あお、青、蒼、藍、葵、
空の色、水の色、葉の色、花の色。石の色。
まだどれも本物を見たことはないけれど。彼の青はどの青を映した色なのだろう。
「楽にしてて」
青色の爪を備えた長い指が鍵盤を滑る。
「リクエストは?って聞きたいところだけど、初日だし今日のところは僕の好みで弾くね」
青い髪のボーカロイドはのんびりとした声でそう言うと、弾むように指を鍵盤に躍らせた。
楽しそう。
そう?…そう、かもね
小柄な一対の片割れ、金髪に白いリボンを飾ったボーカロイドはピアノの鍵盤を。同じ色の後ろ髪を括ったボーカロイドはグランドタイプのピアノの中の構造を、それぞれ珍しげに覗き込む。
調整中に伴奏の音源として聞いたことならあるが、生演奏に触れるのは二人とも初めてだ。
「作曲はフレデリック・ショパン。正式な邦題はワルツ第6番 変ニ長調 作品64-1。通称子犬のワルツ」
おっとりとした雰囲気に似合わず、なめらかに指を操る。
「子犬が自分の尻尾にじゃれついて、くるくる回る姿から着想した曲だって言うね」
話しながらも淀みなく約一分間の曲を弾き終える。
「生演奏で僕らを歌わせてくれる人は珍しいけどね、居ないわけじゃないから」
青年型で、肩幅や背丈もそれなりにあるというのに、威圧感を感じさせない、柔らかい態度。
なんでだろうね?
今日が初めましてで間違いないのに、ずっと前から知ってる気がする。
隣の片割れと手を繋いで、顔を見合わせて頷いて、ピアノを弾く横顔に視線を戻す。よく見れば睫や眉も青い色。
メモリに入っているデータの中から、彼に関する情報を抽出してみる。それほど多くはない。
シリーズコードはCRV2。リリースされた日付、彼が自分達と同じ会社で開発された、初期エンジンの最後の型。
二人目の男性型、日本語版では一人目の男声ライブラリのVOCALID。
嫌じゃないのは分かる。でも不思議。
なんだろうね。この感じ。
壁際のソファーに並んで座り、紡がれる旋律に耳を傾ける。空白だったメモリーに音が積もっていく。
楽しい曲、寂しい曲、明るい曲。同じ指、同じ鍵盤、同じ音階。なのに、印象が違う。これも不思議。
見るもの聴くもの、全部初めてだから不思議なことばかり。だから知りたくなる。
3曲目がもうすぐ終わる、という頃。AI反応の接近を知覚する。防音壁の向こう側、透視なんて機能はないが、反応の位置の変化から廊下を「誰か」が移動していることは分かる。
ノックは無かった。元気よくドアを押し開けて、碧色をした風がピアノを奏でるボーカロイドに吹き付ける。
「KAITO兄さーんっ」
手前で両足で踏み切ると白いコートに躊躇なく飛びつく。二つに分けて束ねられた髪と、丈の短いスカートが翻り、少年が慌ててそっぽをむく。
「お帰り、ミク」
慣れた様子で、演奏を止めた手が碧色の頭を撫でる。特徴的な容姿と服装は、あたし/オレ
よりも一足先に先日リリースされた少女型ボーカロイド、CV1で間違いない。
以前に引き合わされたときは、始終すまし顔で人形そのものと感じたのに。
「ただいま、KAITO兄さん」
なぜかな、彼らの笑顔が、遠く感じる。この感情は何?サミシイ。ウラヤマシイ。なんで?
…あれ?
今、なんて呼んだ?
「あれ、レッスン中?リンちゃんとレンくんだったよね?久しぶりだね」
ようやくソファーに並んで座る金髪のボーカロイドに気がついたらしい。大きな瞳に感情を宿して、屈託なく笑うその様子は人のよう。
彼女は本当に以前会った初音ミク?
