伝説の忘れられた一羽のハト (4)

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 (自ブログに転載) 

 

 

 文:tallyao

 

 

 4

 

 

 

  ごうごうと風が鳴り、それ以上の轟音を立てて波濤が荒れ狂い、傾いた船体を苛むかのように風雨と共に打ちつけた。船が座礁してからもうかなりの時が経つが、風雨は激しくなってゆく一方だった。
 傾き雨の漏れてくる船室の中に集まった人々は、すべて無言だった。ただひたすらに黙り込んで、二人のやりとりを見守っていた。
「嫌よ!」緑の服の少女は、ハトの移送籠をしっかりと、かばうように抱えた。「あんな中に放したら、死んじゃうよ!」
「……聞いてくれ」少女の兄、青い服の青年が静かに言った。「放さなければ、助けを呼ばなければ、この船が沈んで、みんな死んでしまう。どのみちユーリスも一緒に沈んで、死んでしまうんだ」
 レースのための移送中のことだった。L.J.レオン鳩舎から別の、レースの出発点へと運ぶ際、このときは緑の少女は兄に付き添われて、ユーリスを自分の手で出発点に運び、また飛び立たせる側にいることにしたのだった。その移送の際、まさにそのかれらの乗る船が嵐に見舞われ、遭難したのだった。
 ……船室に集まっている乗員も乗客も、その二人から離れて、じっと無言で見守っていた。かれらにできるのは、ただ、兄が少女を諭すことができるのを、切望することだけだった。しかし、その二人のやりとり──しっかりと籠を抱きしめる少女と、その少女に、おそらくその守られるハトにも、ただ優しく接することしかできない青年の様子を見る限り、それは望めないことに思われた。だとしても、少女も、その兄も、誰も責める気にはならなかった。この少女の様子を見て、責めたり無理強いしたりすることができる者は、少なくともこの場には居なかった。
 幼い少女には、少なくとも今の時点では、自分と周囲の人々の死に対する恐怖よりも、そのハトに対する情の方が強いのだろうか。……だとしても、最後の最後になれば、誰かが強要しなくてはならないかもしれない。この少女から、抱きしめるハトの籠を、力ずくで奪わなくてはならないかもしれない。あるいは、恐怖におそわれた誰かが、今にもそうしてしまうかもしれない。かれらは皆、そのときが来るのを、ひたすら恐れていた。乗り合わせる老若、貴賎すべてが、はかない期待にすがって、ただ無言でかれら兄妹を見つめ続けるほかになかった。
 ただひとり、船室の隅のテーブルの席にかけた、赤い芸人服の女──途中の港町で乗った、落ちぶれた酒場の女歌手だけは、疲れたような無表情のまま、テーブルのブランデーの瓶を見つめるだけで、すべて他人事のように、見向きもしなかった。
「……正直、生きてたどりつけないかもしれないと思う。実際に、普通のハトだったらきっと、風でどこかに打ち付けられるか、嵐の中を飛ぶうちに、力つきてしまうだろう」兄は少女に、嘘はつけないようだった。「だけど、もしかすると、ユーリスなら……陸にたどりつけるかもしれない。救助の手紙を持って、あの鳩舎まで戻れるかもしれない。今まで、どんな困難でも、悪天候のレースでも潜り抜けて、必ずL.J.レオン鳩舎に戻ってきた、賢いユーリスなら。ここにいるみんなの命を、救えるかもしれないんだ」兄は繰り返した。「ユーリスなら、もしかすると……」
「嫌よ……」籠の縁を握り締める少女の手が、激しく震えた。「できない……あんな中に放すなんて……できないよ……」
 小さな、可哀想なハト。ほんの雛の頃からずっと弱々しかったハト。いつでも、どんな災難を越えても鳩舎に戻り、そのたびに、いつ弱って死んでもおかしくはなかったハト。少女は移送籠をかばうように抱きしめて、その上にうなだれた。

 

 

 

