SF百科図鑑 ティラノサウルスのスケルツォ


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■ ティラノサウルスのスケルツォ Scherzo With Tirannosaurs マイクル・スワンウィック 2005.11.25
(ヒューゴー賞)
キーボード奏者は、スカーロッティの一分から三分程度の短く非常に複雑で洗練されたハープのソナタを選んで演奏していた。ハドロサウルスの群れが窓辺に溢れていた。何百頭もの獣が砂ぼこりを舞い上げ、愛らしく抑揚のない、音楽的なまでの鳴き声をあげた。壮観だった。
だが、ホル・ドゥーヴルがちょうどきたところだった。大型褐藻で包んだプレシオザウルス、マイアサウルスの薄切り卵を塗り付けたシロチョウザメ、トーストに乗せた焼きドードーの線切り、その他一ダースもの御馳走。それゆえ、ありふれた草食獣の逃走などどうでもよかった。
誰も大した関心を払わなかった。
ただし、その子を除いては、である。彼は窓辺に張り付いて、その年頃の少年としても特別な熱心さで見ていた。わたしの見たてでは十歳ぐらいではなかろうか。通り過ぎるトレイからシャンペン入りのグラスをとって、わたしは少年の隣に行った。「きみ、面白いかい?」
見上げることもなく、少年はいった。「あいつらは、何をあんなに怖がっているの? どうして……?」そして、ジープに乗ったカウボーイの一群に目を止め、見下ろした。「なーんだ」
「お客さんの目を楽しませるために、ちょっとした趣向が必要というわけさ」わたしはワイングラスを持った手で、獣の群れをへだてた遠くにある森を指した。「だが、あそこにはたくさんの凶暴な肉食獣がいるんだよ……トルードンに、ドロメオサウルス……年老いた魔王もいるんだよ」
少年は黙って、もの問いたげにわたしを見上げた。
「魔王というのは、あだ名だけどね。怪我をした年寄りの凶暴なレックスさ。ここ一か月ほど、ステーションの周りをうろついて、ゴミ捨て場を漁っているんだ」言い方が悪かったようだ。少年は悲しそうな顔をした。T・レックスがゴミあさりをするなんて! そんなこと言わないでよ、と言わんばかりに。「ティラノサウルスは有能な狩人だ」わたしはいった。「ライオンに似ている。手ごろな獲物を見ると、すぐに飛びかかるんだ、信じるかい? ティラノサウルスが、年老いた魔王のように怪我をしたら……そう、どんな動物よりも野蛮で危険な存在になるんだ。腹が減っていなくても、獲物を殺しまくるのさ」
それで、少年は満足したようだった。「やっぱりそうだよね」少年は言った。「安心したよ」
黙ったまま、わたしたちは森を見つめ、動く影を探し求めていた。やがて夕食を告げるチャイムが鳴り、わたしは少年を席に連れて行った。既にハドロサウルスは、最後の一頭まで逃げ去っていた。少年は、明らかにいやいやながらの表情で、席に戻った。
白亜紀パーティーは、われわれの大きな集金イベントだった。一席あたり十万ドル。食事とダンスが始まる前に、静かにオークションが行われる。六席あるテーブルのひとつをまるごと予約した客は、専属的に、担当の古生物学者の接待を受けることができるのだ。わたし自身、昇進する前は古生物学者だった。わたしはタキシードに腰帯姿で部屋を巡回し、万事スムーズにいっているかどうかをチェックしていた。ウェーターが出たり入ったりしていた。スクリーンの背後をのぞくと、通時孔の入り口に彼らが慌てて入っていき、すぐに、料理のいっぱい載ったトレイを持って、反対側から出てくる様子が見えた。赤身の好きな客向けの、マストドン乳製モッツァレラチーズをかけたスティラコサウルスのまる焼き。白身好きには、アーモンド風味のアルケオプテリクス。菜食主義者には、ラディッチョとウイキョウの実。
たえず音楽が流れ、会話が弾み、世界一の眺望が開けているのだ。
ドナルド・ホーキンスは、少年のテーブルと相席だった……デ・シャーヴィル一家のテーブル。座席表によると、太った粘液質的な男がジェラルド、つまり金づるの家長。その隣の女がダニエル、以前は自慢の妻だったが、今は優雅に老け込んだという感じだった。その横に、二人の客(キャディガン夫妻)がいた。二人は、何もかもに、やや圧倒され気味だった。恐らく、従業員とその妻ではなかろうか。あまりしゃべらなかった。機嫌の悪そうな娘のメルシンは、小さな黒いドレスを着て、その完璧なバストを、ごく自然に誇示していた。退屈して落ち着かないように見える……まさしく、歩くトラブルといった感じだ。それから、例の少年。名前はフィリップ。
わたしは、ホーキンスが相席していることから、そのテーブルには特に注意を払っていた。彼は初めての参加者だが、恐らく長続きしないだろうと思った。だが彼は、テーブルのメンバーを楽しませているようだった。若く、綺麗な顔をしていて、礼儀正しい……彼は、全てを備えていた。わたしは、メルシンが椅子の中に身を沈めて、黒いまつげ越しに、何もいわず、ホーキンスを観察しているのに気づいた。ホーキンスは、幼いフィリップが何か言ったのに答えて、少年のような、悪魔でも惚れるような笑みを浮かべた。部屋の反対側からでも、少年の英雄への崇拝の熱が感じられた。
そのとき、今まで鳴らなかった携帯ベルが突然鳴った。わたしは後白亜紀を抜け出して、二〇八二年のホームベースにある厨房に戻った。

