BANG!!
体育教師の手にしたピストルの轟音が青空に響き渡ると同時に僕は地面を蹴った。僕と同じくジャージを着た周りの男子生徒達も同じように土埃を上げてグラウンドを駆け抜けてゆく。程なくして先頭を走る数人はトラックを一周してくるが、それで終わりではない。グラウンドを外れて体育館の前を過ぎれば、そのまま校門の方向へと向かう。
足の遅い僕は、彼らの運動能力に感心しながら彼らより数十秒遅れて校門を出て行った。
今週の始めから僕達は体育の授業でクロスカントリーと称し望華蕗村の校区一帯を走っている。スタートとゴールはもちろん望華蕗中のグラウンド。折り返し地点は小高い丘陵の頂。全長5キロ弱のハイキングコースに林道などを加えた経路を1時間(60分ということてはなく授業1時間分ということ)かけて往復してくるのだ。
とはいえ、運動音痴な僕は自分のペースで走るのが関の山。競技会でもないのだし熾烈なデッドヒートは陸上部員達に任せておいて足を痛めない程度にのんびり走ろうと思う。
走り始めて15分後。とうに先頭集団は見えなくなり水田の畦道を息を切らしながら走り続けていた頃だろうか。
聞き覚えのある声がはっきりと聞こえてきた。
頭の芯まで響く背筋の寒くなるような声。
とはいえ僕以外の人間には聴こえない声なのは前を走る同級生が振り向きもしない様子からすぐに分かる。
「ねえ、私と一緒に走りましょうよ」
「!!」
返事をするよりも早く、僕の左腕は掴まれるような感覚を覚えた。見れば左側に半透明な人影が写っている。
「離してくれっ」
思わず声を上げてしまい、前を走る少年が振り向く。何でもないよ、と冷や汗混じりに返事を返す。代わりに人に聴こえないくらいの声で走りながら「離してくれ」と「幻影」に訴えてみる。
「だぁめ。あなたも走っているだけじゃつまらないでしょ」
「幻影」は僕の腕を一際強く握ると、走りだそうとする。振り解くこともできないまま、僕は引きずられるように走り出すことになってしまった。
周りからは僕が左腕を不自然に突き出した格好で加速しているようにしか見えないらしい。
「はぁ、はぁ」
無理矢理スパートを掛けさせられているのは苦しい…誰か助けてくれないか、と走りながら真剣に願う。
やがて、「幻影」とともに折り返し地点である丘陵の頂を通過し、登ってきた道を引き返そうと体を逆方向に…
向けられなかった。
「な、何するんだよっ」
「来た時と同じ道じゃつまらないでしょ」
幻影は呆れたような口調でそう答えると、僕を登ってきたハイキングコースと大きく外れた方向へ引っ張っていこうとする。待てよ、そっちは人が歩くための道そのものがないはずだぞ。
「待ってよ!!今は授業中なんだよ!勝手にコースを外れたりなんかしたら…」
例のごとく回りに聴こえないほどの小声で引きずられながらも足を踏みとどまろうと必死に抵抗する僕に「幻影」は面白くなさそうに答える。
「解ったわよ、回りをよく見てみなさい」
振り返ると、僕の視界には信じられない光景が広がっていた。
走っている同級生達は走った格好のまま、風になびく雑草はなびいたまま、動きが止まっていた。人の声も風の音も、僕の耳には聴こえない。
「まさか…」
言葉を失いながら「幻影」の方を見つめる。「幻影」はくすり、と微かな笑い声を漏らして、告げた。
「そ。あなたの身体以外の時間を止めたのよ。これで今日は時間を気にしないで一緒に居られるでしょ?」
「な、な…っ!!」
何でもありなんだな、人間じゃない存在ってのは。諦めにも似た境地でそんな感想を抱いた瞬間、さっきまでよりも一段と強い力で腕を掴まれる。
もはや放心状態に近い僕はとても抗うことも出来ずに、道なき道を「幻影」に連れ去られてゆくのだった。
この丘陵地はハイキングコースとそうでない道は天地の差がある。とうに息も絶え絶えの僕は「幻影」に振り回されるまま急斜面を上り、岩場を走り抜け、鬱蒼と茂った森の中を時間さえ忘れて(実際時間が止められているのだが)走らされていた。
