はじめに


「随筆「つれづれなるままに」 兼好─太平記と現代を行く を書くにあたって、以下のことをあらかじめお断わりしておきたいと思う。

先ず、「徒然草」そのものを全段解説なり批評しようとは思っていないこと。既に幾多の研究書や解釈に関する本は学者やら文学者や研究者の手で江戸の北村季吟より今日にいたるまであまた発表されて出尽されている感がある。それらの書物に伍して何かしかの本を出すことは無能な私には到底不可能なことであり望むべくもないことであるからである。徒然草はいろいろな引出しを持った箪笥に例えることが出来ると思う。その中から好きな引出しを出して、お好みの材料でその時代の歴史を考察したり、人々の生活振りを抽出してお好みの織物を紡ぎ、私なりの徒然草を語ることは出来ると思う次第である。

次に、兼好が生きた時代である。鎌倉幕府が衰退し、上は天皇家の兄弟による持明院統と大覚寺統に分かれての相続争い、その天皇家を取り巻く貴族間の争い、同じく権力に連なる歌道の二条派と京極派の主導権争い、武士達の所領を巡る熾烈な相続争いと日本国中が渦を巻いて乱世の真っ只中にあった。乱世の世が徒然草ではどのような視点で捉えられ、どのように語られているのか興味のあるところである。これはと思うような段を重点的に取り上げて鎌倉末期の情況を見つめて行きたいと思っている。

最後に、兼好の人となりである。彼は早くから出家して隠遁生活を送る清貧の賢者というイメージが付き纏い勝ちであるが実際のところはどうであったのであろうか。非常に興味のあるところである。

彼は、乱世の中を権力もなく、地位もなく、無論武力もなく学識と才気と歌才とをもって上流社会の周辺を上手に生きて幕末から南北朝の騒乱まで非常に長く存命したことは知られている。和歌の二条派の四天王の一人として持て囃されたこともあり、和歌の恋歌を代作してアルバイトをしたり、幾許かの田地を所有したり、晩期には尊氏の有力武将の高師直の礼法の指南役をやったりして、乱世を生き抜くしたたかさは持ち合わせていた様である。出家して修行したと言っても奥義を極めるまでとことんまでやり抜くタイプでもなく、かなり俗気のある出家僧であったと見受けられる。ちなみに、蕪村の句に

「兼好は絹もいとわじ更衣(ころもがえ)」

というのがあるが、意味は

「はや衣更えの季節になったが、隠者は粗衣と相場が決まっているが、かの粋法師兼好は絹物も辞さなかったろう。同じく粋法師を自負する私はというと、麻の粗衣で京を遠くに閉塞している次第」

と皮肉たっぷりに詠んでいる。(講談社刊 蕪村全集)

兼好が、清貧一途の隠遁者ではなくかなり俗気たっぷりの才人であるがゆえに、逆に徒然草は世相を反映し、内容が多様で示唆に富み大変興味のある作品に仕上がったのではなかろうかと言えなくもないのである。徒然草からより太平記的なるものを抽出して鎌倉末期の歴史の一側面を考え、また処々の段にある当時の鋭い社会時評から時代を翔んで現代にも立派に相通じるメッセージを汲み上げて、今日的な問題として普遍的に考察するのも無意味なことではないと考えて敢えて拙文を記した次第である。


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最終更新:2008年09月07日 02:01