*****

時間保安官(TSO)が、わたしを待っていた。TSOの主要任務は、タイムパラドックスを防止し、「不変法則」が、われわれの時間に対する優先決定権を奪わないようにすることだ。たいていの人が、タイム・トラヴェルはつい最近、人間の手で発明されたものと思っている。だから、われわれのスポンサーたちは、なるべく己の存在を公にしたがらない。
厨房では、誰もが大騒ぎしていた。ウェーターの一人が、両手両足を広げた格好でテーブルに寄り掛かり、もう一人が、折れたと思しき腕をかばいながら床に伸びていた。TSOは両方にピストルで狙いをつけている。有り難いのは、〈老人〉がいないことだった。もしもう少し問題が大きく、厄介だったなら……天地創造説論者が爆弾を仕掛けたとか、百万年未来からメッセージが届いたとかなら……彼は来ていただろう。わたしが姿を現すと、みんながいっせいに喋り始めた。
「おれはなんにもやってない、こいつが」
「第九級の規則違反の罪ですから」
「おれの腕の骨を折りやがったんだ。おれを床に投げとばしやがったんだぜ!」
「仕方ありませんでした。彼らを厨房から出してください!」
単純な情報漏洩事件だということが明らかになった。年老いたウェーターの一人が、後の時代から雇ってきた男と共謀して、若いころの自分に、確実に儲かる投資先リストをこっそり送ったというのだ。それは、彼らを大金持ちに成り上がらせるに十分なものだった。ステーションは厨房に調査端末を設置してあるため、TSOは、書類の送り主が変わったのに気づいた。今のところ、容疑者はすべてを否認しているとのこと。
どっちみち、そんな手口はうまく行くはずがない。政府は歴史記録に厳格な規制をしている。彼らが目論んだような方法で富を取得することは、あまりに目立ち過ぎて、すぐにばれてしまう。わたしはウェーターを二人とも解雇し、警察を呼んで連れ去ってもらった。さらに、数時間前に電話をして、二人の代わりの人材を要請し、サービスに遅れが生じないようにするため、直ちに任務に就くように取り計らった。それからTSOを呼び、三日前のわたしにメモを送ってすませるのでなく、わたし自身を現在まで呼び戻していただいて、有難うと礼をいい、送りだした。だが実のところ、事件が起こっても、普通はメモで済ますものだ。ベルで呼ばれたから、わたしが自分で処理しなければならなくなったのである。
確かに時間保安業務上のよくあるミスで、特に目くじら立てるほどでもないだろう。
しかし、わたしはうんざりした。そこで〈丘の上〉ステーションに戻るさい、通時孔を二時間後に設定した。わたしが戻ったとき、ちょうどテーブルの皿が片付けられてデザートとコーヒーが出るところだった。だれかがマイクを渡し、わたしは注目を促すために、マイクを二回コツコツ叩いた。窓の前に立ったわたしの背後に、壮大な日没の眺めが見えていた。
「本日お集りの皆様方」わたしはいった。「もう一度、後白亜紀、白亜紀の最後期について御説明申し上げます。ここは哺乳類時代開始の直近の時点に設置された研究ステーションでございます。ですが御心配なく……恐竜を絶滅させた例の流星が落ちるのは、もう数千年後の話ですから」客が笑うのを待って、再び続けた。
「外をご覧ください、恐竜使いのジーンが、匂い仕掛けをセットしています。ジーン、お客さまに手を振って」
ジーンは、短い三脚をいじっていた。陽気に手を振り、再び作業に戻った。金髪のポニーテールにカーキ色のショーツ姿は、基礎科学を学び始めた学生風だった。だがジーンは、実際には世界でもトップクラスの恐竜行動学者に名を列ねており、そう自負してもいた。いかに努力しても、噂はどこかで漏れるものだ。
