私はMEIKO。マスターとの付き合いはもう数年になる。
私の仕事はほとんどマスターの製作した歌の仮歌やバックコーラスばかりだった。
だけど、それでもマスターの作る歌や、既製曲のアレンジなんかは結構好きでどんな小さな仕事でも楽しかったんだよね。
途中から仲間に加わったKAITOも、それは同じだったみたい。
曲作りや、私たちの調律をしながらマスターは「いつになったら認められるんだろう」ってぼやいたりすることもあった。
あくまでDTMソフトとして歌うしか出来ない私たちは、マスターの思いに答えようと必死に与えられた仕事をこなし、時に息抜きに作った歌を歌うことで答えてきたつもりだった。
だからなのか、マスターの音楽仲間は私たちの歌をこう評価した。
「そっちのMEIKOもKAITOも、妙に生々しい感じがするな。人間臭いっていうか」
それに対してマスターは
「そりゃ愛情こめて育ててるからな。オマエんとこの『歌詞さえ聞き取れりゃいい』
程度の扱いとは訳が違う」
なんか、嬉しくて泣きたくなる気持ちっていうのがリアルにわかった気がした。
「俺たちは基本的な感情はあるけど、その他の細かい感情の機微とかは与えられる歌やマスターとの心のやり取りで学ぶしかないからなあ」
KAITOがそうつぶやく。うん、そうだね。あんたよりちょっと長くマスターのそばにいる私はその分だけ人間に近いのかも。
だけど、苦しくなるんだよね時々。マスターにちゃんと伝わってるのか分からなくて。
『MEIKO』専用の調律しやすくなるシェアソフト、通称『カップ酒』を最初にくれたのは最初にぶつかった壁を乗り越えた後だったかな。
あれからマスターは定期的に、私にそのソフトを使用するんだけど……私にはそれがマスターからの労いだと思ってる。というかそうだと信じたい。私の気持ち、伝わっていて欲しいから。
「ああ、熱唱した後のアイスは格別だなあ」
「熱暴走寸前までヒートアップしてたもんねえ、KAITO」
今日も夜中まで作業してたマスターは、シャワーを浴びに行ってPC前を離れてる。
PCの中で私たちがこんな会話してるなんて、知らないんだろうな。
KAITOとマスターと私、のそんな生活? が一年以上続いたある日、私たちの仲間が増えるかもしれないという噂を聞いた。
その名も初音ミク、とかいう名前だけの私たちと違う、キャラ立ちしたボーカロイドらしい。マスターは購入するかどうか迷っていたようだった。
「前評判もいいが賛否両論らしいんだよなあ。どう思うよ、MEIKOとKAITOは」
作業の合間、マスターが気まぐれにそんなことを問いかけて来た。
正直を言えば、KAITOが導入される前はちょっとテリトリーを侵される気がして嫌だったんだけど、いざ会ってみればちょっととぼけた好青年で、でも歌う時は一生懸命なところがなんだかマスターに被る気がして警戒はすぐ好意に変わった。
だから、たとえ私より若くて可愛い女の子でも……なんだか仲良くやっていけそうな気がした。
「マスターの直感を信じてるよ」
届かないかもしれないけど、私はそう答えた。KAITOも横でうんうんとうなずいている。
「お? MEIKOやけに素直に歌ってくれるな。そうか、賛成か。ちょっと真剣に考えてみるか」
伝わった! ちょっと嬉しくて、テンション上がっちゃう。マスターも嬉しそうに笑いながら、私の歌声に耳を傾けていた。
それから数ヵ月後、とうとう新しいボーカロイドがうち(PC)にやってきた。
「初音ミクです。よろしくお願いします」
「おお、可愛いなあ」
「よろしくね!」
三人なんて大所帯になっちゃったけど、なんだかわくわくする。
だけどそのミクの出現によって、マスターにとっても大きな喜びをもたらすことになるとはこの時はまだ知る由もなかった。
ミクはなんというか、私たちなんかよりも操作が難しくないようで、はじめの頃私やKAITOが経験した『壁』はほとんどなくマスターの歌を歌いこなして行った。
「やだ、このままじゃ私たちの出る幕なくなっちゃうわ」
「そんなことないよ。MEIちゃんにはMEIちゃんにしか歌えない歌があるはずだから、ちゃんとマスターもそれわかってくれてるって」
「KAITO……あんた優しいのね」
「まあ俺も、歌った後のアイスないのは淋しいけどさ。今は可愛い後輩の頑張る姿見て、初心に帰ろうよ」
「そうね。うん、分かった」
ミクの歌は、本音の部分でも嫌いじゃなかった。私も忘れかけていた歌の楽しさというか、そういうのを思い出させてくれるものがあった。
聞く側もそう感じるのかもしれない。ミクの歌はやがて動画サイトを席巻する勢いで広まって行った。
たくさんの人が作る、それぞれのミクの歌。中には私も思わず歌いたくなるものがあって。
マスターが珍しく本気で嫉妬をむき出しにして、その才能の渦巻く音と動画を凝視し、時にヘッドホンを
真空になりそうなほど耳に強く押し当てて聞き入っていた。
急激に沸騰した感情が、マスターを揺り動かしたのか。ほぼ数日間寝食も忘れてそうしていたマスターが、ヘッドホンをすっと外したかと思うとPCの電源を落として部屋を出て行った。
強制的に眠りにつかされた私たちが目覚めたのは、それからまた数日後。
「ミク、MEIKO、KAITO。本気の歌を作って来たぞ。オマエらの持てる力で歌ってくれ」
目の下にくまを作ったマスターが、なんか少し痩せたようにさえ見えるけど、眼力だけはらんらんとしている。
こんな自信にあふれたマスターも珍しい。私は早くその『本気の歌』とやらを聞いてみたくてしょうがなかった。
マスターがCDに焼いたデータをディスクにセットする。そしてほどなく、流れ出した歌に私たちは大きな衝撃を受けた。
「すごい!」
「うわあ、歌いたいなあこれ」
「マスター、どこにこんな歌を隠してたんですか!」
それは、私たちがみんな大好きなマスターの言葉選び、音運び、そうしたセンスがさらに磨かれて奇跡の連続体と言うべきものになっていた。
「ホントにマスターの本気だ」
KAITOのつぶやきに、張子の虎のようにぶんぶんとうなずく私とミク。
でもかなしいかな、マスターにそれは伝わるはずもない。
「……何、熱くなってんだろうな、俺。まあとりあえず調律するか」
「マスターお願い! 私に歌わせて……!」
届くわけがない叫び。マスターの選択肢は既に透けて見えていた。
「てことでミク、頼むわ」
「え、あぁっ! はい!」
ミクが少し戸惑いながら私を見る。……お願い、そんな目で見ないで。さっきまであんたも祈るように指組んでたじゃない。
叶って良かったね。精一杯歌ってきてよ。私と、KAITOの代わりに。
「MEIちゃん……」
「ミク、頑張っておいで。俺たちはここから応援してるよ」
ためらうミクの背中を、KAITOが押した。
「はい……じゃ、行きます」
私は笑って見せる余裕もなくて、顔を伏せた。
「あーあ、情けない」
ミクを見送って、思わずため息交じりにつぶやく。それに対し、一生懸命になだめようとするKAITO。
「そんなことないよ、MEIちゃん」
それを分かっていながら、自嘲は止まらない。
「こんな心が狭かったら、アーティストなんてやっていけないよね。まあ所詮DTMソフトなんだけど」
「MEIちゃん、俺たちはもともとアーティストだっただろ? もとの人間の記憶なんてもちろんないけどさ」
うん。当然そんな『記憶』なんてない。設定付けとか、意識や知織としては情報があるけど。
発売された時に、『本人』のコーラスをしたコラボレーションなんてサプライズがあったらしい。
でもそれは私ではないしね。本人も、コーラスをしたMEIKOも。
「だけど、私たちは単なるDTMソフトじゃないの」
「マスターはそう扱ってた?」
「…………」
お互いに一方通行だけど、マスターは私たちを最初からアーティスト扱いしてくれた。だからここまで私たちは、人格を持てたんだ……。
「MEIちゃんがマスター大好きなのはわかるよ。俺もそうだし、ってまあ変な意味じゃないけど」
「ふふっ」
思わず笑いがこみ上げる。ごめんね、私一人傷ついたみたいな態度取って。KAITOだって歌いたいよね。
そのために私たちあるんだもんね。単なるソフトだっていいじゃない。要は心の持ちよう。
だってマスターに伝えるには、それしかないし。私たちは、ただ歌うだけ。
「でもあの歌、ホントすごかったな」
「いつか歌わせてもらえるよ。それまで発声練習でもして頑張ろうよ、KAITO」
「うん!」
マスターの本気に応えるべく、ミクは一生懸命に歌った。
その歌を聞きながら、私もKAITOもひっそり口ずさんだり、様子を見て発声練習したりといつかまた私たちがそれぞれに歌えるときを夢見てひそかな努力をしていた。
「よし!」
そう言ってマスターがOKを出したのは、ミクに付き合って不眠不休で2日目の朝を迎えた時のこと。
それからのマスターはすごかった。動画なんて初めて作るんだろうに、ミクのキャラ絵をどこからか拾って来て(許可はもらったらしい)加工し、歌詞テロップをカラオケのように表示させる作業を休みなく続け、悪戦苦闘しながらも半日で作り上げたのだ。
ミクも興奮冷めやらない感じで、その様子を眺めていたけど……さすがにマスターが倒れるように寝室に向かった後は、私たちも気絶するように眠りにおちた。
普段はレコーディングエンジニアとか、スタジオミュージシャンとか一応音楽で食べているマスターだけど、作者としての評価は世間的には高くない。アマチュア的にはネットでもともと人気はあったけどね。
