夜の学校で理科のドリルを手にした後、僕は後ろを振り返る余裕もなく重音家に全速力で走っていた。僕はただ帰るために走ったというより、僕を呼ぶ声の主から逃げていたんだ。最上階から僕を呼ぶ声は校門を出てからも頭の中に直接響くようにはっきりと聞こえていた。その恐怖は、来るときに感じた夜道を歩く恐怖すら打ち消していた。
…痛む脇腹を押さえ汗ばんだ肌着が寒さを感じても足を緩められなかった。
「お帰りなさい。とても心配していたのよ」
視界に日本家屋の屋根が入ると、僕は力が抜けるようにスピードを落とした。街灯の光が一人の女性の姿を鮮明に映し出す。その顔がこの寒風の中外で待ってくれていたテトさんのものであることがわかると目頭が熱くなるのを感じつつ駆け寄る。心配は伺えても責める感じを受けないその声を聞いて、か細くごめんなさい、と答えると一気に涙が溢れ出した。
「レンくんどうしたのっ!?」
「夜道にひとりぼっちだったから怖かったんですっ」
体を震わせているのを見たテトさんの優しくも不安そうに尋ねる声を聞いて、僕は涙混じりの笑顔で首を振り、まんざら嘘ではないが、事実にしては不十分な答えを述べる。
―心に誓った。この人にだけは僕のことで心配を掛けたくない。たとえどれだけ常識で考えられないようなことが僕の身に起きても…
ふふふ、レンくんったら甘えんぼさんのままなのね、と頭を撫でてくれるテトさんの言葉に頷き袖で涙を拭った。
鞄の中に入ったまますっかり忘れていた肉まんはテトさんが暖めなおしてホットココアと一緒に出してくれた。
シャワーを浴びて浴衣姿で出てくるやいなや今日は一緒のお布団で寝る?と悪戯めいた笑みを浮かべてくるテトさんの申し出に、頬を真っ赤に染めた僕ははいともいいえとも答えないまま、二階の自室に戻った。
デスクチェアに腰を下ろし、申し訳程度に理科のドリルを開いたけど、シャーペンを走らせた問題はおそらく片手の指で数えられる数だっただろう。
日付が変わってからもしばらく起きていた分の眠気が押し寄せてくる。
家に帰り落ち着いたのか、必死で走った疲労感を今になって足にえつつあった。
ドリルにある問題で手を着けたのは片手の指に収まる数だろう。いつのまにベッドに倒れ込み眠りに落ちたのかは知る由もない。
その夜僕は二つの夢を見た。
一つ目。
呟くような物悲しい言葉が聞こえた。
「転入してきてごめんね。みんなさよなら」
夜の学校。校舎の最上階の窓から、長い髪を後ろでひとつに束ねた一人の女生徒が落ちてゆく。
月明かりに照らされた彼女の制服は、望華蕗中学のもののようにも見えるが、僕が学校で見るものより幾分デザインが質素なもののように見える。袖や襟の形状も変わっているようだ。
「!?」
僕は思わず目を覚ます。言いようのない寒気が全身を駆け抜ける。
夢だったことに肩から力が抜けていくが、そのリアルさのためだろうか。高鳴る心臓の鼓動が静まるのを待ってからもう一度布団に潜る。
二つ目。
闇の中、気の弱そうな少女が地面に座り込み泣いている。
突如、あたりに響き渡る啖呵。
「お姉ちゃんに触るな!」
見れば彼女の前には肩口によくわからないマークを付けたひとりの少年が立ちはだかり、目の前にいる何者かと闘っている、ようだ。
あれはなんだったんだろう。
翌日、朝のホームルームの前のこと。
僕は件のドリルを開いて苦悩していた。
「おっはよー鏡音。どうしたんだ頭抱えて…なになに?…こりゃやばいだろ」
よく通る声を掛けられた。見れば亞北ネルさんが僕の顔とドリルを見比べている。一瞬で状況を察したらしい彼女は、にやりと笑うと自分の学生鞄を探り、自分の理科のドリルをポンと机の上に置いた。
