ZERO - the man of the creation - 検証サイト

436秋の韻律

最終更新:

the-man-of-the-creation

- view
だれでも歓迎! 編集

#436秋の韻律




秋のリズム:ナンバー30、1950
1950年
カンヴァスに油彩
266.7×525.8cm
メトロポリタン美術館
ニューヨーク


芸術家カウボーイの神話

ポロックが生まれたのはワイオミング州コディの牧場であったが、彼と西部をつなげる物は数ヶ月そこで住んだこと以外、15歳のとき西部の恰好をして撮った写真一枚だけである。
しかしポロックは最もエキサイティングな、開拓的、反抗的でワイルドなイメージに込められている精神を、そして伝説的なカウボーイたちの神話を、独特のやり方で継続させていくことになった。
ニューヨークに出てくるまではずっと西部的な街に住んでいたと思われていた彼は、最後までその誤解を正そうとはしなかった。

「ポロックの自己破壊には、美術界で広く敬われていたある種の偉大さがあった。ポロックは純粋にアメリカ的な人物、、本物の夢想家、カウボーイ、反体制者に見えた」
(伝記作家マーク・sティーヴンズ/アナリン・スワン)

思春期以前と芸術の観念

ポロックが生まれて10年のあいだ、父親の事業が成功せず5回も引っ越している。
思春期を通じて彼は社会的な繋がりを確立することができず、生涯にわたって心配や不安定さを心に抱き、社会的集団の中で難しさを感じていたが、ひょっとしたら頻繁な引っ越しにその原因があったのかも知れない。
1923年頃、小学生だったポロックは兄たちとネイティヴ・アメリカンの指定居住地をはじめて訪れた。それからまもなく彼はインディアン文化の伝統に引き込まれていく。
彼はネイティブアメリカンのアーティストたちが素材をどうやって彼らの絵画などに取り込んでいくかを目にした。彼らの作品は概して抽象的であるか、あるいは少なくとも抽象的な図案を含んでいた。さらに、彼らは地面に対して水平な場で制作していた。
18年後、MoMAで開かれた「合衆国のインディアン美術」という展覧会でナヴァホ族のアーティスト達が床の上で砂絵を制作するのを見ている。
この二つの経験が自分の絵画技法の源泉にあると後にポロックは語った。

高校生のポロックは進路先にすでに芸術家を考えはじめていた。しかし彼のドローイング技術は極めて劣っていた。
高校時代のドローイングは一枚も現存していない。
1927年からの3年間父親の見つけた測量の仕事に兄と一緒に加わった。グランドキャニオンの地勢調査を経て西部の広大な風景画自らの芸術のヴィジョンに影響を与えていると悟る。
16歳のとき、シュワンコフスキーから抽象美術の基礎、彫刻を学び、仏教の根本原理や東洋哲学に基づいた神秘思想への西洋的アプローチなどにも触れた。
それらの教理は「オールオーヴァー」な構成、すなわちポロックの仕事に見られる限界のない拡張的なヴィジョンについての彼の観念とその実際の表現へと通じていったかも知れない。
ポロックはカンヴァスの大きな表面に接近して制作し、そこから後ずさりして距離を置いて見ることは滅多にしなかった。そうして彼は文字通り、物理的な協会無しに自分の作品のみを見ていたのだった。そのリズムや、結果として生み出されるオールオーヴァーな構成は、カンヴァスを超えて精神の眼の中で続けられていく。

ベントンの学生として

1926年にマンハッタンに兄が移住し、トーマス・ハート・ベントンのアート・スチューデンツ・リーグに週5日通い始めた。その4年後にはポロックもニューヨークに出てきてベントンのもとで学びはじめた。ポロックはこう言っている。「ベントンのもとでの仕事は、のちに非常に強く反発するようになったものとして重要だった。この点で、ベントンほど頑強でない人間だったらはるかに弱い反発しか生じさせなかっただろうから、そういった人間の元で学よりは彼のもとで学んだことは良かった」

