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vol.4③Catastrophe

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taka18r

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vol.4③Catastrophe


 別れ話をきりだす。この、絶対にしなければならない命題を前に、ぼくは無力だった。いや、根性なしの、意気地なしの、ことなかれ主義者の、弱虫だった。
(ザ・ワールドの勇者が聞いてあきれる…)
 自嘲気味な言葉が頭に浮かんで、そのままいついてしまう。
 パソコンを立ち上げメーラーを開いたまではよかったが、送信先に「大黒なつめ」を選べないまま30分が過ぎていた。
「はぁ~ぁ」
 あまりの情けなさに大きなため息がもれる。ケータイでメールなら、と考えたがやっぱりだめ。さらに15分を無駄にしただけだった。
 あきらめてベッドに体を投げだす。
(このままで、いいわけ…、ないよね)
 それは、わかっている。でも、
(なつめ…、素直に「はい、わかりました」なんて言ってくれるわけ、ないよね)
 ため息ももう品切れだ。
(泣かれちゃう、だろうな。なつめの悲しむ顔、できれば見たくない…。それでも、言わなきゃ)
 言わなければ前には進めない。でも、一歩が踏み出せない。
「あぁ、もぉ!」
 天井に向かって悪態をついた。
 そのとき。
 ほっぽらかしていたパソコンから「ぽ~ん」と気の抜けたようなメール着信音が鳴った。
(だれだろう?)
 ドアの上にある時計を見ると、日付けが変わろうとしている時間だった。
 まだ高校1年生。夜更かしなど、めったにできない。しない、のではなく、できないのだ。睡魔の誘惑は晶良のそれよりも強烈だ。もっとも、晶良のほうから誘惑されたことはなかったが…。
 おまけにきょうは日曜日。起きたら新しい週が始まっている。いつもだったら、いつにもまして早寝している日ではあった。
 睡魔が寄ってこないほど悩んでいたのかと、時計を見て思う。
(いまきたメール見て、早く寝なきゃ)
 足を上げ反動をつけて起き上がる。マウスを操作し、メーラーをクリックして…、ぼくは固まった。
 送信者は──、


 なつめ、だった。
 心臓が凍りついて鼓動を止めるんじゃないかと思うほどドキっとした。

件名:ごめんなさい!

──あの…、わたしから、連絡はしないって、言ったけど。
──ごめんなさい。
──最初で最後。だから、許してください。
──大事なお話があります。会えないでしょうか?
──次の土曜日。お願いです。

(…)
 頭に言葉が浮かんでこない。3度、読み返したが、なにも考えられない。
(と、とりあえず…、返信…、しとかなきゃ、だよね)
 あれほど思い悩んでいたのがバカみたいな展開だ。なつめの用件がどんなものかは知る由もないが、自分からメールするのと返信するのとでは天と地ほども差があった。

件名:Reごめんなさい

──おっけぇ。いいよ。土曜日だね。
──どこで待ち合わせしようか?
──なつめにまかせるよ。

 別れ話をしようとしている男が送る文面ではないな。送信してから読み返して、そう思った。
 なつめからのメールはすぐにきた。

件名:午後2時に

──東京プリンセスホテルのロビーで待っています。

 簡潔な、必要事項だけを記したメールだった。いつものように、文面から会えることを喜ぶ感じが微塵もない。得体の知れない不安がのしかかり、ますます眠れそうにない。
 了解を伝えるメールを返して、ぼくはパソコンと部屋の明かりの電源を落としベッドにもぐりこんだ。


