本条さんから「る」のバトンが回ってきたときになんだかいやな予感がしたのだが、果たして、今回の本の選択にはとても苦労した。「る」で始まる本は、出版数はそれなりにあるのだろうけど、どうも個人的に弱点らしく、本屋に行ってもなかなか目にはいらないようなのだ。そんなわけで「しかたなく」選んだのが本作。いや、読む前から面白いのはわかっていたのですが、ちょっと分厚くて、重いし、ほら、8月って暑いし…(締め切りは7月で今は9月です)。
さて、本作は京極夏彦の2001年の作品である。現在から30~50年ほど先の世界を舞台にした近未来SFだ。そこは、住人に対する管理が行き渡り、逐一その居場所や行動が記録される。生活のあらゆる箇所が制御された人工物で埋め尽くされ、家族と言えども人間同士がモニタを介さず対面することはほとんどなく、道徳や倫理も合理的でないものは徹底的に排除された社会。生まれたときからそのような環境に囲まれ育った14歳の少女たちが、物語の主人公だ。
彼女たちは「学校」に通ったりしない。各自自宅で端末機の前に座って学習する。子供たちはみな、互いに生活空間を共有する機会がほとんどない。そのため一般に互いに無関心で、人間関係の機微についてほとんど知らない。社会性を学ぶために、わざわざコミュニケーション研修という名の登校日が設けられているほどだ。そもそも外に出ることがあまりない。街に子供の居場所はなく、自然について関心を持ったり、動物に触ったりすることもなく、人工的な食物を摂取し、データに囲まれて暮らしている。それを当たり前として生きている。
ところで、京極夏彦作品といえば、もちろん京極堂シリーズである。このシリーズでは、古書店経営者で神主の京極堂と呼ばれる人物による「憑き物落とし」が物語の中心となる。「憑き物」といっても、心霊だのたたりだのオーラの色だのをズバリ言いあてるわけではない。ここでいう「憑き物がつく」とは、特定の文化、思想、信条、欲望、人間関係、過去の出来事などに深くコミットすることで、特有の論理に芯まで浸かってしまっているが、自分が何に浸っているか気づくことができない状態のことだ。これだけなら程度の差はあれ、誰にでも該当するだろう。それがもとで周囲の「一般的な」社会との間に惨劇が生じてしまった場合が、京極堂の出番である。彼は事件の背景や事物の関係を言葉で整理し再配置することで、関係者の認識を「通常の」論理の中に接続する。つまり当事者たちにとっての「意味」を一変させる。これが「憑き物落とし」である(漢字多いな…)。
しかし、極度に人工的な環境におかれている『ルー = ガルー』の少女たちは、そうした「憑き物」がつく余地がないように思える。もちろんまだ若いからというのもあるが、彼女たちは他人に無関心で、自分の感情についても知らなさすぎる。人の行為や世の動き、物事の成り立ち、自分の身体と現実との関係について「意味」を感じるということがよくわからないのだ。こうした彼女たちは「憑き物」とは無縁だが、その代わりに自分を含めたすべてのものに対する存在感が希薄である。
もちろん本作にも「憑き物落とし」が必要な登場人物はいる。しかし、彼の「憑き物」が落とされることはない。そのための物語ではないからだ。『ルー = ガルー』は少女たちが自分の身体を通じて「意味」を感じるようになるための話だと思う。その点で、ちょうど京極堂シリーズとは反対の方向から、同じところを目指す物語といえる。
本作を読み終えたあと、久しぶりに『姑獲鳥の夏』を読み返した。再読だから、軽く復習のつもりで読み始めたのだけど、やっぱりおもしろくて、結局ビリビリと感動してしまった。やっぱりクライマックスには「憑き物落とし」が欲しいと思った。それに比べると『ルー = ガルー』は密度が薄いような気がしますが、でもこちらはこちらで面白いです。
では、和泉さんに「み」のバトンを。