「貸してやるよ。提出は明日だし一日あればできるだろ?あたしはいいんだよ、とっくにできてるしさ」
いいの?と言う僕に彼女はいいから使え、と肩を叩く。
実のところ、昨日の夜の体験の恐怖感は今も消えていなかった。お言葉に甘えておこう。
「さすが」
亞北さんのドリルを開いて僕は嘆息する。
学年屈指の優等生らしい彼女のドリルは今回提出する範囲はおろか最後のページまですべての欄がとうに文字や数字や記号で埋められていた。記述式の問題や応用的な計算問題のひとつひとつの回答が簡潔で丁寧に書かれている。解答が生徒に渡されていないこのドリルだが、今彼女に貸してもらったものは模範解答に匹敵する仕上がりに違いないだろう。
その日の夕食後僕は彼女に借りたドリルをありがたく写させてもらい、床に着くことにする。
亞北さんにお礼を言ってしっかり礼をおかなきゃな。
―その夜、床についた僕は再びこんな夢を二回続けて見ることになる。
ふたつの夢はほとんど同じといってよいほど似通っていた。
「!?…なにするの!!やめて!だれか、だれか助けてーー!!」
「やめて、お願い!!こんなとこからじゃ死んじゃうっ…誰かいませんか!!」
場所はふたつとも真夜中の学校。内容はそれぞれひとりの私服姿(夜だからだろう)の女の子が―かろうじて人間らしき姿を持った存在―に、両手両足を何かに縛られたまま叫んでいる。悲痛に響く助けを呼ぶ声も空しく、やがてその女の子は窓の外に投げ出され、学校の最上階から落ちていく…というもの。
そしてこの夜の二度目の夢を見た後、恐怖で目を覚ました僕は高鳴る胸を押さえていた。
自分で飛び降りた、何者かに突き落とされた、という違いはあるとはいえ、ここまでリアルにここまで似たような夢を二日で三回も見ることはあるだろうか。そしてどの夢もただの悪夢よりも胸をえぐるような恐怖を感じる。
「いったい…」
僕が見たこれらの夢は望華蕗中学に何か関係があるのだろうか。
TO BE CONTINUED
…痛む脇腹を押さえ汗ばんだ肌着が寒さを感じても足を緩められなかった。
「お帰りなさい。とても心配していたのよ」
視界に日本家屋の屋根が入ると、僕は力が抜けるようにスピードを落とした。街灯の光が一人の女性の姿を鮮明に映し出す。その顔がこの寒風の中外で待ってくれていたテトさんのものであることがわかると目頭が熱くなるのを感じつつ駆け寄る。心配は伺えても責める感じを受けないその声を聞いて、か細くごめんなさい、と答えると一気に涙が溢れ出した。
「レンくんどうしたのっ!?」
「夜道にひとりぼっちだったから怖かったんですっ」
体を震わせているのを見たテトさんの優しくも不安そうに尋ねる声を聞いて、僕は涙混じりの笑顔で首を振り、まんざら嘘ではないが、事実にしては不十分な答えを述べる。
―心に誓った。この人にだけは僕のことで心配を掛けたくない。たとえどれだけ常識で考えられないようなことが僕の身に起きても…
ふふふ、レンくんったら甘えんぼさんのままなのね、と頭を撫でてくれるテトさんの言葉に頷き袖で涙を拭った。
鞄の中に入ったまますっかり忘れていた肉まんはテトさんが暖めなおしてホットココアと一緒に出してくれた。
シャワーを浴びて浴衣姿で出てくるやいなや今日は一緒のお布団で寝る?と悪戯めいた笑みを浮かべてくるテトさんの申し出に、頬を真っ赤に染めた僕ははいともいいえとも答えないまま、二階の自室に戻った。
デスクチェアに腰を下ろし、申し訳程度に理科のドリルを開いたけど、シャーペンを走らせた問題はおそらく片手の指で数えられる数だっただろう。
日付が変わってからもしばらく起きていた分の眠気が押し寄せてくる。
