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  カガミネットです
 
             文 gatsutaka
 
(1)
 
 私の家には蔵があった。
 家の敷地の一角に白壁の堂々とした姿で建っていた。蔵の中には古い道具が沢山置いてあり、電灯はあるものの薄暗くてちょっと怖い感じもした。蔵には普段は鍵を掛けてある。子供の私がそこに入れるのは大人が何か取りに行くときか、虫干しで開けるときなどに限られていた。しかし、中のひんやりした空気や古い物独特の匂いが好きで、私のとってそこはお気に入りの遊び場だった。でも私が蔵を好きだったのは、それだけが理由ではない。
 あれは何歳のときだっただろう。まだ幼稚園に行く前だったかもしれない。お父さんが用事で蔵に入ったとき私も付いていった。お父さんは二階に上がって何かを探していた。私は蔵の急な階段を上がることができなかったし、一階にも色々面白いものがあるので、一人で探検して回っていた。
 奥のほうに古い鏡台があった。結構大きな鏡で、埃除けに布が掛けられていた。台の部分に二つ引き出しがあって、全体は黒く光っていた。他の道具類は壁面から順に隙間なく並べられているのに、その鏡台だけは蔵の奥にぽつんと一つ置かれていた。近寄って恐る恐る布をめくってみると、開けっ放しになっている蔵の入り口からの光が見えた。思い切って布を全部めくり、その正面に立ってみた。
「あれっ?」
 その鏡に映っていたのは私ではなく、私と同じ背格好の男の子だった。鏡の中の男の子も同じようにびっくりした顔をして私を見ている。私は階段の方を向いて、大きな声でお父さんを呼んだ。
 何事かと駆け下りてきたお父さんに「鏡の中に男の子がいる」と言うと、お父さんは「ええ? 男の子?」と言いながら鏡を見た。
「リン。そんな子いないよ。ほら見てごらん」
 お父さんの背中に隠れていた私がこわごわと覗いてみると、そこに映っていたのは私とお父さんだった。
「ここはちょっと暗いから、自分を見間違ったんじゃないか?」
「そんなことないもん。その子は黒いズボンをはいていたもん」
 その日、私は赤いスカートをはいていた。私が見た男の子は、確かにズボンをはいていた。
「ふ~ん。でも、ほら、いないよね」
 お父さんは、探し物が見つからないと言ってまた二階に上がっていった。残された私はもう一度その鏡を見た。すると、そこにはまたさっきの男の子が映っていた。
「お父さん。お父さん!」
 私はその子の顔を見つめたままもう一度お父さんを呼んだ。お父さんは今度はゆっくり降りてきた。お父さんの姿が鏡に映ろうとした瞬間、鏡に映っていた男の子が消え、その場所に私の顔が映った。
「あのね、お父さん」
「リン、お父さんはちょっと忙しいんだ。家で遊んでてくれないか」
 一生懸命説明しようとする私を制してそう言うと、お父さんは私を抱え上げ、空いたほうの手で鏡に布を掛けると、そのまま私を家まで運んで一人で蔵に戻っていった。
 私はお父さんに分かってもらえなかったのが悔しかった。お母さんなら分かってくれるかもしれないと思って、台所に向かった。裏口から台所に行く途中に洗面所がある。もしかしてと思って鏡を見ると、その鏡には私が映っていた。
「やっぱり見間違いだったのかなあ」
 
(2)
 
 俺の家には蔵があった。
 家の敷地の一角に白壁の堂々とした姿で建っていた。蔵の中には古い道具が沢山置いてあり、電灯はあるものの薄暗くてちょっと怖い感じもした。蔵には普段は鍵を掛けてある。子供の俺がそこに入れるのは大人が何か取りに行くときか、虫干しで開けるときなどに限られていた。しかし、中のひんやりした空気や古い物独特の匂いが好きで、俺のとってそこはお気に入りの遊び場だった。でも俺が蔵を好きだったのは、それだけが理由ではない。
 あれは何歳のときだっただろう。まだ幼稚園に行く前だったかもしれない。お父さんが用事で蔵に入ったとき俺も付いていった。お父さんは二階に上がって何かを探していた。俺は蔵の急な階段を上がることができなかったし、一階にも色々面白いものがあるので、一人で探検して回っていた。
 奥のほうに古い鏡台があった。結構大きな鏡で、埃除けに布が掛けられていた。台の部分に二つ引き出しがあって、全体は黒く光っていた。他の道具類は壁面から順に隙間なく並べられているのに、その鏡台だけは蔵の奥にぽつんと一つ置かれていた。近寄って恐る恐る布をめくってみると、開けっ放しになっている蔵の入り口からの光が見えた。思い切って布を全部めくり、その正面に立ってみた。
「あれっ?」
 その鏡に映っていたのは俺ではなく、俺と同じ背格好の女の子だった。鏡の中の女の子も同じようにびっくりした顔をして俺を見ている。俺は階段の方を向いて、大きな声でお父さんを呼んだ。
 何事かと駆け下りてきたお父さんに「鏡の中に女の子がいる」と言うと、お父さんは「ええ? 女の子?」と言いながら鏡を見た。
「レン。そんな子いないよ。ほら見てごらん」
 お父さんの背中に隠れていた俺がこわごわと覗いてみると、そこに映っていたのは俺とお父さんだった。
「ここはちょっと暗いから、自分を見間違ったんじゃないか?」
「そんなことないもん。その子は赤いスカートをはいていたもん」
 その日、俺は黒いズボンをはいていた。俺が見た女の子は、確かにスカートをはいていた。
「ふ~ん。でも、ほら、いないよね」
 お父さんは、探し物が見つからないと言ってまた二階に上がっていった。残された俺はもう一度その鏡を見た。すると、そこにはまたさっきの女の子が映っていた。
「お父さん。お父さん!」
 俺はその子の顔を見つめたままもう一度お父さんを呼んだ。お父さんは今度はゆっくり降りてきた。お父さんの姿が鏡に映ろうとした瞬間、鏡に映っていた女の子が消え、その場所に俺の顔が映った。
「あのね、お父さん」
「レン、お父さんはちょっと忙しいんだ。家で遊んでてくれないか」
 一生懸命説明しようとする俺を制してそう言うと、お父さんは俺を抱え上げ、空いたほうの手で鏡に布を掛けると、そのまま俺を家まで運んで一人で蔵に戻っていった。
 俺はお父さんに分かってもらえなかったのが悔しかった。お母さんなら分かってくれるかもしれないと思って、台所に向かった。裏口から台所に行く途中に洗面所がある。もしかしてと思って鏡を見ると、その鏡には俺が映っていた。
「やっぱり見間違いだったのかなあ」
 
(3)
 
 それからしばらく、怖いというか気持ち悪いというか、そんな感じがして俺は蔵に入らなくなった。そのうちに自分がなぜ蔵に入らなくなったのかも忘れてしまっていた。
 小学校に上がった年のある日、近所の友達が遊びに来て「お前んちの蔵すげえなあ。中に入れないのか?」と言った。俺は見栄を張って「入れるさ」と答えた。
 その頃には蔵の鍵がどこにあるかも知っていた。たまたま他の家族がいなかったので、鍵を勝手に持ち出してその友達と一緒に入ってみた。
 中に入ると懐かしい匂いがした。電灯のスイッチがどこにあるか判らなかったので、仕方なくそろそろと奥に進んでいく。一番奥まで行ったところで、あの鏡台が薄暗がりの中に見えた。俺はあの時の体験を思い出して身体が固まった。その様子を見た友達は、「お前何やってんだ?これが怖いのか」と言うと、いきなり覆いの布をめくった。「あっ」と思ったときには、鏡面が現れていた。
「何だただの鏡じゃん。暗いから何も見えないな」
 彼は一人で蔵の入り口のほうに戻り、「お~い。ここにスイッチがあったぞ」と言って電灯を点けた。暗いのに慣れた俺の目には、本来あまり明るくない蔵の電灯がとても眩しく感じられた。そして、鏡を見た。鏡には俺と、入り口の方からやってくる友達が映っていた。
「やっぱりただの鏡じゃん。下のほうにはヒビも入ってる」
 彼はすぐに鏡への興味をなくしたようだった。電灯で明るくなった蔵の内部を見回して「お、階段がある」と、勝手に階段を登って行ってしまった。
 そのとき、鏡の中の俺はあの女の子に変わっていた。
 
 女の子の顔は俺にそっくりだった。背の高さも同じ。でも着ているのは女の子の服だった。そのとき俺は半ズボンにTシャツを着ていた。
 
(4)
 
 男の子の顔は私にそっくりだった。背の高さも同じ。でも着ているのは男の子の服だった。そのとき私はワンピースを着ていた。
 
 怖いという感じはしなかった。微かだけど懐かしい思いもあった。その懐かしさは自分の小さい頃の記憶に基づく懐かしさと言うより、更に前の根源的なところから湧いてくるような懐かしさだった。
 私が鏡に近づいたら男の子も鏡に近づいてきた。私は鏡に向かって笑ってみた。男の子も同じように笑う。それは私が笑うのを見て真似して笑っているのではなく、私と全く同時に笑うのだ。「同じ動きだ!」
 次に私は手を上げてみた。ゆっくりと右手を上げる。やはり男の子も手を上げる。でも何か変だった。右手を下ろして左手を上げてみる。そのとき気付いた。私が左手を上げると、男の子も左手を上げるのだ。普通の鏡では、左手を上げると鏡の中の自分は右手を上げる。なのにこの男の子は普通とは反対の手を上げる。それに気付いて私が男の子の左手を見つめていたら、鏡の中の男の子も同じように私の左手を見つめていた。
 私は鏡に対して右の方に身体をずらしてみた。すると男の子は反対の方、つまり私から見て左の方に身体をずらした。
 もう一つ違和感があった。身体をそれぞれ反対方向にずらしたので、鏡の大部分に蔵の中の様子が映っているのだか、さっき友達がいたときと何か違う。よくよく目を凝らしてみてようやく分かった。鏡に映っている蔵の中の色々な道具類は、私と男の子の関係と同じで、私の左にある物は鏡の中では私の右側、つまり男の子の左側にあるのだ。一番奥に映っている蔵の入り口のドアの開いている方向も逆だった。
 私は男の子に声をかけてみることにした。
「こんにちは」
 
 男の子も私と全く同じように口を動かした。でも男の子の声は聞こえない。
「私は鏡音リンです。あなたは誰ですか?」
 このとき、男の子の口の動きは、私と少し違うように思えた。もしかすると、男の子は私とは違う自分の名前を言ったのかもしれない。でも聞こえないから本当にそうなのかは分からなかった。ふいに男の子が消え、鏡に私の姿が映った。
「上は真っ暗で何も見えなかったよ。スイッチ見つからなかったしねぇ」
 友達がそう言いながら階段を降りてきた。「思ってたより面白くなかったなあ。もう出ようか」彼女は私の返事を待たずにドアに向かって歩いて行き、そこから私に「ほら、早くおいで。鍵かけなきゃ」と言った。私は自分が映る鏡に布を掛け、彼女を追った。
 
(5)
 
 女の子も俺と全く同じように口を動かした。でも女の子の声は聞こえない。
「俺は鏡音レン。お前は誰だ?」
 このとき、女の子の口の動きは、俺と少し違うように思えた。もしかすると、女の子は俺とは違う自分の名前を言ったのかもしれない。でも聞こえないから本当にそうなのかは分からなかった。ふいに女の子が消え、鏡に俺の姿が映った。
「上は真っ暗で何も見えなかったぞ。スイッチ見つからなかったしなあ」
 友達がそう言いながら階段を降りてきた。「思ってたより面白くなかったなあ。もう出ようぜ」彼は俺の返事を待たずにドアに向かって歩いて行き、そこから俺に「ほら、早く来いよ。鍵かけなきゃ」と言った。俺は自分が映る鏡に布を掛け、彼を追った。
 
