端に笑いを浮かべた。「いいや、あんたには分かるまい」ダンチヒは続けた。「今のところはわたしにも分からんよ、それは認める。そのプロセスがどこまで進行したのかはね。少なくとも、外に出ている間は、夢想を控えてくれんかね? できるか?」

***

五年にわたる旅程で、スコビーの部屋は意味論的にスコビー自身のものだった──おそらくいつも以上にそうだった。なぜなら、一度に数日間の夜番をするとき以上に、女を部屋に迎えることはめったにない独身男であり続けたから。家具の多くを自作した。クロノスの農業セクションが木材、皮革、繊維を、食料や空気と同様に製造する。その手工芸は大きなものから古風な彫刻装飾にまで及ぶ。むろん読みたいものの大半はデータバンクから抽出したものだが、棚にも数冊の古い本と、チルドの国境バラッド、一八世紀の家庭用聖書(懐疑主義者であるにもかかわらず)、ほとんどばらけかけているが著者のサインが書かれた〈自由機械〉一冊が入っている。その他さまざまな価値ある書。その上に帆船模型。その船でスコビーは北ヨーロッパの海を航海した。更に、この船に乗っていたときのハンドボール大会で得たトロフィ。隔壁の上には、フェンシングのサーベルとたくさんの写真がかかっている──両親や兄弟、地球上で訪れた荒地、よく行ったスコットランドの城や山や丘、月の地学研究チーム、トーマス・ジェファーソン、そしておそらく、ブルースのロバートの写真。
だがスコビーはテレスクリーンの前のイブンウォッチに座っている。光は映像を十分に吟味できるように暗く抑えられている。予備調査艇は合同演習に出ており、二人の乗員はこの機会を利用して見たものの映像を送ってきている。
何てすばらしい。星いっぱいの宇宙はクロノスからは聖杯のように見える。二つの大きな逆回りの円柱、リンクやポートやロックやシールド、コレクタ、トランスミッター、ドックなどの完全な複合体が、数百キロの距離から和風に輝いている。スクリーンの大部分を日光帆が占めている。回転する金の太陽の車輪のようだ。だが遠くからの眺めは、蜘蛛の巣のような複雑な構造を明らかにしている。それは高く伸び上がり、微妙に曲がっている。蜘蛛の糸よりも細いはず。ピラミッドよりも重労働で、染色体組み換えよりも精密。船はその上を土星へ向かって動く。土星は繊維の中の二番目に明るい光。
ドアチャイムがスコビーを陶酔から引きずり出す。デッキを歩いていく途中、爪先がテーブルの脚に引っかかる。コリオリの力のせいだ。これほど大きな船体が回転し、地球並みの重さを与えているせいで軽く感じる。スコビーが長いこと適応しようとしてきたものだ。だが時々地上の習慣を復活させるものに興味を持つ。自分の不注意さを快活にののしる。楽しい時間を期待していたから。
ドアを開けると、デリア・エイムスが一歩で部屋に入った。すぐ後ろ手に閉め、ドアの前に立って体を支えた。背の高い金髪女で、電子メンテナンスと多くの野外活動を行っていた。「やあ!」スコビーは言う。「どうしたんだい? きみはまるで──」軽い言葉を探す──「船の上にネズミや魚をあげたなら、猫が持ってきそうにないものだな」
デリアは荒っぽく息を吸う。オーストラリア訛りは理解しがたいまでにきつくなる。「あたし──今日──たまたまジョージ・ハーディングと同じカフェにいたの」
スコビーの体を不安が走る。ハーディングはエイムスの部で働いているが、スコビーとはもっと多くの共通点がある。二人とも同じグループに属しているが、ハーディングは同様にライオン殺しのヌクマのような先祖的役割をなんとなく果たしている。
「何があった?」スコビーがきく。
相手はスコビーをじっと見る。「言ってたわ──あなたとハーディングと、ほかのみんなで──今度の休みに一緒に──あなたの、あなたのあのいまいましい活動を、誰にも邪魔されずにやるんだって」
