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安部公房『箱男』」(2005/12/06 (火) 00:29:41) の最新版変更点

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<p>1997年</p> <p>2/11<br> (略)<br> 昨日は体調優れず一日中まどろんでいた。<br> こういうアンニュイな時間は、安部かディックを読むと没入できる。しかしながら、同じ作者の本を3冊続けては読めない飽き症のおれのこと、ディックにはいささか食傷気味なので、安部「箱男」を読んでいた。するとすかさず、(略)<br> に見つかり、昼食時に「なぜ今安部公房なのか」「(略)<br> の不条理さをアピールするために、あえて選んで読んでいるのでは」などと指摘され、図星なので苦笑しつつうなずく。<br> 安部「箱男」は今朝読み終える。テーマ的には「他人の顔」と通底するものあり、「見られる」ことの苦痛から逃れるため箱という自己の内部へ逃走しつつ他者をひたすら覗くことに快楽を覚える変態が主人公。おれも変態なのでひとのことはいえない。「他人の顔」は他人の顔をかぶることによる自己からの逃走であったからアイデア自体は通ずるものがあるのだが、あの本に比べるとこの「箱男」は主客転倒のトリックが二重三重にもはりめぐらされ、見事に読者を煙に巻いている。小説としてのまとまりは相当悪くなっているが、逆にこの乱れが心地よい。<br> この小説の最後で主人公は箱男をやめる代わりに病院の中に看護婦と閉じ篭って淫らな生活に没入するが、その部分は次の長編「密会」における大病院内の性の響宴へと発展して行く。但し、「密会」では主人公は病院内世界の主催者ではなく、その世界に閉じ込められそこから地下道へと自分だけの密会を求めて逃げていくことになるから、主客が逆転している。<br> いずれにせよ、逃走のベクトルが内側に向いていることに変わりはなく、安部の厭世病のひどさに呆れる。昼間起きているのがいやで朝から晩まで布団にこもって夢ばかり見ているのではないか。後期の長編のほとんどは実際に見た夢をそのまま書き延ばしているだけなのではないかと疑いたくなるほどに小説としての結構が破綻している。そしてその破綻のゆえに、逆に、中期の小説としてよくまとまった作品群とは別種の迫力が生まれているところが笑えるし、また嬉しい。大体、小説を読むというのはおれにとって向上心の表れなどではさらさらなく(そんなもの虫酸が走る)、自己を堕落させ解放するための手段として読んでいるに過ぎず、そういう意味ではあたかもドラックのように、あるいは女体のように、読むことによってトリップできるものでなければ無意味なのであるから、安部のそういう作品こそおれが読むにはうってつけなのである。かかるおれの書物の好みは、おれがだらしない女をこそ好むのとどこかで関連性があるのかも知れぬ。<br> その後、本丸「方舟さくら丸」にとりかかった。</p>
<p>1998年</p> <p>2/11<br> (略)<br> 昨日は体調優れず一日中まどろんでいた。<br> こういうアンニュイな時間は、安部かディックを読むと没入できる。しかしながら、同じ作者の本を3冊続けては読めない飽き症のおれのこと、ディックにはいささか食傷気味なので、安部「箱男」を読んでいた。するとすかさず、(略)<br> に見つかり、昼食時に「なぜ今安部公房なのか」「(略)<br> の不条理さをアピールするために、あえて選んで読んでいるのでは」などと指摘され、図星なので苦笑しつつうなずく。<br> 安部「箱男」は今朝読み終える。テーマ的には「他人の顔」と通底するものあり、「見られる」ことの苦痛から逃れるため箱という自己の内部へ逃走しつつ他者をひたすら覗くことに快楽を覚える変態が主人公。おれも変態なのでひとのことはいえない。「他人の顔」は他人の顔をかぶることによる自己からの逃走であったからアイデア自体は通ずるものがあるのだが、あの本に比べるとこの「箱男」は主客転倒のトリックが二重三重にもはりめぐらされ、見事に読者を煙に巻いている。小説としてのまとまりは相当悪くなっているが、逆にこの乱れが心地よい。<br> この小説の最後で主人公は箱男をやめる代わりに病院の中に看護婦と閉じ篭って淫らな生活に没入するが、その部分は次の長編「密会」における大病院内の性の響宴へと発展して行く。但し、「密会」では主人公は病院内世界の主催者ではなく、その世界に閉じ込められそこから地下道へと自分だけの密会を求めて逃げていくことになるから、主客が逆転している。<br> いずれにせよ、逃走のベクトルが内側に向いていることに変わりはなく、安部の厭世病のひどさに呆れる。昼間起きているのがいやで朝から晩まで布団にこもって夢ばかり見ているのではないか。後期の長編のほとんどは実際に見た夢をそのまま書き延ばしているだけなのではないかと疑いたくなるほどに小説としての結構が破綻している。そしてその破綻のゆえに、逆に、中期の小説としてよくまとまった作品群とは別種の迫力が生まれているところが笑えるし、また嬉しい。大体、小説を読むというのはおれにとって向上心の表れなどではさらさらなく(そんなもの虫酸が走る)、自己を堕落させ解放するための手段として読んでいるに過ぎず、そういう意味ではあたかもドラックのように、あるいは女体のように、読むことによってトリップできるものでなければ無意味なのであるから、安部のそういう作品こそおれが読むにはうってつけなのである。かかるおれの書物の好みは、おれがだらしない女をこそ好むのとどこかで関連性があるのかも知れぬ。<br> その後、本丸「方舟さくら丸」にとりかかった。</p>

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