思わず顔を見合わせてしまう。
違うミクじゃないかな。
でもあたし達を知ってるよ。
「まだだよ、まずはピアノの音に馴染んでみようかって」
軽く嗜めるように促されて、素直に青年から腕を外すと、そのまま少女型のボーカロイドは背中合わせにピアノのイスの端に腰掛ける。
再開されたメロディに合わせて体を揺らす。床までつきそうな丈の髪も追いかけるように。
ふと誰かに言われた言葉がよぎる。あたし/オレ は、そして彼女と彼も、VOCALOID。
わたし/オレ たちは、音で構成(でき)ている。
4曲目は一転して静かな曲。
「ねえ、KAITO兄さん、歌詞(うた)、聞かせてあげないの?」
メンデルスゾーンのAuf Flugeln des
Gesanges。邦題は歌の翼に、詩人ハイネの同名の詩につけられた曲だと弾きながら補足が添えられる。
「寝ないで聞いていられるなら歌うけど?」
手を止めずに応える声は穏やかで、確かに彼の声質と優しげなこの曲調は合うのではないかと思う。
「あー、…うん、また寝ちゃう、かな」
背中に流されたマフラーを引き寄せ弄りながら、少女が軽く口を尖らせる。
「だって!KAITO兄さん、いつも眠たくなる曲選ぶんだもの」
少し大きくなった声量は、すぐに演奏の邪魔にならない、控えめなトーンに戻る。
「なら、途中だけど曲変えようか?」
「…いい。聞いてたい。兄さんのピアノも好きだもの」
青色に碧色が寄り添う姿を眺める。隣の同じ色の瞳に自分が映るのを確かめて、自分達の繋いだ手を見下ろして、またピアノと二人を見つめる。
白と黒の鍵盤から溢れるように、青い音が広がる。VOCALODエンジンを介さずに指先で紡ぐ調が余韻を残して終わる。
あたし/オレ にも、出来るかな。
「出来るよ」
一瞬、空耳かと思った。ありえないけれど。無声の会話にするりと入り込んだのは青い声。静かに、穏やかに笑う。
「僕らにも向き不向きはあるから。ピアノ以外かもしれないけどね。リンとレンにも可能なことだよ。最初から上手く、とはいかないと思うけど」
立ち上がると、指を広げた両手を見せる。
「僕らがヒト型なのは、歌うだけじゃなくて、この手で演奏することが出来るように、だからね」
手のひらを上にして差し出された両手、それを見つめて、穏やかな表情の顔を見上げて。
あたし/オレ は顔を見合わせて。揃って繋いでいない方の手を上げる。
「僕に教えられることよりも、リンとレンが自分で見つけることの方が多いだろうけどね」
サイズの違う、手のひらを合わせる。人に似せた表面温度。設定は多分同じ、だけど暖かいと感じるのはエラーだろうか。
青年の笑みが少しだけ変化する。
腕を強く引かれて、二人共つんのめる。転倒する、と感じたけれど。床よりも目の前の青年の方が近かった。
「あー、兄さんずるい」
ミクが声を上げたのが聞こえる。視界を埋めるのは白いコート。二人まとめて受け止めて、そのまま抱きしめられるくらい、青年の体は大きかった。
少女/少年型の自分達が設定年齢からみても小柄なのもあるかもしれない。
「ようやく表情変わったね」
驚かせてごめんね。言いながら少し体を離して、目を細めて笑う。いつも笑っているけれど、ちょっとづつ変化する。笑顔、にも種類があるのだ。
驚いたのは確かだけれど。
どう応えたらいいんだろう。
少し二人で考えて、浮かんだのは先ほどのミク。そうだね、まずは真似るところから始めよう。
気を引く為に袖をひくと、視線を合わせようと屈んでくれた。丁度いい。
「どうしたの?」
笑顔の基本は、目じりを下げて、口の端は上げる。
初めてだけど。
ちゃんと、笑顔に見えるかな。
「…ありがとう」
掌が頭に置かれる。髪が指に絡んで、髪形が乱れる。胸の奥のモーターがいつもと違う音を立てた気がする。
「やっぱり笑顔の方がいいね。二人とも、これからよろしくね」
蒼い人の白いコートに抱きつく。これが多分、嬉しいって感情なんだ。