大学再編と民営化と部室
東大美術サークルの部室は集積されないごみ集積場を抜け、腐ったプールの横を通り過ぎたところにある。真うしろには最近できたばかりのガラス張りの高い建物、18号館がある。この18号館は教授たちの研究室と院生の教室として使われており、多くの教官は8号館や2号館から引っ越してきている。私の所属する後期教養学部の学生室は8号館にあるのだが、ここはいつ崩れてもおかしくはない。かつて、夏の暑い日に4階の部屋で窓を開けたら、窓枠ごとボロボロと壊れて下に落ちてしまった。それほどの老朽ぶりだから、教官たちはわれ先にとあのガラス張りの18号館に駆け込んでいるのである。ちなみに学生たちはと言うと、未だに崩れかけの8号館に取り残されたままである。
私は一度この建物の最上階に上ったことがあるのだが、ここからの眺めはとても良い。渋谷や新宿の高層ビルが一望でき、教授たちはさぞご満悦に違いない。しかし、彼らを苛立たせる建物がすぐ下にある。ほかでもない、私たちのサークルの部室のある旧物理倉庫である。上から見ると、この建物の屋根には青いビニールシートが敷いてあり、その上に落ち葉や枝が散乱していて景観的に大変見苦しい。教官たちは、こんな建物早く取り壊してしまえばいいのにと思っているに違いない。
おりしも、東大が国立大学法人化の波に乗り、キャンパスを再編しようとして、あちこちで工事を行っている最中である。その影響で、この部室も取り壊されるという計画が出されたり引っ込められたりという状況が続いている。
取り壊されたあと何が建つのかは知らないが、やはり非常に違和感を覚える。もちろんこの建物自体相当老朽化しており、いつ取り壊されたとしても文句は言えない。部室の裏や表はごみ捨て場と化し、いつの間にやら誰かが粗大ごみを捨てにくる。確かにこのような場所は大学としては相応しくないのかもしれない。
また、駒場寮に立て篭もった左翼のように、すでに形骸化してしまったかつての権威に反抗するためだけに取り壊しに反対するのも無意味だし、大学の自治というのは教授の自治であり、学生の自治ではないことも承知している。
ただ、状況が気に食わない。国立大学法人化というのはそもそも小泉の民営化路線に乗っかったものである。今日本で民営化が唱えられているのは、もとをただせば国にカネがないからだ。国立大学を始めとする国の機関を法人化して独立採算にすることで、国からの補助金をなくし、少しでも財政を均衡化させようというのが彼ら「改革者」の狙いである。
しかし、現在国地方の借金はあわせて800兆円弱。毎年の歳出のうち25%は社会保障関係費。20%は地方交付税など地方への仕送り。20%は国債費。それに対して公共投資9%。義務教育を除いた文教への支出はわずか3%。何か間違っているような気がしてならない。焼け石に水という言葉は今の日本のためにある言葉かもしれない。何故に3%しかない文教費をこれほどまでに躍起になって削減し、効率化しようとしているのか。「改革者」の言葉を使えば、「非合理的」である。優先順位が違う。
ではなぜそのような非合理的な論調がまかり通るのか。それは、「市場に任せれば全てうまくいく」という迷信があるからだ。このような考え方はそもそも、80年代にアメリカのレーガン、イギリスのサッチャーによって唱えられた。彼ら新自由主義者は民営化によって、肥大化した行政をスリム化し、財政を均衡させようとした。
しかし、アメリカでは民営化によってカットされたはずの予算は軍事支出のために使われ、赤字はさらにひどくなった。イギリスではある程度効果を発揮したものの、われわれはそれを日本の文脈に当てはめることはできない。なぜならサッチャー以前のイギリスというのは、経済の半分以上が国の活動によるもので、それは民営化して当然であったからだ。レーガン、サッチャーの新自由主義をそのまま日本に直輸入したのが、中曽根とその取り巻きであり、中曽根も今の小泉と同じようなことを当時はやっていた(注1)。
アメリカでクリントンが政権をとると、NPMと呼ばれる、行政に競争原理、市場原理を導入するための改革が行われた。これも多分経済産業省あたりが直輸入した。笑ってしまうと失礼かもしれないが、行政にとっての「擬似顧客」を想定し、同じ種類の仕事を行う民間企業のパフォーマンスを基準に政策効果を判断するというものだ。効果があったかどうか、私は知らない(注2)。
その後、現在のブッシュ政権になり、またしても新自由主義が台頭した。小泉はブッシュの望むような改革を行っていると言う話も聞こえる。陰謀論ついでに付け加えると、IMFが債務危機に陥った国に対して融資の交換条件として出す「コンディショナリティ」の一つに「国営機関の民営化」がある。日本は融資もされていないのにコンディショナリティに従う稀有な国である。
このように、現在の民営化を支える理論が全てアメリカからの直輸入であるのは非常に情けないことである。ついでに言えば、現在進めてられている大学再編、産学連携だって、その底流にある思想はアメリカの大学のまねなんじゃないかと私は思っている。アメリカでは、政権が変わると大学で教えていた人間が突然政権入りして影響力を発揮する。日本は猟官制ではないのだからそもそも前提が違う点で異議を挟みたいところだが、それ以前に、政権によって左右される大学というのを恐ろしいと思う者はいないのだろうか。これほどまでに戦前の日本の全体主義を批判する人間が多い割には。もちろん理系のすぐ産業と結びつきそうな研究分野について産学連携を否定するつもりはない。しかし私は基本的には大学のコンサル化には反対である。少なくとも胡散臭いとは思う。大学に市場原理を持ち出したら文学部なんて速攻廃止だということに気づかないのだろうか。
とはいえ、「東大のカルロス・ゴーン」はそこまでの急進派ではないようで、あるいはできないのか、せいぜいキャンパスにドトール入れたり東大泡盛売ったりするのが関の山であろう。まあキャンパスに店が入るのは便利だし大歓迎だから早く駒場にも作って欲しいところだが、東大ロゴ入りの文房具はどうかと思う。形骸化したエリート主義をブランドに転化させようというセコい根性はどうにかならないものか。所詮発端が「大学による金儲け」という貧困なものだから、出てくる結果も寒くなる。
そういったもろもろのドタバタの余波が我がサークルにまで及び、部室が取り壊されるというのは正直不愉快である。取り壊されたあとダンスホールができるという噂もさらに不快である。この広くて少々味のある部室に惹かれて入部する部員も多い上に、東大ボールペンよりは付加価値の高いものを作っている自負もしくは自己満足もある。だから不愉快だ。たとえ寿命でこの建物が取り壊されることは仕方ないにしても、非合理的な民営化・大学再編・産学連携の文脈の中で取り壊されるのは大変納得がいかない。
注1 中曽根が行ったJRの民営化と先日の尼崎事故に関連性はないのだろうか。何やらウヤムヤになってしまったが。
注2 というのも、アメリカの財政が均衡したのはクリントンのおかげと言う意見と、ただ単に景気が良かったからだという意見があるからだ。
(小)