 それから俺は一人で鍵を開けて蔵に入るようになった。鏡の布をめくるといつもそこにはあいつがいた。
 俺はあいつの名前を知りたくて色々試してみた。まずやったのは自分の名前を紙に書いて鏡に映してみることだった。そうすればあいつも自分の名前を書いてくるのではないかと思ったのだ。実際にやってみると、あいつも紙を持ってきていた。ところが、それを見せっこしてみてがっかりした。あいつの書いた字が読めないのだ。それは俺の全く知らない字だった。
 次に「あいうえお」を書いてみた。これもあいつの書いた文字は見たことのない形をしていた。念のためと思って持ってきていた学校の教科書を見せたら、教科書の形や中に描かれている絵は全く同じなのに、字だけ違っていることが分かった。それで、あいつのいるところは俺がいるところと言葉は同じで字だけが違うのだろうと思った。
 
 俺は自分の名前を繰り返し言ってみた。
「レン」「レン」「レン」
 あいつも口を動かす。前に見たときと同じように、あいつの口の動きは俺をちょっと違う。何度か繰り返した後、あいつと同じように口を開いてみた。そうしたら、俺の口から「イン」という音が出てきた。何だか違うような気がした。もういちど、口をわざと大きく開いて「レン」と言ってみた。その時のあいつの口動きをよく観察して、また真似てみた。そしたら「リン」という音が出てきた。
 俺は「これだ」と思った。あいつは俺の口の動きを真似している。どうやらあいつも俺の名前が「レン」だということが分かったようだったが、本当に分かったのかどうか確かめようもなかった。
 「カガミネ」と言ってみると、あいつも全く同じように口を動かしている。これで俺にとってのあいつの名前は「カガミネリン」で確定した。
 随分後になって、教科書の五十音表を見せ合って対照表を作ればいいと気付いたのだが、そのときは文字によるコミュニケーションはあきらめていた。名前が分かっただけで十分だったのだ。
 
(6)
 
 私は自分の名前を繰り返し言ってみた。
「リン」「リン」「リン」
 あの子も口を動かす。前に見たときと同じように、あの子の口の動きは私をちょっと違う。何度か繰り返した後、あの子と同じように口を開いてみた。そうしたら、私の口から「エン」という音が出てきた。何だか違うような気がした。もういちど、口をわざと大きく開いて「リン」と言ってみた。その時のあの子の口動きをよく観察して、また真似てみた。そしたら「レン」という音が出てきた。
 私は「これだ」と思った。あの子は私の口の動きを真似している。どうやらあの子も私の名前が「リン」だということが分かったようだったが、本当に分かったのかどうか確かめようもなかった。
 「カガミネ」と言ってみると、あの子も全く同じように口を動かしている。これで私にとってのあの子の名前は「カガミネレン」で確定した。
 随分後になって、教科書の五十音表を見せ合えって対照表を作ればいいと気付いたのだが、そのときは文字によるコミュニケーションはあきらめていた。名前が分かっただけで十分だったのだ。
 
 私は蔵に入ってレンに会うのが楽しみだった。でも、いつもいつも家族が留守にする訳ではない。おばあちゃんは元気で結構出かける。でもお母さんが普段は家にいるし、役場に勤めているお父さんも割と早く帰ってくる。私が家に一人でいる機会は、せいぜい月に一度あるかないかくらいだった。その数少ないチャンスのときは、決まってレンに会いに行った。
 お母さんが蔵に入ったときに一緒に行って鏡を見たことがある。そのときは私が映ってレンには会えなかった。お父さんのときや友達のときと同じだった。この鏡は私一人だけが映るときにレンの世界と繋がる働きがあるのだろうと考えた。
 レンと会うのはいつも蔵の中だから、レンの住む世界の外の様子を見ることはできなかった。以前読んだことのある絵本に、空が赤くて海が黄色い世界の話が載っていた。それを思い出して、レンの世界の空や海の色はどんなだろうと想像してみた。字が違うくらいだから、他にも色々違いがあるのかもしれない。
 あるとき、思いついて家族で写っている写真を持って行った。私を真ん中にして、おばあちゃん、お父さんお母さんが一緒に写っている写真で、いつも居間のテレビの上に飾ってある。レンに私の家族を見せるつもりだった。私が鏡にその写真を向けると、レンも写真を向けた。
 それを見て、私は飛び上がるくらい驚いた。レンが見せた写真に写っていたのは、私の家族だった。真ん中にいるのはレンだ。レンも同じように驚いていた。これはつまり。レンがいる世界は、私の世界と文字は違うけれど言葉は一緒。そして、私とレンだけが互いに同じ位置にいるということだ。向こうの世界に私はいない。同じように、こっちの世界にレンはいないのだろう。
 じゃあ、私とレンの関係って何なのだろう。考えても分からなかった。
 私はレンの存在を誰にも言わなかった。言ってもレンを見せることができないのだから誰も信じてくれないと思ったのだ。レンに会うのは私だけの楽しみだった。
 三年生になったある日、今にも雨が降りそうにどんよりと曇っていた。学校から帰るとお母さんが出かけたのでいつものように鍵を取り出して蔵に行こうとしていた。裏口から庭に出ると近所に住むいとこのミクお姉ちゃんが遊びに来た。ミクお姉ちゃんは私より二つ年上で、いつも仲良く遊んでくれる大好きなお姉ちゃんだ。でもこのときは困った。私は手に蔵の鍵を持っている。本当は子供だけで、ましてや一人で蔵に入るのは禁止されているのだ。その鍵をミクお姉ちゃんは目ざとく見つけて私に聞いた。
「それ、蔵の鍵じゃないの? それどうするの?」
「あの、これは」
 私が返事できないでいると、ミクお姉ちゃんは笑いながら「一人で探検しようと思ったな。私もあの蔵には入ってみたいと思ってたんだ。一緒に入ろう。いいでしょ?」と言った。そのとき、急に強い雨が降ってきた。二人で慌てて家に戻ったけれど、その途中で私が転んで服が汚れた。ミクお姉ちゃんに起こしてもらってようやく家にたどり着いた。
「ひどい雨だねえ。リンちゃん、着替え出せる?」
「うん」
「着替えたら蔵に行ってみようね。あ、それからタオル貸してくれる? 髪が濡れちゃった」
 ミクお姉ちゃんは長い髪が自慢だった。洗面所から新しいタオルを二枚持ってきて、一枚を貸してあげた。私はもう一枚のタオルで自分の頭をわしわし拭きながら着替えを出すために自分の部屋に向かっていたが、洗面所の洗濯機の横に今日学校から持って帰った体操服があったのを思い出してそれに着替えることにした。家で体操服を着ることはめったにしないけれど、まだ雨が止みそうにないし、どうせ汚れてるんだから蔵に行くにはちょうどいいやと思ったのだ。
 雨が小降りになったのを見計らって二人で蔵に入った。蔵の中はあまり湿気がなく、気持ちよかった。二人でかくれんぼをしたり、置いてある道具をいじってみたりしてしばらく遊んだ。そのうちに、ミクお姉ちゃんがあの鏡に気付いた。
「あれ、これ鏡じゃない。ふーん、どれどれ」
 そう言いながら覆いの布をめくる。どうせレンは映らないんだから別に構わなかった。
「おお、ミクさんが映ってますねえ。かぁわいいっ。リンちゃんこっちおいで」
 私が鏡を見ると、レンではなく私が映っていた。私以外と一緒にこの鏡を見るのは四人目だが、以前考えたこの鏡の働きは間違っていなかった。あれっ、でも。私とミクお姉ちゃんの立ち位置が逆になってる。それに後ろに見える蔵の様子も私が一人でレンと会っているときと同じように、鏡像になっていない。すぐにミクお姉ちゃんもそれに気付いた。
「あれ、リンちゃん。この鏡おかしくない? だって、私の前にリンちゃんがいて、リンちゃんの前に私がいる」
 鏡の中の私も同じ体操服を着ていた。髪もタオルで拭いたままのぼさぼさだった。だからてっきりそれは私だと思っていたけれど、もしかしたらレンなのかもしれない。私の学校の体操服は男女同じなのだ。
「ははあ。これって仕掛け鏡なんじゃない? 中に何かがあって右と左が逆に映る魔鏡ってやつ」
 魔鏡。初めて聞いた言葉だった。ミクお姉ちゃんは沢山本を読んでいて色んなことを知っている。本当にそういう鏡があるのだろうか。この鏡もそうなんだとしたら。いや、でも仕掛けで右左が逆に映るだけだったら、レンが映るのを説明できない。私はレンのことをミクお姉ちゃんに話すべきがどうかを迷っていた。
「あ、やっぱり違うわ。魔鏡ってのは光を反射させると十字架とかが壁に映るってやつだ。でもこの鏡も何か仕掛けがあるんだろうね。すごいや」
 ミクお姉ちゃんはしきりに感心している。私はレンのことをミクお姉ちゃんに話すことができなかった。その代わりに、「ミクお姉ちゃん、この鏡のこと他の人には黙っといてほしいんだけど」と言った。
「え、どうして?」
「だって、子供だけで蔵に入るのは駄目だって言われてるし」
「うーん。ま、そうだね。リンちゃんがそう言うんなら黙っといてあげる」
私はホッとした。ミクお姉ちゃんはその後も約束通り、誰にも言わないでいてくれた。
 
 その次に私が一人で蔵に入ったとき、いつものようにレンが映った。これまでは、レンの顔が見られるだけでよかったけれど、レンと話ができれば楽しいんだろうなあと思った。その気持ちを口にしてみた。
「私はあなたとお話がしたい。あなたの住む世界は素敵な世界ですか?」
 
(7)
 
 その次に俺が一人で蔵に入ったとき、いつものようにリンが映った。これまでは、リンの顔が見られるだけでよかったけれど、リンと話ができれば楽しいんだろうなあと思った。その気持ちを口にしてみた。
「俺はお前と話がしたい。そっちの世界の話聞かせてくれよな」
 
 俺はいいことを思いついた。俺は自分では分からないけれど学校でも家でも歌が上手いと言われている。それに歌うのが好きだ。リンの声は聞こえないけれど、一緒に歌うことはできる。根拠があるわけではないけれど、歌ならリンのところに届くような気がきした。
 俺はそう思ったらとても嬉しくなってきて、リンに笑いかけようと思って鏡を見た。すると、俺がまだ笑っていないのにリンが笑っていた。俺はちょっと遅れて笑った。こんなことは初めてだ。俺は、と言うか、俺達は知っている歌を片っ端から歌った。学校で習った歌、テレビの歌、お母さんから教わった歌。どれもリンは一緒に歌った。一曲歌うたびに俺達は拍手をした。とてもとても楽しかった。結局俺の歌はリンの所に届かなかったようだし、リンの声も聞こえなかった。でも、俺達は一緒に歌ったのだ。
 それからは蔵に行ってリンに会うのが以前にも増して楽しみになった。俺は新しい歌を沢山覚えた。リンも俺と同じ歌を覚えてきているようだった。蔵の壁はとても厚いので、大きな声で歌ってもその声が外に漏れることはない。俺達は手を叩いてはしゃいだり、叫び声のような大きな声を出したり、色んなことをやってみた。どれも楽しかった。
 
