My Little Brother [1]

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カーテンを開けると朝の陽射しが眩しく目に突き刺さる。
寒さにぶるりと震えたメイコはそれを追い払うように大きく伸びをした。
今日は大切な日だ、しゃんとしなくちゃ。
自分の頬を両手でぱんと叩いてメイコは洗面所に向かった。

 


キッチンでスクランブルエッグを作る。
本当はもっとレパートリーはあるのだが、この家の主人は朝はスクランブルエッグと決めている。
「あら、メイコちゃん、おはよう」
起きてきた夫人が後ろから声をかけてきた。
「おはようございます」とメイコは振り向き笑った。
「寒いわねぇ。あの人ももうすぐ降りてくるわ。いい匂いね」
微笑む夫人にメイコは黙って微笑み返し、フライパンの火を止めて仕上げに塩をひとつまみ振った。
「メイコちゃんすっかり料理の腕前が上がっちゃって…私、料理の腕が落ちたような気がするわ」
「衿子さんの料理、私は大好きですよ」
サラダ用のトマトを洗いながら言ったメイコの言葉は本心である。
マスター夫人――衿子がメイコの料理の師範であり、元来凝り性なのか向いているのか料理の腕をめきめき上げた今となってもメイコにとって衿子の料理は母の味のようなものだった。
「ふふ、メイコちゃんはなんでもできていつでもお嫁さんに行けるわね」
お嫁さん、という言葉にメイコは少し胸が痛む。
衿子さんに悪気はないのだ。
自分を本当の我が子のように思っていてくれるから出る言葉であって…。
だけど、ボーカロイドの私は「お嫁さん」なんかになれない――。
いいのだ――こうして衿子さんやマスターのもとで愛娘のように可愛がってもらえるだけで幸せだ。
「やあ、おはよう、衿子、メイコ。今日は寒いね」
主人の博明氏が起きてきた。
衿子さんも博明氏もパジャマで朝食の席に姿を現すようなだらしない人たちじゃない。
部屋着の上に冬場は色違いのお揃いのガウンを羽織って現れる。
「いい匂いだ。衿子はめっきり料理の腕が落ちたんじゃないか?」
ぷっと吹き出した夫人が「今私もそう言っていたのよ」とふんわり微笑みを浮かべて言った。
マスター夫妻は温厚な人たちである。
著名な音楽家でありながら威張ったところもなく品の良いこの夫妻をメイコも親のように慕っていた。
松本博明氏に衿子夫人、このふたりがメイコの親代わりである。
一昨年の十一月に起動したばかりのメイコのマスターとなり、日常生活や人間社会のルールを教えてくれた。
歌の指導も忙しい仕事の合間を縫って懇切丁寧にしてくれる。
子供のいない松本夫妻はメイコを我が子のように、愛娘のように可愛がってくれる。
最初は緊張していたメイコもいつの間にか生まれついての三人家族のように松本家に溶け込んでいた。
メイコにとっては本当に生まれた時からの親代わりではあるけれど――。
今日、メイコは少し緊張していた。
家族が増えるからである。
メイコと一緒に開発されたKAITO――
メイコより約二年遅れて起動した“弟”がやはりメイコと同様に松本家にやってくることになったのだ。
朝食の席でも「どういう子かね?」とマスター夫妻は楽しみにしている様子だった。
しかし、メイコはKAITO――カイトと同時に開発されたにも関わらず、カイトのことをよく知らないのだ。
二人で一緒にボディチェックを行う際に間近で姿を見たことはある。
しかしきちんと話したことはない。
ただ、優しげな菫色の眼差しと柔和な微笑みは覚えている。
不思議な光沢のある蒼い髪と、菫色の瞳を持った色白で華奢な青年――。
一体どんな子なんだろう…。
同じボーカロイドだけれど見た目があれだけ違うんだから性格だって違うはずだ。
研究所で見た優しげな眼差しと柔らかい物腰を思い出し、メイコはまだ見ぬ“弟”に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

今日は陽射しは強いが北風は冷たく典型的な冬型気圧だった。
こんな寒い日に来る弟も気の毒だけれど、あたしもちょっとツイてない、とメイコは思った。
目の前には湯煎で溶かしたチョコレートとマカデミアナッツのクランチとオレンジピール。
すでに少し使ったラム酒の小瓶。
なんだってバレンタインデイに起動したりするのかしら――?
バレンタインデイは昨日だったけれど、カイトが昨日正式に起動したことは知らされていた。
マスター夫妻のために昨日はチョコケーキを焼いたが、ひとりだけ遅れてくるのなら、その子の分も用意しなければならないではないか。
バニラエッセンスを数滴垂らすと甘い香りがふんわりとキッチンに広がる。
「メイコちゃんもなんだかんだ言って弟ができるのを楽しみにしているのね」
キッチンでチョコ作りに励むメイコの後ろで紅茶を飲みながらその様子を眺めていた衿子夫人がふふ、と柔和な笑みを浮かべて、「私も楽しみだわ、どんな子かしら?」と目を輝かせた。
「見た目は…綺麗な子でした。蒼い髪と、菫色の瞳で…。ただ、どんな性格なのかは知りません」
「蒼い髪なんてちょっと素敵ね。メイコちゃんみたいにしっかりした子なのかしら。おっとりしてるのかしら」
「おっとり…じゃないでしょうか…」
根拠はない、けれど、一緒に開発されていた間に何度か見かけた姿は温厚そうな印象だった。