「ああ、そうさ。右舷船体の新しい公園での仕事は、水道管用のリサイクル金属が十分手に入るまで延期だ。該当エリアには人がいない。おれの仲間が一週間の値打ちのある数日間を過ごせるよう手を打ってある──」
「でも、あなたとわたしでアームストロング湖に行くはずだった!」
「ああ、待ってくれ、ただそんな話をしただけだ、まだはっきりした計画はなかった。これはまたとない機会なんだよ──後で行こう、ハニー。すまない」デリアの手を取る。寒気を感じる。スコビーは微笑んでみせる。「さてと、豪華な夕食を作り、ともに、そうだなあ、くつろいだ静かな夕べをすごそうよ。でも手始めに、スクリーンに映ったこの完璧にゴージャスな催し物を──」
デリアは手を振り払う。このしぐさで落ち着いたようだ。「いいえ結構」抑揚のない声で言う。「あなたがあのブロバーグとかいう女といるほうがいいなら、遠慮しとくわ。ただたまたま通りかかったから、あなたたち二人の邪魔はしないと個人的に告げに来ただけ」
「何だと?」スコビーは後じさる。「いったい何をそんなに怒ってる?」
「あなた、よくわかってるでしょ」
「さっぱりわからんよ! ブロバーグとおれが? ブロバーグは幸せな結婚をして、二人の子供がいるし、おれより年上だ。ただの友達だよ。間違いないとも。おれたち二人の間に公にできないような秘密は何一つないし──」スコビーはつばを飲む。「きみはおれがブロバーグに気があると思ってるんだな、そうだろ?」
エイムスは目をそらす。握り合わせた指がぎりぎりと鳴る。「あたし、あなたの単なる便利な存在でいるつもりはないの、コリン。あなたにはそういう女が多すぎる。わたしは望んでいたけど──でも間違ってた、これ以上ひどくなる前に、損を埋め合わせたいのよ」
「でも──なあ、おれはきみ以外の誰にも気はないよ。誓うよ。それにきみは、おれにとってただの肉体じゃない。きみは素敵な女性だ──」デリアは立ったまま黙ってふさぎこんでいる。スコビーは唇をかみ、ようやく言った。「いいとも、認めよう。おれがこの船に志願した最大の理由は、地球での恋に敗れたからだ。プロジェクトに興味がないという意味じゃない。でもわかったんだよ、あれがおれの人生のいかに大きな部分を占めていたか。他のどんな女よりも、ディー、きみこそがこの状況の中で、いちばんおれを慰めてくれた」
ディーは顔をしかめる。「でもあなたの心理ドラマには負けるんでしょ、ね?」
「おいおい、きみはおれがあのゲームに取りつかれてると思ってるんだな。違うぞ。あれは娯楽だ──ああ、〈娯楽〉って言葉ではちょっと弱いかもな──
だがともかくあれは、ごく少数の人が定期的に集まってやるゲームに過ぎん。フェンシングとかチェスのクラブとか、そういうものと変わらんのだよ」
ディーは肩を怒らせる。「いいわ、なら」ディーはきく。「デートの約束を取り消して、わたしと一緒に休日を過ごしてくれる?」
「それは、その、できないよ。この段階では。ケンドリックは今起こっているイベントの中では脇に引き下がれる立場にないんだ。ほかの全員と緊密に関係しているキャラクターだから。もしおれがいなければ、ほかのみんなが何もかも台無しにされてしまう」
ディーの視線が注がれる。「結構よ。約束は約束、そういうことね。でも後で──そんなに怯えないでよ、別に罠じゃないから。そんなことしてもしょうがないでしょ? でも、わたしたちの関係をこれからも続けるなら、そのゲームを早目にやめてくれるかなあ?」
「無理だ──」怒りにとらわれる。「絶対無理だ!」叫んだ。
「なら、お別れね、コリン」ディーはそう言って去った。コリンはディーが後ろ手に閉めたドアを何分間も見つめていた。