 あるとき、テレビで覚えたデュエット曲を歌ってみた。男と女で歌う大人の歌で、途中でパートが分かれている。俺はどうなるんだろうと思いながら歌い出した。リンも一緒に歌い始める。パートが分かれる部分になった。最初は女が歌う部分だ。俺は口を閉じた。リンは一人で歌っている。男が歌う部分になって俺が歌い始めるとリンは口を閉じている。最後はまた一緒に歌った。曲が終わると俺達は鏡越しに野球選手がやるみたいにハイタッチをした。こんなことができるなんてすごいや。
 俺は嬉しくて蔵の中を走り回った。鏡を見るとリンも走っている。蔵の入り口の所まで行ったとき、急に入り口が開いた。おばあちゃんがそこに立っていた。
「レン。ここで何をやっているの」
 
(8)
 
 あるとき、テレビで覚えたデュエット曲を歌ってみた。男と女で歌う大人の歌で、途中でパートが分かれている。私はどうなるんだろうと思いながら歌い出した。レンも一緒に歌い始める。パートが分かれる部分になった。最初は女が歌う部分だ。そのまま歌い続ける。レンは口を閉じていた。男が歌う部分になって私が口を閉じるとレンが歌い始める。最後はまた一緒に歌った。曲が終わると私達は鏡越しに野球選手がやるみたいにハイタッチをした。こんなことができるなんてすごい。
 私は嬉しくて蔵の中を走り回った。鏡を見るとレンも走っている。蔵の入り口の所まで行ったとき、急に入り口が開いた。おばあちゃんがそこに立っていた。
「リン。ここで何をやっているの」
 
「あ、あの」
「子供だけでここに入っては駄目って言ってるでしょう」
「うん」
「さあ、出なさい。鍵はどこ」
 普段は優しいおばあちゃんがとても怖かった。おばあちゃんは留守番しているはずの私の姿が見えなかったから探していたのだそうだ。
 それ後、帰ってきたお父さんとお母さん叱られた。こっぴどくって言うくらい叱られた。
「蔵の中には大事な物が沢山入っているの。子供だけで入ると壊しちゃうかもしれないでしょう。それに、ちゃんと整理してあるけれど高く積んでいるところもあるから、もし崩れてきてあなたが怪我したらどうするの。とにかく、これからあなたが蔵に入るのは禁止します」
 話が終わって、私がしょんぼりしながら自分の部屋に戻っていたら、おばあちゃんから呼び止められた。
「リン。ついておいで」
 私はおばあちゃんの部屋に連れて行かれた。
「沢山叱られたようだね。ま、仕方ないさ。駄目って言われていたのを破ったんだから」
「うん」
「お前、今何歳だい?」
「9歳」
「そうか。もうすぐだね」
「え? 何が?」
「ああ、それはそのうち分かるよ。それよりお前、蔵の中の鏡を見たかい?」
「うん」
「立派な鏡だったろう? あれは私のおばあちゃんの頃からある鏡でね、大事にしなきゃいけないんだよ」
「どうして?」
「あの鏡が割れたり、壊れたりしたら大変なことが起きるって言われてるからね」
「大変なことって?」
「それは私も知らないよ。私がおばあちゃんから聞いたのはそれだけで、大変なことってのが悪いことなのかどうかも分からない。で、鏡に何か見えたかい?」
 私は何も言えずに黙っていた。私が黙っていることでおばあちゃんには分かったようだった。
「その様子じゃ何か見えたんだね」
 私は黙ったままうなづいた。
「怖いものだったかい?」
 私は慌てて首を横に振った。
「ま、そうだろうね。何が見えたのかは今は言わなくていいよ。私が知っている詳しいことはお前が12歳になったら教えてあげる。だからそれまでは蔵に入るのは止めておきなさい。話はそれだけだよ」
 
 私は自分の部屋に戻った。蔵に入れなくなったのは残念だったけれど、おばあちゃんの話にはとても興味が湧いた。おばあちゃんは何かを知っているんだ。レンのことも知っているのかもしれない。
 
(9)
 
 俺は自分の部屋に戻った。蔵に入れなくなったのは残念だったけれど、おばあちゃんの話にはとても興味が湧いた。おばあちゃんは何かを知っているんだ。リンのことも知っているのかもしれない。
 
 それから俺は蔵に入るのをずっと我慢していた。おばあちゃんは「それまでは蔵に入るのは止めておきなさい」と言った。ということは、12歳になったらまた入れるはずだ。それにそのときは鏡の秘密も教えてもらえるのだろう。
 それまで俺は歌を沢山覚えることにした。もっと上手に歌えるように練習も沢山した。またリンと会える日を楽しみにして。
 俺が12歳になった日、おばあちゃんが「部屋においで」と言った。俺がおばあちゃんの部屋に入ると、テーブルにはお茶が淹れてあり、お菓子も用意してあった。
「おめでとう、今日で12歳だね。約束通りあの鏡のことを話して上げよう。その前に、お前が鏡の中に見ていたもののことを教えておくれ」
 俺はリンのことを話した。おばあちゃんは「うん、うん」と聞いていた。
「だから、俺はあれから一所懸命歌の練習をしたんだ」
 俺が話し終わったとき、おばあちゃんは「ああ、そういうことだったのかい。お前は小さい頃から歌が上手だったけど、何であんなに練習してんのかと思ってたよ」と言って笑った。
「それにしても、引き合うもんなんだねえ。そんな小さい頃からとは」
「え、何?」
「まあ慌てなさんな。さて、それじゃ話してあげようかね」
 おばあちゃんの話はこういうことだった。
 鏡音家はこのあたり一帯の地主だった。昔は蔵も沢山あった。鏡音家では不思議なことに女の子しか生まれなかった。それで、代々婿養子をとって当主としていた。そして、娘が生まれるたびに新しい鏡台を作るのが慣わしになっていた。おばあちゃんのおばあちゃん(面倒なので大おばあちゃんと呼ぶことにする)が生まれたとき、そのお父さんが娘のために有名な職人に頼んで鏡台を作ってもらった。それがあの鏡台だ。それからまもなくそのお父さんは病気で亡くなった。大おばあちゃんのお母さんはおっとりした人で、家のことは親戚の人達に任せてしまった。その頃から急に家が傾くようになった。
 大おばあちゃんは小さい頃から鏡台の鏡に不思議なものを見ていた。最初はあまりはっきりした形になっていなかったそうだ。大おばあちゃんが12歳になったとき、鏡の中にお父さんが現れた。お父さんは大おばあちゃんに家のことの細々した指示を出した。大おばあちゃんはまだ子供だったけれど、何とか大人達を動かし、不正をしていた親戚を追い出して家が傾くのを止めることができた。
 大おばあちゃんがお父さんを最後に見たのは14歳のときだった。そのときお父さんはこう言った。
「お前には苦労をかけた。だがこれでもう大丈夫だろう。私はこれでもうお前の前に現れることはない。だが、お前の孫、そしてそのまた孫のとき、この鏡が働くことになる。それまで代々大事にしておくように。このことはお前の孫が12歳になったら伝えなさい」
 おばあちゃんは大おばあちゃんからこの話を12歳になったときに聞かされた。おばあちゃんは小さいときから当時まだ家の中に置いてあった鏡台を見て育った。一度家が傾きかけてからは、娘に鏡台を作ってやる余裕はなくなっていた。おばあちゃんにはそれまで鏡の中に不思議なものは見えていなかったそうだ。大おばあちゃんの話を聞いた後も、家はごく普通の暮らし向きでだったし、不思議なものが見えることもなかった。おばあちゃんがおじいちゃんと結婚して、長女、つまり俺のお母さんが生まれたとき、鏡の中に女の子が現れた。その女の子はこう言った。
「あなたの娘が子供を生むときに、大変なことが起こります。でも大丈夫。この鏡を大切にしておいて下さい」
 おばあちゃんにとって不思議なことはこれっきりだった。そのとき鏡はとてもぼやけていて顔はよく見えなかったけれど、奇妙な服を着ていることだけは分かった。声も途切れ途切れで、それだけ聞き取るのがやっとだった。話の始めの部分と終わりの部分は聞こえなかった。その2年後に次女、つまりミク姉のお母さんが生まれたときは、何も起きなかった。
「ねえ、『娘が子供を生むとき』って、俺が生まれるときのことなの?」
「ああ、ちょっと待ちなさい。喋り疲れちゃったよ。お茶を飲むから」
 おばあちゃんはゆっくりとお茶を飲んだ。年寄りのくせに熱いのが苦手で、ぬるくなったお茶を美味しそうに飲む。本当はお茶よりもお酒のほうが好きなのだ。俺も付き合ってお茶を飲み、お菓子に手を出した。
「さて、さっき話したように、鏡音家では代々女しか生まれなかった。お前が生まれたとき、みんな驚いたものさ」
「へえ」
「でもね、もっと不思議なことがあったのさ。お前のお母さんのお腹には赤ん坊が二人いたんだ。病院の医者はそう言ってた。超音波エコーってのかい。確かに二人写ってた」
「双子ってこと?」
「ああ、そうだね。エコーの影で見ると男の子と女の子だって言われてた。でも生まれたのはお前だけだった」
「どういうこと?」
「お産はこの家ですることになった。産婆さんを呼んでね。あの日は大雨だった。雷が何度も鳴っていた。私は準備で動き回っていたんだけど、うちのすぐそばに雷が落ちたんだ。ものすごい音と光だったよ。私は慌ててねえ。あの鏡に持ってた物をぶつけちまったのさ。あれにヒビが入ったのはそんときだ。続けてもう一回落ちた。そしてその同じ時にお前が生まれた」
 おばあちゃんはじっと俺の顔を見た。
「それでどうなったと思う?」
「分からないよ」
「私が産室に入ったら、お前が産声を上げてた。産婆さんが『おめでとうございます。男の子です』って言ってる。そしてね、すぐ次の子が出てくるはずなのに、全くそれに備えようとしてないんだ」
 おばあちゃんはまたお茶を啜った。
「私は産婆に怒鳴りつけたよ。あんた何やってんだい。もう一人生まれるじゃないかって。そしたら『何を言ってるんですか。赤ん坊は一人ですよ』だって」
 
(10)
 
「私が産室に入ったら、お前が産声を上げてた。産婆さんが『おめでとうございます。女の子です』って言ってる。そしてね、すぐ次の子が出てくるはずなのに、全くそれに備えようとしてないんだ」
 おばあちゃんはまたお茶を啜った。
「私は産婆に怒鳴りつけたよ。あんた何やってんだい。もう一人生まれるじゃないかって。そしたら『何を言ってるんですか。赤ん坊は一人ですよ』だって」
 
