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<p>2001年</p> <p>6/8</p> <p>マキュー「リンカーン列車」★★★★1/2<br> 改変歴史ものの小品。改変歴史といっても歴史を改変する話と、初めから異なっている歴史の話とがあるが、本編は後者の代表作。「異なっている」というか、「表面に現れていない」というか。そういう意味では境界作品と言える。南北戦争後、奴隷制が廃止され、南部の白人たちが列車に乗せられて追放される。語り手の女性は17歳の娘だが、姉はミズーリ州に嫁ぎ、父は戦で失い母と暮らしていたが、母は精神を病み、セントルイスへ向かう列車のホームで母は群集に踏まれて死ぬ。語り手は荷物も失って列車に乗るが、その中でエリザベスという女性に救われ、姉の下に連れてゆかれることになる。この「地下列車」グループは、奴隷を使っていた白人たちのうち気の毒なものだけを救い出して家族等の下にリレー式に届けるという活動をしており、語り手も母を失い身寄りがなくなったために救われたわけだ。語り手は、自分も活動に加わって人助けをしたいと頼むが、「奴隷を使っていた家の者(スレイヴァ-)とは働けない」と冷たく拒絶される。宙づりのまま結論を出さずに終わるラストが技巧的。歴史上の悲劇の断片を改変歴史の手法によって見事にえぐり出した佳作と言える。ただし、欧米史に詳しくない者には、どこが実際の歴史と違うのかあるいは違わないのかが分からないところが、つらいのだが(笑)。あるいは、「地下列車」グループというのが未来から来た連中とかいう設定も考えられるけど、作中では詳しい言及はないので、そこまではわからない。それを書かないところが渋いというか、この作者のストイックな作風を表している。<br> 以下に冒頭部分を引用する。</p> <p> 「GARの兵士が、線路の脇に立っている。ドッジ将軍の配下で、リンカーン列車のために線路を確保しているのだ。まっすぐ立っていたら、ボンネット帽のひさしの陰になって全く見えないだろう。駅舎のそばには百合が咲いている。母は小枝を一本、服のカメオの下に差している。百合の匂い、すし詰めになった人々の匂い、空中に漂うかすかな炭の焼ける匂い。家に帰りたいとは思うが、もうわたしたちの家ではない。わたしは黒いドレスを手で伸ばす。わたしたちは駅のホームで悲嘆に暮れている。<br> 列車はわたしたちをセントルイスに運び、そこからオクラホマ地方に向かうことになっている。オクラホマまでは徒歩で行くようにいわれているが、母にそんなことができるかわからない。62年の冬以来、母の体はすっかり弱っている。わたしはバッグの水と食料をチェックする。<br> 「ジュリア・アデレードや」母がいう。「家に帰らなければならないよ」<br> 「列車に乗るためにここに来たのよ」わたしはとても強い口調でいう。<br> わたしの名はクララ、姉のジュリアは11歳年上だ。ジュリアは嫁いでテネシーに住んでいる。母は目をぱちぱちさせて不安そうに百合の枝に触る。わたしが強い口調でいわなければ母は家に帰ろうと言い張るだろう。<br> わたしは待つ。若いころわたしは始末に負えない自分に、キリスト教の慈悲の心を教え込もうとしたものだった。神は耐えられない試練をわたしたちに課したりはしない。わたしはそれを表情に表れないようにし、外側の自分を鍛練されたそれに保つよう努める。何かが弓のようにわたしの心を引き込んで、引き込んで、引き込んで&&<br> 「いつ家に帰るのかい?」母がいう。<br> 「もうすぐよ」そういうのが楽なので、わたしはいう。<br> だが母はすぐに忘れて同じことをきくだろう。何度も何度も。この長い列車がセントルイスに着くまでの間ずっと。わたしはキリスト教の信心深い娘になろうと努める。戦争が母を老婆に変えたこと、母の心を穴だらけにし、新しいものをすべて吐き出させてしまったことは、母のせいではないことを自分に言い聞かせる。でもわたしのせいでもない。わたしは感情を抑えようともしないので、顔に出てしまうことは分かっている。正直になるたった一つの方法は自分の内側からわき出てくるものに忠実に振る舞うことだが、わたしはそうではない。わたしはクリスチャンのような正直さからはかけ離れた煩悩でいっぱい。母にとっての試練は弱さ。わたしにもいえることだけれど。<br> 誰かほかの人間になりたい。<br> 列車がシュッポ、シュッポといいながらゆっくり線路を近づいてくる。今は古くてひどく使い古されてはいるが、かつては優美で美しく仕立てられたモデルだったことがわかる。ほこりの下の車体は濃紫色だ。エンジンはリンカーン大統領用に作られたときくが、例の暗殺未遂で旅行のできない体になってしまった。人々はバッグや雑多な品物を引きずってホームの端に押し寄せ始める。わたしはスーツケースをどうやったら積み込めるのだろうと考える。ゼケが来てくれていたら心配しなくて済んだのだろうが。黒人は既に解放されているので、助けにならない。予告によると、使用人の黒人は駅に来てはならないことになっている。もっとも群集の中にちらほら見かけるけれど。<br> 列車は水を積み込むために駅の外で停まる。<br> 「父さんかね?」母が自信なげにいう。「列車に乗っているのかね?」<br> 「違うわ、ママ」わたしはいう。「わたしたちが列車に乗るの」<br> 「父さんに会いに行くのかね?」母はきく。<br> わたしが何をいうかはどうでもいい、だって母はすぐに忘れてしまうから。でもその質問にだけはイエスといえない。たとえしばらくの喜びを母に与えられるとしても、父さんに会いに行くのだとだけは言うことができない。