最初の脱出

ポロックはいくつかの公立学校で用務員として働いている間に、彼の働いていた学校の校長プラットと教師マロットという二人の女性に出会う。彼女らは彼を助けるべくもっと良い仕事を見つけるのを手伝い、友人達に彼の才能について語り聞かせた。
1933年ころから兄とルーズベルト大統領下の雇用促進局が運営していた連邦美術計画の壁画部門に入った。ポロックはいくつかの壁画を手伝い、その経験がのちの大作への制作へとつながった。ベントンの影響や自分の過去から脱したいという気持ちと自らのルーツを頼りに制作を進行させたいという葛藤があったようである。

アルコール中毒

兄や妻のすすめで何度か治療を受けるものの、酒を断ち想像力に富んだ時期のすぐ後には酒を飲み抑鬱状態が長く続くのであった。

妻リー・クラズナー

若い頃彼女の才能は見落とされていたが、著名な芸術家にして優れた美術教師であるハンス・ホフマンの愛弟子となった。
社交場だけでも彼女の人生には常に男性芸術家の存在があった。アメリカ美術史における彼女の重要性は批評家や美術史家が認めているところである。
彼女はポロックを師ホフマンほか、カンディンスキー、メルセデス・カールズ、ハーバート・マターと引き合わせた。こうした接触は最終的に、さらに別の有力者や、芸術家、批評家、画廊主、後援者、そしてニューヨーク現代美術の世界のネットワークへと繋がっていった。

成功のクライマックス

1950年に「ナンバー1A、1948」がMoMAに購入された。これは未だに同館の宣伝の目玉にされている。
「モダンアートのその全体的な自己葛藤の歴史がそこにある」(レーン・レリア)
1951年にはMoMAでの「アメリカの抽象絵画・彫刻」展に選出され、ポロックの国際的な人気は絶頂へといたる。しかしながらアルコール中毒、妻との関係は激しいものになっていった。

1950年にポロックはメトロポリタン美術館のディレクター、テイラーに抗議する芸術家集団に加わる。テイラーの現代絵画に対する蔑視とメトロポリタンの展覧会に含まれる彼らの「進歩的な芸術」の量が少なすぎることが原因であった。(しかし秋のリズムはメトロポリタン美術館蔵)

52年までイタリア、パリ、東京、ピッツバーグ等で展覧会。ポロックの作品は今や国際的に受け入れつつあったが、しかし彼は1954年には殆ど全く新しい物を生み出さなくなった。

飲酒への逆戻り、そして

1950年、ネイムスのフィルム撮影の終了直後から再び酒を飲み始める。ネイムスのフィルム撮影において実際に描く代わりにそのように演技していたのだが、それによって
彼は己の尊厳を自分で傷つけてしまったと感じたのではないかとひとつには指摘されている。人生の残りの6年間、彼は過度の飲酒を続けることになる。

1956年8月11日、地元のパーティーに少しだけ顔を出した後、愛人のクリグマンとその友人メッツガーといっしょにスプリングスへと帰る道すがら、一度休憩のため車を止めた。彼は酒に酔って気分が良くなかったのだ。そして警官が横付けしてきてポロックを確認した。しかしポロックを知る警官は彼を確認しただけで立ち去ってしまった。ワイルドウエストの精神を体現していた彼の乱暴で粗野な振る舞いを周囲が許していたからかもしれない。その後ポロックはスピードを上げ、嫌がる女達の叫びにも耳を貸さず、ハンドル操作を誤って道から外れ4本の木立に突っ込んだ。午後10時15分、イーストハンプトンのファイヤープレース・ロード上、ポロックの家からほど近い地点であった。


ナンバー1A、1948
1948年
カンヴァスに油彩・エナメル塗料
172.7×264.2cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)




タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

添付ファイル
目安箱バナー