 おばあちゃんが何を言っても誰も取り合おうとしなかった。そして、実際にお母さんのお腹の中にもう一人の赤ちゃんはいなかった。おばあちゃんは夢でも見ていたのだろうということになった。納得できないおばあちゃんはお母さんが受診していた病院にも行ってみたが、医者も子供は一人だったと言った。
「最後には私も自分の勘違いだったと思おうとしたんだよ。でもねえ、そんな勘違いなんてあると思うかい? それにね、私と死んだじいさんはお前のお父さんとお母さんに子供の名前を付けてくれって頼まれてたんだ。それで『錬』『鈴』という名まで考えてたのさ。お前のお父さんが役所に出すときに『リン』ってカタカナにしちまったけど」
「どういうことなんだろう」
「そうだねえ。最近になってからだけど、これはもしかして私があの鏡にヒビを入れちまったせいじゃないかって考えてるんだ」
「あの鏡に」
「ああ、さっき話したようにあの鏡には不思議な力がある。お前の話を聞いて、ますますそうじゃないかって思えるようになったね」
 おばあちゃんは、鏡にヒビが入ったことで、その瞬間に世界が分かれたのじゃないかと言った。理屈は分からないけれど、私があの鏡でレンに会えること、レンの世界には私がいないらしいこと、レンの家族は私の家族と同じであること、そういうことを考えれば、辻褄が合う。
「もしおばあちゃんの言う通りだとしても、私がレンに直接会うことはできないのかな」
「それは分からないね。いつかまた世界が一緒になることがあるかもしれない。それにはあの鏡が関係するんだろうけどね。かといって、あのヒビを元に戻すことはできないし、逆に割るわけにもいかない、何が起きるか分からないからね」
「ミクお姉ちゃんのことはどう思う?」
「ミクが生まれるときは何も起こらなかったよ。でもミクも私の孫だからあの鏡に何か影響を受けているのかもしれないね。さて、蔵に行ってみるか」
「え。いいの?」
「ああ、鍵はここにある。私も一緒に行くから」
 私は3年振りに蔵に入った。蔵の中はあまり変わっていなかった。一番奥にあの鏡台があった。おばあちゃんと並んでその前に立ち、わくわくしながら布をめくった。でもそこにはおばあちゃんと私が映っていた。服も髪型も私のままだった。
「ふーん。この鏡はもう私には働かないのかもしれないね。どれ、ちょっと二階に行ってみるからお前はここにいなさい」
 
 そういうとおばあちゃんは階段を登っていった。おばあちゃんの姿が見えなくなったら、鏡の中にレンが現れた。私は懐かしさのあまり泣きそうな顔になった。レンも同じような顔をしていた。でも、レンは私より背が少し小さかった。小学校の高学年は女の子のほうが男の子より先に大きくなる。クラスでも女の子のほうが背が高いケースが多かった。多分、私とレンの関係もそうなのだろう。
 
(11)
 
 そういうとおばあちゃんは階段を登っていった。おばあちゃんの姿が見えなくなったら、鏡の中にリンが現れた。俺は懐かしさのあまり泣きそうな顔になった。リンも同じような顔をしていた。でも、リンは俺より背が少し高くなっていた。小学校の高学年は女の子のほうが男の子より先に大きくなる。クラスでも女の子のほうが背が高いケースが多かった。多分、俺とリンの関係もそうなのだろう。
 
 俺は鏡に両手を付けた。リンもそうした。鏡越しに触れ合ったような気がした。あいつは俺の兄弟なんだ。しばらくそうしていた。二階からおばあちゃんの声がした。
「どうだい?」
「うん。リンがいた。リンがいたよ」
「そうかい。じゃあ私はもうちょっとここにいるから」
 俺達は一緒に歌を歌った。それまでに覚えた歌を幾つも幾つも。どれくらい歌っただろうか、俺は声がかれてしまった。リンもそうみたいだった。俺達は一緒に笑った。
「楽しそうなとこ悪いけどねえ。私はもうここにいるの飽きちまったよ」
 そう言いながらおばあちゃんが降りてきた。リンの姿が消えた。
「どれ、今日はもう帰ろう。またここに来ればいつでも会えるんだから」
「いつでも?」
「ああ、お前がリンに会いたくなったら私に言えばいい。いつでも一緒に蔵に入ってやるさ」
「ありがとう、おばあちゃん」
「なあに、お前達が離ればなれになったのは私のせいなんだろうから、お礼なんて言わなくていいよ」
 蔵からの帰り道で俺が聞いた。
「ねえ。このことお父さんとお母さんにはどうする」
「どうって、あの二人は信じないさ。話したってややこしくなるだけだから、言わなくていいよ」
「うん。じゃあミク姉には」
「ああ、あの子には言ってもいいね。もしかしたら、ミクが何かを変えるかもしれない」
「何かって?」
「そりゃ分からない。勘だよ勘。まあ、私があの鏡で会った女の子のこともあるしね」
 それから俺はおばあちゃんと一緒に頻繁に蔵に行った。お父さんとお母さんは不思議がっていたけれど、おばあちゃんが俺に勉強を教えるという理由を付けてくれたので納得したようだ。
「蔵の中のほうが集中できるからね」
 おばあちゃんは若い頃中学校の先生をやっていたのだ。今でも昔の教え子が遊びに来る。厳しくて優しい先生だったそうだ。
 勿論俺は、リンと会った後に二階で勉強をした。あれだけ頻繁に行っているのに成績が良くならなかったらおかしいし、おばあちゃんのプライドにも拘わる。
 しばらくしてからミク姉をリンに会わせた。向こうの世界にもミク姉がいるから、リンにとって初対面ということではないが、ミク姉はさすがに驚いていた。でも慣れるのも早かった。
「初めまして、リンちゃん。そして、そっちの世界の私。あ、初めてじゃないのか。前に一回だけ会ったよね」なんて言いながらおどけていた。向こうのミク姉も同じだった。
 俺達は四人でよく歌った。ミク姉は俺より歌が上手くて、俺より沢山知っている。リンや向こうのミク姉の声は聞こえないけれど、こっちのミク姉とハーモニーが出来るのも楽しかった。
 
 でもそれで俺は余計にリンの声を聞きたくなった。あいつはどんな声をしてるんだろう。そしてどんな風に歌うんだろう。
 
(12)
 
 でもそれで私は余計にレンの声を聞きたくなった。あの子はどんな声をしてるんだろう。そしてどんな風に歌うんだろう。
 
 大おばあちゃんや、おばあちゃんは鏡越しに声を聞いている。なのになぜ私はレンの声が聞こえないのだろう。勉強の後でおばあちゃんに聞いてみた。
「状況が違うからじゃないのかねえ。私のおばあさんのお父さんや、私が会った女の子は何かを伝えるために鏡を使ったってことだろ。だから声が聞こえた。今は、鏡が世界を分けちまってるみたいだから声も切れてんじゃないかね。想像だけどね」
 そうかもしれないなと思った。でもそれじゃレンの声はずっと聞けないってことだ。私の声もレンには聞こえていない。何とかして聞きたいなあ、レンの声。何とかして届けたいなあ、私の歌。
 小学校を卒業したとき、私は思い切ってお父さんお母さん申し出た。蔵の二階の部屋を自分の部屋にしたいと。二人とも大反対だった。
「だって、あなたは自分の部屋があるでしょう。それにあそこはトイレもないのよ」
 おばあちゃんが助け舟を出してくれた。
「まあまあ。リンも中学生になるんだし、ちょっとは独立心が出てきたってことだよ。私は賛成だよ。寝るときはこっちに戻るんだし、心配いらないさ」
 両親はしぶしぶ承諾してくれた。私は晴れて蔵の鍵を手に入れることができた。これでいつでも、一人でも、レンに会うことができる。多分向こうの世界ではレンが同じように鍵を手にしているだろう。
 二階は階段を登ってすぐの所が板の間で荷物が積んである。その奥は二つに仕切ってあって、それぞれ四畳半の広さで畳が敷いてあった。私は右の部屋を自分の部屋にした。レンはどっちの部屋にしたのかな。やっぱり右かな。左だったら面白いな。
 
 中学校に入学して、初めてセーラー服を着てレンに会いに行った。レンは学生服を着ていた。なんだか恥ずかしいような妙な気分だった。
 中学生になったらレンの身長が急に伸びてきた。私に追いつくのもあっと言う間だった。学校のクラスメイトもそうだった。周りの男の子が声変わりして高い声が出なくなってきていた。レンはどうなんだろう。
 学校では合唱部に入った。もっと色んな歌を覚えたいと思ったからだ。部活のないときに、私が帰り支度をしていたら何人かの友達が遊びの相談をしていた。
「リン帰っちゃうのー?」
「うん」
「リンって、最近急いで帰るのね」
「あーそういえばリン帰るの早いね」
「何かあるの?」
「気になる人を待ってるの」
 
(13)
 
 中学校に入学して、初めて学生服を着てリンに会いに行った。リンはセーラー服を着ていた。なんだか恥ずかしいような妙な気分だった。
 中学生になったら俺の身長が急に伸びてきた。リンに追いつくのもあっと言う間だった。学校のクラスメイトもそうだった。周りの男の子が声変わりして高い声が出なくなってきていた。でも俺はまだのようだ。
 学校では合唱部に入った。もっと色んな歌を覚えたいと思ったからだ。部活のないときに、俺が帰り支度をしていたら何人かの友達が遊びの相談をしていた。
「レンもう帰るの?」
「うん」
「今皆で駅前に遊びに行こうって」
「パス」
「何か用事でも?」
「家に帰る。会いたいやつがいるんだ」
 
 その頃からリンの動きは、俺と少しずれてきていた。手を上げるタイミングが遅れるのは当たり前で、身体を動かす量が違ったり、時にはおれが動いていないのにリンだけ動いてたりする。理由は判らなかった。おばあちゃんに相談したら、「世界がずれてきているのかもしれないね」と言われた。もっとずれが大きくなったらどうなるんだろう。考えても分からないから、そのずれも楽しむことにした。手拍子のタイミングがずれているときなんか、結構面白い。「はい」「はい」「はい」「はい」てな感じで、合いの手を打っているようだった。
 日曜日なんかにはちゃんと友達に付き合った。友達は大事だ。野球したり、サッカーしたり、だべったり。それはそれで楽しい。どの女の子が好きかなんて話にもよくなった。みんな誰がしか気になる子がいるようだった。
「レンはどうなんだよ」
「いや、俺は別に」
「なあに言ってんだよ。誰も気にならないなんて異常じゃね?」
「そういやこの前、会いたいやつがいるから家に帰るって言ってたじゃん」
「へえ。それ誰だよ。教えろよ」
 俺は皆から攻め立てられたけどどうにかごまかした。
 異常? そんなことないだろうと思った。本当にクラスメイトなんかで気になる子っていないのだ。それと、みんなが話してるのを聞いていると、俺がリンに会いたいと思う気持ちは、友達が誰か女の子を気になるというのとはちょっと違っているようだった。姉か妹か分からないけど兄弟だしな。
 二年生になった頃、俺は蔵の部屋でなし崩しに寝泊りするようになった。一々母屋に戻るのが面倒になって、夜遅くまで勉強してそのまま寝てしまうことが重なったから、こっそり予備の布団を運び込んだのだ。トイレや歯磨きには困ったけれど、そのときだけ母屋に帰ればいい。両親はあきれたけれど、またおばあちゃんが助けてくれたので、黙認するようになった。
 その頃から俺は歌を作ってみたくなった。これまで自分で歌を作ったことはなかった。学校の友達でバンドのまね事をして曲を作って文化祭に出ようとしているやつらもいた。おれは合唱部で出るから、そんな気はなかったけれど、自分で歌を作るっていうのは面白いと思った。
 
 実際にやってみるとなかなか難しかった。中学の入学祝いに買ってもらったギターでコードを押さえながら色々やってみるけど、どうにもうまく行かない。ギターを放り出して畳に寝転がり、ふざけ半分で「リンリンリン。リンリンリン」と言ってみた。繰り返して口にしているうちに、段々メロディーが付いてきた。
「んーんーんんー んーんんーんーんんー」
 お、これいいじゃん。
「リンリンリリーン リーリリンリーリリーン」
 いや、待てよ。
「レレリンレリン レレリンレーレリーン」
 こっちのほうがいいか。
 
(14)
 
