昨日――主と私は住み慣れた町を離れ、新たな土地へやってきた。
そこは閑静な住宅街を絵に描いたような町で、なかなか落ち着けそうだというのが第一印象だった。町に慣れるのにはしばらくの時間が必要になるだろうが、この音に敏感なからくりの体には有難い場所だ。
しかし、いくら好環境とはいえ、初めて住処を変えるという経験に知らず緊張してしまっていたのだろう。その夜の歌の稽古はなんともひどい出来で――忙しい主がせっかく時間を割いて下さったのに――と私は申し訳なさに肩を落とした。
すると主は『気にするな』と実に明るく笑って、白い袋を差しだしてきたのだ。
『罰ゲーム代わりに、明日お隣さんに挨拶行ってきてくれればいいから』――の言葉と共に。
白い袋の中身は、いつも主の故郷から大量に送られてくるナスだった。
隣家には”ぼぉかろいど”……私と同じ、からくり式・歌人形が5体とその主がいるということで、数は6つ。
料理によっては1人1つ以上必要なのではと進言をしてみたのだが、『細かい』と小突かれてしまったので、この数になった。
それはともかくとして――
(この時間に、誰かおられるのか?)
揺れる度にがさりと音を立てる袋を片手に、隣家の入り口の前で少し考える。
今日は平日で、しかもお天道様が真上にある昼時だ。我が主のように出払っているのが普通ではないだろうか。
――確実そうな夕刻間際に出直すか。
考えを改めて踵を返した、直後。
「あ」「あ」
2人分の声が正面からぶつかり、重なった。
ひとつは私の声。もうひとつは、いつの間にか背後にやってきていた青い髪の男が発した声だった。
年の頃は20歳前後だろうか。真冬でもないのに、水色の襟巻きと膝丈までもある白の上着を身につけている。光の加減で紫紺にも見える髪からのぞく左耳へ、頭部装着型送話器が装着されているところから察するに、男は”ぼぉかろいど”であるらしい。
男は私が持つ袋よりも小さな同じ材質のそれをぶら下げ、首をかしげた。
「うちに何かご用ですか?」
なるほど、家の住人か。
初対面でいきなり無礼をしては、主に迷惑をかけてしまう。私は姿勢を正して一礼した。
「申し訳ありません、ご挨拶が遅れました。昨日、主と共に隣へ越して参りました者です」
至極平易なこちらの挨拶に、なぜか群青の瞳が楽しげに輝く。
「新しいお隣さんですね。マスターから聞いてます。何か解らないことがあったら、なんでも聞いて下さい」
「有り難うございます。――本日はこれをお渡しするよう、主より言付かって参りました。お受け取り下さい」
片手で袋の底を支えて差し出す。
わざわざすみません、と人の好さそうな笑顔で受け取った彼は袋の口から中身を確認すると、わぁ、と子供のような声を上げた。
「うち、家族多いから助かります。そちらのマスターに『ありがとうございました』と伝えてもらえますか?」
「はい。承知しました」
良かった。喜んで頂けたようだ。さすが我が主、挨拶の品選びも的確だったということか。
だが主からの命も無事果たせた今、長居は無用。私は再度一礼した。
「それでは、私はこれで失礼――」
「ああっ、ちょ、ちょっと待って下さいっ」
「……はい?」
焦るような声に何事だろうかと腰を曲げたままで顔だけ上げると、眼前に突然何かがつきつけられた。
あまりに近すぎて咄嗟に物体の形状しか把握出来なかったが、しゃんと背を伸ばして見てみると――それは白と青で彩られた紙製の丸い器だった。蓋には”ばにらあいす”の文字が片仮名で書かれてある。
私は食べたことはないが、主がよく召し上がっておられるので知っている。たしか冷たくて甘い、菓子の一種だったはずだ。
……だが、それがなぜ自分に突きつけられているのかは解らない。
隣人の真意を読み取ろうとしばし器を見つめてみるが、答えを悟る前に、彼が微笑んで言った。
「大した物じゃないけど、お近づきのしるしに。……あ、もしかして甘い物は苦手ですか?」
形の良い眉が八文字を書く。ただ戸惑っていただけだったのだが、受け取らずにいたことで誤解を与えてしまったらしい。
私は両手の平を揃えて上に向けて、冷気を放つ器を受け取り、
「苦手ではありませんが、”あいす”は食したことがありません」