一体「彼女」に体力の概念はあるのだろうか…。
霞がかった頭がそう考えた矢先、僕はかっと目を見開く。
一筋の谷が目の前に走っていた。
「待ってよ!まさか!!」
彼女は当然ながら息一つも乱していない口調で答えた。
「いち、にのさん、で飛び越えられるでしょう?」
冗談じゃない。見た限りでその幅は十メートルはある。趣味の範囲でさえ運動をしていない僕に飛び越せる理由があるはずもない。仮に運動をしていたとして、これだけ山の中を散々走らされていれば数十センチのジャンプ力さえ尽き果ててしまっているはずだ。
そう考えている間にも谷は目前に迫っていた。
「だいじょうぶ、レンくんって意外と体力あるわ。さあいくわよ、いち、にの、さぁ~んっ」
「彼女」がむんずと僕の腕を指が食い込むほどの力で掴むと、僕の体は宙に浮いた。
次に僕より一瞬早く、「彼女」が谷の向こう側の草地に着地するのが見えた。何でだろうか…僕は「彼女」に腕を掴まれたまま「彼女」と同時にジャンプしたはずだ。
「!?」
左腕を見れば、あれほど長い間僕を拘束していた「彼女」の手の感触が消えている。
僕の方から手を振り解いたはずがない。そんなことができるならとうに振り解いていた。
…僕は「彼女」に手を離されたんだ。空中で。
しかし「彼女」とは違い僕の全身が描いた放物線は谷を飛び越えるまでには至らなかった。
それはつまり。
「わぁああああああああ」
自分自身の悲鳴で鼓膜を震わせながら、僕は谷底へと落ちてゆく。
「私一人じゃ飛び越えられるはずなのに、やっぱり二人は重かったかしら。まあいいわ、また遊びましょうね、大好きなレンくん」
意識が途切れる前に、そんな声が聞こえたような気がした。
夜の通学路。望華蕗中学の制服を着たひとりの少女が、誰かに話しかけている。
「あなたはなぜ、わたしにしか見えないの?」
彼女の傍らにいる人影が答える。その表情は窺い知ることができないが、その声色は喜びに満ちていた。
「それはね…わたしがあなたを選んだから。わたしにとって必要な人は、今はあなただけなの」
二人の笑い声は次第に遠ざかってゆき…。
重い瞼を開いた僕の視界には一人の女性の端正な顔があった。額には冷たい感触を受けている。
「よかった。気が付いたのね」
「あの…ここは…」
つい先日訪れたばかりのように見覚えのある空間を見回す。まだ意識が朧気な僕に眠っていて、と諭すように囁く彼女の言葉に従い、再び身を横たえると、額に冷えたタオルが再び置かれた。
そうか、僕は保健室のベッドに寝かしつけられているんだな。
窓の外からは夕日が差していた。放課後なのだろう。
「あの…僕は」
ベッドの脇で見守ってくれている彼女--保険医の隣音サイ先生に何か問おうとする。
「鏡音くん、体育の授業中に倒れてしまっていたのよ。持久走のコースの折り返し地点だったって体育の先生が言っていたわ」
心配そうな顔のまま、隣音先生は僕の頬を撫でてくれた。
「ここに運び込まれた時も顔面蒼白で、随分うなされていたの。この前もそうだったけど、大丈夫かしら」
心なしか彼女も顔色が悪いように見える。僕は彼女に心配を掛けたくなくて笑顔を作ってみせた。
「ありがとうございます、隣音先生。僕は平気です。ちょっと変な夢を続けて見ることがあるくらいですから」
「悪夢?」
首を傾げる隣音先生。
「高いところから女の子が飛び降りたり、女の子二人が突き落とされたり…」
彼女に心配してほしくなくて明るく振る舞おうとしたんだけど、僕の言葉を聞いた隣音先生は顔色をみるみるうちに変えてゆく。
「ごめんなさい、夢は夢でも、人が死ぬような話先生は嫌いですよね。一度同級生にこの話をして、怒らせてしまったんです」
僕は頭を下げると、本心から申し訳ない顔をして言葉を続けた。