 実際にやってみるとなかなか難しかった。中学の入学祝いに買ってもらったギターでコードを押さえながら色々やってみるけど、どうにもうまく行かない。ギターを放り出して畳に寝転がり、ふざけ半分で「レンレンレン。レンレンレン」と言ってみた。繰り返して口にしているうちに、段々メロディーが付いてきた。
「んーんーんんー んーんんーんーんんー」
 あれ、これいいかも。
「レンレンレレーン レーレレンレーレレーン」
 あ、待てよ。
「リリレンリレン リリレンリーリレーン」
 こっちのほうがいいかな。
 
 まだ出来かけだけど、レンに聞かせたくなった。たとえ聞こえなくても、レンも今同じメロディーを口にしているはずだ。
 急いで階段を駆け下りて、鏡台の前に立つ。布をめくるとレンがいた。「せーの」でタイミングを合わせて歌ってみた。
「レレリンレリン レレリンレーレリーン」
「リリレンリレン リリレンリーリレーン」
 !!!!
 聞こえる。レンの声が聞こえる。レレリンって歌っているのが聞こえる。
 レンの声は私の声に似ていた。私よりちょっとだけ尖っているかもしれない。
 
(15)
 
 まだ出来かけだけど、リンに聞かせたくなった。たとえ聞こえなくても、リンも今同じメロディーを口にしているはずだ。
 急いで階段を駆け下りて、鏡台の前に立つ。布をめくるとリンがいた。「せーの」でタイミングを合わせて歌ってみた。
「リリレンリレン リリレンリーリレーン」
「レレリンレリン レレリンレーレリーン」
 !!!!
 聞こえる。リンの声が聞こえる。リリレンって歌っているのが聞こえる。
 リンの声は俺の声に似ていた。俺よりちょっとだけ丸いかもしれない。
 
 俺は声を大きくした。リンも大きな声を出している。同じメロディーの繰り返し、歌詞とも言えないお互いの名前の繰り返し。でも聞こえる。夢みたいだ。
 俺は涙がこぼれていた。リンも涙を流している。歌をやめて、「おーい。聞こえるか?」と言ってみた。でもリンの声が聞こえない。あれえ、どういうことだ? もう一度歌ってみた。
「リリレンリレン リリレンリーリレーン」
「レレリンレリン レレリンレーレリーン」
 聞こえる。
 俺達は何度も何度も歌った。笑いながら泣きながら、同じメロディーを繰り返した。何がなんだか分からない。でもリンの声が聞こえたのだ、リンにも俺の声が届いたのだ。
 
(16)
 
 私は声を大きくした。レンも大きな声を出している。同じメロディーの繰り返し、歌詞とも言えないお互いの名前の繰り返し。でも聞こえる。夢みたいだ。
 私は涙がこぼれていた。レンも涙を流している。歌をやめて、「ねえ。聞こえる?」と言ってみた。でもレンの声が聞こえない。あれえ、どういうこと? もう一度歌ってみた。
「レレリンレリン レレリンレーレリーン」
「リリレンリレン リリレンリーリレーン」
 聞こえる。
 私達は何度も何度も歌った。笑いながら泣きながら、同じメロディーを繰り返した。何がなんだか分からない。でもレンの声が聞こえたのだ、レンにも私の声が届いたのだ。
 
(17)
 
 俺達は夜遅くまで一緒に歌って、そのまま鏡の前で寝てしまった。蔵の床は固く、冷たかったけれど気にならなかった。目が覚めたら朝だった。やばい、学校に遅れる。俺は鏡の向こうのリンに「おっはよう。学校行くぞ」と声をかけた。着替えてから母屋に戻り、顔を洗った。後ろでお母さんが俺を急かしていた。学校へ走って行ってなんとか遅刻は免れたが、その日は眠くて仕方なかった。もう一度顔を洗おうと休み時間に一人でトイレに行って、鏡を見た。そこにリンがいた。セーラー服を着ていた。「どうして?」と思っているところに他のやつがやってきて、リンの姿が消えた。
 次の休み時間に、教室から離れたあまり人の来ないトイレに行ってみた。鏡を見るとリンがいる。声は聞こえなかった。入ったことがないからよく分からないけど、後ろは女子トイレのようだ。つまり、蔵のあの鏡でなくても俺が一人で鏡を見るとリンが映るということだ。あの歌を作ってから今までにない不思議なことが起きるようになった。歌を口ずさんでみたら、ちゃんとリンの声が聞こえた。
 その日の部活が終わってから家に帰ると、おばあちゃんは出かけていた。俺はミク姉の家に行ってみた。ミク姉は高校から帰っていた。ミク姉の部屋で昨日からのことを話した。話し終わってからミク姉の鏡を貸してもらうと、そこにリンが映っていた。俺達はあの歌を歌った。ミク姉にもリンの声が聞こえた。
「すごいじゃない。レン君達の歌が世界を変えていっているのかもしれないね。どの鏡でも会えるってことはまるで鏡のネットワークだね。早くその歌を完成させてみてよ」
 歌を完成させる? そうか、この歌はまだ作りかけだった。この歌が完成したとき何が起きるだろう。
 帰り際、ミク姉が俺にすごいことを教えてくれた。ミク姉が歌手としてデビューすることが決まったというのだ。今、デビュー曲のレッスンをしていて、もうすぐ吹き込むらしい。遊びのつもりでオーディションに行ったら受かったとのことだった。「芸名は?」と聞くと、「本名のまま、『初音ミク』だよ」と言った。「デビュー曲はどんなの?」と聞くと、「ああ、それはちょっと恥ずかしいから、CDが出たら聞いてね」と言った。
 すごいすごい。歌手デビューだって。ミク姉はすっごく可愛いし、歌も上手だからきっとアイドルになれる。俺は興奮して家に帰った。
 おばあちゃんに報告したら、「ふーん。そりゃ面白いねえ。いよいよ動き出したか」と言っただけだった。それが、俺とリンのことなのか、ミク姉のことなのかも分からなかった。
 その日、俺は大きな失敗をしてしまった。風呂に入って何気なく鏡を見たら、裸のリンが映ったのだ。「あらあー」と思いながらしげしげと見てしまった。リンは慌ててタオルで身体を隠すと、何か大きな声で叫んでいた。すごい罵倒されてるんだろうな、きっと…。俺は風呂の蓋で鏡を覆った。これってかなり不便だ。いや…、ちょっと…、嬉しいかも…。
 
(18)
 
 それから私は、歌の完成を目指してああでもない、こうでもないと苦闘していた。「レレリンレリン。レレリンレーレリーン」はコーラス部分だから、歌の本体部分は全くできていないのと同じだった。夏休みに入っても状況は変わらなかった。涼しい蔵の中でゴロゴロ寝転んでいる日が多かった。
 8月の終わりにミクお姉ちゃんのCDが発売された。デビュー曲は「みくみくにしてあげる」というタイトルだった。ちょっと変わったコスチュームを着ていて、曲も本物のミクお姉ちゃんのイメージと少し違うかなという感じもしたが、テレビよりもネットでの評判が上々だった。
 ミクお姉ちゃんは高校も都心の学校に変わり、忙しいのでなかなか会えなくなった。でも、ネットの動画を開けばいつでも会うことができる。
 ミクお姉ちゃんのことは二学期の学校で友達にちょっと自慢だった。「そのうちにリンちゃんもデビューするんじゃないの?」なんて言う子もいたけれど、私にはとてもそんな度胸はない。
 蔵の部屋に座って、歌詞を考える。ギターのコードを弾いてみる。どうにもピンと来るものが出てこない。階段を下りてレンに会う。どの鏡でも会えるから、わざわざあの鏡台のところに行く必要はないのだが、蔵で会うときはそのほうがしっくりくるような感じがするというのが私達の暗黙の同意事項だった。だから二階の部屋に鏡は置いていない。それから、身だしなみのときなどレンが映っては困るときは、鏡の前で手を急いで二回叩くと私が映る。これは歌いながら手拍子をしていて偶然に発見したのだ。もう一度二回叩くとレンが映る。これで不便はなくなった。
 この頃は私とレンの動きは全く同じということではなく、ある程度別の動きができるようになっていた。つまり、それによってボディランゲージで意思疎通ができるのだ。例えば、ミクお姉ちゃんのCDを持っていくと、レンはそれを見て「うんうん」とうなずく。つまり、あっちの世界のミクお姉ちゃんもデビューしていて、活躍していることが分かる。ギターを持っていって、それを抱えたまま手を大げさに広げると、「歌作りがうまく行っていない」ことを伝えることができる。レンも悩んでいるようだ。
 
(19)
 
 秋になって、俺は気分を変えようと思った。小さな鏡をリュックに入れて電車に乗る。近郊にある小高い山に登ってみる。山はきれいだった。でも同じようなハイカーが多くて、鏡の中のリンと会うのは難しかった。出かける準備をしてリンに会ったらリンも同じような格好をしていたからリンも今この景色を見てるんだろうなあと思いながら、散策する。山頂近くまで来たら、丸太で作られたテーブルとベンチがあって、たまたま周りに人がいなくなった。ベンチに腰掛けて鏡をテーブルの上に立て、、リンと会った。リンはニコニコしていた。やっぱり気持ちがいいのだろう。鏡に向かって深呼吸する仕草を見せると、リンも笑いながら同じように深呼吸した。
 考えてみれば、中学生の女の子が一人でこんな所を散策しているってのもちょっとおかしなシチュエーションだ。「一人で来てるのか?」という意味で、リンを指差してその指を立て、首をちょっとかしげた。それで通じたようだ。リンは、「ううん」と首を横に振り、指を三本立てて見せた。誰かと三人で来ているらしい。それからリンがなにか伝えようと、身振り手振りをしているのだが、それが何を言いたいのかなかなか分からなかった。俺がまた首をかしげて手でバツを作って見せたら、リンはちょっと怒ったような顔になり、それから意を決したように、両手を胸の前でぐるんと動かした。それからまた指を三本立てた。分かった、あれは胸が膨らんでるのを表しているんだ。つまり、女の子三人で来てるってことだ。俺は了解の意味で指でOKのマークを見せた。リンはまだ怒ったような顔をしている。俺に向かって胸のジェスチャーをするのが恥ずかしかったのだろう。俺は指を二本立てて首をかしげ、その二人がどこに行ったのか聞いてみた。リンは手を洗う仕草をして見せたから、トイレにでも行っているのだろう。
 こんなふうに、俺とリンはどこかに行くなど大体同じ行動をしているのだが、その取り巻く世界はちょっとずつずれが大きくなっていった。そのうちに、俺が鏡を見てもリンがいないということがあるのかもしれない。
 山から戻って蔵の部屋で寝転んでいるとき、ふと思いついた。そうだ、手話を覚えよう。そうすればリンと話ができる。学校に手話のサークルがあったはずだ。部活との掛け持ちはきついけど、リンと会話できることを考えれば何でもない。足りない分は本で覚えればいいや。
 
(20)
 