***

巨大なタイタンや土星周辺の探査隊と違い、空気のない衛星に降りるのは単純に改造された月・宇宙シャトルで、頼りにはなるが性能は限られていた。ブロックのような形が地平線に隠れると、ガルシラソが無線にいった。「マーク、船が見えなくなった。おかげで眺めがよくなったといわざるを得ない」軌道に展開した中継微小衛星の一つが言葉を伝えた。
「ならば、通り道を火で焼いて跡をつけたほうがいいな」ダンチヒが注意を促す。
「おやおや、あんたはまたずいぶん口うるさいな」だがガルシラソは腰の噴射銃を抜き、地面に色鮮やかな虹色の円を描いた。仲間が氷河にたどり着くまでは短い間隔で同じ印をつけるつもりだ。地表に塵が深く積もっている場所を除いては、低重力下で足跡は薄く、歩行者が岩の続く場所を通っている間はまったくつかない。
歩行者だと? いいや、跳躍者といったほうがふさわしい。三人は、陽気に飛び跳ね、宇宙服や生命維持ユニット、道具食料パックにはほとんど邪魔されない。むき出しの地面は三人の足元を逃げるように過ぎ去り、より高く、はっきりと、輝かしく、氷が目の前に姿を現すのだ。
そのさまを本当に描写することはできない。麓にある坂やその上の恐らくは百メートルほどある断崖について語ることはできる。そこには遥かに静寂な尖塔が聳え立っている。優雅に湾曲しながら丘を登る階段、レース模様の欄干、縦溝のついた岩山、驚異に満ちた洞窟へのアーチ型の入り口、溝の奥深くの謎めいた青色、透明の中を光が流れる緑色、輝きと影が曼荼羅を織り成す白色を貫く宝石のような光について語ることはできる──だが、どれだけそういった言葉を尽くしても、スコビーの先ほどの不適切とすら言っていいグランドキャニオンへのたとえほどにも真実を伝えられない。
「止まって」こう言うのは十二回目だった。「写真を数枚撮りたい」
「ここに来たことのない人が見てわかるかしら?」ブロバーグがささやく。
「まあ無理だな」同じく嗄れた声で、ガルシラソが言った。「多分おれたちだけだ」
「それはどういう意味だ?」ダンチヒの声が答えを求める。
「気にしなくていい」スコビーがぴしゃりと言う。
「わかって──いる──と──思う」化学者は言う。「確かに、すばらしい眺望だろう。だが、そのせいで感覚が麻痺しているんじゃないかね」
「そのつまらないおしゃべりをいい加減やめないと、こちらから回線を切ってしまうよ」スコビーが警告する。「おれたちは仕事があるんだから。お荷物にはならないでくれ」
ダンチヒはため息。「悪い。あー、ところで、あれの性質についての手がかりはつかんだかね──あの物は?」
スコビーはカメラをフォーカスする。「そうだねえ」少し声が和らいでいる。「影も素材も違っている。間違いなく形も違う。飛行探査艇が送ってきた反射スペクトルからの推測を裏付けているようだ。構成素材は混合物というか、ごた混ぜというか、その両方というか。いくつかの物質のね。それにところどころで変化しているよ。水の氷は明らかだが、二酸化炭素の氷もあるとおれは確信している。アンモニアやメタンもあるね。量は少ないがそのほかの物質もね」
「メタン? 真空中の大気温度下で固体のままでいられるのか?」
「確認しなければならないだろうさ。でもおれが推測するに、たいていの時間は十分に温度が低い。少なくともメタン組織が圧力のかかる内部に収縮する程度にはね」
ヘルメットのヴィトリル球体の中で、ブロバーグの表情が輝く。「待って!」叫ぶ。「思いついたことがあるの──着陸した探査機に何が起こったのか」息を吸う。「氷河のほぼ麓に下りたのを思い出して。
宇宙からあの砦の眺めは、雪崩で探査機が埋もれたことを示しているようだったわ。でもなぜ起こったのかはわからない。そうね、もしもメタンの層がまさに溶けてはいけない場所で溶けてしまったのだとしたら。ジェットの熱放射が暖めたのね、きっと。そのあとのレーダービームによる等高線マップサーチが最後に必要なわずかな駄目押しをした。氷層が流れて、その上に載っていた全てのものが崩れ落ちたのよ」