 土曜日。
(2時に待ち合わせ、ってことは…、昼ご飯は食べてこいってことだよね。あのなつめが食事を用意してこない状況…。大事な話…。う~ん、胸騒ぎがするぅ)
 ネガティブな考えばかりしていたのでは気が滅入ってしようがない。頭を2度3度振って、楽しかったころの思い出に浸ることにした。
(東京プリンセスホテルかぁ。あれは夏休みに入ったばっかり、だったよね。三十郎さんがサウスダコタから来日して…。ミストラル…黒川さん母子と、晶良さんと、屋形船で花火を見たんだ)
 自然と顔がほこんでくる。いい精神状態になったところで、母親に昼ご飯ができたと告げられた。
 夕べの残りのおでんと茶飯をお腹いっぱい食べ、部屋でひと休みしてから家を出た。
 JRに乗り浜松町で下りて東京タワーを目標に歩く。目的の東京プリンセスホテルまでの道、風は耳が引きちぎれそうなほど寒い。
 ずっと前にあった他所の事故のせいで回転ドアは使えないから(それなのに遺跡のように残ってはいたが)、自動ドアを通って暖房のよく効いたホテルに入った。
 ロビーには小さななつめがぽつんと座っていた。思い詰めたように一点を見つめ、色白な顔が蒼白になっているように思えた。
「な…」
 呼びかけようとしたとき、なつめが自分のほうにゆっくりと顔を向けた。ぞくりとした。
「やあ」
 つとめて明るく言おうとしたが、声は引きつって上ずってもいた。
 なつめの笑顔も無理してるっぽかった。それを隠すようにペコリとお辞儀をして、妙に早口で言ってきた。
「きょ、きょうは、ご、ごめんなさいっ」
 少し不安になる。
(どんな話をされるんだろう…)
 汗が額に浮かんできているのは暖房のせいではない。
「い、いや。いいよ。ぼくもさ、そろそろなつめに会いたいと思ってたんだ」
 いろいろな意味を含んだ都合のいい言い方だ、と思った。
(この期に及んで、なつめを抱くことさえ考えているぼくって…)
 ごまかすように言葉を絞り出す。
「あ、なんか飲む? そこのラウンジに行こっか?」
「はい」
 なつめはいつものように素直に従う。でも、普段とはまったく違う固さが感じられ、それがぼくに伝染してくる。ぎくしゃくと歩いてラウンジの椅子に座るまで、とてつもなく長い時間に感じられた。


 オーダーしたコーヒーと紅茶が運ばれても、沈黙はしばらく続いた。
「あの…、きょうは…」
 おずおずと話しだすなつめ。それをさえぎるようにして口をはさんだ。
「いいよ。いいんだ。だから、ごめんって言わないで」
 謝らなければならないのは自分だ。そう思いながら、なつめの話を聞こうとしてじっと目を見つめた。
「…わたし、もう自信がなくなって…しまいました」
 なつめは目をそらし、ティーカップをスプーンでかき回し続ける。ぼくはなにも言えず、なつめの言葉を待った。
「つらいんです」
 顔を上げるなつめ。涙で目がいっぱいになっている。
「う…ん」
 あいまいに返事をする。なつめの頬にひと筋、涙がつたった。
「あなたのこと、好きです。たまにしか会えないけど、あなたにやさしくされると、わたし…、死んでもいいって思えるほど、幸せ…でした」
 過去形で言われたことに、ぼくは気づけなかった。
「あなたの1番じゃなくてもいい、ずっとそう考えてました。…でも、つらいのっ」
 感情を無理に抑えて話しているのだろう、そのせいで涙があふれている。
 なつめはハンカチを出して涙を拭い、たかぶった気持ちが落ち着くのを待っているようだ。ぼくには沈黙を破る勇気はなかった。目をそらさずにいることだけが、ぼくにできることだった。
「…きょう、わたしは、自分の気持ちを確かめたかった」
「うん」
 ようやく声が出せた。
「あなたに会って、あなたの笑顔を見れば…、つらい気持ちに負けない…かも…しれない…って」
 またなつめの目から涙がこぼれた。
(なつめから別れようって…言われるの!?)
 願ってもない展開なのだが、ぼくは複雑な思いに駆られていた。
(なんか…、ヤだな。ぼくが嫌われるなんて、ヤだな)
 なんでも欲しがり、自分のものは手放したくない。子供だ。少なくとも大人ではない。いや、ガキだ。
「カイトさん…?」
 ぼくから発せられたであろう負のオーラを感じとったなつめが不安そうにつぶやいた。


