ぼくが子供のころ、うちの父親は自分が自然を相手に仕事をしていたからか、ぼくにも自然に対する興味を持たせたかったようで、キャンプや釣りなどアウトドアな遊びによく連れ出そうとしていた。子供が使うには過ぎるくらい上等な天体望遠鏡を買い与えたのも、その一環だったのだろう。何度か家のベランダから月のクレーターや火星を見た覚えがある。けれど、ぼくは漫画やゲームが好きで、そちらにばかり関心が向き、父に誘われずに自分から望遠鏡を覗くことは結局なかった。そのうち、望遠鏡は、片付け好きの母がリサイクルに出したかなにかで処分されてしまった。
もし今あの望遠鏡が手元にあったら、ちょくちょく覗いてみたりするだろうか、と本書を読みながら思った。天文台での日々を綴ったこの日記には、夜通しで天体観測をする天文学者たちの姿がある。真っ暗な観測室のなかで、狙う星に焦点を定め、天候を気にしながら空が白むまで天体の動きを追い続ける。彼らはそうして得た、星の位置や光のスペクトルを手がかりに、はるか彼方にある存在についての何事かを明らかにしようとする。なんと浮世離れな。
しかしそうした姿を一面ではうらやましく思う。なんだか彼らが星に似ているようにも思える。たまに朝とても早く目が覚めてしまい、仕方なく起きて真っ暗なうちから身のまわりのことやするべきことをしているときにも似たような感じがあるが、他の人たちが寝ている間に一人静かに活動を続けることで、かえって自分が寝ている間にもいろいろな営みがそこらにあるのだという気がしてくるのだ。いつでも星は空にある。これは当たり前に正しいことだが、普段あらためて実感することは少ない。そこに夜が明けてきて、朝に移っていくときに、こういう時間が毎日あったんだという、またこれも当たり前のことをしみじみ感じてしまう。
もちろん観測者にもそれぞれの浮世はあって、観測は彼らの重要な社会的活動なのだから、実際には星と同列であるはずは当然ない。しかしそれでも、天体観測を続ける人にはあこがれを感じる。その姿は、自分が寝ている間にも、あるいは事情あって起きていなければならず、どうしてこんな時間までと「一般的な」時間感覚のもとに孤独を感じているときにも、人に左右されない存在があるということを感じさせてくれる点で、星のようだと思う。