二人で見た映画の話をしている時も
流行りの店で食事をしている時も
公園で他愛もない話をしている時も
その頭の中にある思いはひとつ。
「そろそろ……いいだろ?」
耳元で囁かれるのはデート中、何度目かのホテルへの誘い。
はぐらかしてきたけれどそろそろ限界。
「分かったわよ」
私は大きくため息をついて、そう答えるのだ。
+++
情事後の気だるさは家の扉を開けた瞬間に一気に襲ってきた。
「ただいま」
声には出さないよう気をつけつつも、動作はのろのろと脱いだブーツを脇へとよける。
「おかえりー」
返ってきたのは妹達の声。
今日の休日は特に予定もなかったらしい。妹達の靴は朝と同じ位置に揃えられていた。
居間の扉を開けると二人仲良くテーブルを囲んでいる。
「おかえりお姉ちゃん。あれ、ブラウスのボタン取れてるよ」
二番目のボタンが取れているのを上の妹のミクに目ざとく発見される。
そそくさと少し開けたその部分を押さえる私を見て、ミクの表情は険しいものになった。
「これ?ちょっと途中で引っ掛けて……」
慌ててフォローするがその言葉は興奮した声によって遮られる。
「嘘!またあの男に乱暴なコトされたんでしょ!」
ミクは私の彼の事をよく思ってはいない。
付き合い始めた頃、愚痴という名の相談をしてしまった事が原因だ。
とは言っても現実3割フォロー7割の相当ぼかした内容であった。
配慮したつもりだったのだが、恋に恋する年頃のミクには充分にショッキングだったらしい。
それ以来、ミクは事あるごとに別れた方がいいと言って来る。
心配してくれるからの言葉と分かっているので、私としては大丈夫よと笑って返す事しかできないのだ。
……現実10割で事後のぞんざいな扱いを話せば彼の家に乗り込まれかねない。
「ミク姉、『乱暴なコト』ってなあに?」
「リンちゃんはまだ知らなくていいの」
「はーい」
下の妹のリンの方はミク程の興味もないらしい。
だが、手元の携帯ゲームを操作しつつも会話はしっかり聞いているようだ。
「絶対メイコお姉ちゃん、その男にいいように遊ばれてるんだよ。毎回真昼間からラブホ誘われるっておかしいよ!」
「ミク姉、『ラブホ』ってどこ?」
「リンちゃんはまだ知らなくていいの」
「……」
リンは少し不機嫌そうにテーブルの上にあったハニーレモネードを一気に飲み干した。
それでもミクの勢いは止まらない。
「そういうコトはさ、昼間に健全なデートを楽しんだ後に日も沈んでからやる事だと……」
「『そういうコト』ってなあに?」
「リンちゃんはまだ知らなくていいの!」
ガチャン、と叩きつける勢いでカップがテーブルに置かれる。
その音でミクの視線がリンへと向かう。
三度目の同じ答えにリンは頬を膨らませて立ち上がった。
「そればっかり!何も教えてくれないミク姉なんか嫌いっ!」
「ああっ!待ってリンちゃん!」
拗ねて自室に走っていくリンを追いかけるミク。
その隙にと私も自室に退散させて貰うことにした。
鞄を床の上に適当に置き、服もそのままにベッドへとうつ伏せに倒れこむ。
服がくしゃくしゃになってしまうが気にしない。
ボタンが取れてる位なのだから今更そう変わらないだろう。
静かな一人の部屋。脳内にミクの先程の言葉が蘇る。
『その男にいいように遊ばれてるんだよ』
――恋人らしくない、のかな……私達の付き合い方は。
顔を枕に埋めたまま、サイドテーブルの上にあるラジオ機能がついた目覚まし時計を手探りで探す。
スイッチを入れると流れてきたのはどこかで聴いた覚えのあるセレナーデ。
タイトルまでは思い出せないのが少しもどかしい。
その優しい調べに乱れていた心が落ち着きを取り戻していく。
「……起きますか」
曲が終わった所でゆっくりと起き上がり、ボタンの外れたブラウスを脱ぐ。
三時間も悩んで購入したこの新品のブラウスも彼の目には特別なものには映らない。
着慣れた服も新品の服も、いずれ脱がす為の布でしかないのだ。