 何か言わなきゃ。焦ったぼくは感情に支配されたまま話し始めてしまった。
「なつめさぁ。こないだ話してた大学院生のほうがよくなったんじゃないの?」
 しまったっ! と思ったときは遅かった。言葉を出したことで興奮し、怒りの感情を増幅してしまった。心に魔が棲みついていた。
 言葉の刃は止まらない。相手を切り刻み、深く傷つける。
「もお、さ。やっちゃったの? その彼と」
「そ、そんな…」
「どーせ、ぼくはガキだよ。いまも…こんな…、情け…ない」
 ガキだと自覚して、それを口に出した瞬間、はっとして我に返ることができた。しかし、出ていった言葉を戻すことはできない。
「ごめんっ! なんてこと言っちゃったんだろ!? ごめん…」
 なつめはふるふると頭を振り、
「いいんです。カイトさんも…つらいんだなって思えたから、わたし、少し楽になりました」
 小さく寂しく笑った。心に突き刺さるような悲しい笑いだった。
「…それに…、大学院生のあのひとのこと…、嫌いになれないのも事実」
「会ったの? …あ、い、いや、べつに、こんなこと…、ぼくに聞く権利、ないよね。ごめん」
 ぼくのみっともない言い訳など気にもとめず、なつめから答えが返ってくる。
「はい。会いました。2度、会いました。でも、あのひと…、手も握ってこないんです」
(そんな童貞野郎に、ぼくはなつめをとられちゃうの? 負けちゃうの?)
 もちろん、こんなこと言う権利もなければ思う資格もない。バカを通り越して情けなかったが、理屈じゃなかった。
「…」
 言葉が出なかった。怒鳴りそうになったが、何かわからない気持ちがそれを押しとどめた。
 目の前になつめのふっきれたような笑顔があった。
「わたし、だめですね。弱虫のまま。全然、変われなかった」
「そんなこと、ないと思うよ」
 弱々しく否定したぼくに、なつめはうれしそうな笑みを返した。
「出ましょう」
 なつめが立ち上がる。
 結論は? 関係継続にしろ、別れるにしろ、答えは先送りなのだろうか。ぼくは席を立てずにいた。
「ここは、わたしが払いますね。さ、いきましょう」
「あ、うん。ありがとう。ごちそうさま」
 支払いをするなつめの後ろで、ぼくはただつっ立ったままだった。


 ラウンジの前。ぼくは立ちつくすなつめの背中を見ていた。なつめが何かを話す気配はない。歩きだす気配もない。
 ぼくは目を閉じて思う、考える。
(終わりにしなくちゃ。きょう、終わりにしなければ、きっとだめだ)
 自分が優柔不断だったゆえに招いた事態だ。
(男だろ! しっかりしろっ)
 おのれを叱咤し、目を開けてなつめの背中に呼びかける。
「なつめ。ぼくの話を聞いてほしい」
「はい」
 いやと言って泣かれるかもしれないと思っていたが、そうはならなかった。意外にもなつめは素直に返事をしてくれた。
 ほっとして目を閉じたぼくに、なつめの決意が降り注ぐ。
「…その前に」
「な、なに?」
 ゆっくりとぼくのほうに向き直ったなつめは、感情をすべて消し去った顔で言った。
「わたしを抱いてください」
「!」
 絶句した。硬直した。絶体絶命のぼくになつめが追い討ちをかける。
「部屋をとってあるの」
「…だ、だめ、だよ」
 途切れ途切れではあったが、やっと言葉が口から出せた。でも、なつめは聞いてくれない。ぼくにとどめの一撃をくらわす。
「最後。もう、おしまいにします。だから、抱いて」
 ほんとうにおしまいになるのだろうか。疑問が渦巻く。
 なつめを抱きたくない、とはいえない。性欲が昂ぶる。
 ほんの数秒で覚悟を決めた。いや、欲望に負けた。
「わかったよ。いこう」
 なつめの肩に手をかけ歩きだした。なつめは体をぼくにあずけ、ぴったりと寄り添う。ぼくのなかで疑念が大きくなっていく。
(ほんとうに、ほんとうに終わりにできるのかな!? この関係…)
 でも、もう後戻りはできない。


 チェックインするためフロントの前まできたところで、緊張からか急に便意が襲ってきてトイレに行きたくなる。
「な、なつめ。ちょっと、ごめん。トイレ」
「あ、はい。こっちにありました」
 なつめはぼくの手を引いてトイレに連れて行ってくれた。
「ここで待っています」
 限界に近かったぼくは、ありがとうも言えず、笑顔を向けることもできないまま、トイレの個室に駆け込んだ。
「ふぅ~っ」
 用をすませ、ハンカチをくわえながら入念に手を洗う。
「おまた…せ」
 トイレから出たぼくの目に入ったのは、身じろぎもせずに壁を見上げているなつめの背中だった。
「なつめ?」
 ぼくの呼びかけも聞こえていないようだ。
「なつめ」
 もう一度、呼びかける。ようやくなつめが振り向く。
「これ…、カイトさん、ですよね」
「えっ?」
 なつめの後ろにある壁に慌てて目をやる。若いカップルが幸せそうな笑顔を浮かべて見つめあっている結婚式のポスター、だった。
「?」
 わからなかった。目を凝らして見ているうちに、やっと気がついた。
「あっ、あ、あ…」
 砂嵐三十郎が来日して、彼に会うため夏休みにここにきたときのことだ。晶良と2人で急きょモデルを頼まれ、撮影されたことを思いだした。
(…でも、自分が見ても、これがぼくだってなかなかわからなかったのに)
 撮影用に化粧していたのと、ポスターにする際に画像データを加工したのだろう、どう見たって別人にしか思えなかった。
(それなのに、なつめ、これがぼくだってわかったんだ)
 その事実がぼくを黙らせる。