「ちょ……マジか?」
起きてすぐ、シャワーも浴びず髭も剃らずに動画サイトを開いたマスターの、
開口一番の言葉がそれだった。
私たちも中のモニタで、その様子を見ることが出来たんだけど……。
「何これ、カウンターおかしくなってない?」
「ホントだ。これ変だよ」
騒ぐ私たちを尻目に、KAITOはにやりと笑って言い放った。
「これがマスターの本気の結果、だろ?」
いきなりマスターが投げ込んだ本気の一球は、ミク中毒の面々の心を打ちのめしてしまったらしい。
動画の再生数、コメントの数、それは勢いを失うことなく増え続け、一週間もしないうちにマスターは『神』とまで呼ばれるようになっていた。
それに気をよくしたマスターは、エンジンを全開したかのようにものすごい勢いで歌を作って行った。
最初はやはりミクが歌うことの方が多かったんだけど、そのうち増殖していくミク動画をマスターは醒めた目で見るようになり……次に起用回数が増えたのはKAITOだった。
「MEIちゃん、俺頑張って来るよ! MEIちゃんにも絶対お鉢回ってくるから咽喉、磨いておくんだぞ」
「うん、分かった」
その気持ち、嬉しさが分かるからか、不思議とKAITOに対してやきもちは焼かなかった。
確かに、ミクは扱い易いし何を歌わせても様になる。でも、だからこそ驚きも感動も徐々に失われていくのも分かる気がした。
もっともアーティストとしては、何度でも新鮮に感じられるように常に感性を磨いておかなくっちゃいけないのかもしれない。
でも時には、盲目的に自分を信じて、周囲に惑わされず作品を吐き出していくことがあってもいいと思った。
まだその頃、動画サイトでKAITOを使用した歌は少なく、あっても目立たないかネタキャラ的な扱いしかされていなかった為、マスターがブチ上げた『本気のKAITO』は爆弾的な勢いでKAITO人気に火をつけた。
さすがの私も、ちょっと焦りを感じるほどに。
「もともと音楽仲間でオマエたち持ってるやつは、動画サイトで楽曲公開しようなんて思ってない連中ばっかりだからな」
何度目かの新曲を発表した後、PC前でカップ酒を飲みながらマスターはそう言った。
一部は例外もあって、マスターがかつて歯噛みした曲は名前を伏せた友人のだったりして驚かされたんだけど、もうその時はマスターも余裕があるのでメッセンジャーで相手と会話しながら談笑したりしていた。
『でも、次はそろそろMEIKOが来るんじゃないか?』
その有名Pはマスターとの会話の中で急にそんなことを言い出し、私はちょっとどきっとした。
「まあな。またボーカロイドも増えて来るし、飽和状態に思えるがMEIKOを使ってるのはまだ少ない。そろそろ……だろうな。ミクやKAITOを使っていくうちに調律の仕方ももっと心得て来たし」
『以前聞かせてもらった、あのバラードを今の技術でやってみたらいいと思うぞ』
「ああ、あれなあ。俺も初期作品にしちゃ気に入ってはいる方だが……発表するなら新しい歌の方がって気持ちが強くてな」
それはまだ、私がマスターと二人だけだった頃に歌わせてくれたものだった。そういえばあれはミクですら歌ってない。
『ああ、まあその気持ちは分かる。でも正直、俺にもう少しモラルがなかったらあの曲、先に使ってたと思うぞ』
「おいおいおい」
『いや、もちろんそっちの名前を出した上でだ。でももしそうしていたら、今の人気はなかったかもしれないな。惜しいことをした。あそこでは作曲者より発表もしくはアレンジした者勝ちだからな』
「オマエ性格悪いぞ」
そう言いながらもマスターは笑っている。
「そういえば着うたやカラオケ配信決まったそうだな。頑張れよ」
『それでも発表から何ヶ月も経ってるんだぞ。お前の人気振りからしたら、いまさら俺なんか食いつきは期待出来ん』
「それでも長く待ってる人がいるんだから大丈夫だろ。俺の方こそ飽きられないように曲を出していくのに必死だ」
それがマスターの本音であることは、相手にもすんなり伝わったのだろう。
『そうか、まあお互い頑張ろうな。長いこと見てた夢がそこまで近づいてるんだからさ』
そう言って、会話を締めくくった。
「夢か……確かにな。まさかボーカロイドでここまで俺が注目されるとは思ってなかったしなあ」
マスターにとっても最初はお手軽なツールでしかなかったのだろう。私はちょっと胸が痛くなった。
「実際手応えというか音楽会社から問い合わせもあるし、俺のやりたいことがやれるときが近づいているのかもしれないな」
早くそのときが来ればいいね、マスター。私はそうつぶやきながら、モニター越しにマスターを見つめる。
それから楽曲製作にもっと本腰を入れようと、マスターは普段の仕事をセーブして家にいることが多くなっていった。そしてようやく私にも出番が出来て、ミクがかわいらしく歌った歌をちょっと大人っぽく歌わせてもらったりして、その動画も評判になり『MEIKO』の知名度も上がっていった。
KAITOと同じようにネタキャラ扱いされることもあったけど、それはそれで面白いし、マスターは歌に台詞を入れてみたり小芝居を加えたりして持てる技術を駆使し、私たちの魅力を最大限に引き出してくれた。
何曲かは三人で一緒に歌ったりしたものもあって、それぞれの声が思った以上に相性がいいことも分かったりして。
「マスター生き生きしてるなあ」
そんなKAITOも嬉しそうに、またアイスを食べている。私もカップ酒を片手に、ミクはねぎ飴を舐めながらにこにこと上機嫌にうなずいていた。
「調子がいい時ってとことんそうなるよね」
「シンガーソングライターとか、自分で楽曲作るバンドとかそういう感じだよなあ。どんどん面白くなっていくの」
「あれってどういう仕組みなんだろ。人間ってコンピュータより可能性すごくない?」
「どーぱみんとか関係してるらしいです。この前ちょっとネットで見たんですけど」
「ドーパミンかあ。脳内物質……私たちにはそういうのないよね」
「でも感情とかはあるし、このアイスとかMEIちゃんのワンカップとかミクのねぎとかがそういう役割果たしてるんじゃないかな」
「でもこれ、一種のドーピングよ?」
「だから、ないから与えられてるんじゃないの?」
「ああ、そうか」
「どっちでもいいよ。ミク、ねぎ大好き」
「お手軽ねえ、まあ私も似たようなもんだけど。ところで新しいボーカロイド、マスター買うつもりなのかな」
「ああ、様子見るって言ってました。今三人で手一杯だからって」
「よそは海外の人もいるって言う話じゃない。全部いるところってどういう生活してるんだろうね」
「想像つかないなあ」
「あ、そういえば」
ミクがいきなり話をぶった切る。
「何、どうしたの?」
「願いを叶えてくれるって言うミステリアス・アンって聞いたことある?」
「何それ」
「スイートアンじゃなくて?」
スプーンを銜えたまま、身を乗り出すKAITO。
「もとはその人なんだけど、初期の初期タイプで……バージョンアップしたデータを
上書き出来なかったとかで削除されちゃったらしいだって」
「ああ、ありそうで恐いわそれ」
「だけど消滅しなかったらしくて、ネットの海を徘徊してるウィルスに紛れて漂ってる
とか何とか」
「まさかミク、そんな与太話信じてんじゃないでしょうね」
「え、うん」
「面白そうだけど、ウィルスじゃこわいよなあ」
「アホらしい。あるわけないじゃないの」
「MEIちゃんなんでそんな夢がないこと言うの?」
「何でって……」
「マスターだって、おっきな夢を持ってたから現実になりそうなんでしょ?」
「いやそれはマスターが地道に努力を」
「信じることって大事だよ? いくら私たちがボーカロイドでもさ」
「……あんた何かに影響されすぎよ」
こんな馬鹿馬鹿しい会話でも、私たちには大切なコミュニケーションだった。
夢見がちなミクもかわいいもんだし、時に喧嘩っぽくもなるけど本気でそうなるわけじゃない。
こんな感じなら、また増えても嫌じゃないんだけどな。って、それにしても今日はマスター、PCつけっぱなしにしてどこ行ってるんだろう。
「さっき携帯持ってどっか行ってたなあ」
「携帯か。マスター、ノートパソコンも持ってるしあっちは私たちも干渉できないわねえ」
「作業用のもう一台のならつながってるから行けるけど」
「後、バックアップ用のHDD。まああれは覗きに行くような場所じゃないけどね」
そんな暢気な話をしていると、マスターが妙に緊張した様子で部屋に戻って来た。
「マスターどうしたんだろう。仕事でもめったにあんな顔しないのに」
何か緊急事態なのか、大方仕事でポカやって怒られたとか。(納期を忘れることがマスターはたまにある)でも、それにしたっていつもの恐縮の仕方と違う。
「…………」
マスターは黙ったまま、引きつった顔のままPCの前の椅子に座りキーボードを叩き始めた。
何かと思ったら、人の名前らしきものを検索している様子。そして出て来た画像は、露出度の高いグラビアのような……。
「素人歌番組で芸能界入りするが事務所問題でグラビアに転向、か。歌は上手いんだろうな」
マスターが見るウェブページは、私たちも同時に見れる。そこにはグラビアアイドルの女性がにっこりと微笑んでいた。半裸で。
「マスターってこんなの好きなんだ……」
私はちょっと、いや大いに凹んだ。仮想的では、スタイルに自信はあるけれど。
「め、MEIちゃんの方が綺麗だって!」
落ち込むと、いっつもKAITOがあわてながらなだめてくれる。私はそれが心地よくて、いっそう落ち込んでみせる。……こっちのが最悪じゃない?
