ワイシャツにルージュ
不倫相手の女が男のワイシャツに、一線の口紅の色を残して男を家に帰す。男はそれに気づかない。それはその男に対してのものではない。彼のパートナー宛てへの宣戦布告状だ。長い間、真っ赤な口紅は性の象徴として、男を魅了するものであったし、また、女の妖しさともいうべき面をも表す色だった。男の妻は洗濯をするときに男のワイシャツを洗おうとしてふと首筋の襟あたりにその女の「跡」を見つける。妻はその色から、艶から、そして匂いから、ああシャネルの何番の口紅だ、今一番入手困難と言われているディオールの新色だと憶測する。そして、その口紅を元に、空想の不倫相手を頭の中に描いていく。ぱりっとした白のブラウスに、シワ一つないベージュのスカート、栗色の巻き髪で、いつも颯爽とクロエの鞄を持って、話題の美容院に通い、週末には優雅にエステサロンに通う女。
たかが、口紅じゃないか、そう思う人も多いのではないだろうか。しかし、化粧とは、ただ単に自身を綺麗に美しく見せるツールにとどまらない。自分がどのような人間かを示すものになるときがある。
巷では、いろいろな格好をしている若い女性たちに会う。ギャルと呼ばれている人達や、コンサバOL、ゴシックロリータ系の格好をしている人達、フェミニンなお嬢様スタイルなど。それらの人たちは単に異なるファッションをしているだけではない。彼女たちには彼女たち特有の文化があり価値観がある。観る映画、食べる物から理想とする将来、ものごとに関する考え方一つ一つまで、広範囲でくくることのできる「ライフスタイル」というべきものが、彼女たちの小さなコミュニティの基礎を築いている。そしてそれらのライフスタイルを、装いという形で記号化しているのだ。
私たちは、服装や化粧などの外見を通して、他人がどのような人物なのか無意識のうちに探っている。先ほどの挿話で、「真っ赤な口紅」は、その艶感、質感、印象、匂い、あらゆる要素から、不倫相手のライフスタイルや価値観、雰囲気などのイメージを男の妻に喚起させるのだ。このように、装う人の雰囲気や、社会的なカテゴリーをも表象する「化粧」に対して、私は奥深さを感じる。私たちの生き方、人間像はかりにそれが演出されたものだとしても、服装や化粧によって表現されるときがしばしばあるのである。
人はなぜ「装う」のか。さまざまな考え方がある中で、それは相手に自分という人間像を伝えるための自己主張なのだとする考えは、いつの時代でも、人々が装う普遍的な理由の一つのような気がしてならない。
(照)