チョコにクランチとオレンジピールを混ぜ、型に流し込めば後は固まるのを待つだけだ。
銀紙のカップにチョコを流し込み、形を整え、上からさらに粉砂糖を振ってドライチェリーを切り刻んだものを飾りに乗せ、メイコは大きな冷蔵庫の中にそっといくつかの銀紙の型に入ったチョコを置いた。
「お疲れさま、メイコちゃん。あなたもお茶でも飲みなさい」
“彼”が到着するのは夕方になると聞いた。
今はまだ午後二時――衿子さんとお茶を飲んで、カーテンの洗濯くらいする暇はあるわよね…。
「はぁい」とメイコは笑顔で返事をして、「ヨックモック頂きましょうか」と言って、自分の分の紅茶と夫人の分の紅茶を入れ直し、キッチンの小ぶりなテーブルの席につき、夫人と目を合わせてにっこり微笑んだ。
「メイコちゃんがうちに来てからもう二年近くも経つのね…」
夫人は熱い紅茶に口をつけ、思い出すように微笑んだ。
「昨日のことのように思えるのに、ずぅーっと前からメイコちゃんがいるような気もするの。不思議ね」
「マスターや衿子さんには大変お世話になって感謝しています…。私、最初は買い物の仕方も知らなかったし家事も全然できなかった…」
厳密に言えば、人間社会のルールや最低限の生活知識はもとからデータベースには入っているのだが、実際に経験するとなると勝手がわからず戸惑いだらけで緊張して失敗ばかりしていた。
「初めて服を買ってあげた時、すごく喜んでくれて嬉しかったわ」
嬉しそうに夫人が微笑む。
忘れもしない、マスター夫妻に初めてデパートに連れて行かれて、「似合うと思うわ」と赤いレースのワンピースと白いボレロカーデガンを買ってもらったのだ。
デフォルトコスチュームも赤だったが、マスター夫妻が「メイコには赤がよく似合うね」と誉めてくれたので、それ以来私服を買ってもらう機会があるとなんとなくどこかに赤のアクセントが入った服を選んでしまう。
最近では家計簿の付け方まで教わって、自分で買い物ができるようにしてもらっている。
下着などは自分で選んで買ったほうがいいという意味もあるのだろう。
あとマスターの博明氏にお酒の味を教えてもらって以来、メイコはすっかりお酒が好きになって博明氏のお相伴もしたりするし、暑い夏は家事がすべて終わるとビールを飲んでひと息ついたりもする。
今日はたまたま博明氏も衿子夫人も仕事の予定が入っておらず家にいるが、著名な音楽家であり海外公演もするような夫妻の仕事が忙しい時にはメイコはすべての家事をこなさなければいけないし、逆に自由でもあるので自由に過ごせるだけの采配をもらっているのだ。
「今じゃすっかりしっかり者で、メイコちゃんがいていろいろやってくれると逆に私たちがだらしないみたい」
悪戯っぽく微笑んだ夫人に「何言ってるんですか」とメイコは笑って返した。
“弟”は、どんな子だろう――。
やっぱり私が初めて人間社会と対面した時みたいに戸惑っていろいろやらかすのかな――。
くすりと笑ったメイコに「楽しみね。“お姉ちゃん”?」と衿子夫人が楽しげに声をかけ、メイコは慌てた。
「お姉ちゃんだなんてそんな…!」
「あら、だって“弟”だもの。カイトにとってはメイコちゃんが“お姉ちゃん”なのよ?」
しまった――
“弟”という認識だけが先走っていて、カイトにとっての自分の続柄をすっかり失念していた。
うへぇ、という顔をしたメイコに、「いろいろ面倒見てあげるのよ?カイトは起動したばかりで赤ん坊みたいなものなんだから。ね?」と衿子夫人は微笑み、メイコはふうと溜息をついた。

まさか二年近くも遅れてロールアウトしたのに「赤ん坊」はないわよね…?いくらなんでも…。




メイコはY社が開発したボーカロイドである。
Y社は楽器や音響機材で有名だが戦闘機の開発・販売までこなす手広い大企業だ。
そのY社から、カイトが到着するのは夕方の五時頃になると連絡が入った。
早春も近いとはいえまだ日が暮れるのは早く、カイトは夕暮れの寒風の中をやってくることになる。
夕食はチキンソテーにしようと衿子夫人と相談していたメイコだが、急遽メニューをポトフに変更した。
五時頃と言えば丁度夕食も近い時間であるし、寒風の中をやってくるであろう彼は、暖かい食事でもてなすほうがいいと衿子夫人もメイコも考えたし、博明氏も「きみたちの好きにしなさい」と快諾した。