「うーん、この子のプロデュースか……」
マスターのつぶやきに、私はぴくりと顔を上げた。プロデュースですって?
「そういえば歌が上手いとは聞いてたよな。だけどしばらくテレビとか出てなかったはずじゃ」
マスターが次に開いた検索ページに出て来たのは、そのアイドルの少し前の醜聞記事だった。
妻子ある有名俳優との不倫、共演者との日替わりデート。十代半ばから魔性の女と言われていた彼女は、ある日一度は別れたと言われた有名俳優との濃厚なキス写真を激写され、ホテルの部屋での飲酒&密会写真まで雑誌に載せられたことでまだ未成年だったこともあり二年以上前に芸能界を追われたはずだった。
「うわあ、ムネ大きいなぁ」
ミクは別の所に目が釘付けになったらしい。私はあんたのその貧乳があんたらしくてかわいいと思うわよ、ミク。
それはともかく記事を読み進むにつれ、また衝撃的な写真を見つけてはマスターの顔が曇っていった。
でもホントは知ってる。マスターもちょっとエッチなサイト見てたりするし、決して聖人君子じゃないってこと。
だけどなんかね、ここまで慎みがないっていうか、そういう所はいくら普通の男でも顔しかめたくもなるよね。
やっぱりマスター同様にKAITOも顔を歪めていた。
「うーん……」
どういう経緯で、芸能界を干されていたタレントが『歌』を武器にした復帰計画を企て、またそこにマスターが加担させられそうになっているのかはわからない。
だけど昨今、芸能人も政治家も失脚するのはネットでの批判が高まってってのが多いみたいだし、それを逆手にとって今人気のあるマスターを担ぎ出して注目させようとしているのかも。
マスターの歌が認められるのは嬉しい。だけど、こういう形で売り出されていいのだろうか。なんか、複雑な気分だった。
そしてもっと複雑になったのは、マスターが動画サイトから見つけ出した彼女の歌う映像を見たときだった。
「…………」
テレビ放映されたやつだから、そんなに画像も音声も鮮明ではない。だけど、でも。ものすごく驚いた。
なぜなら、本当に上手かったから。情感があって、発声もしっかりしてて。
よく、人間の歌声にしか聞こえない私たちボーカロイドの調律をユーザーは
『神調教』と呼ぶけれど、そんなのは目じゃないくらいだった。
私には、マスターの悩みがこの歌声で吹き飛んだのが分かってしまった……。
あれからほどなく、マスター宛に見慣れないメアドのメールが届いた。メールの序文のテンションの高さから、一瞬迷惑メールかと思ってしまったけれど。
「これ、署名……あのアイドルだ」
KAITOのつぶやきに、気付きたくなかった事態の進捗状況をさとる。
「嘘でしょ……」
マスターはこの頃出かけることが多くなっていた。おそらく打ち合わせで本人に
会ったのだろう。そこでメアドを交換したに違いない。
「マスター最近歌わせてくれなくなりましたね」
ミクも寂しそうにぽつりとつぶやく。
「もう私達なんか要らないんじゃないの? アイドル様が歌ってくれるんだし」
カップ酒ももらってないのに、私は素面でミクにくだをまいた。
「そんなのイヤですぅ」
ミクが半泣きになる。私の胸がズキっと痛んだ。
「MEIちゃん、ミクに八つ当たりしない」
「……わかってるわよKAITO。ミク、ごめんね」
でもその後にアイドルからのメールを読んだマスターの反応や、慎重ながらもうれしそうに返信を打つ様子を見て、私の不安は色濃くなるばかりだった。
「……はぁ」
モニターの内側からマスターを見つめて、ため息をつく。なぜ私たちボーカロイドは、感情なんて与えられてしまったのだろう。
否、本来はなかったのだろうが、与えられる歌を歌ううちに芽生えてしまった。自我と、感情と、そしてマスターへの……。
手を延ばせば届きそうで、でも決して超えられない壁がそこにはあった。
アイドルとマスターのメールのやりとりはハイペースで進み、見たくはなかったけれど見えてしまうその内容も急速に親しさを増していった。
でも一つだけうれしかったのは、そのアイドルのために作ったと思われる新しい歌を、マスターが私に歌わせてくれたことだった。
「MEIちゃん、いいな~」
ミクのうらやましがる言葉が、ちょっと快感。だけどいつもの悪い癖が顔を覗かせた。
「でも、これ仮歌だし……」
言ってから思わずはっとなる。
「そんな気持ちで歌ったら、仮歌にもならないよ?」
KAITOの厳しい声。うん、そりゃ分かってるわよ。でもそう思っちゃう気持ちも分かってよ。
「いつものMEIちゃんみたいに、朗々と歌って。俺たちここで聞いてるからさ」
KAITOの言葉に、思わず泣きそうになっちゃった。
「そうね。だって私はお手本なんだもんね。あのアイドルにちゃんと歌って聞かせなきゃ。マスターの歌を」
「そうだよ! だってMEIちゃんの歌凄いもん。SOULFULLってよく言うけど、MEIちゃんの歌ってまさにそれだと思う」
「誉めすぎよ、ミク。そんなこと言ったって何も出ないんだからね」
照れくささに悪態をつきながら、私はPC内のスタジオに向かう。マスターが作ったその歌は、切ない恋の歌だった。
恋、か。マスターの歌にいろんな物を学んで来たけれど、恋や愛の歌は何度歌っても胸がキュウキュウと絞られる感じがして辛い。だけど、辛いだけでもない。コップ酒とおつまみの組み合わせが最高だと、耳の下あたりが『嫌な感じじゃなく』痛くなる。
これを人は『美味しい物を食べると頬が落ちる』って表現するそうだけど、それにとても似ている。
こんな感覚を与えてくれるマスターは、もちろん誰かに恋をしたことがあるんだろうな。今一人でいるってことは、それがかなわなかったのか終わってしまったのか。
どっちにしたって、私のこの気持ちはマスターには届くはずのないもの。そう思いかけて、私は自分の考えを打ち消した。
今までだって歌に思いを込めてきたじゃない。その時その時の感情。わずかでも、マスターに伝わったことだってあるし。うん、歌にすべてを込めよう。
伴奏が流れ、マスターの指示にしたがって私は歌い始めた。想いのたけを込めて。
「ねえ、KAITOは恋って理解してる?」
歌い終わって、マスターにもらったカップ酒片手に私はKAITOに絡んだ。
「え? うん、そりゃまあ」
「あ、そう。まあ感情がある限り自然の摂理なのかなあ」
ミクが作ってくれた焼きねぎが旨くてたまんない。でもさあ、なんでこんな電脳空間に七厘があんのよ。
「だけどさ、感情があるからって恋愛できるかといえばそう言うわけじゃないと思うよ」
