「この世界で一番綺麗なものをお土産にして帰ってくるよ」
そう言って『彼』が旅立ったのはもう随分と昔のことで、その日から彼女はただ毎日、空を見上げていた。
◆
「移住計画、ですか?」
目の前の男の発した言葉を反芻して、少女は目を瞬かせた。
「そう。新しい星へのね」
微笑んで、それから男はふと顔を曇らせた。ゆっくりと、部屋の外を見やる。
「もう長くは持たないだろうからね」
呟きと同時に、部屋が僅かに振動した。
月が隕石衝突により崩れだして早数年だった。その欠片が頻繁に地球へ降り注ぐようになって、人は地下生活を余儀なくされた。
巨大なシェルターはひとつの街と化し、今二人がいるのはその中の一角、研究者の集まる区間だった。
「地上はもう酷いんだろうなぁ」
「マスター?」
「うん。仕方ないって判ってるよ」
言って立ち上がると、男は少女の手を取る。
「行こうかミク。いつもの時間だ」
時計は十三時を指していた。少女が満面の笑みを浮かべ首肯する。鮮やかな浅葱の髪が揺れた。
「はい、マスター」
◆
シェルターの共同地区。中央広場に少女は立っていた。おもむろに彼女は口を開いた。歌声が流れ出す。
ボーカロイド 初音ミク
人がこの地下生活を余儀なくされ、娯楽を全て奪われていた頃、彼女は救いそのものだった。少なくとも、彼はそう思っていた。歌は、救いだ。人類は文化を持ち始めた頃から歌っている。それがやがて、アンドロイドである彼女に受け継がれたとしても不思議ではないだろう。そしてその歌声が、人を癒したとしてもなんら不思議ではない。
この星はもう長くはないだろう。降り注ぐ欠片は止まるどころか、日毎、数を増やしている。このままでは、シェルターだって持たないだろうし、何より人はこの地下でいつまでも生活するに耐えられる精神を持ち合わせてはいない。いくらミクの歌声があろうと、人同士の励ましやつながりがあろうと、空が、土がないと生きてはいけない。
空を、見せたいな。
いつからか、彼は思っていた。
空を、ミクに見せてやりたい。あの青く晴れ渡った明るい空を見せてやりたい。
澄んだ空気。風がながれ、雲が泳ぎ、鳥が羽ばたくあの空を。
もともとはソフトウェアだったミクにアンドロイドの身体を与えたのは彼自身だ。しかしそれはこのシェルターに入ってからのことで、したがってミクは空を――この星の美しい光景を見ていない。
シェルター内に響くミクの声に目を閉じながら、彼はもう一度強く思った。
空を、見せてやりたい。
◆
「おつかれ、ミク。上手だった」
歌い終わった彼女の元へ歩み寄っていく。ミクはぱっと顔を輝かせた。
「よかった!」
無邪気な子どものように笑うミクの頭をそっと撫でて、それから彼は腕を組んだ。
「ミク」
「はい?」
「ちょっと真面目な話をしようか」
その言葉にミクは二度、三度と瞬きをして、微かに首を傾げた。
「構いませんが、それは私に話して大丈夫なことですか?」
「うん。ミクに話したいことなんだ」
頷くと、ミクは再度首を傾げてからこく、と首を縦に振った。
「判りました。ちゃんと聞きますね」
無機質な白い部屋の中、ミクはマスターの顔を見上げながらざわめく回路を感じていた。
いつもと少し違う、思いつめたような――それでいて切なげな笑顔。
「さっきの続きなんだ」
「はい。移住計画、のことですか?」
「そう」とマスターは頷いて、部屋の隅に置いてあるファイルの束を手に取った。
「この星はもう長くない。随分前からそれは言われていて、本当にその日が近づいているのは確かなんだ」
「はい」
「火星にシェルターの素材でドームを作る計画は随分前からあった。それは、月消失以前からだね」
「テラフォーミングはどうなのですか?」
「同時にやってたよ。いや、やっている、だな。さすがにそっちは一昼夜で出来るものでもないし、移住してからも暫くは続く。ただ」
「ドームは完成した、ですか?」
言葉を受け継ぐと、マスターは静かに笑った。