「カイトさんと…、相手の女性が、ブラックローズさん」
「…」
 肯定も否定もできなかった。なにも言えなかった。
「かなわない。わたしなんか、じゃ、かないっこ…ない」
 悲しい笑みを浮かべて言うなつめ。その頬を涙がこぼれ落ちていく。ぼくは言葉を失ったままだ。
 泣いてはいるが、なつめの表情はふっきれたように晴れやかで、瞳には力が感じられた。
 なつめは目を閉じて大きく息を吸い込み、ゆっくりとした穏やかな口調で告げた。
「…やめました。あなたとは、もう会うこともやめました」
 ぼくの脳は考えるということを放棄してしまったようだ。なつめの言葉を受け止める。
「なつめ。これまで、ごめん」
「そんな。わたし、あなたのこと、ほんとうに好きでした。だから、後悔なんてしていません」
「…ごめん」
 それ以外に言葉が出てこない。
「わたし、幸せでした。あなたのことは絶対に忘れない」
「ありがとう、って言っていいのかな」
「はい。カイトさん、幸せになってくださいね、絶対」
 そう言って、なつめは後ろに顔を向け、もう一度ポスターを見た。それから、ぼくのほうに顔を戻し、
「だいじょうぶ、ですよね。こんなに素敵なカップルですもの」
 にっこりと笑んで、自分に言い聞かせるように言った。そして、
「わたしも幸せになるぞぉ、なんて。えへへ、これではゲームのなつめと同じですね」
 涙のあとの残る頬がほんのり朱に染まる。それを見て心底ほっとした。
(ハッピーエンド、とはいえないけど、よかったんだよね、これで)
「それじゃあ、帰ろうか」
 最後のエスコート。ところが、なつめはその場を動こうとしない。
「どうしたの?」
「わたしは残ります。あと2時間したら、彼がくるんです。わたし…、きょう、あのひとに抱かれるつもりです」
「そっか。いい結果になるといいね」
「はいっ! 絶対に幸せになりますっ。その…、カイトさんたちに負けないように」
「じゃあ、ぼくは帰るね。いままで、その、あの、ありがとう!」
 頭が床のカーペットにつくんじゃないかというくらい深々とお辞儀をした。
「わたしのほうこそ、ありがとうございました」
 なつめも負けずに深いお辞儀を返した。


 笑顔をつくって右手を上げながら出口に向かおうと体を反転させる。もう一度、ポスターを見た。そこに写っているのは間違いなく自分なのだが、別人に思えてしかたなかった。
 歩きだして、ぼくは思う。
(なつめにとっては、あの写真のほうが実像だったのかもしれない。あるいはゲームのカイトが実像。いま、ここにいるぼくは虚像。だから、ポスターを見て、すぐにぼくだとわかったんじゃないのか)
 自動ドアをくぐると、寒風がぼくを迎えてくれた。思わず首をすくめる。マフラーを忘れたことを激しく後悔した。
 空はどんよりと暗い雲に覆われ、まるで自分のいまの気持ちを表しているかのようだ。
「う~、寒いぃ。雪でも降るんじゃないか」
 口をついて出る言葉もどこか愚痴っぽい。背中を丸めて歩く惨めな姿は、これがザ・ワールドの伝説の勇者のリアルだとは、だれにも信じられないだろう。
 逃げ込むようにJRの浜松町駅に入る。ホームに上がると寒風が顔に突き刺さる。駅の入り口をくぐったことで、いったん気を抜いたのが風の冷たさをさらに強く感じさせた。
 ホームに滑り込んできた電車が身を切るような風を運んできた。たまらず乗ってしまう。反対側のドアにもたれていると、電車の暖房が体にしみてきて身も心も弛緩していくのがわかった。
 涙が床に落ちた。
 いくつの駅を通り越しただろう。そのなかに自分の降りる駅があったかもしれないが、どうでもよかった。
 別れがこんなに悲しいものだとは想像できなかった。
(自分が望んだ結果なのに…。どおして…、こんなに…、つらいんだろう)
 さらに駅が過ぎていった。涙はもう枯れ果ててしまったようで、床にできた涙のたまりもすっかり乾いていた。
 30分以上はたっただろう。ある駅で人がいっせいに降り、また多くの人が乗り込んできた。また数駅が過ぎていく。そこでは大勢が降りたが、乗ってきたのは少数だった。
 他の人と体が触れなくなってホっとする。うつむいてため息をついたぼくの横で、聞き覚えのある声がした。
「おにいちゃん? おにいちゃんじゃない?」
 千春だった。
「やあ。カズくんとデートの帰りかな」
 無理に笑顔をつくって話しかけた。