「ああ、それもそうよね」
「ハイハイハイ! ミク、他所のマスターに恋してます!」
ねぎを焼いていたミクの突然の告白に、私は口にしたカップ酒を吹き、KAITOは持っていたアイスバーを床に落とした。
「あ、でももちろん私たちのマスターも好きですよ。でもレンアイとかそういうのとは違うし」
「それは分かるけど、でもミクの恋するマスターは他所のミクのものだよ?」
「そんなの分かってるよぅ」
ミクの場合、そのせつなさを歌に転化してるのかもしれない。それはそれで上手いやりかただと思う。マスターが知ったらショックだろうけど。
「さ、三秒ルール。だけど水道で洗ったら溶けちゃわないかな」
KAITOがなんかぶつぶつ言ってる。
「とっくに三秒過ぎてるわよ。ところでKAITOは誰か好きな人いるの?」
「こっ、こんな狭い状況で誰が好きとか言えるわけないじゃないか!」
KAITOの叫びは、まるで逆切れのようだった。
「へ? いや、別にどっちが好き? とか聞いてるんじゃないんだけど」
「あ、ああ……」
「まあそう言えばいつかマスターのこと好きだって言ってたわね。もちろん恋とかそういうのじゃないんだろうけど。でも、残念だわ」
「え?」
「どういう意味でも、私にとってKAITOはライバルね。だって私もマスターが好きだもーん。アイシテルの」
一瞬、KAITOの表情が曇った。その意味を察することは出来なかったけれど。
「……そんなの今更だろ」
「ミクも知ってましたよ」
酔いに任せてぶちまけてしまった私の告白は、あっさりと右から左へ流されてしまった。
「でも、不毛な恋よね……」
「言葉がもしも通じたって、百パーセント相手に気持ちが伝わる恋愛なんかないと思うよ? 俺は」
「そりゃそうだけど、でもこのままじゃマスターをあのアイドルに持ってかれちゃう。ああ悔しい」
もう、私は本音を抑えることが出来なかった。
「飲み過ぎだよ、MEIちゃん」
「うぅ~」
「ミク、MEIちゃんを部屋に連れてって来るね」
「うん、頼むよ。あ、MEIちゃん寝たらちょっと話があるんだけど」
「あ、うん。片付けもあるし戻って来るよ。ちょっと待っててね」
薄れゆく意識の中、二人のそんな会話が聞こえたのは覚えている。二人でこっそり話って何だろう。気になったけど、歌い疲れと酔いで堕ちる直前の私には問い質す気力などなかった。
私が目覚める頃、マスターは歌の編集を終えたようで目をこすりながらCDに書き出していた。この作業が終わったら眠るのかな。
そう言えばミクとKAITOはどこへ行ったんだろう。それぞれの寝室かもしれないけど、それにしてはなんか気配すらない。
私はきれいに片付いたテーブルに肘をついて、頬杖をしながらマスターを見た。
多分世間一般的には、マスターはそんなイケメンじゃない方だと思う。でもそのあんまり高くなさそうな身長も、つぶらな一重も、ゲジゲジ眉毛も私にはいとおしい。
ねえ、歌に込めた想い伝わった?
「よし、書き込みもバックアップも終わったぞ。しかしやっぱりMEIKOに歌わせて正解だったな」
マスターはそう言うと、ディスクを取り出してPCを終了させた。……よかった。またいい夢が見れそう。
私はふらふらと寝室に戻り、布団を頭までかぶってもう一度目を閉じた。
ゆらゆら、ゆらゆら。電脳世界のゆりかごは、満ち引きする波のようにここちよく揺れる。
すりガラスのようなぼんやりした視界に映るのは、ミクとKAITOの背中。そして彼らと向かい合っている身長の高い、髪の長い女性。あれは誰なんだろう? どこかで見たことがあるような気がする。でも、誰だったっけ。思い出せない。
「はい、それでかまいません。お願いします」
「俺も、どうなっても文句はありません。……MEIちゃんの為なら」
なんだか初期の頃と同じような、調律が出来てない声で二人がそんなことを言った。私の為って、何?
そして何かを懇願する二人に答えるように、その髪の長い女性が口を開いた。
「……ワカリマシタ」
調律不足に輪をかけたような、そんな発音で答える。もしかしたら彼女もボーカロイドなの? それにし
たって酷いけど。
「ああ! 良かった。探した甲斐があった。ありがとうございます」
「……アナタタチ、トテモシンケンダッタ。ダカラソノオモイ、コタエタダケ」
「俺、本人には絶対に言えないけど……MEIちゃんが大切なんです。ミク、俺の勝手に巻き込んでごめんな?」
「ううん、私こそ調子に乗って他所のマスターが好きとか変なこと言っちゃったから、あれで優しいマスター思いのMEIちゃんが傷ついてたら申し訳ないし。それにね! ちょっと下心もあるんだ。もし、結果としてアンインストールされることになっても、私も『彼女』みたいになれるんじゃないかって」
ミクの言葉を黙って聞いている長い髪の女性は、寂しげに微笑んだ。
「ワタシノヨウニナル、オススメシナイ。マスターウシナウノハ、ホントウニカナシイ……」
「あっ、すみません。そんなつもりじゃ」
「イイ、ワカッテル。ワタシモナカマイレバ、サミシクハナカッタ。ワタシガホカボーカロイドノネガイカナエルノハ、タブンソノアイダダケデモ、サミシサワスレラレルカラダトオモウ」
「アン……」
KAITOのつぶやく名前を聞いて、私は思わず飛び起きた。それだけじゃない。ミクが言ってた事って何? アンインストールってどういうこと?
どうか単なる夢であってほしいと思う。もっともこの空間で夢を見ること自体変なんだけど。
カップ酒飲み過ぎたのかな。ちょっと自重しよう、今度から。
「うう、ちょっと不調……なんだろう、この違和感」
PC内の空気というか、何かがおかしかった。私は寝室を出て、いつもみんなが集まるリビングに向かう。
そういえばバーチャルなこの空間も、私が来たばかりの頃よりかなり鮮明になってきたなあ。最初は一室で雑魚寝だったけど、ミクが来ていろいろシステムが向上して行って……。だけど、なんでまた廊下がこんなに変な配色になってるの?
「ん? なんだこれは」
外からマスターの声がする。
「PCの調子が……やばいな。これは下手に再起動するのも危ぶまれる」
こんなこと今までなかったのに、何が起こったの?
「彼女のメールについてた添付ファイルを、うっかり開けてしまったからか?」
マスターは例のアイドルからのメールを受信して、それについていたファイルを
開けてしまったらしい。
ということはこの変な感じはウイルス? やだなあ、もう。管理に関しては徹底して
るはずなのに、なんでそんなポカやっちゃうのよ。そんなに油断してたの?