作業が終わり、ジーンはぐるぐる巻きのフューズのワイヤーを伸ばしながら、ステーションのドアに戻ってくるところだった。窓はすべて二階にある。一階のドアは、すべて武器が装備されている。「ジーンは仕掛けを済ませ、ステーションに逃げ戻るところです」わたしはいった。「匂い仕掛けがセットされているのに、武器も持たずに外に出たがる方はいらっしゃいませんよね?」
「何が入っているんですか?」誰かが大声できいた。
「トリケラトプスの血です。捕食獣をおびき寄せるのです……特に百獣の王、ティラノサウルス・レックスを」ディナー客の間から、賛嘆のつぶやきが漏れた。ここにいる誰もがT・レックスのことを聞いていた。T・レックスは、真のスターの資質を備えていた。わたしは、あっさり講義口調に切り替えた。「ティラノサウルスを解剖すると、異常に巨大な嗅覚中枢を持っていることが分かります……ヒメコンドルを除いて、どんな動物よりも、脳全体に占める割合が大きいのです。レックスは、獲物を匂いで嗅ぎ分けるのであります」……といっても、たいていは死肉の匂いなのだが、あえて触れなかった。「何マイルも離れた場所から。ご覧ください」
匂い仕掛けからピンクの霧状の煙が突然溢れだした。
わたしはデ・シェヴィル一家のテーブルを見た。メルシンが片足をパンプスから抜いて、ホーキンスのズボンの上に這わせているところだった。彼は赤面していた。
父親は気づいていない。母親(というよりまま母だろう)は気づいていたが、興味がなさそうだ。彼女にとってこういうことは、女なら誰でもすることなのだろう。メルシンの生脚の美しさに気づかされずにはいられなかった。「もうしばらく時間がかかります。お待ちいただく間に、当ステーションのシェフ・ルパートの絶品のパイをぜひお召し上がりください」
わたしは丁寧な拍手に送られて退場し、テーブルを回り始めた。あるときはジョークを飛ばし、あるときはお世辞をいい。世渡りにはリップサービスが必要。
わたしがデ・シャーヴィル一家のテーブルに辿り着いたとき、ホーキンスの顔面は蒼白だった。
「すみません!」彼は急に立ち上がった。「お話があるんですが」
彼はわたしをほとんど引きずるようにしてテーブルを離れた。
人に聞かれない場所に着くと、彼は興奮のあまりどもりがちに言った。「あ、あ、あの女は、ぼくに、そ、その……」
「彼女の求めているものは、わかります」わたしは冷静にいった。「彼女はもう、大人ですからね……それぐらい、自分で決めなさい」
「あなたはわかってない! あのテーブルに戻るのは、真っ平ごめんです」ホーキンスは心底いやがっていた。わたしははじめ、彼が自分の将来の職業についての、気の滅入るような事実を漏れ聞いたのではあるまいか、と危惧した。だがたとえそうだとしても、いずれ正論には思えない。それとこれとは全く話が別だ。
「わかりました」わたしはいった。「今すぐ出て行きなさい。ただし、わたしは秘密が嫌いでね。あなたの言い分を詳しく記録して、オフィスに置いて行くように。逃げ道はないのですよ、お分かりですね?」
「ええ」彼の若くととのった顔に、安堵の表情が広がった。「ありがとうございます」
彼は立ち去ろうとした。
「おっと、一つ言い忘れていました」わたしは自己嫌悪を感じながら、何気ない口調で言った。「集金パーティーが終わるまでは、テントに近寄ってはなりません」