「その可能性はあるね」スコビーが言う。「おめでとう、ジーン」
「誰も前もってその可能性を考えていなかったって言うのか?」ガルシラソが嘲弄する。「大した優秀な科学者を連れてきたもんだよ」
「土星に着いてからの仕事と、それ以上にデータ・インプットにみんな圧倒されているからな」スコビーが答える。「宇宙というのは誰もが考える以上に大きいんだよ、せっかちさん」
「ああ、そうとも、反対はしないよ」ガルシラソの視線は氷に戻る。「そうとも、おれたちには謎が尽きることはないってか」
「その通りよ」ブロバーグの目がぎょろっと光る。「物事の本質はいつも魔法のようよ。〈妖精の王〉が支配している──」
スコビーはカメラをパウチに戻す。「無駄話はそれぐらいにして、先へ進もう」てきぱきと命じる。
その目が一瞬ブロバーグを見つめる。おぞましく混じり合った光の中で、ブロバーグが青ざめるのがわかる。それから赤くなり、横を跳び離れる。
【リチアはひとりで〈盛夏の夕べ〉に〈月の森〉へ行った。王はそこでリチアを見つけ、その望みどおり抱き寄せた。やがて引き離すと、エクスタシーは恐怖に変わった。だが、〈氷の市〉に未だとらわれていたリチアは、多くの短命人の間でひっそりと多くの時間を過ごし、多くの美と奇跡をたたえていた。師匠のアルヴァーランは、自らの魂を放ち、リチアを探した。そして自らも見出したものにとらわれた。意志の力によって、島のケンドリックス卿にリチアの場所を伝えた。自らリチアを解放すると誓いながら。
ライオン殺しのヌクマ、東マーチのベラ、遠西部のカリナ、レディ・オーレリア、ハープ使い師オラフの誰一人、これが起こったときには居合わせなかった。】

***

氷河(太陽系に対応する存在がないという意味で不適切な名称であるが)が平原を突然壁のようにさえぎっている。そこに立ってみると、三人にはどれぐらいの高さがあるのかわからない。だが、線条細工のようなてっぺんへとせり上がる坂道が滑らかでないことはわかる。無数の小さなクレーターには青い影がある。影を作るには十分な高さまで太陽が上がっている。ヤペトゥスの一日は地球の七九日よりも長い。
イヤホンにダンチヒの問いかけが響き渡る。「さあ、もう満足かね? 新しい雪崩に飲み込まれる前に、戻ってくるんだろう?」
「雪崩なんか起こらないよ」スコビーが答える。「おれたちは乗り物じゃないんだ。この地域の地形は何世紀以上の間安定していたことは明らかだよ。それに、誰も何も調べないんなら、有人探査をする意味がないだろう?」
「おれが登ってみればわかるさ」ガルシラソが申し出た。
「いや待て」スコビーが命じた。「おれは山や積雪の経験があるんだ、それに価値があるかどうかはともかくね。おれが最初に登攀ルートを試してみよう」
「お前たち全員があの代物に登るというのか?」ダンチヒがすごい剣幕になった。「完全に頭がいかれたのか?」
スコビーは眉と唇を結んだ。「マーク、また警告するが、あんたが感情を制御できないのなら、回線を切るよ。おれが安全だと判断した道をおれたちは行くんだ」
低重力下を浮かぶように、スコビーは前後へ行ったり来たりしながら進んだ。そうしながらジェクルを調べた。はっきりした物質の層や塊が見える。妖精の石工が切り石をばらばらに置いたようだ──巨人が作業をしたに違いないと思えるほど大きくはない──小さなクレーター群は、〈氷の市〉の防御のための最低層の土手に設けられた前衛拠点だろう──
最も活気のある男のガルシラソは、身動きもせず立ち、景色に見とれた。ブロバーグは膝をつき、地面を調べた。だがその目線は遠くをさまよった。
やがてブロバーグはコリンを招いた。「ねえ来て、コリン。これは発見に違いないわ」