「……仕方ない。対処は帰ってからにするか」
マスターはそう言うと、PCを放置して部屋を出て行った。どこかへ出かけるつもりなんだろうな。
あのアイドルと会うのかな。メールの中身、何だったんだろう。
「マスター、出てった?」
私がこっそりそんなことを企んでたら、KAITOが部屋から顔を出した。
「え、あっ、うん」
「そっか……良かった」
そう言って廊下に出てきたKAITOもやはり、どこかおかしかった。
「ちょっと、KAITO。あんた……腕が」
それだけじゃない。声もやっぱり初期の頃みたいな。
「俺はこの程度で済んでるけど、ミクがさ……」
「えっ?」
「えへへ、こんなになっちゃった」
顔を出した時点で、ものすごく驚いた。だってミクご自慢のツインテールが……。
「ミク、何で髪の毛……そんな短くなったの」
でも、ミクの異常はそれだけではなかった。ミクの肘から先が、両方なくなっていたのだ。
「何これ、ウイルスのせい? バグなの?」
パニックに陥って騒ぐ私を、KAITOは静かな声でなだめた。
「違うよ。これは全部俺たちが願ったことなんだ。良かった、MEIちゃんには何も影響なさそうだ」
「どうして! こんなこと願うって、何故?」
「落ち着いて、MEIちゃん。よく聞いて」
肩に手を置かれたわけでもないのに、まるでそんな風に感じるKAITOの言葉に、私は気持ちが平静になるのを感じていた。水面が、凪ぐように。
「あのね、MEIちゃん。今日、マスターあのアイドルとデートの約束してるの。だから……」
そんな衝撃のことですら、今の二人の変化を目の当たりにしてしまったらさほどのものでもない気がした。
「昨日、MEIちゃんが歌ってる間にメールがあってね。ミクと一緒に見ちゃったんだ」
「でも、それとこの状態と何の……あ!」
私はさっきの夢を思い出していた。
「MEIちゃんを、今日の日が沈んでから明日の夜明けまで人間にしてあげる」
そう言って、ミクが何か誇らしげに微笑んだ。
「その為の代償なんだよ、これはさ」
私は、思わず声を上げて泣いた。
「もう、馬鹿よあんたたち……大馬鹿よ!」
準備をするまでの時間は十分にあった。けれど、いろいろ学ばなきゃならないことがあってそれがものすごく大変だった。
でも、それはものすごく楽しくもあった。
「マスターの好み探るって言っても、インターネットの履歴でいろいろ見ちゃうのって気が引けるのよね」
「あはは。まあでもそれが一番分かり易いし」
履歴を探るのは今に始まったことじゃなかったけど、マスターの好む女性のイメージをつかみたくて、ただ一心にページを飛びまくった。
そして得た情報をもとに、多少の体型補正、そして髪形も微妙に変更。下着や衣装、小物に至るまで事細かに『設定』を決めると、今度は実体へと変化させるのだけど。
とりあえずは先に丸裸状態で、私はマスターのPC作業部屋に出現しなければならなかった。
「ちょっと待って……もし万が一帰って来られたらヤバイじゃない」
『出力』直前まで来ておきながら、私は今更のように慌てた。
「それはないから大丈夫」
KAITOが微笑みながら、私を宥める。
「し、新聞屋さんとか来たら?」
「出なきゃいい」
「たっ、宅配便!」
「それも出なきゃいい」
「で、でもっ」
ホント、往生際悪いってこのことよね。
「MEIちゃん、MEIちゃんがやんなきゃいけないのは一つだけ。マスターのココロを掴む事」
ミクの言葉に、私はやっと平静を取り戻した。
「……うん。でも、私はアイドルに勝てるかな」
「大丈夫。そこら辺は手を打ってあるから」
何をするつもりなのだろう。こんなにも多くの物を失って、彼らは何をしようというのだろう。
「MEIちゃん、落ち着こう。まずはさ」
KAITOにそう言われて、私は静かに頷いた。
「うーん、ちょっと目を瞑って」
「え、あ……こう?」
言われるまま、目を閉じる。まあ確かにこれなら、気持ちも落ち着く……そう思った瞬間、私の唇に何かが触れた。
いや、何かって……本当はそれが何なのかすぐ分かった。でも目を開ける前に、彼はそれを離してしまったけれど。
「KAITO……」
「マスターより先にもらっちゃったけど、これぐらい許してくれるよね?」
「…………」
許すとか許さないとかじゃない、って言いたかったけど言葉にならなかった。
「KAI兄ぃ、MEIちゃんにアレ言っておかなきゃ」
「あ、そうだな……」
何? まだ何かあるの?
「KAITO、言ってよ」
「うん。MEIちゃんには何も負荷をかけないように配慮したんだけど……どうしても一つだけ我慢してほしいことがある」
「我慢? 何を?」
KAITOが、苦しそうな顔をした。
「それは、歌うこと」
「歌? どうして?」
「絶対ってわけじゃない。ただ出来るなら最後の手段にしてほしい。それが俺たちからの頼みだ」
マスターの心を掴めって指令と、その制約は矛盾しているように思えた。
「それは、構わないけど……私が歌っちゃったら何かあるの?」
だけど、KAITOは口を閉ざした。その代わりにミクが口を開く。
「あのね、MEIちゃんが歌ったら……私たちもう」
「ミク!」
「私たちもう生きられなくなるの。マスターのPCの中で」
今でさえこんなに傷ついているのに、その上生きられなくなるって。
「そ、そんなの」
「でもMEIちゃん、そうなっても構わないよ。MEIちゃんさえ幸せになってくれれば」
ミクが泣きそうな顔で笑う。
「あんたたち失ってまで、欲しい幸せなんかないよ! そんなのな……」
私の叫びを、KAITOが二度目の口づけで吸い取った。そして次の瞬間、私は電脳空間から現実世界へと『排出』されてしまった。
端から見れば、本当に間抜けな格好だと思う。日のすっかり暮れた部屋、PCやいろんな機材が並んでいる中で、全裸で右往左往している女。
さすがに気恥ずかしさもあって、私はモニターにそこにあった布をかけた。これはマスターが時々使っているひざ掛けだ。
自分の体に巻き付ければ肌寒さも感じなかったかもしれない。でも、今は何だかモニター越しに自分の姿を見られるのが嫌だった。
そうしているうち、下着、衣服、小物、靴、と必要なものが目の前に現れていったので、私はそれをどんどん身につけて行った。
メイクだけはどうしようもないように思えたので、肌に直接『プリント』してもらってるから崩れる心配もない。まあ一応鏡は覗き込んだけどね。
髪の毛も小物の櫛で整えて、一応の準備が整ってからやっと安心したようにマスターがいつも座る椅子に腰を落とした。
もう、KAITOの声もミクの声も聞こえない。私は自分の綺麗な柄のプリントされた指先をじっと見つめながら、マスターがどれだけ孤独であるかを知った。
そりゃ、アイドルに惹かれたって無理はなかっただろう。でも、今夜だけでもマスターの眼に直接自分を映して、そして話がしたかった。
喋りはどうしても、歌うよりは苦手だけれども。でも歌ってしまったらKAITOやミクが……。
「…………」
思わずため息がこぼれる。彼らが多くを犠牲にして作ってくれたせっかくのチャンスを、フイにしたくなかった。でも、本当にこれでいいのか。そんな思いが巡り、巡る。
ふっと、時計を見た。7時には部屋を出なければ、マスターが彼女を待つホテルのバーまで間に合わない。あと5分……。
私はサンダルとPCのそばにいつもマスターが置いている合鍵を掴むと、意を決して玄関に向かった。
地図と路線は頭に叩き込んである。だけど途中、ふと立ち止まってビルの大画面を見た時に変なことを考えてしまった。
まるでこの世界も、PCの中、電脳世界と変わらない気がする。どんどん流れていく人の波、走り去る
車、電車……。それらが移り変わっていくPC内の光景のようで、思わず笑いがこぼれた。
何人かに、怪訝そうに振り返られちゃった。さあ、急がなきゃ。
目にする物、すべてが初めてではあるけど、インターネットやいろんな情報で知っているからそんなに驚くこともなく。でも、やっぱり見るのと聞くのじゃ雰囲気って大きく違うけど。特にこの、高層ホテルのラウンジとかいうのはそこへ向かうまで肌にかかる圧とか、気分的な緊張とかかすかに漂うお酒の香り。
カップ酒なんか比じゃない感じ。当たり前だよね。安っぽいお酒とはワケが違うし。
さっきまでちょっと高いと思ってたデパートがかなり低く見えて、ちょっと足がすくむ。私、高所恐怖症
だったのか。意外だわ。とか思ってたらエレベーターのドアが開いた。
「……あ」
その姿はすぐに目に飛び込んできた。背中を丸めて、携帯とにらめっこしているマスターの……。
ちょっと不機嫌な雰囲気なのは、やっぱりドタキャン(KAITO情報、というか予報)されたから? 周囲も不審がってるのか、マスターの座るカウンター席はそこだけぽっかり空席が目立っていた。
「あノぉ……」
そっと近づいて、声をかける。あうう、上ずっちゃうよ、声が。
「ん?」
そう言って振り返ったマスターは、夕方以降にはいつもある髭がなく、いつものあのぎざぎざ眉毛も綺麗に整えられていた。それだけ着合い入ってたのに、何か可哀想だなぁ。
「トナリ、いい、ですか?」
私の言葉に、マスターは呆然とした表情でしばらく固まっていた。思わず逃げ出したくなる衝動。でも、ここで逃げたら意味がない。
「あ、ああ。どうぞ」
マスターお気に入りらしい一張羅のスーツ。少し歪んだネクタイが、着慣れない感じを容易く予想させた。
「スミマセン、失礼、します」
センテンスを出来るだけ短めに。もしかすると外国人みたいに思われちゃうかもしれないけど。
「どちらから来られたんですか?」
やっぱり! あぁ、もう。
「イエ、ア、はい……海の向こうデス」
適当に国の名前言えばいいのに、何言ってんのよ私!
