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<table width="100%" border="0"> <tbody> <tr> <td bgcolor="#EEEEEE"><font color="#000000">■2004/02/24 (火) 22:52:17</font> <font color="#000000">奥泉光「ノヴァーリスの引用」</font></td> </tr> </tbody> </table> <p> 最近ミステリづいているが、遂に奥泉初読破(笑)。「我が輩は猫」「葦と百合」と途中でぶん投げていたが、今回は最後まで読んだ。<br> 奥泉が苦手なのは、登場人物に学者、研究者が多く、あまり性格の描き分けがない(というか性格の描き分けに興味なさそう)ところと、無駄な知識のひけらかしが多く、勿体ぶった文体のせいで冗長な感じがするところなのだが、本作は研究者、学者同士の議論をむしろメインに据え、無駄をそぎ落とした議論小説に終始しているのがかえって迫力を生んでいる。本作がミステリなのか、幻想小説なのか純文学なのかといった分類論は実はどうでもよくて、石塚なる10年前の死者を肴に展開される議論から、生と死に関する深い哲学的考察が展開されるところが凄い。しかも、ミステリ論的メタミステリの前半から、幻想小説論的メタフィクションに移行し、遂には酔っぱらった主人公の見る「石塚の死の理由」に関するめくるめく幻覚風景に向けての壊れ方は並大抵でない。作者は相当イカレてる。こんな乱れた作品に野間文芸賞を与えた文壇も相当こわれてる。<br> <br> さて、次はいよいよ「赤い月照」その前にオールディスと、ケリー・リンクの短編集読みます。</p>
<table width="100%" border="0"> <tbody> <tr> <td bgcolor="#EEEEEE"><font color="#000000">■2004/02/25 (水) 08:07:06</font> <font color= "#000000">奥泉雑感~「動機」について(2)</font></td> </tr> </tbody> </table> <p> 本作は、ミステリにおける謎解きの対象たる「犯行」動機を、「人間の行動一般」の動機の謎解きにまで解放してみせた点で画期的作品である。翻って考えれば、全ての文学は何らかの点で人間の行動の動機を描き、追究するものであることがほとんどで、その意味では一種の「ホワイダニット」ミステリであり、ただ単にそのミステリ性に無自覚であるために「純文学」「一般小説」などと呼ばれているにすぎない。ミステリだの純文学だのといった分類のいかに皮相的であるかの例証といえる。<br> 私が興味を持ったのは「あらゆる人間行動」に一般化された「ホワイダニット」ミステリのジャンルとしての確立である。最近のミステリの中にはトピカルな現実の事件を材にとりつつ、犯行動機の分析究明に威力を発揮するタイプの作品が増えている。しかし、動機を究明すべき人間行動を何も「犯罪」(しかもその99%が「殺人」である)という狭い領域に限定すべき必要はないではないか。例えば、人はなぜ「勉強」するのか。人はなぜ「結婚」するのか。人はなぜある職業を選ぶのか。人はなぜ借金するのか。人はなぜギャンブルをするのか。この中に一つでも、動機を明確に答えられる行動があるだろうか。全ての人間行動は全く理解しがたい。せいぜい「そうしたかったから」「本能の行動」というレベルで思考停止してしまうのが通常であろう。これこそ、最も解くべき謎でなくして何であろうか。<br> 奥泉の「ノヴァーリス」は、少なくとも、ミステリの持つ無限の新たな可能性について、私に新たな自覚を目覚めさせてくれた点では、銘記すべき作品であった。</p> <table width="100%" border="0"> <tbody> <tr> <td bgcolor="#EEEEEE"><font color="#000000">■2004/02/25 (水) 08:06:39</font> <font color= "#000000">奥泉雑感~「動機」について(1)</font></td> </tr> </tbody> </table> <p> 奥泉「ノヴァーリスの引用」を読んで思うところがあるので少し。<br> 本作のユニークさは、究極の「ホワイダニット」ミステリである点である。前半に、「フーダニット」「ハウダニット」的な普通のミステリ的謎解きであるかのような偽装がなされているが、結局、「石塚は自殺である」と中途で断定されることにより、これは否定され、つまり犯罪捜査的ミステリそのものが否定される。この次点で、本作がアンチミステリであり、メタミステリであることが確定している。<br> 通常のアンチミステリであれば、「ミステリ的あり方の現実への敗北」という結末はラスト付近におかれ、全体のプロットは「ミステリ否定・批判の手段・手続」としてのみ位置づけられる。にもかかわらず、本作では、アンチミステリ的(小)結末は、あたかも中間判決にすぎないかのごとく、作品の前半部分で提示されてしまう。つまり、アンチミステリ的結末もまた単なる彩りないしは批評の対象にすぎず、「アンチミステリ」自体すら本作においては相対化され、批評の対象の位置に貶められるのではとの予感を呼ぶ。<br> そして後半は、主人公の酒に酔った状態で見る迫真的な幻覚によってプロット全体が破壊され、石塚の「幽霊」の姿や言葉によって、生死の本質にかかる普段見られない「谷底」の風景を垣間見ることとなる。この部分は、「幻覚を通じて見る」という手法において極めて原始的であるけども、「石塚の自殺の動機」という本作における最大の謎解きを通じて人間の生死の本質を見定めるという究極の「ホワイダニット」ミステリに本作を高めていると断定してよいであろう。(2につづく)</p> <table width="100%" border="0"> <tbody> <tr> <td bgcolor="#EEEEEE"><font color="#000000">■2004/02/24 (火) 22:52:17</font><font color= "#000000">奥泉光「ノヴァーリスの引用」</font></td> </tr> </tbody> </table> <p> 最近ミステリづいているが、遂に奥泉初読破(笑)。「我が輩は猫」「葦と百合」と途中でぶん投げていたが、今回は最後まで読んだ。<br> 奥泉が苦手なのは、登場人物に学者、研究者が多く、あまり性格の描き分けがない(というか性格の描き分けに興味なさそう)ところと、無駄な知識のひけらかしが多く、勿体ぶった文体のせいで冗長な感じがするところなのだが、本作は研究者、学者同士の議論をむしろメインに据え、無駄をそぎ落とした議論小説に終始しているのがかえって迫力を生んでいる。本作がミステリなのか、幻想小説なのか純文学なのかといった分類論は実はどうでもよくて、石塚なる10年前の死者を肴に展開される議論から、生と死に関する深い哲学的考察が展開されるところが凄い。しかも、ミステリ論的メタミステリの前半から、幻想小説論的メタフィクションに移行し、遂には酔っぱらった主人公の見る「石塚の死の理由」に関するめくるめく幻覚風景に向けての壊れ方は並大抵でない。作者は相当イカレてる。こんな乱れた作品に野間文芸賞を与えた文壇も相当こわれてる。<br> <br> さて、次はいよいよ「赤い月照」その前にオールディスと、ケリー・リンクの短編集読みます。</p>

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