「うん! わたしはそうだけど…、おにいちゃん、なんか元気ないね」
 アイデンティティだった腕輪を封印され、なつめに別れを告げられた事実が頭に浮かび上がってくる。
「まぁね。いろいろあるんだよ、ぼくにだってさ」
 力のない声で言ったら、またため息がもれた。
「そっかぁ」
 ぼくのことなど、あまり気にしていない様子の千春。
(きっと文和くんとラブラブデートを楽しんだろうな)
 などと考え、またまたため息。千春は大きな目でじっとぼくを見つめている。何か話さなきゃ、と焦って、
「と、ところでさ、いま、どのへん、なのかな」
 乗っている電車の現在位置を把握していないなんてかなり変だ。しかし、千春は
「新宿を出たとこ、だよ」
 と普通に答えてくれた。
(新宿か…。やっぱり乗り過ごしちゃった)
 続けてため息をついた。さすがに千春もおかしいと思ったのか、
「どーしたの? きょうのおにいちゃん、なんか変」
 心配そうな目をして聞いてくる。
「あ、あぁ、ちょっと、その、元気ない、かな」
「まぁ…」
「千春さぁ。ぼくのこと、なぐさめてくれる?」
 自暴自棄、やけくそ。
 ところが。
「うん! いいよ。次の駅で降りよ? ね、おにいちゃん」
 ニッコリと愛らしい笑みを満面に浮かべ、千春はぼくの誘いを受け入れた。
 ほどなく電車は駅に滑り込んだ。停止するとき、かなり乱暴なブレーキ操作をされて乗客がよろけたが、千春は両足を踏ん張ってこらえ、ぼくにすがってくるようなことはなかった。
 電車から降りる。千春はぼくと手をつなごうともせず、距離をとって歩いていく。
(友達と会うかもしれないとか…、きっと、そうだよね。なぐさめてくれるって、言ってくれたし…)
 階段を下りたところで、千春は立ち止まり言った。
「ここ」
「? えっ?」


 ファストフードのお店だった。千春はぼくの手をとって入り口に向かっていく。振り返って、
「きょうはね、ちはるがおごってあげる! おにいちゃん、なに食べてもいーよ」
「え…、あ、うん」
 屈託のない千春に従うしかできない。
「ストロベリーシェイクとぉ…、ん~、おにいちゃんはぁ?」
 カウンターで注文する千春がぼくに聞いてくる。
(千春の体…とは言えないし…)
 バカなことが頭をよぎる。
「ダブルチーズバーガーのセット、コーヒーで。それと、エビカツバーガーも」
 食べものの名前を口にしたら、急にお腹がすいてきた。
(人間って、悲しくてつらくても、腹の減る生きものなんだなぁ)
 妙なことに感心している。
「お待たせしましたぁ~」
 舌っ足らずの声の女のコがトレイに注文したものを乗せて告げる。千春がポーチからサイフを出し支払いをすませた。
 向かい合わせの席に座って、ぼくは小声で千春に話しかける。
「ほんとにいいの? お金。ぼく、出そっか?」
「いーの。おにいちゃんにはいろいろお世話になったから。お礼」
「うん。じゃあ、遠慮なくごちそうになるよ」
「それに、デートすると文和がぜ~んぶ出してくれるから」
 食べる前からごちそうさまだ。邪気のない千春の笑顔を見ていたら、ぼくの煩悩も消えていた。
「きょうのデートは楽しかったみたいだね」
 おにいちゃんの口ぶりがやっとできた。
「うん! 文和、2回目なのに、すっごくじょうずになったんだよ」
「ぶっ」
 飲みかけたコーヒーを吹いてしまう。
「もぉ~、なにやってんの、おにいちゃん」
 ナプキンで口元を拭いてくれる千春はまるで母親のようだ。
(女のコって、母性本能があるんだなぁ)
 などと感心したが、すぐに記憶が巻き戻される。