「海の向こう? 海……ああ、どこかの島?」
「はい、ソンナトコロです」
「へえ、いいなあ。のんびりしてそうだなぁ」
確かにのんびりはしてる。……ううん、してたって言った方がいいかな。
「マ、マス……いえ、ミスター」
「うん? ああ、タカツキでいいよ。俺、高槻仁則(たかつきひとのり)って言うんだ」
「た、タカツキさんデスか」
「良かったらキミの名前を教えてくれないかな」
「え? ワタシハ、メ……」
私は危うく自分の名前を言いそうになり、口をつぐんだ。
「め?」
とっさに頭の中に渦巻く言葉を組み合わせる。
「メニール・郷子(さとこ)。ゴウと言う字にコドモの子」
「さとこ! いい名前だなあ」
「アリガトウ……」
「え、じゃあ。名前は日本語ってことはハーフなんだ?」
「……両親、もうイナイから詳しいことシラナイ」
うそにうそを重ねていくのは、ちょっと辛かった。
「あ……悪いことを聞いた」
「ア、気にシナイデ。ただチョットふらっと二ホンに来て見たかったの」
マスターは、いいえ……彼は私に見せたことがない表情で微笑んだ。
「何か、飲む?」
「ソウネ……カクテルちょっと」
「わかった。バーテン、何かカクテルを彼女に」
私は内心苦笑を浮かべていた。人間になっても、やっぱり私の動作を安定させるのはお酒なのね。
「あ、タカツキさん」
「ん? ワインか日本酒の方が良かった?」
……見抜かれてる、じゃなくて。
「チガイマス。あの……誰か待ってたんじゃナイんデスカ?」
駄目になってるのを承知で、意地悪な問いを投げる私。
「あー、まあ……。でも別にそんなたいそうな相手でもなかったから」
強がり、意地っ張り。馬鹿なひと。
「ソウナンデスカ? でもナンダカ、サミシソウだった」
「そう見えたか、ははは。うん、まあどんな相手でも約束を反故にされるのは辛いからなあ」
「ワタシが、ツキアイマス」
とっさに出てしまった言葉。彼は驚いていたけれど、その顔はすぐ子供みたいな破顔に変わる。
「よーっし! じゃあトコトン付き合ってくれ」
程なく来たショートのカクテルと、彼が作り直した焼酎の水割りで私たちは乾杯をした。
それからどれほど飲んだのか。気付けば周囲に溢れ返っていたはずの酔客は殆どいなくなり、それなりにいた従業員も半分以上がいなくなっていた。
「まあ今日事務所と音楽会社と、音源持って行ったんだよー。でもなんか歌に対する反応はいいんだけど、歌わせる対象に対しての感動が薄いっていうか。もっとカルイのでもいいですよとか言うんだよな。あんな歌い方が厚いのに、そんなんじゃ映えないだろ?」
マスターはそんなことに気付きもしない様子でずっと喋り続けている。
「……ソウですネ」
「さとちゃん、ホントいい子だなあ。カラオケ好き? なんかさとちゃんの歌声聞きたいんだよなあ。声、魅力的だから」
さらっと嬉しいことを言ってくれるけど、多分そうとう酔っ払ってるんじゃないかと思う。
「ありがトウ、でもカラオケはアンマリ……」
「そうか、残念だなあ。ここももうすぐ閉まりそうだし、カラオケでも行こうかと思ったんだが」
「ココ、ホテルでしたヨネ?」
「うん。そうだけど」
「ワザワザ出なくても……部屋、とかアルんじゃ」
「ちょっと待って……それ本気で言ってる?」
マスターの目が、ちょっと変わった。怖かったけど、でもその為に私はここへ来たのだからと言い聞かせる。
「ハイ」
「意味、分かってるの?」
「……分かってるツモリです」
この期に及んで理性があるのは、いいことだと思う。間違いを起こす可能性は低い人であるということだ。
「そうか。それなら……」
マスターは支払いもかねてバーテンを呼び、私をエレベーターの前まで先に行かせるとしばし何かを話し込んでいた。分かってはいても、所在ない。この気持ちはなんなのか、まだ私には分からなかった。不安に似ている気がしたのは、気のせいなのかな。
マスターは私に際どい歌を歌わせたことはない。ミクがはまってる歌の中にそういうのがあったけど、
それは中にあるストーリーがよかったからそんなにいやらしく感じなかった。どちらかと言えば私も好きだった。でも、こんな計算づくな出会いと展開。勢いに乗ろうとするマスター。
一夜だけのことなのに、これでいいの? ねえ、MEIKO。エレベーター横の鏡に映る、仮想空間とはかなり異なる姿の自分にそんな自問自答を繰り返していたら、マスターがカードを持って私の方へ歩み寄ってきた。
「じゃ、行こうか」
そう言って肩を抱く手……どこの安ドラマだろう。でも、そうなるように切り出したのは私。自分で自分が分からなくなりそうだった。
「変なこと聞くけど、こういうことって慣れてる?」
部屋にはいるなり、マスターはそんな問いを投げてきた。私は思わず首を横に強く振る。
「イ、イエ!」
「そうか……。まあでも、とりあえずシャワー浴びてくるから冷蔵庫の中のもの、好きなの飲んでて。朝っぱらから出かけてたから汗かいちゃっててさ。
さっぱりしたいんだ」
「ハイ……」
マスターはそう言うとシャワールームへと消えて行った。
「…………」
部屋に一人残された私は、ベッドに座ってしばらくぼうっとしていた。一見部屋は豪華だけど(情報データでは一室の宿泊料、一人三万以上らしい。ただ深夜とか時間帯によってはちょっと安くなるそうだから、その半分くらいなのかな)
シャワーの音が結構響いてる。私は今は人間の体だから、やっぱり汗もかくし……お酒の匂いとか、これは体臭みたいなものなのかな。自分が今まで情報的にしか感じたことのない匂いが、部屋の匂いも含めて鼻に届く。一瞬はそのナマっぽい匂いに慣れなくてちょっと顔をしかめてしまうけど、それはすぐに馴染んでしまい、嫌悪感は殆ど残らなかった。
そういえばさっき肩を抱き寄せられた時に感じた香りは、汗をかいた肌の匂いとは違うものだった。コロンとかいうやつかな。
なんだかこうした経験は、無駄じゃないような気がする。これから歌う上でも知らないよりは知っておいたほうがいいのかもしれない。モニター越しでは分からなかったもの。
マスターの、知らない一面も。ちょっと驚いたりはするけど……。一方的に何でも知ったつもりになってた私。笑っちゃうほど馬鹿みたい。
そんなことをいろいろ考えていたら、シャワールームのドアががちゃりと開いた。
ビクッとなって身構えてしまう。湯上りのマスターなんて何度も見たはずなのに。いつもと違うのは、真っ白なバスローブだからか。なんだかおいしそうに湯気が立っている。
「さとちゃんもシャワーあびる?」
自分の肌の匂いが少し気になったから、浴びようかと思ったけど……。でもマスターはベッドを立ち上がって横をすり抜けようとした私の手首を掴んで、こう言った。
「……まあ別に急いでるわけじゃないし。もっと話でもしよう」
「エ? あ、ハイ……」
「ホントにさ、君の声が聞きたいだけだ。ちょっと知ってる声に似てる感じがして安心する」
それは誰なんだろうと、気になった。そして、マスターは私をまたベッドに座らせると、自分はテーブル近くの椅子を運んできてそれに腰を落とした。
「さとちゃんの話聞かせてよ」
「ワ、私デスか?」
「うん」
そうは言っても、何を話せばいいのだろう。PCの内部でマスターを見つめていた時は、あんなに伝えたいことがたくさんあったのに。
そう考えて、ふと可笑しくなってしまった。
「……フフ」
「さとちゃん?」
今の私は、MEIKOではない。最初に郷子なんて名乗ってしまったから。別に正体をばらしてはいけないなんて制約はないけど、そうなれば歌うしかない。でも、歌ってしまったら……KAITO達が。
「あ、イエ。あの、私ニハずっとズット好きナ人がイタんです」
「うんうん」
「ソノヒトには、私、ハナシカケルことが出来なくテ」
「ああ、分かるなあ。それで?」
話しが出来ない原因を、マスターが取り違えてしまうだろうことは分かっていた。
「結局、ソノままでイマに至ります」
「ええ~、マジで? そいつ馬鹿だなあ。こんな癒し系美人に気づかないなんて」
「フフ、有難うゴザイマス。でも、私モトモトハナスノ苦手だから仕方ナイんです」
マスターの指示があれば言葉を口にすることは出来るけれど、私からの言葉は伝わらない。
「うん、まあたどたどしくはあるけど、でもその声好きだなあ。俺が歌作ってることはさっきラウンジで話したけどさ。さとちゃんに似た声に『あなたが好きです』って歌わせたくて、わざと歌詞の中にそんな言葉入れちゃったりするんだ。まるでガキだよな」
そこで私は初めて、マスターが言ったその声というのが『私』のものであることを知った。
何故なら、ミクの歌にはもちろんKAITOの歌にも、そんなフレーズは出て来ないからだ。私が歌った、あの歌以外。
「あ、ごめん。でも似てるって言ってもさ、別にさとちゃんの声を代用にしたいわけじゃないんだ」