家に帰り落ち着いたのか、必死で走った疲労感を今になって足にえつつあった。
ドリルにある問題で手を着けたのは片手の指に収まる数だろう。いつのまにベッドに倒れ込み眠りに落ちたのかは知る由もない。
その夜僕は二つの夢を見た。
一つ目。
呟くような物悲しい言葉が聞こえた。
「転入してきてごめんね。みんなさよなら」
夜の学校。校舎の最上階の窓から、長い髪を後ろでひとつに束ねた一人の女生徒が落ちてゆく。
月明かりに照らされた彼女の制服は、望華蕗中学のもののようにも見えるが、僕が学校で見るものより幾分デザインが質素なもののように見える。袖や襟の形状も変わっているようだ。
「!?」
僕は思わず目を覚ます。言いようのない寒気が全身を駆け抜ける。
夢だったことに肩から力が抜けていくが、そのリアルさのためだろうか。高鳴る心臓の鼓動が静まるのを待ってからもう一度布団に潜る。
二つ目。
闇の中、気の弱そうな少女が地面に座り込み泣いている。
突如、あたりに響き渡る啖呵。
「お姉ちゃんに触るな!」
見れば彼女の前には肩口によくわからないマークを付けたひとりの少年が立ちはだかり、目の前にいる何者かと闘っている、ようだ。
あれはなんだったんだろう。
翌日、朝のホームルームの前のこと。
僕は件のドリルを開いて苦悩していた。
「おっはよー鏡音。どうしたんだ頭抱えて…なになに?…こりゃやばいだろ」
よく通る声を掛けられた。見れば亞北ネルさんが僕の顔とドリルを見比べている。一瞬で状況を察したらしい彼女は、にやりと笑うと自分の学生鞄を探り、自分の理科のドリルをポンと机の上に置いた。
「貸してやるよ。提出は明日だし一日あればできるだろ?あたしはいいんだよ、とっくにできてるしさ」
いいの?と言う僕に彼女はいいから使え、と肩を叩く。
実のところ、昨日の夜の体験の恐怖感は今も消えていなかった。お言葉に甘えておこう。
「さすが」
亞北さんのドリルを開いて僕は嘆息する。
学年屈指の優等生らしい彼女のドリルは今回提出する範囲はおろか最後のページまですべての欄がとうに文字や数字や記号で埋められていた。記述式の問題や応用的な計算問題のひとつひとつの回答が簡潔で丁寧に書かれている。解答が生徒に渡されていないこのドリルだが、今彼女に貸してもらったものは模範解答に匹敵する仕上がりに違いないだろう。
その日の夕食後僕は彼女に借りたドリルをありがたく写させてもらい、床に着くことにする。
亞北さんにお礼を言ってしっかり礼をおかなきゃな。
―その夜、床についた僕は再びこんな夢を二回続けて見ることになる。
ふたつの夢はほとんど同じといってよいほど似通っていた。
「!?…なにするの!!やめて!だれか、だれか助けてーー!!」
「やめて、お願い!!こんなとこからじゃ死んじゃうっ…誰かいませんか!!」
場所はふたつとも真夜中の学校。内容はそれぞれひとりの私服姿(夜だからだろう)の女の子が―かろうじて人間らしき姿を持った存在―に、両手両足を何かに縛られたまま叫んでいる。悲痛に響く助けを呼ぶ声も空しく、やがてその女の子は窓の外に投げ出され、学校の最上階から落ちていく…というもの。
そしてこの夜の二度目の夢を見た後、恐怖で目を覚ました僕は高鳴る胸を押さえていた。
自分で飛び降りた、何者かに突き落とされた、という違いはあるとはいえ、ここまでリアルにここまで似たような夢を二日で三回も見ることはあるだろうか。そしてどの夢もただの悪夢よりも胸をえぐるような恐怖を感じる。
「いったい…」
僕が見たこれらの夢は望華蕗中学に何か関係があるのだろうか。
TO BE CONTINUED