****

わたしがホーキンスは病気になったと告げ、代わりにホーキンスの席に着いたときにも、デ・シャーヴィル家の人々は本気にしなかったが、わたしはポケットからティラノサウルスの歯を取り出して、フィリップに渡した。それは実を言うと、自然に抜け落ちたのを拾っただけのものだが……レックスはしょっちゅう歯が抜け落ちる……わざわざ注釈を加える必要もあるまい。
「ずいぶん鋭いのね」デ・シャーヴィル夫人が、少し驚いたように言った。
「しかも、先がぎざぎざになっています。今度ステーキを食べるときに、ナイフ代わりに使っていいかどうか、お母さんにきいてごらん」わたしはフィリップにいった。
この一言で、彼は完全に気が紛れたようだった。子供は気紛れなものだ。フィリップは、すぐにホーキンスのことを忘れた。
だが、メルシンは違った。怒りに目を白黒させ、立ち上がってナプキンを床に投げつけた。「教えてちょうだい」彼女はいった。「あんた何様のつもり?」
運良く、ちょうどそのとき魔王が現れた。
数滴の血のしずくが、窓に飛び散った。魔王は窓から中を覗き込みながら、とびあがって窓を破壊しようとしていた。
ガシャン! ガシャン! 窓ガラスが衝撃に揺れ、震動した。ディナー客の間から、叫び声や悲鳴が上がった。中には立ち上がる人もいた。
わたしの合図で、管楽器のクァルテット楽団が楽器を持って立ち上がり、魔王がとんだり引き裂いたり鳴き声をあげたり、激情と憤怒の完璧な修羅場を演じているのを横目に演奏を始めた。楽団は、ショストコヴィッチのピアノ・クインテットのスケルツォを選んだ。
スケルツォはユーモラスだが、山場になると嵐のように無制限な演奏をするのが大半で、悪夢や捕食獣の狂気にはうってつけなのだった。
ガシャン! ガシャン! ティラノの頑丈な頭が窓を何度も何度も叩いた。長い間、ティラノは狂ったように顎で窓ガラスを引っ掻き、ガラスに長い傷をいくつも残した。
フィリップは体を全力で窓に押し付け、自分と凶暴な死の恐竜との距離を、できるだけ近付けようとしていた。殺し屋の口が彼の体をくわえようと動いたときには、狂喜の叫びを上げた。恐竜にできる限り近づきたいという少年の気持ちが、わたしにはわかった。よくわかっていた。
わたしも少年の年頃には、同じ気持ちだったのだ。