 が、──籠の中で、激しい翼の音がした。
 中のハトが、暴れるように羽ばたいていた。緑の少女は気づいて、抱えたままの籠をじっと見下ろした。
「ユーリス……」少女は小さく籠に呼びかけるようにした。「怖いの? 外の嵐が……」
 しかし、そのまま少女は、翼の音に聞き入るように、しばらく籠を抱いたままでいた。
「そうじゃないの……?」
 やがて、少女は籠を見下ろしたまま言った。
「飛ぼうとしてる……?」少女は、悲しげにつぶやいた。「もしかして……みんなを助けてくれようとしてるの……」
「違うわ」
 不意に、船室の隅から声がした。
「かれはただ、飛びたがっているだけ。この空に挑戦しようとしているだけ」
 隅の席にかけたまま、赤い服の落ちぶれた女歌手が、喋っていた。
「かれらは、飛ぶためだけ、旅するためだけに生まれてきたのよ」赤の女は、低い声で言った。「そう仕込んで作ったのが、人間の仕業でも、人間の勝手な都合であっても。ともかく、かれらは、そのために生まれてきた。である以上、かれらは飛ぶしかない。どんな空にも、どんな困難にも、挑戦し続けるしかない。人間に奉仕するためでも、そのほかの何のためでもなく」
 赤の女歌手は、少女の手の籠を見つめた。
「人間には、本当なら、いかに人命のためであっても、自分達の都合だけでほかの命を死地に追いやる資格なんて、決してありはしない」女歌手は静かに言った。「けれど、人間には、かれらが自分から飛び立とうとするときには、──それをひきとめる資格もまた、決してありはしないのよ」
 波濤の轟音が響いた。風雨と波の打つ音は否応にも増した。あたかも、それに応えるかのように、移送籠の中の小さな翼の音は、さらに激しくなった。
「ユーリス……」少女は涙声で、抱えた籠を見下ろした。「ユーリス……!」
 緑の少女は声を上げて号泣した。ただハトの籠を両手でしっかりと抱えて、いつまでも激しく泣きじゃくった。

 

 

 

 激しく風雨になぶられる船室から、甲板に上がる扉を、赤の女歌手が押し開けた。
 赤の女に先を導かれ、青の青年にその肩を支えられて、緑の少女は進み出た。金の足環をもつ、小さな灰色のハトを、しっかりと両掌に抱えて。
 少女の掌の中で、ハトはおとなしかった。あれほど激しく羽ばたいていたのに、少女の手で籠から出されると、暴れもしなかった。すぐに飛ばせてもらえることを、察しているかのようだった。あるいは、弱々しいその体に限りある力を、飛ぶときのために温存し、じっと待っているかのようだった。
 舷側近くまで歩みだしたとき、赤い服の女歌手は緑の少女に道をあけつつ、少女の手のハトを見下ろした。
「飛びなさい、存分に」赤の女は、ハトに語りかけるように言った。「さまたげるものは、何もない。行く手を阻むものは、何もない。飛びなさい、自分の翼を信じて」
「頼む」青い服の青年がハトを見下ろした。「みんなを助けてくれ。人の命を、人間たちを、救ってくれ。──祈りを届けてくれ。頼む」
「ユーリス……」
 緑の少女は最後に、涙のあふれる瞳で、手の中のハトをじっと見た。
「お願い……死なないで」震える唇は涙声を発するだけだった。「生きて戻って……」
 少女は震える両腕を伸ばした。
 風雨の中に、小さな翼の音が響いた。広げた少女の掌から、小さな灰色のハトが飛び立った。
 激しい波濤と風音の中、漆黒の天のうちへと、その小さな姿は飲み込まれてゆくかのように見えた。しかしそのハトは、天佑として与えられた限りのほんのわずかな力を、そのかぼそい翼と、小さなみすぼらしい灰色の体にこめて、死の待ち受ける中へ、闇の中と突き進んでいた。
 すべての人々に向かって、ハト自身に向かって、激しく苛み容赦なく打ち付けてくるその”絶望”そのものに対して、ハトは翼を広げ、一直線に立ち向かっていった。

 

 

 

 

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