「そう。だから、計画進行が現実のものになってきたんだ」
他惑星への移住。
それがどんなものなのか、ミクには正確なところまでは理解できない。ただ、マスターの表情が気になった。
「マスター? マスターは、移住が嬉しくはないのですか?」
問いかけに、今度はマスターがきょとんとした表情を見せた。
「どうしてそう思う、ミク?」
「寂しそうです」
「ああ……」
曖昧に苦笑して、マスターはふっと短く息を吐いた。
「移住は、するべきだと思う。けれどそうだね。ミクの言うとおり少し寂しい」
「何故ですか?」
「この星を捨てることになるからね」
この星を捨てることになる。
その言葉に、ミクはそっと窓を見やった。勿論窓なんて飾りで、『外』の風景の映っているモニタに過ぎない。その『外』さえも虚像の――かつての美しかった光景で、今の地上ではありえない。
それでも。この『外』を含む全てを、マスターは……否、人類は愛しているのだろう。その気持ちがどんなものなのか正確には理解できなくとも、想像することは出来る。
「どうしても、行くんですか? 寂しいのなら、離れなければいい」
「そうは行かないんだ」
困ったように笑い、マスターはすこし膝を屈め視線を合わせてきた。
「いつかは朽ちる船に乗っていても、船は喜びはしないよ。それに僕は、ミクにとびきりの宝物を見せてあげたいんだ」
「宝物……ですか?」
「そう。世界で一番綺麗なもの、だね。それを見せてあげたいから、僕は行く」
「よく、判りません。マスター」
「すぐに判る」
くしゃりと、頭を撫でられた。大きな大きな手で。
「ミク。すまないが、少しだけお留守番しておいてくれないか?」
「お留守番……ですか? 一緒には行けないのですか?」
「先に僕が行って、いろいろ確かめなきゃ。それからミクを呼んで、とびきりの宝物を見せてあげよう」
寂しい。とは言い出せなかった。それはわがままだろう。だから微笑んで頷いてみせる。
「判りました。マスター。いつ、戻りますか?」
「そうだね。じゃあ、ミクの誕生日にしようか」
マスターが目を細める。
「ミクの誕生日に、この世界で一番綺麗なものをお土産にして帰ってくるよ」
◆
あの言葉から、もう随分と日がたった。アンドロイドである彼女は歳をとることはない。ただ、周りは変わっていた。
何の因果か、彼が旅立ってからしばらくして月の欠片は降り注ぐことをやめ、空を覆っていた塵や雲も途切れ、いつかの『空』が覗くようになった。人はぱらぱらとシェルターを抜けていき、荒廃した地上で、それでもたくましく新しい生活を始めている。
けれど。彼は帰ってこない。
「ミクちゃん。今日も待ってるの?」
通りすがる人が、どこか呆れたような、寂しげなような、そんな声で問いかけてくる。無言で頷いて、ミクは空を見上げた。
夜には、星が流れます。マスター。その星は、この星を荒らさないで消えるんですよ。
昼には、雲が流れます。マスター。真っ白で、ふわふわしていてとても綺麗なんです。
きっと貴方が言っていた世界で一番綺麗なものは、これなんですね。
今日は、何度目かの『誕生日』だ。帰ってくると、そう信じて見上げる。祈りが、空に届くなら。その場所に、いるはずなのだ。
そのときだった。
真っ白い光が空に流れる。ミクは駆け出していた。
――帰ってきた――
直感的に、そう判った。だから、涙がこぼれていた。誕生日にちゃんと、戻ってきてくれた。
けれど、マスター。
言ってやろうと思っていた言葉が、ひとつだけある。伝えよう。この声をつかって。
マスター。世界で一番綺麗なものは、貴方と一緒じゃなきゃ、無意味なんです。
だから。
「おかえりなさい、マスター」
「……ただいま、ミク。お誕生日おめでとう」
これからもずっと、一緒にいてください。
――Fin.
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