彼が欲しいのはこの布の下にあるものなのだから。
次にラジオから流れてきたのは初めて聴くロック調の曲。
性的意味合いを連想させる歌詞がやけに耳に残る。
『辱めてその指で、舌先で確かめ合って……』
それは先程までの自分の姿を思い起こさせるよう。
ホテルへの誘いに乗れば先程よりも強く繋がれる手。
絶対離すまいとする強さを感じて緩むのは私の口元。
もう先しか見ていないあなたにその表情が知られることはない。
夢見心地、なんて可愛い言葉は似合わない。
五感を覚醒させられる、本能の動きに委ね溺れるリアルな時間
一般的な恋人の好みをなぞるような手順なんて本当はいらない。
私の機嫌をはかる為の有り触れた愛の言葉より、熱の篭った息と共に吐かれる荒々しい言葉のほうがこの心も身体も悦びを覚える。
そんな事は誰にも言えない。
熱に溺れた時間が終われば、彼はさっさとベッドから立ち上がり脇の椅子に腰掛けてしまう。
私への興味は完全に失ったかのように煙草に火をつける。
あとは何を言っても気の抜けた返事。
じゃあね、と告げ帰る以外に私に残された選択肢はない。
ただ、一人扉を開けて帰る間際に確認する。
彼の吸っている煙草がいつも同じ、光沢のある青い煙草の箱である事。
初めて会った時からずっと変わらない、お気に入りらしい煙草。
曲が終わった所で現実へと意識が戻った。
ラジオを止め、サイドテーブルの引き出しを開ける。
中には光沢のある青い煙草の箱とライター、そして携帯用灰皿。
この煙草、どこのコンビニや販売機でも見かける事からおそらくメジャーな銘柄なのだろう。
まとめて取り出しテーブルの上に置いてから、煙草のケースを手に取る。
中から一本取り出し、火をつけ軽く吸い込むと感じる苦味と微かな甘味
普段煙草を吸わない事もあってか、特に美味しいとも感じない。
――情事の後はあっさりと冷めて私を手放す
そんな彼と同じ行動をすれば、少しは気持ちが分かるか、なんて――
思えば妙な事を思いついたものだと今では思う。
あの頃は必死だったのだろう。
私は恋人として扱って貰えているの?
都合のいい体だけの相手と思われてるんじゃないの?
一箱使い切る頃にはそんな馬鹿げた考えはなくなっていた。
恋人になった日から、彼の私に対する態度や扱いに何ら変わりはない。
そう、それが傍から見ればおかしく見える扱いであってもだ。
好きになり付き合った頃から何も代わりがないならば、怯える事なんて何もない。
私はあの強引さと、言い難い話だが彼の雄の部分にも惹かれたのだから。
それでもデートから帰宅後の家での一服はなくならなかった。
目を閉じて深く吸いこみ、深く吐き出す。一度だけ。それでおしまい。
時間にすれば火をつけてから一分足らずで灰皿行きだろうか。
これを吸っていると言っていいのかは疑問だ。
くゆる煙に乗せて、僅かに体に残る火照りを全て消し去る為の習慣づいた一服。
一緒に先程までの恋人同士の在り方に関する懸念も消し去った。
こうしてようやく普段の私に戻る。
+++
会ってすぐにでも求めるままに応じる女。
そんなはしたない女だと思われたくはないのだ。
だから芯から溶かされそうな程の熱を帯びた視線に耐えながら、内に燻る淫らな獣の熱を抑えている。
時間を追うごとに深まり追い詰められていく身体を宥めながら『理性的な女』として許されるタイミングを待つ。
二人で見た映画の話をしている時も
流行りの店で食事をしている時も
公園で他愛もない話をしている時も
その頭の中にある思いはひとつ。
「そろそろ……いいだろ?」
耳元で囁かれるのはデート中、何度目かのホテルへの誘い。
はぐらかしてきたけれどそろそろ限界。
「分かったわよ」
私は大きくため息をついて、そう答えるのだ。
そうやって毎回、仕方なく応えているように振舞っている。
なのに、OKの返事の後に小さく笑う彼を見るその刹那に過ぎる思い。
彼は私の葛藤も演技も全て見透かしているのかもしれない――と。