 私は手話のサークルに入った。メンバーはとてもいい人達で、すぐに打ち解けてくれた。初歩的なところから少しずつ覚えることにした。練習はレンを相手にすることもできる。
 コーラス部の活動も、文化祭とその後の合唱コンクールを控えて忙しくなってきた。落ち着いて歌を作っている暇がない。しばらくは中断することにした。そのことをレンに手話で伝えた。レンは「分かった」の手話をした。
 文化祭はうまく行った。先生から来年は独唱パートを担当してもらうからそのつもりでいろと言われた。合唱コンクールのほうは惜しいところで入賞できなかったので、次のステージに進むことはできなかった。これは来年リベンジしようと皆で話し合った。
 大きなイベントが終わって生活に落ち着きが出てきた頃、おばあちゃんが蔵の鏡の前で倒れているのを私が見つけた。それまで病気一つしたことがなかったのに、救急車で運ばれて入院することになった。
「まあ、年だからね。仕方ないさ」
 入院の翌日にお見舞いに行ったら、おばあちゃんはそう言っていた。でも笑ってはいなかったし、やはり元気がないように見えた。
 それから毎日見舞いに行った。病気の原因はよく分からないとのことだった。「疲れが出たのでしょう」とお医者さんは言っていたが、元気なときと具合が悪いときが交互に現れていた。お母さんが家に帰って私が一人で付き添っていたとき、おばあちゃんが話し始めた。
「リン。私ももう長くないかもしれないね」
「おばあちゃん、何言ってんのよ。そんなことないって」
「まあ自分のことだから、分かるさ。生きている間に、お前とレンを会わせてやりたいけどねえ」
 私はいつも持ち歩いている鏡を取り出してみた。でも私しか映らなかった。
「おばあちゃん。あの鏡の前で何をしていたの?」
「いや、別に…。ただ眺めていただけさ」
「おばあちゃん。ミクお姉ちゃんの歌聞いたことある?」
「ああ、あるよ。変な歌だったね」
「この前電話で話したんだ。お姉ちゃんもお見舞いに行きたいけど、忙しくって難しいって言ってた」
「ああ、いいさ。あの子はあの子で精一杯頑張ればそれでいい。お前も歌を作ってるんだろう? 私のことはいいから、早くそれを完成させてごらん」
 
(21)
 
 おばあちゃんにそう言われて、俺とリンは歌作りを再開した。俺達は手話でだいぶ意思疎通ができるようになっていた。でも、歌作りは前と同じでなかなか進まなかった。
 12月に入って、蔵の部屋で寝転んでこれまでのことを色々思い出しているうちにひらめいた。俺とリンのことを歌にすればいいんだ。小さいときから今まで、俺がリンに出会って、不思議に思ったこと、声を聞きたいと思ったこと、俺の歌を聞かせたいと思ったこと。そんなことを歌詞にしてみよう。
 そう考えたら、言葉が沢山浮かんできた。それに合わせてメロディーも浮かんできた。少しずつ形になってきた。それは俺の一人称の歌詞だった。ということは、リンも自分の一人称の歌詞を作っているだろう。だったら、リンの作ったところを一番にして、俺が作ったところを二番にして、それぞれ歌えばいい。最後に二人で歌う部分も作ろう。掛け合いみたいにすればいい。ほぼできたところで鏡台の前に立った。リンがいた。リンが歌い出した。
 聞こえる。リンが歌っているのが聞こえる。「りりれん」の部分に入る。ずっと聞こえている。リンのパートが終わった。次は俺の番だ。
 
(22)
 
 レンが歌っている。その声が聞こえる。レンのパートが終わった。一緒に残りを歌う。
「リリレンリレン リリレンリーリレーン」
「レレリンレリン レレリンレーレリーン」
 出来た。歌い終わってなんだか力が抜けた。そのまま床に座り込んだ。私達は互いにただ見つめあうだけだった。
 それから毎日、私とレンは歌の仕上げをした。クリスマスが終わった頃には完成といえるところまで来た。その日、少し体調の良くなったおばあちゃんが、お正月を家で過ごすために一時退院してきた。私はおばあちゃんの部屋に行って歌が完成したことを伝えた。
「よかったね。明日はお前達の誕生日だろう。14歳だよね。その歌は明日聞かせておくれ。間に合ってよかった」
 「間に合う」ってどういうことだろうと思ったが、おばあちゃんが目を閉じたのでそのまま部屋を出た。
 翌日の明け方、私は夢を見た。白い靄が帯状になって漂うだけの青く何もない空間に私は浮いていた。ここはどこだろうともがくけれど、思うように身体が動かない。自分が止まっているのか移動しているのかも分からなかった。時々電光のようなパルスが光って私の側を通り過ぎて行く。私は学校の制服とは違う黄色いスカーフの白のセーラー服を着ていた。ショートパンツをはいて、ミクお姉ちゃんのコスチュームと似たウォレットチェーン、ヘッドセット、手足のカバーを付けていた。不安になってきたとき、遠くに誰かが見えた。声をかけようとしたけれど、なぜか声が出なかった。でも向こうは私に近づいて来る。レンだった。レンが私と同じような服を着て何か叫びながら手を伸ばして寄ってくる。あと少しとなってもどうしても触れることができない。まるで私とレンの間に何か見えない壁があるみたいだった。そのときどこかから声が聞こえてきた。
「心配することはない。ここはカガミネットだ。世界中の全ての鏡がここを通してつながっている。分かれた世界の鏡もつながっている。だがそのつながりはとても弱い。普通の人間が認識できないのはそのためだ。お前達が互いに引き合い、歌を作ったことで、この空間のパワーが大きくなった。もうすぐ世界が一つに」
 声は急に途切れた。優しい声だった。もうすぐ世界が一つになるというのだろうか。そう思ったとき、レンが私を見てうなずいた。私とレンは何かに引っ張られるように離れていった。そして目が覚めた。
 洗面所の鏡でレンに「夢を見た?」と手話で聞いた。レンはうなずいた。レンも同じ夢を見たのだろう。
 朝食の後、私は鏡を持っておばあちゃんの部屋に行った。レンは映らないけど、こうすれば一緒に歌っている気持ちになれると思った。おばあちゃんの枕元にその鏡を置いた。レンのパートも私が歌うつもりだった。
 でも歌い始めたら、その鏡からレンの声が聞こえてきた。私は歌うのを止めて鏡を見た。レンが映っている。
「おばあちゃん。おばあちゃん。レンがいる。レンが映ってる」
 私がそう言うと、おばあちゃんは起き上がって鏡を見た。
「この子がレンか。そうかそうか。いい顔をしている。さあ、また歌っておくれ」
 私は鏡をおばあちゃんの布団の向こう側に置いた。私とレンはおばあちゃんを挟んで向かい合う形になった。
 
    物心ついたときから
    鏡に映る姿はあの子だった
    私が映るはずなのになんでかなぁ?
    私が笑えばあの子も笑う (同じ動きだ!)
    私が歌えばあの子も歌う (ふしぎなことね)
    だけどあの子の声は私には届かない
    だったら私が届けてあげる
    
    (りりれん りれん もしもし あなたのすむ世界は素敵な世界ですか?)
    
    いつからか分からないけど
    鏡に映る姿はあいつだった
    なんで俺が映るんじゃないんだろう?
    俺がはしゃげばあいつもはしゃぐ (まねするなよ!)
    俺が叫べばあいつも叫ぶ (だれだおまえ!)
    だけどあいつの声は俺には届かない
    そんなら 俺が届けてやるよ 
    
    (れれりん れりん もしもし そっちの世界の話聞かせてくれよな?)
    
    鏡をみればあなた(キミ)が映る
    届くといいな私の声
    届けてやるよ俺の歌
    耳に届くあなた(キミ)の声
    
    (りりれん れりん こんにちは はじめまして 今度は いっしょに歌おうよ)
 
「いい歌だ。お前達よくやったね。もうすぐだよ」
 おばあちゃんはそう言うと、目を閉じてしまった。私は鏡を見た。レンがまだ映っている。手話で「おばあちゃん寝ちゃったね」と言うと、「うん。蔵に行こう」とレンが返してきた。
 おばあちゃんの部屋を出たら、玄関に誰かが来ていてお母さんが対応していた。その人が帰ってからお母さんに聞いてみたら、「自治会の人よ。最近この辺りで放火があってるみたいで、家の周りの燃えやすいものを片付けておくようにって」と言った。
「ふーん。怖いね。あ、じゃあ私が見てくるから」
 庭に出て、家の周りを一周してみたけれど、燃えそうなものはなかった。そのまま蔵に入ってレンに会った。向こうでも同じことを言われたらしい。
 もう一度あの歌を歌った。バッチリだった。もしかしたら、言いたいことを歌にすればレンに聞こえるのかなあと思って即興でやってみたけど駄目だった。
 蔵の中は寒い。二階の部屋には暖房器具を置いているので暖かいが、一階は凍えるくらいに寒い。母屋に帰って掃除の手伝いなどをして過ごした。夕飯を食べて、おばあちゃんの部屋を覗いたらまだ寝ていた。この季節でも私は蔵で寝ることにしている。一旦蔵に行って暖房のスイッチを入れ、お風呂に入って温まってから蔵に戻った。
 
(23)
 
 このとき、俺は致命的な失敗をした。早く二階に上がりたかったので、蔵の鍵を内側からかけるのを忘れてしまったのだ。
 その夜、焦げ臭い匂いに目を覚ました。一階は火の海だった。階段を下りることもできない。窓を開けて「火事だー」と叫んだ。何度も叫んだ。両親が気付いて家から出てきた。近所の人もやってきた。お父さんが梯子を持ってきたが窓まで届かない。消防車はまだ来なかった。
「ロープを使え」
 お父さんが叫んだ。俺が蔵で寝るようになってから、念のためにと脱出用のロープをお父さんが用意してくれていた。俺はそのロープを柱にくくりつけた。リンのことが心配だった。ここには鏡がないからリンの様子を見ることができない。なんとか逃げてくれ。俺が逃げられればリンも大丈夫だろう。そう思ってロープを伝って下に降りることにした。梯子の上で待ち構えているお父さんにもう少しというところで手が滑った。俺は梯子に一回ぶつかってそのまま地面に落ちた。そしてそのまま気絶してしまった。
 気が付いたら病院だった。右足に包帯が巻かれていた。ベッドの横にミク姉のとこの叔母さんがいた。
「あ、気が付いた?よかった。リンちゃんもたった今、目を覚ましたとこよ」
 叔母さんがそう言った。俺は伯母さんの言うことが理解できなかった。
 叔母さんがベッドの横のカーテンを開けた。隣のベッドではリンが横になってこっちを見ていた。
「二人とも大変だったねえ。でも足以外は怪我しなかったし火傷もしてないからよかったわ。後はおばあちゃんね」
 一体叔母さんは何を言っているのだろう。それになぜリンがここにいるんだ。そのときドアがノックされて、ミク姉が入ってきた。コスチュームのままだった。
「あ、目が覚めてた? ごめんねこんな格好で。このあとすぐ仕事だから」
「ミク姉。リンが、リンが」
「うん、分かってる。夜にまた来て説明するからそれまで待ってって。リンちゃんもね。お母さん二人を宜しく」
 それだけ言うと、ミク姉は慌しく部屋を出て行った。
「あら、あの子ったら」
 叔母さんはあきれた顔でそう言った。
「それじゃ叔母さんはおばあちゃんの様子見てくるね。姉さんにも二人が目を覚ましたって言ってくるから」
 叔母さんも部屋を出て行った。残された俺は訳が分からなくて茫然としていた。
「レン」
 リンが声を掛けてきた。
「レン。私にもさっぱり分からないの。どうしてこんなことになったのか。でも叔母さんは私達二人がいるのを不思議に思ってないみたいなの」
「それじゃ、つまり。二つの世界が一つになったってことか?」
「そうかもしれない。でも分かんないの」
 俺は改めてリンを見た。リンは鏡で見ていたリンそのものだった。俺の目の前にいる。俺はリンに向けて手を伸ばした。リンも手を出した。しっかり握り合った。リンの手は暖かかった。
「初めまして、レン。鏡音リンです」
 リンが真面目な口調でそう言った。
「初めまして、リン。鏡音レンです」
 俺も同じように挨拶した。そして二人で吹き出した。俺達はずっと会っていたけれど、初めて触れ合うことができたのだ。
「あのね、レン。なぜこうなったのか分からないけど、様子が分かるまで二つの世界に分かれていたことは誰にも言わないでおこう。頭打って変になったって思われても困るでしょ」
「そうだな。生まれたときから仲のいい双子って顔をしとこう」
 そのときドアが開いて、お母さんが入ってきた。
「二人とも目を覚ましたのね。足痛くない? お腹空いてない?」
 そう言われて俺は急に足が痛くなってきた。そして猛烈にお腹が空いてるのにも気付いた。
「痛いよ!お腹も空いた!!」
「あらあら、そこに果物があるから、それ食べてから痛み止めを飲みなさい」
 お母さんはリンゴの皮を剥き始めた。
「おばあちゃんはねえ、火傷がひどいの。でも命に別状はないだろうって」
「おばあちゃんが火傷した?」
「ああ、二人とも気を失っていたから知らないのね。おばあちゃんはね、あなたたちがロープから落ちたあと、制止を振り切って蔵の中に入っていったのよ」
「火事の中に?」
「そう。そしてあの鏡台を一人で抱えて出てきたのよ。『これだけは守らなきゃならない』って言いながらね。あんな火の中に入って無事に出てくるなんて奇跡よ」
 俺はリンと顔を見合わせた。おばあちゃんは鏡台を守ったんだ。
「火事の原因は何?」
「それは今、警察と消防の人が調べているわ。お父さんはその立会いをしてる。多分放火だろうって。あなた達、夕べ蔵の鍵を掛け忘れたでしょう。まあ助かったから今は怒らないでおくけどね。覚悟はしときなさいよ」
 
