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367クレーのドン・ジョバンニ

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#367クレーのドン・ジョバンニ


パウル・クレーの概略は
公式サイト http://www.paul-klee-japan.com/
のパウル・クレーについての項を参照して頂きたい。

本作品に登場する「鼓手」の前に「クナウエロス、今は亡き鼓手」がある。


「クナウエロス、今は亡き鼓手」1940年 鉛筆 29.8×21cm ベルン、クレー財団

今は亡き鼓手とはドレスデン国立管弦楽団のティンパニー奏者のことで、その名をクナウアーといった。クレーはドレスデンで交響楽の演奏を聞いたとき、このティンパニー奏者にいたく感じ入ったのであった。
クナウアーはクレーの死の年の作品に「鼓手」としてもう一度登場する。そのときには死の象徴として現れるのである。


「鼓手」 1940年 糊絵具 板に貼り込まれた紙 34.3×21.6cm ベルン、クレー財団

クレーはこれらの絵を描いているとき、仕事の刺激で自ら「太鼓を叩いている」ような感情を味わった。


「バイエルンのドン・ジョバンニ」 1919年 22.5×21.3cm 紙・水彩 ニューヨーク、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館

ドン・ジュアンの五重奏は、トリスタンの叙事詩的な動きにもまして、私たちの心に迫る。モーツァルトとバッハは、19世紀の音楽にもまして現代に近い。(1917年7月の日記より)
オペラドンジョバンニにおいて、従者のレポレロがジョバンニと関係を持った2065人の内訳を謳う「カタログの歌」のシーンが暗示されるような、五人の女性の名前に囲まれている梯子を登る影はベールで覆われた自画像である。
EmmaとThèresは同名の歌手を、その他のCenzl, Kathi, Mariはクレーがはかない情事を過したモデルについて言及している。

バウハウス時代、クレーはワイマールの上手の公園の向こう側に、古い家具に取り囲まれて一匹の猫と一緒に住んでいた。夕方にはいつも音楽を奏でたが、たいがいは妻のリリーと合奏した。週に一度は本職の音楽家と組んでカルテットを演奏した。
音楽を奏でることは、フォルムについての彼の芸術的良心を強める結果になった。
彼は「ドン・ジョバンニ」の総譜をそらんじることが出来るほどであったから、ドレスデンの国立歌劇場のために舞台の書き割りを作りたいと思っていた。しかし結局はスレーフォークトが選ばれてしまった。そして彼の送ってきた数点の水彩画を元にして劇場の人々は仕事をしたのであった。


スレーフォークト「シャンパンの歌」1902年

もしクレーが音楽の精神に則って書き割りを作ったならば、どんなことになったであろうか。クレーは、同時代の音楽家の中では、ストラヴィンスキーとヒンデミットの音楽を特に好み、また理解してもいたが、彼らの曲を演奏したりはしないで大抵はレコードで聴いていた。
クレーが自ら奏でたのは古典派の作曲家、すなわちモーツァルトやバッハの作品である。そしてこれらの作曲家の音楽からは、一種の通奏低音のようなものを見つけ出すことが出来るだろうし、それは絵画に対しても有意義なはずだと彼は思っていた。
クレーの考えによれば、絵画の発展段階は、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」において音楽の到達した段階よりもそうたいして進んでいないから、この通奏低音を絵画に取り入れるのは、それだけ一層困難であった。


チュニジアの(南国の)庭
1919年 水彩 24×19cm パリ ハインツ・ベルクグリューン蔵

1914年のチュニジアは最後までクレーに影響を与え続けた。
この絵の色彩は南国的で暖かい。多く使われている赤や橙や黄褐色や黄色、それに椰子の緑、地面の紫、海の青。いくつかの黒い斑点がこれに加わって、四角い色面の織りなす絨毯を左上から右下に斜めに分割し、同時に他の色をより明るく見せている。
チュニジアでは、クレーはむしろ光の現象か、あるいは事物の上の光の関係を見ていたのであり、それと同時に相互に依存し合う空間と時間の次元にいたのである。
それ故に画面の二つの植物が、我々に自然のきわめて痛烈なイメージを、すなわちどんな自然描写よりも一層真実なイメージを、呼び起こすことが出来るのである。



クレーの本質を僅かな言葉でざっと述べるのは難しい。結局彼は単に画家であるばかりでなく、自然科学者でもあり、哲学者、詩人、音楽家でもあった。彼は多くの世界に生きた。太古の、幽暗な世界にさえも生きたのである。そしていたるところで問題にしたのは、物が本来帰属するところであって、物と物との関係ではなかった。彼は音楽を演奏し、詩を作った。
クレーは基礎的なもの、原理を追求していったから、彼の作品には絵画と詩と音楽の内的な連関があることは自明の理であった。オリエントに行ったり、また自分のチュニジアの絵やエジプトの絵にオリエントの精神を盛り込もうとしていたときには、この近東地方の精神そのもの、すなわち快活さと厳粛さの結合や比喩の愛好が彼に乗り移っていた。
その際には、単にもっとも包括的であるばかりでなく、またもっとも精確な公式を求めたのである。
この目的に対する最善の解決策が得られるなら、努力して何千枚もの素描を描いたであろう。彼は自分の仕事に倦むことなく、迷うこともなかった。絶えず自己を乗り越えて新しい行為へとすすみ、ついに一つや二つの変転は飛び越えてしまって、死と完全に調和、一致する境地に至り付いたのである。

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