「でも、さっきはこんな夢も見ました。夜の通学路で二人の女の子が話をしていたんです。ひとりの女の子はもうひとりの女の子にどうして自分は見えるのか、と尋ねました。そうするともうひとりの女の子は、それはあなたが私にとって必要だから、と答えたと思います。確かにリアルで鮮明な夢ばかりですけど悪夢だけを見ているわけじゃないし、そのうち収まりますよ」
ははは、と作り笑いを浮かべて僕は隣音先生の言葉を待った。
彼女は数秒間、何か考え事をしていたようだが、にこりと微笑みかけると、静かに丸椅子を立ち、窓辺に歩を進める。
「きっとあなたのクラスメイトは、転校生のあなたに心配を掛けたくなかったのね…そこから見える?」
ベッドの上の僕の目から見える位置の窓を一つ開け、そこから中庭を…正確には中庭の西側に立つ小さな建造物を指差す。僕が転入してきたその日に目にした、祠だった。
「この学校ではそれほど知られていない話ではないの。でも、本当はこの話はあまりあなたが耳にするべきではないのかもしれないわ。どうしても聞きたい?」
「はい…」
嫌な話を聞かせてしまったからには、僕も嫌な話を聞かなければならないだろう。
「この中庭はかつてこの学校で3人の生徒が命を落とした場所なの。33年前と21年前と…そして10年前。3人はそれぞれこの学校に時代は違ったけど、共通するのは、みんな転校生だったということと、死因が高いところからの転落死だったということ…あの祠は二人目の転校生が犠牲になった時に、二度とこのようなことが起こらないように、近隣のお寺から勧請した神が祀ってある場所なのね。でも、10年前に三人目の転校生が死んだ時には、儀式を行ったお寺は猛烈な非難を浴びて、それからはあの祠に手を合わせる人もいなくなったらしいわ」
「そうですか…」
僕は中庭の祠の顛末を聞き終えると表情をさらに硬くする。
これをただの言い伝えと決めつけるのは簡単だ。でも僕はこれまでにこの学校であまりにも常識では考えられない体験をしてきている。
転校生である僕は、これからどうなるのだろう。この学校に宿る不思議な存在に、命を奪われることになってしまうのだろうか。
「鏡音レンくんは大切な人っているの?」
ベッドの上で固まったままの僕に、不意に隣音先生が尋ねてきた。
「ええ、居ますけど…」
一瞬、故郷の札幌の光景とともに、緑の長い髪をツインテールに下ろした人影が脳裏に浮かんだが、口には出さないでおく。
「そう…よかったわ。それじゃ、もしあなたの身に、どうしても怖くて辛い出来事がふりかかったら、その人のことを強く思い浮かべてね。きっと怖いのは逃げてしまうわ」
不思議だった。静かに微笑む隣音先生のその言葉は、ただの気休めとはどうしても思えない重みを僕は感じていたんだ。
「あの、隣音先生…どうしてそんな話を僕に?」
漏らすように尋ねた僕の言葉に、彼女はきゅっと片目を閉じる。
「雰囲気が似ているの。転校してきたばかりでいつも不安で泣いていた私を励ましてくれた、年下だったけれど頼もしい、たったひとりのいとこの男の子にね」
嬉しそうに話す隣音先生。頬を盛大に赤らめているのを見ればよほどその少年のことが好きだったのだろう。
「…よかったですね…」
僕が自分の身内へ向ける愛情はどの程度まで許されるのだろう、という哲学について思索を試みていると(我ながら意味不明)、不意に彼女の身体が床に崩れ落ちた。
「はぁっ…はあっ」
「隣音先生!!」
ベッドから飛び上がった僕は一目散に彼女に駆け寄りその肩に手を掛ける。
「先生、まさか僕がここに居る間ずっと…」
「鏡音くん、だいじょうぶ、よ……ちょっと貧血気味なだけ…」
安心させようと笑顔を作って自力で起きあがろうとする彼女に首を振り、ベッドに連れてゆく。
上着を一枚脱いだ格好で横たわった隣音先生は、シーツを掛けた僕に消え入るような声で礼を言うと、こう呟いた。
「私も変なの…持病があるわけでもないのに、最近体調を崩したりして…」
TO BE CONTINUED
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