スコビーが加わった。ブロバーグが立ち上がると、立っていた場所の地面のかけらから剥がした小さな黒い小片の集まりを片手いっぱいに持っている。手袋の端からそれが零れ落ちる。「氷の境界が鋭いのはこのせいじゃないかしら」ブロバーグはスコビーに言った。
「何だい?」ダンチヒが遠くからきいた。答えは得られなかった。
「先へ進みながら、塵がどんどん増えているのに気づいていたのよ」ブロバーグは説明を続けた。「これが凍った物質の本体から切り離されたかけらや塊の上に落ちて、覆ってしまったら、溶けるまで太陽熱を吸収するの。あるいはもっと可能性の高いのは、昇華してしまうまでね。水分子ですらこの弱い重力下では宇宙空間に逃げられるわ。氷塊本体は大きすぎて無理だけどね。立方体の法則。粉塵は単純に溶けて短い距離を流れ落ち、その上に落ちた周囲の物質に覆われる。そしてプロセスが止まる」
「ふむ」ブロバーグは手を上げ、スコビーの顎を撫でようとして、ヘルメットに触れ、指で笑顔をなぞってみせる。「合理的に思えるね。だがそんなに多くの粉塵がどこから来たんだ──それを言うなら、氷もだよ」
「わたしの考えでは──」ブロバーグの声は落ち、スコビーにはほとんど聞き取れないほどになる。ブロバーグの目がガルシラソのほうを見る。ガルシラソの目もスコビーをまだ見ていた。その姿が星にシルエットになっている。「あなたの彗星理論を裏付けると思うわ、コリン。彗星がヤペトゥスに衝突したの。彗星は土星に近づき過ぎて惑星の周りでヘアピンカーブの起動を描きながら、ヤペトゥスに近づいたのよ。巨大な彗星。氷がほぼ半球を覆っている。それ以上の水が蒸発してなくなったとは思うけど。粉塵の一部はそこから来てるわ。一部は、衝突の衝撃でできたのよ」
スコビーは鎧をまとったブロバーグの肩をつかむ。「きみの理論だ、ジーン。彗星のことを言い出したのはぼくが最初じゃない。詳しいことを一緒に考えたのはきみが最初だ」
ブロバーグは気づかなかったようだ。更にこうつぶやく。「粉塵は、あの美しい地形を作った浸食を説明するわ。そのせいで、地表の差別的な溶解や昇華を起因し、それは、粉塵が落ちたパターンや、それがくっついている氷の成分に従って決まった。最終的には押し流されるか、包嚢に包まれるかしたわ。上から見えた大きいのや小さいクレーターは、別々の、でも互いによく似た起源を持っているのよ。小隕石が──」
「うぉあ、それなんだがね」スコビーが反論する。「どんな大きさであれ、小隕石は、地面全体の大半を蒸気に変えてしまうほどのエネルギーを発散するんだよ」
「知ってるわ。ということは、彗星の衝突が最近だったことを示しているわ。一〇〇〇年もたってないわね。さもないと、今日この奇跡を見ることはできなかったでしょう。それ以来、大きなものは何もあたっていないのよ。わたしが考えているのは、土星の順行軌道を回っている小石とか、宇宙砂よ。順行なら衝突スピードは比較的遅くなるでしょ。大半は、ただ氷に小さな穴を作るだけ。でもそこに居座ることで、黒いから太陽熱を集めて、再放射して周囲を溶かすの。最後には沈み込んでしまう。その後に残った穴が、横方向の反射的な熱放射を行う。そうしてだんだん大きくなるの。ポットの穴効果よ。そして、氷が違えば成分も違うから、完全に滑らかなクレーターはできないの。その代わり、着陸前に見たようなすばらしいボウル状のクレーターになるのよ」
「すごい!」スコビーはブロバーグを抱く。「きみは天才だぜ」
ヘルメットとヘルメットが触れ、ブロバーグは微笑んで言った。「違う。これは明らかなことよ。自分で考えればおのずと分かるわ」抱き合ったまま、ブロバーグはしばらく沈黙した。「科学的直観が不思議なものだということは認める」やっと続きを話した。「この問題について考えながらも、自分の理性的精神についてはほとんど意識しなかったもの。わたしが考えたのは──〈氷の市〉。神が天から呼び寄せた〈星の石〉から作られているの──」
