彼女の終わりの時まで

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いえいえ、そのようなことはございません。
女人というものは心に幾つもの部屋を持っているものでございます。
断じて。ええ、断じてそのような弱いものではございません。

姫様のお名前ですか。芽衣様とお呼び申し上げます。
まぁ世間では大殿様のご長女であそばしますので大姫様とお呼びしておりますが、
わたくしはお乳を差し上げた者でございましょう? どうしてもお名でお呼びしてしまって。
は? 本名は伝えられていないと仰いますか。
それは世の史(ふみ)には女人の名など記されぬのが常でございますものね。
芽衣様も幼い頃からわたくしのことをうばや、うばや、と慕って下さって、
それはもう可愛いお方でございました。
天真爛漫、天衣無縫、のびのびとお育ちあそばしましてね、それはもう・・・。



・・・あれはもう随分と昔のこと。
大殿様とは仲がお悪く、戦になるやとも思われた隣のお殿様との間に和議の契りが結ばれて、
その若君様が芽衣様の許婚としてこちらに来られたのでございます。

芽衣様は御歳六歳。でも、もう聡くいらして、大人の話も気持ちも深く察するお力がお有りでした。
若君様の方は十一歳、そろそろ元服も近いお年頃。立派な殿御でございましたが、
父君の勇ましさよりは母君の優しさを受け継がれたお方とお見受け致しました。
歌舞音曲がお好きで、忘れもしません、初めて奥向きに挨拶に来られた時、
それはそれは見事な舞を一指しご披露あそばして。
御台様始めわたくしども一同、その扇捌きに溜息を洩らす程でございました。
芽衣様ですか。
それはもう、わたくしども下女の座からでもお目を奪われあそばしているご様子が判るほどで。

驚きましたのはその翌日、芽衣様が舞の調べをもう諳(そら)んじていらしたこと。
それからは毎日、ええ、それはもう御熱心にいつも謡っておいでで。
わたくしにも、舞を謡いたい、教えよ、としつこいほど。
「どうなさいました、芽衣様」 お答は存じながらお訊ねすると
「空に大きなお月さま」 ええ、あの夜は綺麗なお月さまでございましたね。
「若殿言われたのじゃ。あのお月さま見ると本当」 ほほほ、正しくはこうでございましたね。
『あのお月さまのご覧になっている所でこの謡いを舞うと必ず思いが叶うのです』
「それで訊ねた、何が本当」
芽衣様が謡えば若君様が何を叶えて下さるかと訊ねられたのですね。それで若君様は何と。
「いつも一緒 ずっと一緒 扇をくれたのじゃ」
それは本当に良うございましたね、と扇を持った小さなその細い指をお取り申し上げると、
にっこりされて「うん」と可愛いおつむを上下に大きく振られたのでございます。



さりながら許婚とは申せ実のところは人質。そう会えるはずもないのが道理でございます。
昨日の友が今日の敵、明日をも知れぬは武士(もののふ)の世の常。
情を移さぬようお二人を隔つは心配りとも申せましょうが、
今にして思えば残酷な仕打ちでございました。
「次はいつ会えるのじゃ」   
そう聞かれる度に胸が潰れる思いがしたものでございます。
賢い芽衣様はわたくしの心を察してか駄々を捏ねることもなく、嘘と判る言い訳を申し上げると
「そうか」とだけ呟かれてそれ切り黙ってお仕舞でした。

政(まつりごと)には疎い奥向きのわたくし共にもお隣との不穏な空気が伝えられて来たのは
その年の秋も深まる頃でしたでしょうか。
若君様の父君と大殿様との仲が再びお悪くなり、政所は戦への備えで騒がしくなりました。
各地から武士達が馳せ参じ、師走には雪の降りしきる中、次々と境の関を越えて行ったのでございます。
芽衣様のご心痛は如何ばかりでしたでしょう

明けて翌年。その年ほど暗く悲しい正月はございませんでした。
若君様の父君が討たれたのです。
表方の殿方たちは勿論のこと、奥向きも一緒になって勝ち戦に沸き立ってはおりました。
しかしその中で唯お一人、芽衣様だけが深く沈みきっておいでで。
若君様の心中を慮り、そしてこれから起こるであろうことをすでに悟っておられたのでしょう。
この時ばかりは神仏にもお恨み申し上げたく存じました。
お可哀そうに。
聡きゆえ人の幾倍もの苦しみを感じ、まだその小さな体に耐え切れれぬほど背負われて・・・。
    
初夏、卯月になりました。
討ち滅ぼした敵の人質などもはや無益無用、
将来の禍根を慮れば生かして置くことはむしろ有害と思し召されたのでしょう、
大殿様は若君様の斬首をお命じになります。
わたくしは偶々その時、御所で御台様のお供を仰せ仕っておりましたので、
大殿様のお言葉を直接耳に致しました。
急ぎ奥向きに戻り、信頼のおける侍女数人と共に若君様を逃す算段を始めました。
ええ勿論、発覚すれば命はございません。
仮に何故かと問われれば、若君様にもしものことがあったその時、
目に浮かぶ芽衣様のお姿がわたくしには怖ろしかったゆえ、と申しておきましょう。

若君様には女房装束を着て、まだ薄暗い、日が昇るか昇らぬかの内にお発ちいただきました。
芽衣様にはお目覚めになった後で申し上げました。
大殿様の恐ろしいご命令のことは伏せて、唯若君様には暫く別のさる場所にてお過ごしいただくこと、
これから御所も奥向きも騒ぎになるが心安くおいでになることをお願い申し上げると、
ああ本当に賢いお方、お顔をきりりとお引締めになり、小さく頷かれたのでございます。