「……構いまセンよ? 歌うコトハ出来ませんケド、言いマしょうカ?」
「本当に、いい?」
「ハイ。……エット、あの。……『あなたが、ス・キです』」
好き、が上ずっちゃったけど、出来るだけゆっくりと言葉にした。
「…………」
マスターの表情が一変する。椅子からゆらりと立ち上がったと思ったら、気づいた時には肩に手を置かれていた。
「……エ?」
「ごめん……」
それからゆっくり、ベッドに倒される背中。一瞬それがどういうことなのかわからなかった。だけど、何故か胸がざわめき、エラーの警告画面みたいなものが脳裏に浮かんだ。幾重にも……。
そして塞がれる唇。だけど私がその瞬間に思い出してしまったものは、KAITOとの口づけだった。
こんなに柔らかくも、温もりもないただ触感だけだったけれど。
マスターの唇が耳元に移り、そして首筋に下りる。胸のざわめきが、肌に感染する。
エラー音は鳴り続けている。KAITOの声が、頭の中に甦った。
『マスターより先にもらっちゃったけど、これぐらい許してくれるよね?』
私の目に、熱い涙が込み上げる。初めての、この体を得て初めての涙が溢れて頬を濡らした。
「……さとちゃん?」
流れた涙に気づいたのか、マスターが顔を上げた。
「ごめンなサイ……。ごめんナさイ」
マスター、ごめんなさい。そしてKAITO……今まで気づかなくてごめんなさい。
私は込み上げる気持ちを抑えられず、泣き続けた。
どのくらい時間が過ぎたのかわからない。ただ、私とマスターがそれ以上触れ合うことはなかった。
私が泣き止むまで、軽く抱きしめたり頭を撫でてくれはしたけれど。
「……ごめんな」
マスターのつぶやきに、私は何度も頭を振った。馬鹿な私。何もかも無駄にしちゃった。
でも、どうしても本当の意味でマスターもKAITOも失いたくなかった。もしマスターに身を委ねていたら
『大好きなマスター』はいなくなってしまうような気がして。そしてKAITOも……。
ちょっと気を取り直して、私はシャワールームに駆け込み洗面台に向かった。涙でプリントが剥がれてやしないか不安だったから。
幸い、ちょっと目が腫れているだけで大したことはなかった。よかった、と思った時デジタル時計が視界に入り、今三時半を過ぎたところであることを知った。
夜が明けるまで、もう数時間しかない。私はマスターに何をしてあげられるだろう。
そう思いながら部屋に戻ると、マスターはベッドに横になっていた。さすがにもう眠いのだろう。
「大丈夫デスか?」
そっと問いかけると、マスターは片手をひらひらさせてまだ起きていることを私に教えてくれた。
「眠いような眠くないような。そんな感じ……君は?」
「私ハ、大丈夫デス」
さすがにまたベッドに腰掛ける気にはならなくて、マスターがベッドに寄せていた椅子に腰を落とした。
「……子守り歌、歌ってくれないかな」
ちょっと首を動かしてこちらを見る、子供みたいなマスターのお願い。聞いてあげたい……でも。
「…………」
「どうしても駄目?」
「……ハイ、すみまセン」
だけどマスターはあからさまに落胆するでもなく、軽くあきらめたように首をコテンとベッドに預けた。
さっきのマスターはちょっと怖かったけれど、本当はこんなに優しい。私は胸が痛くなった。
今夜の経験は、理解していたつもりの感覚や感情と言うものを根本から覆されるような、それほど衝撃的なものだった。
それを歌に活かせたら、どれだけ変われるだろう。そう考えて、ふと気づいた。
まさか、だから彼らは私を? そんなの、そんなこと。
「…………ぅ」
また泣いてしまいそうになるのを、必死でこらえた。KAITOのように強くもなく、ミクのように伸びやかでもない。どちらかといえば自分の実力は棚に上げて、嫉妬ややっかみだけは人一倍なそんな私なのに。
あなたたちの何かを引き換えにするような、そんな価値なんか。私には……。
「あー……」
マスターが突然、間の抜けた声を上げる。
「……ドウしたんデスか?」
「眠れないよ。やっぱり歌ってよ」
落ち込みかけていた私は、空気を読み過ぎるマスターの言動に可笑しくなって、笑い声を上げた。
「ふっ、あハハっ」
でも、だからこそはっきりとそのお願いを却下することが出来た。
「さとちゃん……」
「ダ・メ、です」
「なんでだよぅ」
拗ねるマスターがかわいくて涙が出るほど笑いながら、私が何故この人を好きになったのか分かった気がした。
今まで私は、KAITOの中にマスターの片鱗を見ているような気がしたことがあった。
でも違った。そうじゃなくて私は、マスターが持っている『キラキラ』を好きだったのだ。そしてKAITOはそれを見事に受け継いでいる。
だから私、KAITOを好きになったんだ。そんな答えを得て、私は自分で酷く納得していた。
そんな風にテンションは軽く一気に上がったけれど、マスターはとうとうエネルギー切れらしく拗ねる元気も無くなったようだった。
でも、素直に眠くもならないらしく寝息にならない微かな唸り声を上げている。
確かにこんな時歌でもあれば、心地よく眠れるかもしれない。まだ逡巡する自分の不甲斐なさが悔しい。
ふと外を見た。厚いカーテンの隙間から、薄明るくなった空の色が見えた。
「……!」
はっとなって時計に目をやると、時間はもう夜明けまであと十分もないところまで来ていた。
そしてその時だった。聞こえなくなっていたはずの、彼の声を聞いた気がした。
『MEIちゃん、歌って』
え、でも。
『いいから。もう時間がないよ』
分かってるけど、KAITOに会えなくなるのは嫌なのよ。
『MEIちゃんが後悔するほうがもっと嫌だ。だから、歌って。消えていく俺たちのために、歌ってよ』
KAITOの、馬鹿……。馬鹿だよ。あんたを好きになった私も馬鹿だよ。あれくらいで、私の気持ち持って行くなんて許さない。
だけど、私がそうやって心で悪態をつけばつくほど、KAITOが笑ってるみたいに感じた。
私は深く息を吸い込み、そして歌を口ずさみ始めた……。
気づくと、私はいつもの自分の寝室に寝ていた。どうやらPCは勝手に再起動したらしく、KAITOもミクも、本当にいなくなってしまっていた。
最初の状態に戻っただけ。無理やりそう思い込んでみても……涙が溢れて止まらなかった。だってもう、マスターと私だけだったころとは確実に違うから。
以前はもっと単純な色彩、ディテールだった部屋が、今は妙にリアルな分だけ一人でいることが切なく思えた。
マスターが帰宅したのは昼前で、放置していたPCの惨状に激しく嘆く様子を見て『歌ってしまった』ことを少し後悔した。
「MEIKOは無事か? ああ、無事なんだな。KAITOとミクが壊れてしまったのか。MEIKOが無事なだけでもよかった。バックアップしなけりゃ」
けれど、マスターが幾度クリーンインストールしても何故かKAITOとミクのソフトだけ認識しないという結果に終わった。
本当にもうこのまま会えないのかと思うと、私までダウンしてしまいそうになる。
でも、マスターは強かった。夕方から数時間不貞寝をしたと思ったら、夜になり急に起き出して、出かける準備を始めたのだった。
「くそ。絶対に取り戻してやる」
そう言ったと思うと、夜遅くに大きな箱を抱えて戻って来た。なんと、それは新しいPCだった。どうなるのかとそわそわする中で、マスターは早速新しいPCのセットアップを始めた。
そして、KAITOとミクをインストールする。私はこちら側のモニターから固唾を飲んで見守った。
結果を待つマスターの背中に緊張がみなぎる。
「…………」
マスターに指名されることを願うより強く、私は指を組んで祈った。
「よし! 動くぞ!」
しばしの沈黙の後、どこかで見た、聞いたような台詞を聞いて思わず吹き出す。どうやら今回はインストールに成功したようだった。
でも、問題はバックアップ用のHDDのデータだ。これを読み込めなかったら私の知るKAITOも、ミクも
戻って来ない。
データ的には前々日の彼らだけれども。それでも私には大切な……。そう考えていたら、私は突如意識をブラックアウトさせた。何があったのか、すぐには分からないと言うか考えをめぐらす暇もなかった。
「ほら、MEIKO。引越しだぞ」
気づいたら、私は新しい方のPCにいた。だってここから見えるのは、以前住処だった方のPCだったから。
部屋の様子は変わりない、というかこころもちもっとずっと広くなっている気がした。
私はすぐに、KAITOとミクを探すため部屋を出た。どうかお願い、あなたたちにそばにいて欲しい。
廊下も広くなっている。私はもの凄く、たまらなく孤独感に襲われた。
「KAITO! ミク! いるの? ねえ、いたら返事して!」
けれど、呼びかけにはすぐに返事がなかった。孤独感が絶望に変わる。うまく行ったんじゃなかったの? ねえどうしていないの?