「おおマリア!」ガルシラソが振り返って二人を見る。
スコビーは女を放した。「さて、確認をしよう」心もとなげに言う。「きみも見たのを覚えているあの大きなクレーターの中へ数キロ入ってみようよ。表面は歩くのには安全に見える」
「わたしはあのクレーターを、〈妖精の王の舞踏ホール〉と呼んでいるわ」ブロバーグが静かに言う。夢が戻ってきたかのように。
「注意するのだ」ガルシラソがからから笑う。「あちらには巨大な医師がいる。王はただの後継者であり、この壁を作ったのは巨人だ。神のためにな」
「ああ、でもおれは中に入る道を探さねば」スコビーが答える。
「確かに」アルヴァーランが言う。「ここからお前を導くことはできぬ。わが魂は、短命人の目を通してしか見られぬのだ。だがお前の相談には答えよう。門に近づくまでは」
「お前たち、またあの妖精話の中を夢遊病のようにさまよっとるのか?」ダンチヒが怒鳴る。「死ぬ前に戻ってくるのだ!」
「黙ってくれないか」スコビーが噛み付く。「単なるおれたちの言葉のあやだよ。それが分からないなら、あんたは脳の使い方がおれたちよりも悪いってことさ」
「なあ、聞くんだ。お前たちが気が狂ったとまではいっとらん。妄想とかそれに類するものは見ていないからな。ただ、お前たちがこの種の場所に幻想を持ち込み、現実がそれを強め、お前たちが自分でも気づかない緊張にさらされていると言っているだけだ。お前たちは宇宙のどこでもそんな風に向こう見ずにずんずん進むのか? 考えてくれ!」
「いいよ。あんたがもうちっと礼儀をわきまえたときに、コンタクトを再開する」スコビーはメインの無線スイッチを切った。まだアクティブな回路は、至近通信の用途に供されているが、軌道中継に達するほどのパワーはない。仲間たちも同じことをした。
三人は目の前の威容に向かい合った。「中に入れば、おれの姫探しを手伝ってもらえるな、アルヴァーラン」ケンドリックが言う。
「できるし、そうするとも」魔法使いが言う。
「待っているわ、最も頼りになる愛すべき人リチアがささやく。
宇宙船に一人残されたダンチヒはすすり泣かんばかりだ。「ああ、あのくそったれのゲームめ!」その声はむなしく空虚の中に消えた。


心理ドラマを非難することは、たとえそれが極端に拡張されたものに対する非難であるとしても、人間性を非難することに行き着く。
それは子供時代に始まる。遊戯は未成熟な哺乳類に必要である。肉体や感覚や外世界を操る方法を学ぶ手段だ。若い人間は遊ぶ、遊ぶ必要がある、その頭脳をも用いて。子供が知的であればあるほど、その想像力は訓練を要する。活動性には段階がある。スクリーンの劇を見る受動的段階から、読書を経て、白昼夢、物語、そして心理ドラマへ──子供はそういった確たる呼び名を持たないが。
この学習態度に関しては単純な説明はできない。その形態と過程は、無限に多くの変数に依存するからである。性別、年齢、文化、交友関係だけがもっとも顕著な特徴を示す。例えば、電子化される前の北アメリカの幼い少女は、よく〈おままごと〉遊びをした。一方、幼い少年は、〈カウボーイとインディアン〉ごっこか、〈警官と泥棒〉ごっこをした。今日ではその子孫たちの混在したグループが、〈いるか〉ごっこや、〈宇宙飛行士とエイリアン〉ごっこをする。要するに、小さな部族形態である。一人一人が演じるキャラクターを作り上げるか、小説から借用する。簡単な道具が使われる。例えばおもちゃの武器。棒のようなたまたま見つけた道具を、何かほかのもの、例えば金属のデテクター、あるいはまったく空想の何物かと宣言する。周囲の光景もほとんど常にそうであるのと同様に。そうして子供たちは心理劇を演じながらシナリオを組み上げていく。物理的にある行動を演じられない場合には、言葉で描写する。(「ぼくは本当に高く跳ぶ、火星で跳ぶように。そしてあの古きマリネリスの谷の縁を越え、あの盗賊を奇襲する」)きわめて多くのキャラクター、とりわけ悪役が、しばしば登場するように決定される。