鍋でコトコトとポトフを煮込みながら、なんか間の悪い子…とメイコは思った。
本人のせいではないだろうが、なんとなく間が悪いというか運が悪い人間はいるとメイコは学習した。
これからやってくる“弟”がそんな間の悪いタイプだと苦労しそうだ…とメイコは考え込んだ。
研究所では物腰穏やかで柔和で温厚に見えたが、どんくさいタイプだったらどうしよう…。
そんなことを考えながら火加減と鍋の中の様子を見、味見したメイコは「うん、OK」と満面の笑みを浮かべて黒胡椒と刻んだ香草をパラパラと散らした。
ついでに冷蔵庫の中のチョコレートの様子を見ると、チョコはすっかり固まったようで、ラム酒やバニラエッセンス、オレンジピールなどの風味が飛ばないようにラップでくるみ直してまた冷蔵庫の中にしまった。
料理が上手くできると嬉しい。
食べてくれる人が喜んでくれることが何より嬉しい。
カイトも喜んでくれるかしら――?
そう言えばどんな味覚なのかしら?…チョコレートくらい食べられるでしょうけれど。
男性型だから甘い物は苦手にしてあるかもしれない。
でも私は甘い物、それほど得意じゃない。
辛党っていうほどじゃないけど積極的に好んでは食べない。
まぁ味覚にそれほど偏りはないけれど。
松本夫妻が美味しいと言って食べてくれる自分の料理がカイトの口に合わないかもしれないことを考えて少しメイコは不安になった。
有機生命体のメイコ――ボーカロイドは食事も取るし人間よりも遅いが新陳代謝もある。
食事はエネルギー変換されて、変換されなかった不純物が排泄される。
バッテリーのように体内にエネルギーを溜め込むことができる上に代謝も遅いので、食事は必ずしも人間のように三食(それ以上摂取する人間がいることも知っているが)摂取する必要はない。
最低限の水分があれば一週間くらいなら何も食べなくても身体は持つらしい。
もちろん消耗はするが、人間のように飲まず食わずでいると栄養失調になるわけではない。
便利な身体に作ってくれたこと――と少し醒めた考えが頭をかすめる。
自分を作った人間に特に恨みはないが、酔狂だとは思うくらいの複雑な思考回路は持ち合わせていた。
“弟”も――カイトもそうなんだろうか?
すでに出来上がり、あとは火を通して盛り付けるだけの食事を横にキッチンで思索に耽っていたメイコの耳に、不意に「ピンポーン」と大きな玄関チャイムの音が飛び込んできて、思わず食前酒として勝手に飲んでいたチョコを作った残りのラム酒が入ったグラスを落としそうになった。
来た――?
見えはしないが玄関のほうを振り向いたメイコの耳に、「はいはい」と玄関先に出て行く衿子夫人の声が聞こえてきた。
歌を歌うことに特化したボーカロイドのメイコの聴覚は、人間よりずっと繊細で発達している。
「まぁまぁ、いらっしゃい。待っていたのよ、お入りなさい」
やっぱり――カイトだ…!
慌てて立ち上がり、エプロンを外してキッチンを飛び出したメイコの鼓動は早くなる。


ダイニングを通り抜け、玄関先に駆けつけたメイコの目の前に、蒼い髪の青年が立っていた。
少し光沢のある蒼い髪、菫色の瞳、色白で細身の青年の姿かたちは研究所で見た時と変わらない。
「こんにちは…はじめまして……カイトです…」
少し遠慮がちに挨拶するカイトは濃い青と薄いグレーのツートンカラーの薄手スタンドカラーのコートに青いスカーフのような薄手のマフラーを首に巻き、様子を窺うように衿子夫人を見つめていたが、メイコが衿子夫人の隣にやってきてカイトを見つめると、表情を明るくして弾む声で「メイコ」と言った。
カウンターテナーを得意とするような男性にしては高い軽やかな済んだ声。
少しまろみのあるその声は優しげな響きを帯びてメイコの名を呼んだ。
「さぁさ、再会の挨拶は中で。寒いでしょう?お入りなさい」と衿子夫人が微笑むと、その整った顔立ちが花びらのようにほころんで「はい!」と嬉しそうに返事をした。
「寒かったでしょう?そんな薄着で。すぐに冬物の服とセーターを用意するわね」
「これが冬、なんですね!」
中へと促す衿子夫人に向かってにこやかに笑うカイトの笑顔には少しも下卑たところはなく、ただ子供が初めて外に出たような初々しさと素直さが滲み出ていた。

これが、私の“弟”――



第一印象は、純粋無垢なひな鳥を見たような感覚だった。

 

 

<続>

 

 

 

 

 

 

 

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