****

魔王がとうとう疲れ果てて、気分を害した様子で去って行くと、わたしはデ・シャーヴィル家のテーブルに戻った。フィリップも家族のもとに戻っていた。少年は蒼ざめていたが、楽しそうだった。
姉も同じだった。彼女の呼吸が速くなっているのに気づいた。魔王は若い女性にそういう効果を与えるのだ。
「ナプキンを落としてますよ」わたしはナプキンをメルシンに渡した。その中にはハガキ大の宣伝用の地図が入っていて、地図には、〈丘の上〉ステーションとその背後の、研究者が生活しているテントの都市が載っていた。テントの一つが○印で囲んであった。その下に、「他の人がダンスを踊っている間に、来てください」と書いてあった。
わたしはその下に「ドナルドより」とサインしておいた。

****

「大きくなったらぼく、古生物学者になりたいんだ」少年は熱っぽく語った。「解剖学者や世話係じゃなくて、動物行動学をやりたい」誰かが少年を家に連れて帰るべきだった。家族はまだダンスに興じている。それにメルシンは、ホーキンスのテントに行ったきり戻ってこない。
「やるじゃないか」わたしはいった。少年の肩に手をかけた。「しっかり勉強したら、わたしのところへおいで。わたしが秘訣を教えてあげよう」
少年は立ち去った。
彼は人生観が変わるような経験をしたのだろう。どんな気持ちなのかはわたし自身がよく知っていた。わたし自身、ニュー・ヘヴンのピーボディ美術館で、ツァリンガーの壁画「爬虫類の時代」の前に立ったとき、同じ経験をしたのだ。それはタイム・トラヴェルが実現する前で、恐竜の絵が現実のようにリアルに感じられたものだ。今ならわたしは、そこに描かれた恐竜の本物との違いを、百ばかり指摘できる。だが、わたしの若かりし日、アトランティスの遠く太陽の霞んだ朝、わたしはそのすばらしい恐竜たちの姿に見とれたまま立ち尽くすしかなく、母親がわたしを引っ張り出すまで、頭の中は驚異の思いでいっぱいだったものだ。
それはほんとうに憐れみだった。フィリップは好奇心と熱意に満ち満ちていた。立派な古生物学者になれるだろう。そのことはよくわかった。だが、彼が夢を実現することはできないだろう。彼の家族は、そんなことを彼に許すには、あまりに裕福過ぎる。
わたしは知っていたのだ。なぜなら、今後百年間の職員名簿に目を通したのに、彼の名前はどこにもなかったから。
それは、わたしが胸のうちにしまっている何千という秘密の中でも、絶対に打ち明けてはならないごく少数の秘密に属していた。とはいえ、わたしは悲しくてやりきれなかった。この一瞬一瞬に、わたしの長年のつまらない取り計らい、取るに足りない経験といったもののの全てが、のしかかってくるような気がしたのだ。
それから、わたしは通時孔をのぼって、一時間前に戻った。
わたしは、密かにステーションを抜け出し、メルシンとの待ち合わせに向かった。