「に、2度目、って?」
「あっ、言っちゃったぁ」
 ぺろっと舌を出し、頬を赤くする千春。それでも話したくてしようがないといった感じで、
「高校受験が終わるまで待てなかったんだぁ。えへ」
「って、ゆーことは…」
 待ってましたとばかりに千春が話しだす。
「しちゃったっ。晶良お姉さんに文和がどっか行ってなさいって家から追いだされた日」
(その日って…、ぼくが晶良さんちに行った日!? だよね)
 きょうはつくづく絶句してしまうことの多い日だ。間抜けそうに口を開けたままのぼくを無視して、千春は自分の体験談を話し続ける。
「文和とね、新宿のホテルに入ったの。あ、もちろん、おにいちゃんと入った部屋とは別よ」
(ぼくは…なぐさめてもらえるんじゃ…なかったの?)
 喜々として話す千春の笑顔を眺めながらエビカツバーガーにかぶりつく。
「エレベーターの中、文和、しっかりと抱きしめてくれた。すっごく男らしかった」
 うっとりと目を潤ませて甘い思い出に浸る千春。
「ベッドではねぇ…、あぁ~思いだしちゃうっ。すっごくやさしくって、時間もたっぷりかけてねぇ、いっぱい愛してくれたんだぁ」
「…そぉ…」
 それだけ口にするのが精いっぱい。
「あんなに感じたの、初めて!」
 声が大きくなっていく千春に目くばせをする。気づいた千春は首をすくめ、小さく舌を出した。
(あの、ピンク色のかわいい舌は、もう文和くんだけのもの…)
 捨て鉢になって千春の幼い肉体に欲望をぶつけようとしたぼくの浅はかな考えは、もののみごとに打ち砕かれたみたいだ。
 なぐさめてもらうどころではない。早く千春と別れて、この場から逃げだしたかった。
 しかし、千春の話は終わらない。席を立つきっかけを見出せないまま、ぼくは甘い話を延々聞き続けるしかなかった。
「…でねぇ、その日は、よんかい、しちゃったんだ」
 顔を近づけて小声で言う千春。
(す、すごい。ぼくだって1日4回なんてしたことない…)
 急にものすごく年をとった気がしてきた。


「じょうずとかぁ、へたとかぁ、関係ないんだなぁって思った。やっぱり、大好きな人と結ばれるってことが大切だったんだなって、よぉくわかったんだ」
 まじまじと千春の顔を見る。ずいぶんと大人びた表情になっていた。
「よかったね。千春を見ていたら、ぼくもなんだか元気になってきたよ」
「よかったぁ。元気のないおにいちゃん…、ん~ん、ちはる、もうおにいちゃんって呼ばない。カイトさんが元気になってくれて、ほんとによかった」
「ありがとう。きょうはごちそうさま」
「ん~ん、いいの。カイトさん、これまでいろいろありがとうございました」
 礼儀正しい千春。これまでの小悪魔の表情や態度など、これっぽっちも感じさせない。ぼくはホっとするとともに、一抹の寂しさを感じていた。
(ラブホテルでの奔放な千春は、もう文和くんだけのものか…)
 千春とはそこで別れ、逆方向の電車に乗り直して帰路についた。
 お腹はいっぱいになったが、胸にぽっかり穴が開いたみたいな気分だった。
 家に着くと疲れがどっと襲ってきた。少し熱っぽい。自分の部屋に入りベッドにもぐりこむ。
(これでよかったんだ…よね?)
 肉体関係のあった2人の女性との別れを、まさか1日で味わうなんて想像だにしなかった。
(一番いい結果になったはずなのに…。なんだろう、この気持ち)
 涙がこぼれた。
(悲しい、よ。つらい、よ)
 再び思う。別れとはこれほど自分にダメージを与えるものなのかと。
(もしも晶良さんと別れることになったら…。いやだっ! そんなこと、絶対にいやだっ)
 考えたくもないことが頭をよぎる。頭を左右にブンブンと振ったが、頭痛が増しただけだった。
 ぼくは自分に誓いを立てる。
(もう、絶対に、浮気なんてしない。するもんか)
 バレなければいい、などと考えていたこともあった。つくづくバカだと思う。
(晶良さん、会いたい。会いたいよ)
 メールしようと思ったが体が動かない。どうやら風邪をひいたようだ。
 その夜は一晩中、悪夢にうなされた。
 翌日から3日間も寝込んでしまい、その週は高校に通うことができなかった。

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