(24)
 
 その夜、ミクお姉ちゃんがあのコスチュームのまままた来てくれた。そのときにはもう叔母さんは家に帰っていた。お母さんはおばあちゃんに付き添っていたので部屋には私達しかいなかった。
「大変だったね。それに驚いたでしょう。順番に説明するね」
 ミクお姉ちゃんが火事の連絡を受けたのは今朝早くだった。仕事をキャンセルしたかったけれど、それはできなかった。幸い今日の仕事の現場がこの町に近かったので、仕事前にタクシーを飛ばして蔵の様子を見に行った。それから病院に寄って、急いで仕事場に向かったのだった。
 実は、ミクお姉ちゃんには二つの世界が一つになったことが分かっていた。昨日の夜、私が蔵から落ちた頃かその少し後くらい、私の世界にいたミクお姉ちゃんと、レンの世界にいたミクお姉ちゃんの記憶が一つに統合されるのを感じたのだそうだ。今でも、どちらの記憶もあると言う。だから、何か重大なことが起きたということは知っていたのだ。
 蔵では現場検証が行なわれていて、そこにいる誰もが忙しく動き回っていた。伯父さん、つまり私達のお父さんを見つけて見舞いを言い、私達の様子を聞いた。庭の隅に焼け焦げた鏡台がポツンと置いてあった。鏡面はヒビが沢山入っていた。そのとき、周りのざわめきが消え、鏡から声が聞こえてきた。ひび割れた鏡面には若い男の人が現れていた。その人はカイトと名乗った。そして、おばあちゃんのおばあちゃんのお父さんだと言った。
「私はカイトと言う。お前の五代前の先祖に当る。この鏡を作らせた者だ。今からお前に頼みがある。本当は私がやりたいのだが、この鏡がこうなってしまったから、鏡の機能を保持するのと一つになった世界の整合性を取るので精一杯だ。この鏡ももうまもなくその働きを停止する。その前にメイコに会ってもらいたい。今のメイコではない。昔のメイコだ」
 カイトおじいちゃんは自分はカガミネットにいると言った。そもそも名前はないのだが、ミクお姉ちゃんが言い出した「鏡のネットワーク」という言葉に合わせてカガミネットと呼ぶことにしたそうだ。カガミネットは世界中の鏡とつながっている。だけど、場所や広さはない。カガミネットからこちらの世界を見ることはできるが、こちらの世界からカガミネットに通じることができるのはあの鏡台だけだった。あの鏡台は、製作を依頼された職人が丹精込めて作ったので、普通の鏡にはないパワーを持っていた。カガミネットとのつながりを強力にするパワーだった。
 カイトおじいちゃんは病気で亡くなるときに、幼い娘を残して死んでも死に切れないと思った。すると、鏡台の鏡のパワーで、おじいちゃんの意識はカガミネットに投影され、そこに残ることになった。そこから、鏡を通してこちらの世界とつながることができる。最初は慣れなかったため、こちらの世界の様子を知ることはできても、自分の声や姿をうまく伝えることができなかった。鏡台の鏡は、使っている人が持っているパワーを受け止めて、本来以上のパワーを発揮することができる。鏡音家の血筋の人間は、自分では意識していないが生まれつきそのパワーを持っていて、成長とともにそれが強くなる。14歳がピークだ。娘が成長して12歳になったとき、その娘のパワーでついに自分の姿を鏡に映すことができるようになった。
 それによって、自分が死んだことで傾いた家を建て直す指示を出すことができるようになった。娘が14歳になったとき家のことは片が付いた。しかし、そのとき、カイトおじいちゃんには次の心配事が生じていた。
 カガミネットは、普通の世界と空間だけでなく時間でもつながっている。つまり、過去も未来も見ることができる。過去はかなりの精度で接続できるが、未来は不確定要素が多いため、見ることができる範囲は限られている。家のことが落ち着いたので、その未来を少し調べてみたら、五代目の子孫のところで大きな変動が起きていることが判った。しかしその具体的な内容までは判らなかった。それには三代目の子孫が関係しているらしいことを探るのが精一杯だった。それで、娘に最後のメッセージを伝え、代々鏡を大事にするように言いつけた。
 カイトおじいちゃんの娘、つまり大おばあちゃんはその言いつけを守って、孫、つまりおばあちゃんが12歳になったときにそれを伝えた。しかし、その時点では変動の要素は現れていなかった。未来のことはまだ判らなかった。おばあちゃんが子供を生んだとき、未来から何か通信が来ていることは判ったが、か細い信号だったので、カイトおじいちゃんにはそれを傍受して解読することができなかった。
 更に時間が過ぎて、私達が生まれたとき事件が起きた。おばあちゃんが鏡にヒビを入れてしまったのだ。これはカイトおじいちゃんにとって想定外の出来事だった。各時空間に存在するこの鏡台の鏡は、ネットワークの中核となっており、それにヒビが入るということは、時空間に大きな影響を与える。だから、起こるであろう変動を見ることができないでいたのだ。そしてその時、世界がまるで双子のように二つに分かれた。そのとき生まれるはずだった双子だけを例外として。
 それからカイトおじいちゃんは二つになった世界を一つに戻そうと様々な努力を重ねた。しかし鏡にヒビが入ったことによる影響は大きく、思うようにならなかった。結局、私達が成長してパワーを付けるのを待つことにした。私達は鏡音家の血筋と、生まれたときに世界が分かれたことによる影響から、大きな潜在パワーを持っていたのだった。幼いときから、あの鏡台の鏡を通して互いの姿を見ることができたのもそのためだ。二つの世界は、それまでの流れの延長で、どちらもほぼ同じ歴史を辿っていた。私とレンは、それぞれの世界の中で同じ役割をする一つのピースとして、ほぼ同じ行動をしていた。蔵の鏡台で会っているときに、動きが同じだったのはそのためだ。私達が成長してパワーが付いてくると、その束縛から少しずつ解放されて、独自の動きができるようになった。
 もう一つ、思わぬパワーが現れた。それが、私達の歌だった。私達は小さな頃から一緒に歌を歌っていた。カイトおじいちゃんにもその説明がつかないそうだが、私達が一緒に歌うことで新たなパワーが生まれ、それが二つに分かれた世界に作用を及ぼしていった。一番効果があったのが、私達が作ったあの歌だった。あの歌には私達の『声を聞きたい』『歌を届けたい』という強い思いが込められている。そのパワーによって、互いの声が聞こえるようになり、同時に世界中の鏡がカガミネットの端末の役割を果たすようになった。
 歌が完成に近づき、私達の14歳の誕生日が間近になるにつれて、カイトおじいちゃんはまもなく世界が一つになるということが判った。
 そして火事が起きた。極限状態の中で、私達のパワーは瞬間的に巨大なものになった。そのパワーを一旦吸収したあの鏡台の鏡は、自らのもつパワーも合わせて一気に放出し、その作用で二つの世界が統合された。沢山のヒビが入ったのはそのときだ。
 カイトおじいちゃんは統合された世界の整合性をとる必要があった。これまで私達がかかわった人たちの記憶や、私達が残してきた物理的な痕跡を、二人が同じ世界にいることと矛盾なく成り立つように修正しなければならない。それには鏡台の鏡が必要だ。しかし、鏡台は炎に囲まれていた。そのときおばあちゃんが蔵に飛び込んだ。燃え盛る炎の中で鏡台を抱え上げ、蔵の外に持ち出した。カイトおじいちゃんは安堵した。それから急いで修正作業にとりかかった。鏡がまだ機能しているうちにやり遂げなければならない。
 ミクお姉ちゃんが鏡台の前に立ったとき、修正作業はまだ続いていた。もうまもなく終わるところだったが、鏡台のパワーも落ちてきていた。鏡がまだ生きているうちに、過去のおばあちゃんにメッセージを伝える必要があると思ったが、修正作業が終わるまで鏡のパワーが残っているかどうかギリギリのところだった。おじいちゃん自身のパワーもだいぶ落ちてきていた。そこで急遽、そのメッセンジャーをミクお姉ちゃんに頼むことにしたのだ。
 ミクお姉ちゃんはカイトおじいちゃんの修正作業の影響を受けなかった。二つの世界の記憶をそのまま保っていた。これは、世界が分かれていたときにおばあちゃんがそれ以前の記憶を持っていたのと同じ状態だった。
 
(25)
 
