というわけで、本しりとり開始から数えて4回目の「つ」出現。そこはかとなく「つ」チキンレースが始まっているように見えるのはたぶん気のせい。
さて、ルネサンス以後の西洋哲学史上では、革命が2回起こっている。1回目はかのカントの「純粋理性批判」にて起こった。有名な「コペルニクス的転回」という奴だ。これをきっかけに、今まで外の世界に存在する事象をただ受動的に受け入れるだけだった「認識」という作業が、自身の自我によって世界を創り上げるというクリエイティブな作業に変化した。
こうして我々の目や耳は自由になった。夜空の無数の星の中に神話の主人公を見たり、山に落ちる夕日に芸術を見たりすることが出来るようになった。しかし、まだ我々が自由になるためには大きな重しがあったのだ。その重しを取り除き、2回目の、そして最後の革命を起こしたのが本著「ツァラトゥストラはこう言った」である。と私は考えている。
この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを!(上巻14項)
そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。(上巻40項)
ああ、わが兄弟たちよ、わたしが作ったこの神は、人間の作品であり、人間の妄想であった。すべての神々がそうであったように!(上巻46項)
「神は死んだ」という言葉ばかりが一人歩きした結果、ニーチェは否定の人だと思われがちであるが、実際はその逆であり、彼が起こした革命はまさに「聖なる肯定」だ。ツァラトゥストラ以前の我々は、神によって存在を許されていた。神という太陽に照らされることでやっと自分の存在を主張できる小惑星だった。しかしツァラトゥストラによって逆に神こそが人間によって考え出された惑星であることが暴かれた。そして我々は自ら輝く恒星となることができたのだ。何者にも左右されず、自らの意志によって存在することができるようになった。これを肯定を言わずして何と言おう。
ただし肯定とは、そのまま福音というわけではない。我々が完全に自由でなかったからこそ楽に生きてこられた、というのもまた事実である。なぜなら、自分の中に潜む悪徳や不遇もまた、どこか上のほうから押しつけられたものだと思いこめるからである。自由になるということは、悪徳や不遇もまた自分自身の力で意志したことになってしまう。
果たしてその重みに耐えられるのか。耐え抜いた者だけに、ニーチェの言う「超人」の資格が与えられる。超人とは、自らを創造する者である。
しかし、われわれは天国へ行きたいとは、ぜんぜん思わない。われわれは大人になった、だから、われわれは地上の国を欲するのだ。(下巻312項)
下巻では、我々が超人たるために越えなければいけないもう1つの壁が示されている。これも言葉だけは有名な「永劫回帰」である。
天国や神の国を夢見ることが許されなくなった今、我々に残されているのは、現に今いるこの世界だけだ。すなわち現世が始まる前に存在したものも現世であるし、現世が終わった後に続くのも現世である。今目の前にある現実が、永遠に繰り返される。聖なる肯定とは、そういうことだ。
天国や神の国を夢見ることが許されなくなった今、我々に残されているのは、現に今いるこの世界だけだ。すなわち現世が始まる前に存在したものも現世であるし、現世が終わった後に続くのも現世である。今目の前にある現実が、永遠に繰り返される。聖なる肯定とは、そういうことだ。
「これが、人生というもにであったのか?」わたしは死に向かって言おう。「よし!それならもう一度!」と。(下巻315項)
あこがれは、より遠いもの、より高いもの、より明るいものに向かう。「わたしはあとを嗣ぐ者がほしい」と、すべての苦悩するものは言う。「わたしは子どもがほしい。このわたしではなく」。
よろこびは、しかし、あとを嗣ぐ者を欲しない。子どもたちを欲しない。よろこびは、自分自身を欲する。永遠を欲する。回帰を欲する。一切のものの永遠の自己同一を欲する。(下巻324項)
嘆きは言う、「心臓よ、破れよ! 血を出せ! 脚よ、歩け! 翼よ、飛べ! 苦痛よ、高く! 上へ!」と。それもいい! それもいい!(下巻325項)
ここでもツァラトゥストラに迷いはない。全ての苦しみをそのまま肯定している。全ての矛盾をかかえた世界を肯定し、愛している。ここまで深い愛を私は他に見たことがない。あったとしたら、神が死ぬ以前の神の愛くらいである。
ツァラトゥストラの一言一言には、そのような愛が溢れている。救ってくれる者がいなくなった現代では、自分を救うことができるのは自分だけだ。我々は生きるために、超人を目指さざるを得ない。そのための、聖なる肯定の第一歩が本著なのである。
ちなみにこれ以降の西洋哲学の流れは、現象学や実存主義へと進んでいく。現象学とは、「他の何かによって顕れさせられているもの」ではなく「自ら顕れているもの」によって世界を語ろうとする学問である。また実存主義とは、論理的な計算結果や客観的な価値観からではなく、現に今人間が意識し、経験していることことが真実なのだという考え方である。どちらもニーチェによって神が死んだことを気づかせられたからこそ発展した学問であり、現代思想の誕生にとって本書は欠かせない存在だったと言えよう。