素直に告げた。
わざわざ言うべき事ではなかったかもしれないが、主からは常より、説明の言葉を省くなと言われているので実行したまでだ。
と。それが功を奏したのか、相好を崩した彼は、元々持っていた方の袋から小袋に入った透明のさじを取りだした。
「じゃあ、先に少し食べてみませんか?」
「このような所でですか?」
予想していなかった返答に驚いてしまい、つい声を跳ねさせる。他の者はともかく――私が立ったままで食すなど、うどんかそばくらいなものだ。菓子といえども、やはり腰を落ち着けた上で賞味せねば味など解らないのではないだろうか。
しかし、こちらの問いかけなどあまり聞いていない様子でさじを小袋から出すと、私の手に器を置いたまま蓋を開けた。
下から現れた、器一杯に詰まった白く平らな表面を見た彼から、鼻歌でも混じりそうな声が返される。
「ちょっとだけだから。それにアイスは外で食べてもおいしいですよ」
「いえ、そうではなく――っ」
さじで素早くすくい上げられた白の塊が、先程と同様の強引さで口の前へつきつけられる。
ただし器の時と違っていたのは、彼の目が――早く、早く――とせっついていることだ。……しかも何やら待ち遠しそうに。
私はさじにのった”あいす”と彼の笑顔を交互に瞳に映し、胸中でひっそりと嘆息をこぼした。彼がこうも熱心に勧める理由も解らないが、色々な点においてつっぱねることのできる状況下でもない。はなはだ不本意だが、ここは己の信念を曲げるしかなさそうだ。
(隣人でさえなければ、一言の元に拒絶できようものを……)
詮なきことを愚痴り、渋々とさじの先を口に含む。
それを見て、さじはすぐさま抜き出された。舌へと移された”あいす”は乗ると同時に溶け始め、氷にも近しい冷たさと、あまり馴染みのないまったりとした甘さを口内中に広げる。
溶けて液状化した”あいす”と共にそれらを嚥下し、しばし逡巡したのちに、
「……とても甘い物ですね」
ただそれだけを言葉にした。我ながら妥当な感想だと言わざるを得ない。
否、事実そうとしか感じなかったのだから、それ以外に答えようもなかったのだが。
すると彼は、この世の春と言わんばかりの至上の笑顔になった。
「甘くておいしいですよねー。良かった、気に入ってもらえて」
……甘いとは言ったが、他は完全に捏造だ。
あの端的な内容の言葉を、どう誇大解釈すればそのように受け取れるのだろう。全く不可解だ。もしや西洋のなりをした歌人形は、思考演算の仕組みが違っているのだろうか――返答も忘れ、大きな疑問について黙考する私に、彼の言葉は続く。
「それじゃあ、改めてこれどうぞ。えっと……」
言いながら蓋を元通りにかぶせたかと思うと、きっかり2秒の間をおいて青の髪がさらりと横へ傾げられる。
明らかに何かに困っている様子が見て取れたので、こちらから尋ねようとした刹那。
彼が、苦い笑いで頬を掻いた。
「すみません。名前教えて貰っていいですか?」
その言葉には私も得心する。
平時であればすぐに名乗ってもいたろうが、今日は主の使いとして訪れた為に名乗りを避けていた。故に、己の名を交わすのはまた後日にでもと考えていたが、相手が求むるなら拒む由もない。
私は器を載せて動かせない両手は腹の前へ据えて、腰から深く一礼した。
「神威がくぽと申します。以後、お見知りおきを」
「俺はカイトです。こちらこそ、よろしくお願いします」
カイトと名乗った彼は、続けて――わずかに頬を染め――恥じらったように笑んだ。
「実は、外見年齢の近い同性型のボーカロイドが来るって聞いて、楽しみだったんです。良かったら……友達になってくださいね」
――無理かもしれません。
そう言の葉を紡ぎそうになったが、すんでのところで喉の奥へと封じ込む。代わりに、心得ました、と告げて再度礼をした。
いくら主以外に親しい者のない私だとて、友が不要だなどと言うつもりはない。
だが。
私が”あいす”や彼に慣れるのには、まだ随分な時間を必要としそうだった……。
※ こちらの話は、自ブログサイトに掲載しております『うたうかぞく。』の設定で書いたもので、
隣家にはボカロ5兄妹+マスターが住んでいます。