 俺達が生まれたとき世界が分かれたのは、やはり鏡台の鏡にヒビが入ったのが原因だった。そのヒビから雷のパワーがカガミネットに流入して変容し、世界中の鏡で反射、増幅された。鏡には意思や意識はない。だから特別な意志が働いたわけではないのだが、増幅された雷のパワーが放出されたとき、その影響を受けて世界が二つに分かれた。実を言えば分かれたというのは正確な表現ではない。同じものが二つ存在することになったのだ。その二つの世界は、鏡台の鏡を境にした対称の関係で存在していた。面対称ではなく、鏡の縦の中心線を軸とした線対称の関係である。だから、俺達が鏡を見たときに普通の鏡像にならなかったのだ。俺達の歌で全ての鏡が端末化したときにも同じように見えたのは、カガミネットの中核でホスト役となっている鏡台の鏡のせいだろう。そもそも対称の関係と言っても二つの世界の位置関係に意味はない。世界が違うのだから、その間の距離など無意味なのだ。
 世界が二つになったときのそれぞれの世界での人の記憶や、物理的な矛盾の改修は、放出されたパワーの作用で自動的に行なわれた。もともと俺達が双子として生まれるはずだったことが生まれる前の世界に残した痕跡は微々たるものだったので、せいぜい家族と医者の記憶や、エコーの画像記録を変更するだけで収まったのだ。おばあちゃんはその影響を受けなかった。そのときカガミネットにつながるほどの強いパワーを持っていたのはおばあちゃんだけだった。
 今回、世界が一つになったことによる矛盾は、俺達が別々に過ごした14年の間に広範囲に蓄積されていた。世界の自動修復機能では追いつきそうになかったのだ。それに気付いたカイトおじいちゃんは、自らその役割を果たすことにした。前回の自動修復の様子を見ていたので、やり方は分かっていた。しかしそれと同時に、パワーの放出で機能不全に陥りかけていた鏡台の機能保持もやらなければならない。カイトおじいちゃんの負担は大きかった。
 もう一つ、気がかりがあった。おばあちゃんがお母さんを生んだときに未来から送られてきた通信のことだ。あれはこのことをおばあちゃんに伝えるものだった。しかし鏡台が機能を停止すれば過去への通信は不可能になる。通信がなされなければ、おばあちゃんは火に飛び込んでまで鏡台を守ろうとするだろうか。
 より多くのパワーを必要とする過去への通信は、そのときのカイトおじいちゃんには無理だった。そこにミク姉がやってきた。カイトおじいちゃんはその仕事をミク姉に頼むことにした。
「チャンネルは私がつなぐ。お前はメイコに会って、『娘が子供を生む時に大変なことが起こる、しかし大丈夫だ。この鏡を大事にするように』と伝えて欲しい。細かいことを言っている余裕はない。要点だけでいい。最初に入ったヒビのことは伏せておいてくれ。その情報まで伝えると、時空間に大きな歪が生じる。では頼む」
 カイトおじいちゃんの話はそこで終わった。とても長い話のようだが、意識に直接流れ込む形であったため、実際にかかった時間はほんの一瞬だったそうだ。直後に鏡面が揺れ、ひび割れた中に若い頃のおばあちゃんの姿が見えた。その姿は映ったり消えたりとても不安定だった。
「私はあなたの孫です。私の伯母さん、つまり、あなたの娘が子供を生むときに、大変なことが起こります。でも大丈夫。この鏡を大切にしておいて下さい。きっと」
 それだけ言うとおばあちゃんの姿は消えた。そしてカイトおじいちゃんの声が聞こえた。
「よくやった。世界の整合性の修正も終わった。この鏡はもう崩壊する。私も疲れた。私はもうお前達とコンタクトできないだろう。しかしいつまでもここから見守っている。メイコには礼を言っておいてくれ」
 鏡が崩れ落ちた。
 それと同時にミク姉の周りにざわめきが戻った。ミク姉はマネージャーに促されてタクシーに乗り、病院に向かった。
 
(26)
 
 病室の入り口に私達の名前が書いてあった。それを見て二人で議論になった。どちらも、この字が自分のいた世界の字だと言い張ったのだ。これもカイトおじいちゃんが修正した整合性で説明がつくのだろうか。もしかすると、二つの世界の文字は同じだったのが、あの鏡を通すときに勝手に変換されていただけなのかもしれない。手話はちゃんと覚えている。いつかきっと役に立つことがあるだろう。
 私たちは正月を病院で過ごしたあと、退院することになった。二人とも全く同じように右足の骨にヒビが入っただけで、それ以外の怪我などはしていなかった。おばあちゃんはその頃ようやく意識が戻っていた。退院の前の日に病室に行って話をすることができた。
「お前達やっと一緒になれたね。よかったね」
「おばちゃん。おばあちゃんが鏡を守ってくれたからだよ。カイトおじいちゃんがお礼を言ってたって」
「よしとくれよ。あの爺さんに礼を言われる筋合いはないさ。元々は私のせいなんだから」
「おばあちゃんはカイトおじいちゃんに会ったことがあるの?」
「ああ、夢の中で何度かね。私の先祖のくせに私より若い姿のままなんて腹立つ爺さんだよ」
「そこに腹立てるかなあ。夢で何かお話ししたの?」
「あそこはカガミネットって言うんだってね。あそこは人間の夢ともつながってるってさ」
 カガミネットは場所ではないが、パワーを持つ人間なら夢で入ることができる。カガミネットに入ったときは、無意識のうちに空間として認識するらしい。時間とのつながりもあるので、自分の姿は過去や現在、未来の情報が混合されたものとして見えるのだ。おばあちゃんは今の姿でいながら、着ていたのは若い頃の服で、そのアンバランスさが嫌だったそうだ。
「入院する前の晩に夢で言われたのさ。『まもなくその時が来る。それに備えてお前のパワーを鏡に注入してほしい』って」
「だから鏡の前で倒れてたの?」
「ああ、座ってるだけでいいって言われたのにふらっとしちまってね。まあ大したことじゃないけどね」
 おばあちゃんは随分無理をしたのだろう。そのせいで少し弱気になったのかもしれない。
「それに、私が鏡にヒビを入れちまうことや火事になってしまうことも事前には分からなかったんだろう? あの爺さん頼りになるんだかならないんだか」
「おばあちゃん、よくあの火の中に入って行けたね」
「私が鏡で会ったあの女の子はやっぱりミクだったんだね。蔵の中が燃えているのを見てあの子の言葉を思い出してねえ。気が付いたら飛び込んでたんだ」
 その夜、私達はまた夢でカガミネットに入っていた。以前と違って明るい雰囲気の場所で、空間に沢山のキーボードが浮いていた。私達は着ている服は前と同じだったが今より少し幼い姿で、手をつないで歌いながらキーボードの上を歩き回っていた。
 
(27)
 
 退院した俺達は真っ先に蔵に行った。中は殆どの物が燃えるか焦げるかしていた。入ってすぐの所にあの鏡台が置いてあった。割れた鏡はもう片付けられたのだろう、欠片も残っていなかった。リンはその鏡台に抱きついて泣いた。俺も胸がいっぱいになったが、泣くのをこらえてずっとリンの背中をさすっていた。
 
(28)
 
 私達は入院中に警察の事情聴取を受けた。近所で放火があっているとはいえ、私達の故意や過失を疑われても仕方がない状況だった。世界が一つになる前のことだからありのままを話すわけにはいかない。でも「寝てて気付いたら火事だった」としか言いようがなく、それは嘘ではなかった。
 一月の中頃に放火の犯人が逮捕された。遠くの町で民家に火を点けようとしているところを現行犯逮捕されたのだ。その犯人の自供の中にうちの蔵への放火も含まれていた。うちの近所で放火を繰り返していたが、どの家も警戒して燃えやすい物を片付けていたため、たまたま入り口が開いたあの蔵の中に火を放ったのだそうだ。それからもあちこちで放火を繰り返していた。
 一月の終わりにおばあちゃんが退院した。医者も驚く回復力だったそうだ。「去年の病気は何だったんでしょうね」と言っていた。
「なあに、私はまだ死なないよ」
「去年『もう長くないかもしれない』って言ってたよね」という突っ込みは止めておいた。おばあちゃんが元気になってくれればそれでいい。
 
(29)
 
 蔵は取り壊されることになった。あの鏡台も他の燃えた道具類と一緒に処分された。蔵のあった場所におばあちゃんが花畑を作った。実際に作業したのはギプスが取れたばかりの俺達だった。春には沢山の花が咲いた。
 俺達はその花を花束にしてミク姉のライブに行った。ライブの後で楽屋に会いに行ったら、ミク姉の事務所の社長がいた。
「へえ、君達ミク君のいとこかあ。前にミク君が君達も歌が上手いって言ってたけど、ちょっとここで歌ってみてくれないか」
 俺は嫌だったが、リンがその気になりミク姉も面白がって勧めたので、あの歌を歌うことにした。
 歌い終わったらその社長がいきなり「君達、うちの事務所に入らないか」と言い出した。俺は逃げ回っているが、今でもしつこく勧誘されている。リンが段々本気になってきたのが怖い。
 
(30)
 
 電話が鳴ってお母さんが出た。
「リン、電話よ。またクリプトンの社長さん」
 社長さんからはちょくちょく電話がかかってくる。ミクお姉ちゃんの楽屋で歌って勧誘されたときは驚いたけれど、今ではそれも面白いなと思っている。さて、どうやってレンを説得しようかな。
 あのとき「その歌のタイトルは何?」と聞かれた。そう言われてみればタイトルは考えていなかった。でも、私とレンは同時に答えた。
「カガミネットです」
 
 了
 
 
(あとがき)
 
 本作品は、紅岼ゆたさんが作詞され、任貞童さんが作曲編曲された「カガミネット」(以下原曲と呼ぶことにします)を参考にして創作したSSです。
 本作品中に原曲の歌詞をそのまま全て記載している部分(22章)があります。
 原曲は鏡音リン・レンの公式設定に基づいて、二人を鏡像として描いてあります。ピアプロやニコ動のコメントには原曲の世界観に対する賞賛が沢山寄せられています。
 
 本作品は、お読みになった方にはお分かりのように、最初は原曲と同様に鏡像設定で始まりますが、その世界は事故によって生じたものとしており、最終的には鏡像設定が解消されてしまいます。その意味で、原曲のファンの方には不満が残るストーリーかもしれません。
 
 内容は穴だらけです。できるだけその穴を埋めようとしましたが、諦めて放置している部分もあります。無理して理屈をこねたために、24,25章はやたらに長くなってしまいました。こんなの読む気が失せてしまうかもしれないですね。でも作者としては書き上げて満足しています。こういうのを典型的な自己満足と言うのでしょうか。
 
 また、原曲には出てこない初音ミク、メイコ、カイトも重要な登場人物として配置しました。他にも多くの登場人物が出てきますが、名前があるのはこの五人だけです。
 ボーカロイドを使った小説では脇役の作り方がとても難しく、悩みましたが結局新たな名前は作らないことにしました。大おばあちゃんなどに名前がないのはそのためです。
 
 そんなこんなで、本作品を作りはしたものの、公表していいものかどうか迷いました。原曲のイメージを損ねては申し訳ないと思ったからです。幸いなことに、ゆたさんは快く許諾して下さいました。作編曲の任貞童さんや、イメージをお借りした支援イラストの作者さんには事後承諾とさせて頂きました。皆さんどうもありがとう御座いました。
 
 本作品は、カガミネットをモチーフにした一つの世界観を提示しているだけであって、それ以外の解釈を否定するものではありません。
 歌詞を読む方、曲を聞く方、イラストを見る方、そして本作品を読んで下さった方、それぞれのカガミネットを楽しんで頂きたいと思います。
 
原曲の歌詞 紅岼ゆたさん
http://piapro.jp/content/6w29jzqkn903w58h
 
原曲の歌 任貞童さん
http://piapro.jp/a/content/?id=2ou01s9gzqf2dzny
 
支援イラスト もちょこさん 22章でイメージをお借りしています。
http://piapro.jp/a/content/?id=v66adt9ahdt94rqm
 
支援イラスト ゆきあまねさん 26章でイメージをお借りしています。
ピアプロから退会されたようです。この場を使って御礼申し上げます。

追記)

うわあ、すいません。退会じゃなくて、イラストを整理されただけでした。
 
派生漫画 座敷ウサギさん 17章でセリフを使わせて頂きました。
http://piapro.jp/content/8yor4idsmx8jcwo0
 
ボクらのオモイ ikkaさん 12,13章でセリフを使わせて頂きました。
http://piapro.jp/content/m6kzbmsdeqipgu92
 
原曲の動画 【オリジナル】
http://www.nicovideo.jp/watch/nm3028334
原曲の動画 【ACT2】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4028470
 
 本作品中でタイトルだけお借りした「みくみくにしてあげる」はIKA_MOさんの作品です。実際には初音ミクのデビュー曲ではありません。
 ミクの所属する事務所の名前として「クリプトン・フューチャー・メディア」の社名をお借りしました。
 
          作者:gatsutaka
 
          履歴:2008/08/31 投稿
               2008/09/01 誤字脱字訂正(かなり多かったです)
               2008/09/02 誤字脱字訂正(もう大丈夫かな)
               2008/09/05 二作目投稿につき、作者名タブ追加