仲間内で最も想像力あふれるメンバーが、ゲームとストーリーラインの進行を支配する。とはいえ、かなり微妙な手法で、最も生き生きした可能性を提供することを通じてである。だが残りのメンバーは、普通の子供の平均よりも頭がいい。このよく発達した形態の心理ドラマは、誰にでもアピールするわけではないのだ。
アピールする人間にとっては、その効果は有益で永久的だ。しかも心理ドラマの利用によって創造性を増進することを通じて、異なった大人の役割や経験を与える遊戯のヴァージョンを経験することを可能にする。そうやって子供たちは大人世界への洞察を身につけ始めるのだ。
この遊戯は思春期前に終わらない場合でも、思春期が始まると終わる──だが、その形態においてはである。いつまでも同じ形態で行う必要はないのだ。大人たちは多くの夢ゲームを行う。これは自宅で簡単に見ることができる。例えば、爵位や、コスチュームや、儀式。だがどれもこれも同じように儀式だらけの大げさなものではないか? 英雄崇拝、犠牲、自己誇張のどれぐらいの部分が、われわれ人間が持っている人格の表現なのだろうか? 一部の思想家は、社会の側面を研究してこの要素を追跡しようとした。
だが今ここでは、大人たちがおおっぴらに行う心理ドラマに興味がある。西洋文明では、二〇世紀中盤にまずそれなりに大規模に流行した。精神科医は、それを強力な診断および治療手法だと考えた。普通の人の間では、戦争やファンタジーのゲーム、その多くは、想像上あるいは歴史上のキャラクターを登場させていたのだが、こういったゲームがだんだん人気になった。一部においては、これは不幸な時代の制約や脅威からの明らかな逃避であったが、もっと大きな部分では、退屈な娯楽に対する精神の反乱であった。例えば有名なのはテレビである。テレビは当時、余暇を支配するようになっていた。
〈混沌〉がこの動きを終わらせた。誰もがその最近の復活を知っていた──もっと健康的な理由で人は待ち望んだ。データバンクから三次元映像と適切な音声を投射して──あるいは、コンピュータによる統御を通じてそれを更に改良して──プレイヤーたちはリアリティの感覚を得た。それはプレイヤーたちの精神的、感情的な物語世界への没入を助けた。だが次々と、リアルタイムの年の進行と並行して、エピソードの連なる遊戯の中で、二人以上のプレイヤーが一緒に参加する場合はいつも、そういった付属物に対する依存心が薄らぐのを感じていた。練習を通じて、子供時代の生き生きした想像力を取り戻したような気分。そして何か、あるいは空気のような無そのものを、客観化し、望む世界に変えてしまうような気分。
鳥瞰的視野で見るためには、明らかなことを繰り返すのが必要だと思った。土星からのニュースは、幅広い反発を巻き起こした。(なぜ? 恐怖を隠していた存在に触れたからか? これは行われる可能性のある重要な研究のテーマである。)一晩ののち、大人の心理ドラマは不人気となった。絶滅するかもしれない。多くの点でそれはあそこで起こったことよりも悲惨な悲劇だ。ゲームが地球上の正常な人の心を蝕んだという証拠はないのだ。むしろ逆である。疑いもなくそれは、宇宙飛行士が長く困難なミッションの間、正常で注意深くいることを可能にする。たとえ医学上の使い道がなくとも、それは心理療法が応用生化学の一部門になったためだ。