<br> 「父さんに会いに行くんだよね?」母がきき直す。<br> 「違うわ」わたしはいう。<br> 「どこに行くんだい?」<br> わたしは注意深く母に全てを説明しようとしたのだが、決まって母は泣き叫ぶのだった。人々がホームを列車の方向へ向かって行く。わたしはスーツケースをホームの端に置くかどうかを決めなければならないと思う。どうしてあんなに列車に乗るのを急ぐのだろう? 全員が乗れるのに。<br> 「どこに行くの? ジュリア・アデレードや、今すぐ答えておくれ」母は言う。その声は震え過ぎて、母の声のようには聞こえない。<br> 「わたしはクララよ」わたしはいう。「セントルイスに行くのよ」<br> 「セントルイス」母は言う。「セントルイスなんか行かなくていいよ。辿り着けやしないのよ、ジュリア、あたしは&&あたしは行きたくないの。家に帰りましょう、こんなのばかげてるわ」<br> 家には帰れない。ドッジ将軍は、今朝プラットホームに現れてリストから名前をチェックしてもらわない者は全員逮捕して10人中一人の割合で銃殺すると明言したのだ。町の人々は将軍の言葉が真実と知っている。ドッジ将軍はワシントン行きの列車を担当した際にも同じことを実行したのだ。彼は全員を逮捕して勾留し、列車が攻撃を受ける度に一人ずつ絞首刑にした。」</p> <p> この後、母親は群集に踏まれて死ぬ。語り手はスーツケースをホームに置いたまま列車に乗り、列車はセントルイスに出発する。車中、エリザベスという女性に声をかけられ、同行することになる。セントルイスに着いた際、狂女のトラブルに巻き込まれ、軍がこのトラブル収拾に追われている間に、語り手はエリザベスに連れ去られる。エリザベス(と同行していたマイケル)は、逃げようかと迷っていた語り手に真相を打ち明ける。一部の者だけを救い出すために、このような活動をしている、<地下列車>のメンバーなのだと。語り手を姉のジュリアの下に、連れて行ってくれるというのだ。しかし、母の死が理由で助けてもらえた、母の死で利益を得たことが語り手には合点がいかない。語り手は、エリザベスに仲間に入りたいと伝えるのだが&&</p> <p> 「わたしが選ばれたのはフェアじゃない。「わたし、助けてあげたいんです」わたしは彼女に言う。<br> 彼女はしばらく黙っている。「わたしたちは、仲間としか働かないの」彼女は言う。その声には今までになかったものが感じられる。決然とした辛辣さ。<br> 「どういう意味ですか?」わたしはきく。<br> 「わたしたちの中には、奴隷所有者はいない」そういう彼女の声は冷ややかだ。<br> わたしは感冒にかかったような気分になる。疲れているが、頭ははっきりしている。まだそれほど長いこと歩いたわけではないので、町の外に出てはいない。セントルイスの通りは人影がない。灯りもほとんどない。ずっと遠くで女の人が歌っている。その声は明瞭で夜の中に澄みわたる。美しい声。<br> 「エリザベス」マイケルが言う。「この子はまだ子供だ」<br> 「知る必要があるわ」エリザベスは言う。<br> 「じゃあ、どうしてあたしを助けたんですか?」わたしはきく。<br> 「悪に悪で立ち向かう人はいないわ」エリザベスは言う。<br> 「あたしは悪じゃない!」わたしはいう。<br> だが誰も答えない。」</p> <p> マキューは中国に在住していたことがあり、その経験が作品に生かされているという。今までの代表作は処女長編の「中国の山:<ザン>」(1993、ローカス第1長編賞/ティプトリー賞受賞)のほか、「一日の半分は夜」(1994)「伝道の子」(1998)であるが、「共産中国の支配するアメリカなど、全体主義的抑圧体制が描かれるが、焦点は、逃避的人物をパーソナルな視点から肯定的に描くところにあり、政治は一つの素材として現れるに過ぎない」とのことで、肌合いはルグィンに近い(小川隆)、とされている。ただ、この受賞作を読む限り、ルグィンとの類似性はあまり感じない。むしろ歴史改変に走ったバトラー、という感じがする。パーソナルで静かな筆致や、抑圧的で脱力的な雰囲気など。短編集をまとめて読んでみたい作者ですね。</p> <p>残る中短編は、原書が<br> 「ネビュラ賞30」の「オルドバイ7景」「火星の子」<br> 「ニューヒューゴー」の「ナイルに死す」「底地にて」<br> 「ドゾア年刊」2冊の「さあ魚を飲もう」「機械の鼓動」<br> 翻訳が<br> 「ヘミングウェイごっこ」<br> 「ゴールド」の「ゴールド」<br> 「タクラマカン」の「自転車修理人」「タクラマカン」<br> 電子ブックが<br> 「魂がわが社会を選ぶ」「大理石弓の風」(ウィリス)「ティラノサウルスのスケルツォ」(スワンウィック)<br> 未入手が<br> 「龍の血」(マーティン)<br> となるわけだが、電子ブック、未入手も紙媒体で出次第入手する。<br> 読む順番としては持ち運び困難なドゾワ短編集分と、電子ブック分が優先でしょうね。</p> <p> ウィリス「魂が社会を選ぶ」はこれを収録しているアンソロジー「宇宙戦争」をアマゾンコム古書店で注文、送料入れて3000円ぐらいで入手できそうだ。</p> <p> マーティンは「氷と炎の歌」シリーズだそうなので、あるいは、長編に折り込まれているのかも知れない。いずれにせよ、第1巻目だけでも入手すべきだろう。<br> ウィリス、スワンウィックの2000年作品はアシモフ誌に掲載されたっきりのため、電子ブックで読むしかない。これが優先だろう、今日はこの2編を読む。</p>

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