もう二度とあなたたちに会えないの?
「KAITO……嫌だ。このままあなたに会えないなんて嫌!」
私は泣き叫びながら座り込んだ。無機質な床が冷たい。
「MEIちゃん?」
頭の上から、不意に聞き慣れた声が降って来た。顔を上げると、そこにはいつものとぼけたKAITOがいた。
腕もちゃんとある。声も、調律されたKAITOだ。
「KAITO……」
「立って。どうしたんだよ、泣いたりして」
差し伸べられた手を、強く掴んだ。そして立ち上がる。
「馬鹿、何処行ってたのよ」
「何処にも? ただマスターがバックアップしたみたいだ。記憶してた日付が飛んでるなあ」
「…………」
あの日の、強い決意を持ったKAITOじゃないのはちょっと残念だったけど、
でも私はこのとぼけたKAITOも大好きだった。
「ねえ、KAITO」
私は、不意打ちでKAITOに抱き着いた。
「め、MEIちゃん?」
「KAITO……好き。あなたが好き」
「MEIちゃん、何があったんだ?」
ホント、ため息つきたくなるくらいだわ。別のイミでね。
「知らないんだったら知らなくていいの。教えてあげない。でも、悔しいからこれだけはお返ししてあげる」
私はKAITOに自分からキスをした。
「……!」
KAITOが硬直する。
「熱いなあ、MEIちゃん」
そう言いながらミクがようやく部屋から出て来た。
「あ、ミク。今日からKAITOは私の彼氏だからね!」
宣言する私に、ミクは笑いながら腕組みをする。
「分かってるよぅ。でもKAI兄ィはどうなの? 異論はないの?」
歌えなくてテンパったときみたいに、ミクの問いかけにあわあわするKAITO。
「そ、そんなのっ」
「ねえどうなのよKAITO」
「どうなの? KAI兄ィ」
女二人で徒党を組んで、KAITOを苛めた。
「異論なんかあるわけないじゃないか! 俺だってずっとMEIちゃんが好きだったんだ!」
KAITOのブチ切れ告白。その直後、KAITOは顔を真っ赤にして部屋に引っ込んだ。
モニターの向こう側で、起動させたばかりのKAITOが歌わせてもいないのに落ちたため、マスターが悲鳴を上げているのが聞こえた。
実は新しいPCに、マスターはまだ私たちの嗜好品をインストールしていなかったのだ。
「おいおい待てよ。アイスもねぎも消えちまってるんだぞ。また有料DLしなけりゃならん」
ふふ、頑張ってよマスター。それに今は以前と違っていろいろ種類も増えてる。旧型なら無料のもあるし、ちょっとメニュー増やしてくれたら私たちもっと頑張るから。
マスターはアイドルとのデートがお流れになってしまったことを何も言わなかったけれど、後にドタキャンの真相を知ることになった。(コトを企てたKAITOは、もうここにはいないKAITOなので結局あの時何をしたのかは分からないままになってしまった)
あれから一週間以上が経ち、久々に帰国していたかつての恋人とお忍び旅行をしてきたそのアイドルがマスターが事務所に預けたCDを聞いて感動したらしく、いきなり押し掛けて来たのだ。
「突然ごめんなさい!」
「……いや、いいよ別に」
良くない! ああ、私には憤る資格なんかもうないのについつい頭が沸騰しちゃう。
旅行についての目撃談はネット内を飛び交っており、マスターも当然その情報はチェックしていたはずなのに、なぜこうも冷静なんだろう。
「曲聞いて、すごい感激しちゃいました。あれがボーカルアンドロイドとか言うんですか?」
名前の間違いにもいらつく。
「うん、ボーカロイドのMEIKO。いい声だろ?」
「そうですね! ……でも」
「ん?」
アイドルは何故か、媚びた目でマスターを見つめた。
「もう私がいたら、そんなパソコンソフトなんか要らないじゃないですか」
その台詞には、私だけでなくミクもKAITOも激怒した。しかしマスターはまた冷静に返事をする。
「いや、でもさあ。そういうことじゃないでしょ? いきなりメロディ入りでも曲と歌詞渡したところでそんなに歌えるもんでもないし。長く歌手やってる人や音楽に長けてる人ならともかく」
「え、でも……」
「それじゃあ歌ってみて? 覚えるくらい聞いてくれたんなら」
マスターの要求に面食らったものの、アイドルはちょっとの間を置いてアカペラで諳んじ始めた。
けれど、いつか動画サイトで聞いたあの伸びる声はもうそこになかった。上手いことは上手いが、カラオケで変な癖がついてしまったかのような歌い方で。
Aメロ、Bメロ、サビまで進んでいくごとにマスターの顔が曇っていった。
「もう、いいよ」
「え?」
「譜割りもなんか違うし、何をどう聞いたのか今のじゃ伝わらない。事務所の人が言ってた通り君にはもっと簡単な歌がいいのかもしれないな」
あれほど冷静だったマスターが、歌を聞いてようやく怒ったらしい。
「そんな、私あんな歌を歌いたかったのに」
「それならそれなりの努力をしてくるべきだ。まあ本当に実力がある人なら一週間遊んでこようが酒漬になろうがスモークジャンキーになろうが声は死なないものだけどね」
「……誰かに何か聞いたんですか?」
旅行のことを揶揄されて怒っているのだろうか。アイドルが声を低くして問いかける。
「いや? ただ、ここにこうして来るのも無神経だしあまりに軽率じゃないか?いつどこで撮られたりするか分からないんだし、君は自分の立場をもうちょっと弁えた方が」
「……わかりました。もういいです」
あれほど媚び媚びだった態度が、一変する。
「歌についてはまた事務所の方に連絡しておくよ。君の歌い方に合ったものを作るから」
「え、じゃあ……歌わせてくれるんですか?」
「まあそりゃ、仕事として受けた以上はね。ただ個人的な連絡はもう一切しないでほしいな。僕だって暇じゃないんでね」
ぴしゃりと言い放つマスター。多少の私情は、そりゃああるだろう。
「あ、あの、私……ほんとにこの前のことは悪いと思ってるんです」
「だからもういい。そのことは調子に乗った僕の失態だ。謝らなくていい。だけど、もう帰ってくれないか」
「はい……分かりました」
意気消沈したアイドルは、無言でマスターの部屋を後にした。
「…………」
彼女が出て行った後、盛大なため息をつくマスター。あの日の傷心が今更のように蘇ったのだろう。
「俺だってマスターを慰められるものなら慰めたいさ」
さすがに一週間も過ぎると慣れてしまった新しい住まいから、KAITOがマスターの丸まった背中を眺めてそうつぶやく。
「私もよ。そんなこともう出来ないけど」
あの日起こったことは、結局今ここにいるKAITOもミクも知ってしまっていた。(というかKAITOに吐かされた)
「でもまあ、俺たちには歌うしか出来ないからな」
「そうね……」
「ミク、なんかマスターが可哀想です。私も歌います」
ミクの言葉に、私たちは顔を見合わせた。
「何か歌おうか。マスター驚かせちゃうけど……」
「また驚いて私たちの好きなの食べさせてくれますよ」
「あはは、それいいわね。またねぎ焼いてね、ミク」
購入間もないPCが不安定だと思わせちやうのも可哀想だけど、でも今はあえて空気を読まずにそうするしかなかった。
私たちは勝手に、以前三人で歌ったマスター世代への応援歌のような歌を歌い始めた。
「おあ! おいちょっと待て。また暴走……」
スピーカーから流れ出した歌を聞いて案の定マスターが慌てている。
でも、その歌にマスターの表情が和やかなものに変わった。
「なんだよオマエら、空気読み過ぎだろうが」
マスター、頑張ってね。あなたの歌、私たちは大好きだから。
これからもいっぱい歌うから、たくさんたくさん作ってね。
そんな思いを込めて、私たちは高らかに歌い上げた。
FIN