小学生の頃、よく石ころを蹴りながら通学路を歩いた。できるだけ同じ石をずっと蹴り続けて学校まで行くというルールだ。大事に小刻みに蹴っていくと確実なのだが、それではなんとなくつまらないから、遊びはだんだんと大胆になっていった。思い切って遠くまで転がるように蹴るのだ。こうすると、たいてい石はすぐに畑や道端の水路に落ちてしまう。石はよくどこかに行ってしまったけれど、そんなことをいちいち気にすることはなく、すぐに別の石で続きを始めた。ただ、ごくたまに寝る前などに、枯れた用水溝の中に落として見えなくなった石のことを思い出して、今もあの石は同じ場所にあるんだろうか、これからもずっとあの溝の中にあり続けるんだろうかといったことが頭に浮かぶことはあった。もちろん翌朝には忘れて、違う石を蹴るとか、服にくっつく植物の種を投げるとか、水路に草を浮かべるとか、大変忙しく通学していた。
ある石がいつから存在して、いつまで存在し続けるんだろうなどと考えると、今でも少し不思議な気持ちになる。噴出したマグマが冷えて岩になり、岩が砕けて石になり、だんだんと小さくなり、やがて砂になる。堆積して、また固まって岩になったり、マグマに溶けたりもする。つまり石は水と同じで大きな循環の中の一形態なのだ。けれど、そのスパンがやたらと長いから、蒸発して雨になって土にしみ込んでというのに比べると、石はいつまでも石のままのような気がする、というのが自然科学方面に素養のないぼくの素朴な実感である。
石を大きなサイクルの一つの時点と捉えれば、今の石を形作っている要素は、過去にあっては別の石(あるいは他の物質)の一部であり、未来においてはまた別のものの構成要素として存在するだろう。つまり、石には「前世」も「来世」もあるということになる。これまでの経歴が刻み込まれ、そして未来の基になる石。こういう見方を極限まで進めた次のような一文で『石の来歴』は始まる。
河原の石ひとつにも宇宙の全過程が刻印されている。
主人公は、戦地で瀕死の上等兵から聞かされたこの考えにいつしか魅せられ、終戦後しばらくして、石の蒐集を始める。やがて、在野の研究者としてとりつかれたように石に没頭していく。調査、研究は順調に進むが、ある時、家庭が理不尽な暴力によって破壊されてしまう。
100ページほどの中に、主人公の人生を軸として、戦争中の話、石の話、家族のいろいろがみっちりと折り重なり、緻密な構成を保って凝集している様子から、それ自体が石のような小説だと思った。テーマが重く、密度が濃いので疲れているときなんかには避けたほうがいいかもしれない。ただし、その中にあって、子供を連れ立って石の採集に出かける場面での交流は、かなり幸福度が高い描写だった。
ラストには不思議な印象がある。場面としてとても美しいのだけれど、果たしてひどい目にばかりあっていた主人公の救いになったのかどうか。直接的には問題は何も解決されないのだが、とても感動的なラストだった。循環の果てに、全過程を刻印した石が存在して、その結晶が輝きを放つ。そこはすでに解決が問題となる場ではないのだろう。
では、和泉さん、お次は「き」でよろしくお願いします。