前日から降り続く大雨の中、侍女共の足で峠を越え関所を過ぎるのはいかに早くとも二日はかかります。
その間、同い年で背格好も似た若者を身代わりに若君様の衣装を着せ、時を稼ごうとしました。
しかし事はそう甘く運ぶものでもございません。
その日の夜に露見し、すぐさま大殿様の命を受けた早馬が各地の関所に向かいました。
そして、ああ、幾日も経ずして若君様が討たれたとの知らせが。
それを耳にされた芽衣様はついに心が折れてしまわれたのでございましょう、
床に伏せってお仕舞になられました。

御調べ所では覚悟を決めて当夜のわたくしの行いを全て包み隠さず申し上げました。
ところが牢には暫く留め置かれただけで、また元の奥向きのご奉公が叶ったのでございます。
これはどうしたことでしょう。
聞けば芽衣様のお指図とのこと。また、御台様も芽衣様をいたくご心配になり、
もしわたくしが罰せられるようなことがあれば、もっと容態が悪くなるかも知れぬ、
と大殿様にご進言あそばしたからだそうです。

再びわたくしは芽衣様のお近くでお仕え致しました。
芽衣様は横になったままわたくしをご覧になり、唯一言「よかった」とだけ仰いました。
わたくしは思わず涙がこぼれました。ご自分のお辛いことを一言も仰らずに・・・
若君様が討たれた事、そしてそれを命じたのが他でもない父君の大殿様である事を知って
これ程お窶れなのに・・・何がよいものですか・・・お手元に残されたのは若君様の舞扇だけなのに。
「うばや、あの謡いをまた舞いたいのじゃ。うばやにまた教えてもらいたいのじゃ」
床の中から弱々しく伸びて来たその小さな細い指をそっと握ったまま、
わたくしは顔を上げることが出来ませんでした。



月日は流れ、戦の世も終りました。大殿様は将軍となられ、帝からこの国の政を任されました。
芽衣様は御歳二十、お美しい姫御前にお成りあそばしました。
ええ、あれからご病気は一進一退でございましたが、お具合の良い時には謡われたり、
また田植えの見物などをされて早乙女達の唄を楽しまれたりもされました。

そうそう、そう言えば、
三年ほど前にご縁談が持ち上り都から若いお公家様が下向なされたことがございます。
勿論、帝との繋がりを強めたい大殿様のお計らいでしたが、そのお顔を一目見た芽衣様は
「あれは駄目じゃ。目が死んでおる。活きの悪い魚は美味くなかろう」と笑っておられました。
人の目があれば、お慎みあそばせ、とお諭し申し上げる所ですが、その時は芽衣様と二人だけ。
ついわたくしも「確かに」とお受けして笑い転げてしまいました。
しかし目尻に涙を溜めながらもわたくしは、芽衣様にはもうそのご生涯、
首を縦に振らせる殿方は現れないであろう、とも思っておりました。

芽衣様は心の奥底にあのお方の思い出を大切にそっと仕舞われたのです。
わたくしも、誰も入ることが出来ない、触れることも出来ない奥の部屋の扉の向こうに。

このご縁談の他にも、大殿様はあちらこちらの名立たる殿方を引合わせようとご執心であられました。
かつての過ち、ええ、わたくしは不忠者と言われても敢て申し上げます、
若君様との縁(えにし)を引き裂いた過ちを振り返ることなく、
繰り返し芽衣様を政の具にしようとされる大殿様。
そのような大殿様を芽衣様は笑って許し、憐れんでさえおられました。
大らかで、人に優しく、それでいてご自分には厳しく・・・。

芽衣様、なぜそこまでお強くなられたのですか。
ご縁談をお断りになる度に、その夜、人知れず謡われたあの舞のゆえですか。
その切ない歌声を迎えた大きく美しいお月さまがあの誓いの夜と何ら変わらぬゆえですか。
そのお月さまの元、小さな細い指で交わしたあのお方の温もりの思い出ゆえですか。
でもその思い出を心の奥に閉ざして、いつとは終わりの知れぬ胸の痛みに
一人静かに耐え続けておられたのでしょう?
人の世の定めを恨んではいつしか心を蝕まれ、魂が消え行くような怯えもおありでしたのでしょう?

しかし、わたくしの問いに芽衣様は答えては下さりません。
今、わたくしの前には、ただ黙して語らぬ舞扇があるのみでございます。



年寄りの由無しごとを恥をも顧みずお聴きいただきました。
ただ八百歳(やおとせ)も先におられる貴方様にはどうしてもお話申し上げたくて。
は? 芽衣様・・・いえ、その大姫様はか弱い女人で、養生の甲斐なく
病のまま若くして亡くなられた・・・と? そちらではそう伝わっているのですか。

いえいえ、そのようなことはございません。
女人というものは心に幾つもの部屋を持っているものでございます。
断じて。ええ、断じてそのような弱いものではございません。

それどころか、申し損ねましたが、今日は芽衣様の御祝言の日でございまして。
は? 生涯相手はいないと申したではないか、と仰せですか? 

涙のわけを探し続け、もう一度あのお方と同じ夢を、と望まれた芽衣様。
この空の下でまた会えると信じて強く生きてこられた芽衣様。
そのような芽衣様の思いが天に通じたのでございましょう。

あ、芽衣様のお仕度が出来たようでございますね。それでは、これにて。



まあまあ、そのように恥ずかしがらずとも。いつもは勝気な姫様が今日に限っては可笑しなこと。
大丈夫でございますよ。お召しもお化粧も。このように綺麗な花嫁様が何処におられるものですか。
さあ、お急ぎなさいませ、舞扇をお持ちになって。

若君様があちらでずっと長いこと待ち焦がれておいでですよ。  
終り

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