「マスター?何をしているんですか?」
少女が問う。
短い髪をさらりと揺らして、無垢な瞳で男を見つめて。
「詞を書いているんだよ」
男が答える。
かじりついた机から顔もあげず、柔らかな日光から最も離れた場所で用紙と向き合っている。
「詞、ですか?何のために?」
少女がまた問う。
男は、ようやく顔をあげて微笑んだ。
「遠い昔、ある人との約束のためさ」
そう言うと、男は少女を招き寄せた。笑顔のままで、こう切り出す。
一つ、御伽噺をしてあげよう。
少女が祈っている。
真っ赤なスカートを惜しげもなく地に広げて、目を閉じ手を組んで祈っている。
祈り終えた少女は、長い髪を揺らして青年に微笑みかける。
「さぁ、帰りましょう、マスター」
夜空の星が一つ流れ行く。
それは奇妙な感覚。
目覚めたとき、自分の中にあったのは、自分のものではない誰かの記憶。
それは悲しくて、嬉しくて、切なくて、暖かい。目覚めたばかりの少女は、何がなんだかもわからないまま、それを強く抱きしめた。
今は遠い、過去の記憶。
「ねぇマスター、今日のお夕飯は何にする?」
少女はご機嫌な様子で歩いていく。口ずさむは聞きなれた鼻歌。ぴたりと後ろをついてくる青年は、人形のように無表情で。
それでも少女は、ねぇマスター、と繰り返す。
まるで、滑稽な御伽噺。
思い浮かぶのは、大切なあの人の姿。
それは全く知らないものなのに、意識をとらえて離さない。
約束するよ。と彼は言った。
とてもとても暖かな笑顔で。
それは胸の痛みを癒す。だけれど消えない、その痛みに、少女は首を傾げるばかりでいる。
「マスター、お花を摘んでいきましょう。マスターはこのお花好きだったでしょう」
少女が花を手にして言う。
青年は答えない。
「マスター、あそこで転んじゃったことがあったわよね。マスターってば、たまに抜けてるんだから」
クスクスと笑う少女。
やはり青年は答えなくて、その様は一人芝居のよう。
「今日はもう一度お祈りをしなくちゃ。流れ星が多いんだもの」
少女が空を仰いだ時、ようやく青年は口を開いた。
「君の願いは何?」
少女はきょとんとしてから、微笑んで答える。
「マスターが帰ってくることよ」
夢の中で、その少女は泣いていた。
涙を零さずに泣いていた。
胸を刺す痛みは増すばかり。
けれどそれを打ち消す暖かなものが及ばない。
何が悲しいの、と少女は問うた。
声は空しく霧散する。
御伽噺を聞かせてよ。
少女はそう言って青年に笑んだ。
何のために、と問い返す。
少女は笑みのままで答えた。
『悲しみ』を知るためよ。
夜空の下、少女と青年が向き合っている。
少女の手には花が。青年の顔には悲しみが浮かぶ。
「間違っているんだ」
と青年は言った。
「君は、大切な物を取り違えているんだよ」
それが何だかわからなくて、少女は小首を傾げる。冷たい夜が二人を包んだ。
少女にはわからないことがあった。
この胸の痛みの、その理由。
どうやっても消えはしない。
補うもぶり返すのを繰り返す。
理由のない痛みには、忘却の薬しか効かないことを少女は悟った。
――どこが分かれ道だったのか。今となってはわからない。
もしかすると、初めから分かれ道などなかったのかもしれない。
彼がその少女の噂を聞きつけたのは、村の噂好きの誰かからだった。
森に一人住むという、変わり者の少女。
頭がいかれているのだろうとその住人は言っていた。
彼はそうして興味を持った。
もしかすると、手がかりになるかもしれないと。
森へと足を踏み入れた彼が見たものは。
祈る少女と満点の星。それから願いと、古ぼけたそれであった。
「間違っているんだ」
と青年は繰り返した。
首を左右に振って、悲しげに顔をゆがませて。
「君のマスターは、すぐそこにいる。初めから、君の傍にいたんだ」
青年は、ゆっくりとした動作でそれに触れる。
「マスター、どうかしたの?」
と少女は訊く。
「違うよ」
とまた青年は同じ言葉を繰り返した。
「僕は、君のマスターなんかじゃない」
そして、終焉は訪れる。
約束だよ。と彼は言った。
いつか、いつの日にか、この歌を君に。
そう、少女に言っていたのに。
記憶の終わりは曖昧で、ノイズ混じりの悲鳴が届く。
最後に少女が見たものは。
二人の青年と優しい記憶。
それから暗く冷たい夜の真実だった。
その少女は祈っていた。
夜空の星に。過去の記憶に。彼方の約束に。愛しいあの人に。
丁寧な動作で彼はそれに触れた。
古びた、手入れのされていない墓石。
愛しいあの人の、居場所。
「博士は亡くなったんだね」
青年は悲しげに呟いた。
「君が僕をマスターだと、彼だと思い込むことは、確かに楽になる方法の一つかもしれない。だけれど、このままではいけないよ。彼の約束は、とっくに果たされているのだから」
青年の、彼の、あの人の影が遠ざかる。
少女の現実と視界が、ぐらりと大きく傾いた。
少女にはそれがわからなかった。
『悲しい』という感情が。
彼は少女に話し続けた。悲しみを内包した物語。
けれど結局、少女がそれを知ることはなかった。
だから少女は、わけもわからず彼を埋めた。零した歌が涙の代わりだと、その意味もわからずに。
必ず帰ってくるからと。
その約束だけがこびりついた。
本当は知っていた。
あの人の行方。約束の意味。
倒れこんだ少女を、青年は慌てて抱きとめた。けれど、少女の意識はすでに危うく、青年は、彼女が当の昔に壊れていたことを知った。
矛盾したデータ。上書きを繰り返すファイル。少女の記憶はあべこべで、自分が祈りを捧げるものが、彼の墓石であることにすら気づけなかった。繋げていたのは、ただあの約束という細い糸。
「本当はね、知っていたのよ。だけどどうしても。約束だけは果たしたかった」
彼は約束してくれた。いつか、君のその歌に、詞をつけてあげようと。それは果たされないままで、少女は彼を待ち続けた。
「いずれわかると信じてた。そして、わかったから。真実と一緒に、この胸の痛みが『悲しみ』なんだとわかったから」
だからもういいの。と、少女は目を空ろにさせた。
青年の声が耳に、ぼんやりと届く。頭の中ではすでに、機能が停止することを告げている。そんな空ろな意識の中で、少女は自分に付き添ってくれた彼に、最期の笑みを向けた。
「ねえ、マスター……?やっと帰ってきてくれたのね」
少女が最期に聴いたものは。
そうだよという優しいあの人の声だった。
「その子は、死んでしまったんですか?」
男は首を縦にも、横にも振らない。
「生きてはいない。だけれど、繋がっている」
その意味がわからずに、少女は首を傾げたが、男はさぁメイコ、と笑って少女の背を押した。
「そろそろ郵便の時間だよ。とってきてくれるかい?」
少女ははい、と素直に答えた。去っていく少女の背に、男の、本当は、髪も残してあげたかったんだが。という台詞がぽつりと漏らされる。少女が扉を開けた時、強い日差しの中に駆けてゆく少女が、無意識に口ずさんだ歌が彼の耳に届いた。
「――……あぁ、例え上書きをされても、消えない記録もあるのだな」
そんな風にぽつりと呟くと、また机に向かい始めた。