*****

通時孔のメンテナンスには、費用がかかった。通常運転の合間……つまり、集金パーティーが行われない間……に、何か月もの期間をかけて、メンテナンスが行われる。そのために、壁で囲まれた居留地がある。軍隊の余ったプラットフォーム・テントと、恐竜を寄せつけないための電気柵が設けられている。
メルシンがテントに入ってきたのは、暗くなってからだった。
「ドナルド?」
「しーっ」わたしは指を彼女の唇に当て、彼女を自分の方に引き寄せた。片手でゆっくりと、しわになったベルベットの布切れ越しの背中を撫で下ろし、ふたたび撫で上げてから、スカートの中のエレガントで小さな尻に手をあてた。彼女は唇を上げてわたしの唇に合わせ、激しく情熱的にキスをした。
それから彼女を簡易ベッドに転がし、互いに服を脱がし合った。彼女はわたしのシャツを引き裂いて、ボタンを三つ飛ばした。
ありがたいことに、メルシンはよく声を上げた。ベッドの中では要求の多い自己中心的なタイプで、してほしくないことはしてほしくないと言うし、次に何をしてほしいかを、全く恥ずかしがらずに口に出した。とにかく関心を払ってほしいというタイプだったのだ。これもわたしにはありがたかった。
わたしには、気晴らしが必要だった。
なぜなら、わたしがホーキンスのテントの中で、ホーキンスの欲しくない女を代わりに抱いている、今このときに、彼は外のどこかで殺されているはずだからだ。わたしが昨日受け取り、今夜あとで書くことになる運転報告によると、彼は脳腫瘍の激痛に苛立った年老いた凶暴なレックスに、生きたまま食われてしまっているのだ。悲惨としか言いようがない。そんな話は聞きたくもない。わたしはなるべく考えないように努めた。
ツケは必ず回ってくる……メルシンは欲望でテントを燃え上がらせた。わたしがそれを利用した。だから何なのだ? わたしは今までに、もっとひどい罪を山ほど犯している。彼女はまるでホーキンスを愛してもいないし、そんな人間など知りもしないかのようだった。彼女は精神の飢えを癒したがっている、ただの欲求不満で冒険好きの金満娘にすぎない。寝た男の数が、一人増えたというだけだ。その手の娘は、数多く知っている。仕事上の役得の一つにすぎない。
ベッドの頭上に、きれいに磨き上げたトリケラトプスの頭蓋骨が置いてある。その形が、薄く蒼白く、暗闇の中でぼんやりと、光彩を放っている。メルシンはエクスタシーに達したとき、その角の一つを強く握りしめ、床板の上でがたがた鳴らした。
やがて彼女は満足げに、骨の接着剤と、わたしの匂いをさせながら、帰って行った。わたしたちはお互いに、小さなスリルを味わった。その間わたしは一言もしゃべらなかったが、彼女は気づきすらしなかった。

*****

T・レックスは捕食獣としては大したことがない。とはいえ、人間を殺すのにそれほど技術は要らない。逃げるには脚が遅いし、隠れるには体が大きすぎる……ゆえに、われわれ人間は、ティラノサウルスにとってまたとない獲物だ。ホーキンスの遺体が発見されたとき、居留地じゅうが大騒ぎになった。わたしは始終、自動人形のように動き回り、魔王の写真を撮ること、死骸がなくなる前に回収すること、報告書をオフィスに提出すること、といった、おおまかな指示を出して回った。そのあと、全員を一堂に集めて、タイムパラドックスの講義をした。誰も起こったことについては、一言も話さないこと。そんなことをすれば、すぐに解雇である。訴訟が提起されるぞ。緊急事態。懲戒と罰金徴収。
そういったこと。
わたしが日課の運転報告をつけるため、オフィスに帰りついたのは午前二時だった。
ホーキンスのメモがわたしを待っていた。すっかり忘れていた。見るのを明日に延ばそうかと思った。だがそうすれば、これまでになくいやな気分になるだろう。なら、いま見たほうがましだ。
わたしはパッドのライトをつけた。スクリーンにホーキンスの青白い顔が現れる。今まさに罪を自白しようとする犯罪者のごとく、強ばった顔で、彼はいう。「ぼくの家族は、ぼくが科学者になることを望んでいません。家にとどまり、家業をあずかるべきだと考えているんです。家にずっといて、脳みそが腐ってもいいんだと」彼の表情は、私的な記憶でひきつっていた。「だから最初に知ってほしいのは……ドナルド・ホーキンスは、ぼくの本名でないことです。
母は、若いころ男にだらしがなかった。たぶん、ぼくの実の父が誰かも知らないんじゃないかと思います。だから、ぼくが生まれたことも秘密にされました。ぼくは、祖父母の家で育てられました。祖父母は、子育てには年をとり過ぎていたから、ぼくを自分達が若かった時代に戻して、母と一緒に育てました。ぼくは、姉が実は姉ではなく、母だと知ったとき、十五歳になっていました。
ぼくの本名は、フィリップ・デ・シャーヴィルです。ぼくは、若いころの自分に会うために、テーブルを交換しました。そしたら、メルシン……つまり、母が……ぼくを誘惑し始めたんです。今ならわかっていただけますね……」彼は困惑したように笑った……「ぼくがエディプスの道をいやがった理由が」
パッドのライトが一度消え、すぐに点灯した。後から思い出して追加したのだろう。「ああ、そうです、一つ言いたかったことが……あなたが今日言ってくださったこと……若いほうのぼくにですが……とても励みになりました。それから、ティラノの歯。ほんとに、ぼくにとっては、とても大事なものでした。だから、あの、その……ほんとうに、ありがとうございました」
ライトが消えた。
わたしは、両手で頭を抱えた。何もかもが、どくどくと脈打っているように感じられる。全宇宙が虫歯の中に入り込んだ気分。あるいは、年老いた病気の恐竜の脳腫瘍が感染した気分というべきか。わたしも馬鹿ではない。すぐに全ての意味が分かった。あの少年……フィリップは……わたしの息子だ。
ホーキンスは、わたしの息子だ。
わたしに息子がいたなんて、知らなかった。そして、その子は、もう死んでしまったのだ。