そしてこの最後の事実、現代社会の狂気に対する経験の欠如は、起こったことの根底にある。正確な帰結は予見できなかったけれども、二一世紀の精神科医は、反対していたのだ。八年という前例のない長期にわたり、クロノスのような異常な環境の中で暮らすということに。あらゆる努力にもかかわらず、それは間違いなく奇妙な生活だった──制限的で、完全に人間に制御され、地球上の進化がわたしたちを形作った無数の手がかりをまったく欠いている環境だ。地球外植民者は、この段階で、シミュレーションや心の慰めをいくらでも手に入れることができた。その中では、地球との十分かつ近接した接触と頻繁な訪問の機会が得られるのが恐らく最も重要なことだった。木星への航行時間は長い。だが、それでも土星へのそれの半分に過ぎない。かてて加えて、自分たちのほうが先だったので、〈ゼウス〉の科学者は途中で没頭する研究がたくさんあった。それは後の旅行者がまねするには役に立つまい。そのころまでには、二つの巨大な惑星の間の惑星間通信には、大した驚きはなくなっているだろう。
同時代の心理学者はこれに気づいていた。最もひどい影響を受けるのは、最も知的で想像力にあふれ、活動的な人だろうと理解していた──任務の目的である土星での新発見を担う人たちであろうと。先人ほどそこにある迷宮に慣れていないがために、あらゆる人間の意識の下に隠れたミノタウロスに取りつかれて、乗員たちが心理ドラマから純粋な善意の効果を生み出すだろうと、心理学者たちは考えていた。          ──ミナモト

チームへの割り当ては出発の前には決定されていなかった。職業能力の発揮と成長を旅の過程に委ねるのが合理的だった。個人的な関係も同様である。究極的にはそういった要素を盛り込むことによって、各個人があらゆる課題に対して行うべきあらゆる訓練を提供することになる。プレイヤーの集団に長期間所属することで、通常は望ましい友情の絆を形成することができる。メンバーにそれ以外の能力がないとしても。
実生活では、スコビーはいつもブロバーグに厳格な礼節を示していた。魅力的だが単婚主義者であり、スコビーとしては、ブロバーグと疎遠になりたくはなかった。しかもその夫が好きだった。(トムはゲームには参加しなかった。宇宙飛行士として、楽しく注意を払うべきことがたくさんあったのだ。)スコビーとブロバーグは二年ほどゲームを続けていた。そのグループは、環境も人物も複雑になりつつある物語の中に、できるだけ多くのものを投入していた。スコビーとブロバーグが親密に話すようになったのはその後だった。
そのとき既にスコビーらの演じるストーリーは複雑化していたため、二人が余暇時間に会ったのはまったく偶然ではなかっただろう。回転軸の無重力レクリエーション・エリアだった。二人は空中を飛び転がりながら、叫び、笑い、快適に疲れ、クラブハウスに行き、ウイングスーツを脱ぎ、シャワーを浴びた。二人はお互いの裸を見たことはなかった。どちらも一言もなかった。だがスコビーは相手の裸を見るのを楽しんでいることを隠しはしなかった。ブロバーグは赤面し、できるだけうまく目をそらした。その後、また服をつけ、家に戻る前に飲むことにした。そしてラウンジを探した。
夕刻監視から夜間監視に変わろうとしている時間だったので、ちょうどいい場所が見つかった。バーでスコビーはスコッチのチケットを買い、ブロバーグは〈ピノ・シャードネー〉にした。機械から飲み物をもらい、バルコニー席に運んだ。テーブルにつくと、広い景色を見回した。クラブハウスは月面重力レベルの支持フレームに造られている。その上には自分たちが鳥のように飛んでいた空がある。その空は、幅広い蜘蛛の巣のようなガーダーで縁取られているというよりも、数個の漂う雲で縁取られているようにしか見えない。その向こう、真正面の反対側のデッキは、いろいろな塊や形が混じり合っている。そこはこの時間帯には光が乏しく、謎めいて見える。その影の間で、人間

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