日常と「芸術」
~日常が美術・芸術を包摂する場所~
現代日本において、絵を見る場所といえば美術館かNHK教育と相場が決まってしまっている。
絵を描くことに至っては、お洒落有閑階級の遊びか、ボヘミアン気取りの社会不適合者がやること、くらいの認識だろう。
絵を描く、という行為はもっとも根源的な欲求の一つである。
人の描いた絵を見て、それについて何かを語り、また自分で絵を描くということは、その欲求から演繹的に導かれる当たり前の行為ではないのか。
人の描いた絵を見て、それについて何かを語り、また自分で絵を描くということは、その欲求から演繹的に導かれる当たり前の行為ではないのか。
ごく普通の日常生活を営む。
夜寝て、朝起きて、ご飯を食べ、小便をし、セックスをする。
仕事をし、勉強をし、友人と話し、音楽を聴き、本を読む。
このサイクルの中に、絵を描き、絵を見るという行動が入り込む隙間は無いのか。
夜寝て、朝起きて、ご飯を食べ、小便をし、セックスをする。
仕事をし、勉強をし、友人と話し、音楽を聴き、本を読む。
このサイクルの中に、絵を描き、絵を見るという行動が入り込む隙間は無いのか。
もちろんシステムにも問題はある。
個人は自分の欲求を全てかなえられるわけではない。
現代社会においては、欲求を実現するための条件としてのシステムが不可欠である。
飯を食べるには食材を買う場所が必要だ。
小便・大便をするには便所が必要だし、セックスするにはラブホテルとコンドームが必要だ。
本を読むには本屋か図書館が、勉強するには先生が、友人と話すのにすら携帯が必要な世の中かもしれない。
個人は自分の欲求を全てかなえられるわけではない。
現代社会においては、欲求を実現するための条件としてのシステムが不可欠である。
飯を食べるには食材を買う場所が必要だ。
小便・大便をするには便所が必要だし、セックスするにはラブホテルとコンドームが必要だ。
本を読むには本屋か図書館が、勉強するには先生が、友人と話すのにすら携帯が必要な世の中かもしれない。
確かにターンテーブルの無いB-boyが口でビートを奏で、身銭を稼ぐのに飽きた無宿人が上野公園で寝るように、
絵を描く欲求に自覚的なものたちは、場所も道具も自分たちで作り出し、そして絵を描くだろう。
絵を描くのには、美術館もデッサン教室も本格的な油絵セットもいらないのだ。
絵を描く欲求に自覚的なものたちは、場所も道具も自分たちで作り出し、そして絵を描くだろう。
絵を描くのには、美術館もデッサン教室も本格的な油絵セットもいらないのだ。
しかし、もはや絵を描く文化が廃れてしまっていることに自覚的でもある僕らは、戦略としてまずシステムから作っていかなければならない。
一番影響の大きいのは、まずもって市場を作ることだ。
もちろんそれは、西洋で盛んな、日本ではマニアックで必要以上にスノッブな、高額紙幣の飛び交う、いわゆる美術市場ではない。
庶民が新作を待ち望み、そして自らも気軽に手習いをした、浮世絵市場のような市場だ。
毎週ヒットチャートが発表され、年末にはテレビに介したトップアーティストたちの作品を家族で見る、音楽市場のような市場だ。
一番影響の大きいのは、まずもって市場を作ることだ。
もちろんそれは、西洋で盛んな、日本ではマニアックで必要以上にスノッブな、高額紙幣の飛び交う、いわゆる美術市場ではない。
庶民が新作を待ち望み、そして自らも気軽に手習いをした、浮世絵市場のような市場だ。
毎週ヒットチャートが発表され、年末にはテレビに介したトップアーティストたちの作品を家族で見る、音楽市場のような市場だ。
しかしながら同志が少なく、潜在的同志たちも「美術手帳」を始めとするスノッブなアートジャーナリズムに飲み込まれてしまっている今、
僕たちがそんな市場を作り出すのは、非常に困難な道である。
僕たちがそんな市場を作り出すのは、非常に困難な道である。
ではどうするか。
僕たちの戦術には、まさにこのアトリエが武器となる。
このアトリエで飯を食い、語り、睡眠をとる。
日常生活をここで送る。
油絵もペンキもスプレーも、そしてキャンバスもベニヤもタルキも、イーゼルも目の肥えた批評家たちもここには存在する。
日常生活をここで送る。
油絵もペンキもスプレーも、そしてキャンバスもベニヤもタルキも、イーゼルも目の肥えた批評家たちもここには存在する。
飯を食って絵を描き、セックスをした後絵を描き、酒を飲みながら絵を描き、国際政治の授業を受けた後絵を描き、就職活動で溜まったストレスのはけ口として絵を描く。
これはもはや西欧発祥の「美術」、「芸術」という制度では汲み取りきれない新たな概念である。
(河)
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