*****

寂寞として、空虚な時間が過ぎ、わたしは、デスクの前のホログラフの作業盤に、時間線を描く作業を始めた。簡単な〈ホーキンス/フィリップ〉の二重ループの図を。わたし自身のものは、もう少し複雑だった。それからわたしは、TSO、ウェーター、古生物学者、音楽家、最初にステーションを建造し、用済みになったときには定着物を撤去してくれることになっている工員、といったファクターを書き加えていった……全部で百人もの該当者が恐らくいるだろう。
作業が終わると、〈丘の上〉ステーションを複数の生命の交差した一個の時間単位として、三次元的に説明した図が出来上がった。それは、複雑に絡み合った一つの地獄絵だった。
まるでゴルディアスの結び目のように見えた。
それから、若いころの自分にまでさかのぼるメモを念入りに作成した。炭化鉄の剃刀のごとく尖った、〈ダマスカスの剣〉を。〈丘の上〉ステーションを、パラドックスに喘ぐ、幾千もの断片へと切り刻んでしまうメモを。
彼を雇い、彼女を解雇し、百人の若い科学者を雇う。全員が、紀元前一万年でも子供を作るのに適し、その能力がある者を選ぶ。そして、どの子の父親にも絶対にならないこと。
そうすれば、スポンサーたちは、多数の怒り狂ったスズメバチのように食ってかかってくるだろう。「不変法則」が、タイム・トラヴェルを、人類の手から遡及的に剥奪するだろう。それに関連するすべてのものが、現実から遊離してループし、量子力学上の不確定性が崩壊した〈触媒〉の中へ消えてしまうだろう。何千という献身的な科学者の研究や発見が、人類の叡智から消えてしまう。そうすれば、わたしの息子がこの世に生を授かり、不必要な死へと無慈悲に送りだされるようなことはないのだ。
これまでわたしが一生を費やし成し遂げようと努めてきたすべてを、キャンセルできるのだ。
名案じゃないか。
メモが仕上がると、〈重要〉及び〈本人のみ閲覧可能〉のマークをつけた。それから三か月前に送る準備をした。
カチリと音がして、背後のドアが開いた。わたしは椅子を回して振り返った。わたしを止めることが物理的に可能な、ただ一人の男が歩み入った。
「あの少年は、死ぬまでに二十四年もの人生を楽しむことができるんだよ」
わたしは彼の目を上目遣いに見つめた。
わたし自身の目を。
その目がわたしを魅了し、抑えつけた。深い茶色の目、その目尻には人生の年輪を重ねて無数の皺が刻まれている。わたしは〈丘の上〉ステーションと契約して以来、年老いた自分自身と一緒に働いていた。いまだにかれらはわたしにとって謎であり、全く不可解だった。かれらは、わたしを蛇に睨まれたネズミのような気分にさせるのだ。
「あの少年だけではなく」わたしはいった。「すべてが問題なのです」
「わかっている」
「わたしは今夜初めて彼に会った……つまり、フィリップにです。ホーキンスはただの一見客でした。彼についてはほとんど知らなかったんです」
〈老人〉はグレンリヴェットの瓶にキャップをして、酒瓶の棚に戻した。そうするまで、彼が飲んでいることすら気づかなかった。「わしは若いころ、自分がどんなに情緒的な人間だったか覚えていないんだよ」彼は言った。
「わたしはもう若くない」
「わしの年まで待つことだな」
わたしには〈老人〉が何歳なのかはっきりわからなかった。このゲームをする人間はみな延命治療を受けることができる。そして〈老人〉はこの馬鹿げたゲームを自分でコントロールできるほどに長い間、続けていた。わたしにわかっているのは、彼とわたしが同一人物だということだけだ。
わたしは突然、惑乱した。「あのくそったれのガキが!」ののしる。「そもそも、あいつはこの居留地の外で何をしていたんだ?」
〈老人〉は肩をすくめた。「彼は好奇心が強かったんだ。全ての科学者と同じさ。彼は何かを見つけて、調べに出て行った。ほうっておくんだ、少年を。覆水盆に帰らず、だよ」
わたしは自分が書いたメモを見た。『われわれは必ず見つけ出してみせる』とあった。
〈老人〉は、わたしのメモの横に、もう一つのメモをおいた。「わしは君のために、わざわざこれを書いたんだ。君が、自分で書かねばならない苦痛を味わわなくて済むようにな」
わたしはそのメモを手にとり、中身を見た。昨日受け取ったのと同じものだった。『ホーキンスは本日、現地時間深夜間もなくのころ、魔王に襲われて死亡した』わたしは読み上げた。『噂が漏れないようあらゆる必要措置をとること』強烈な嫌悪感に襲われながら、わたしはいった。「これを見てわたしは、この小汚いシステムをだめにしてやろうと思ったんだ。わたしが、自分の息子を平気で死にに行かせるような人間になれると思うのか? つまりあんたのような人間に」
核心をついたようだ。長い間〈老人〉は口をきかなかった。「なあ」やっと彼は言った。「ピーボディの日のことを覚えているかな?」
「覚えていることはわかっているだろう」
「わしはあの壁画の前に立って、わしの全身全霊を込めて願ったんだ……つまり君のな……本物の、生きた恐竜が見られますようにってな。だがそのころ、まだ八歳のわしですら、そんなことは不可能だと知っていた。そんなことはありえないと」
わたしは何も言わなかった。
「ところが、神が奇跡を施したのだよ」彼は言った。「それを、神の顔に投げ返すわけにはいかんだろうが」
そして、彼は去った。
わたしは残された。
それは、わたしの役目だった。わたしのデスクの前に、二つの可能な未来が横並びになっており、わたしは、どちらを選ぶこともできる。宇宙は、あらゆる瞬間において本質的に不安定である。もしパラドックスがあり得ないことなら、誰もそれを回避するために、エネルギーを費やしたりしないのだ。〈老人〉は、わたしがあらゆる関連性のあるファクターを秤にかけ、正しい選択をし、その結果を受け入れて生きてゆくものと信じている。
それこそ、彼がわたしに対してした最も残酷なことだ。
残酷ということについて考えると、〈老人〉の目を思い出さずにはいられない。見つめると、その中に吸い込まれ、溺れてしまいそうな目。その中にいったいいくつの死体が埋まっているのか分からないほど、暗い瞳だ。これだけ何年も彼と一緒に働いてきたのに、わたしにはいまだにそれが聖者の瞳なのか、地上で最も邪悪な者の瞳なのか、判別ができなかった。
わたしの前に、二つのメモがある。その一つに手を伸ばし、ためらい、手を引っ込める。急に選択が難しくなったような気がした。
夜は、超自然的なまでに静かだった。世界中がかたずを飲んで、わたしの選択を待っているかのようだった。
メモに手を伸ばした。
そしてわたしは、そのうちの一つを選んだ。