男には最愛の女性がいた。
その人はもう亡く、この世に残すのは男の部屋に似合わない鏡台に、ひっそりと飾られた写真だけ。
男はその女性を今でも思い続けていた、彼女こそが理想だった。
ある日の夜、そんな男に一人の訪問者が現れる。
もう亡いはずの彼女、当時のままの姿、いつもの声、男の記憶そのままの物腰。
男は、夢や幻とも考え付かなかった。
その女が余りにも生々しい生気に満ちていたから。
だからこそ、目の前の女の姿を直視することが出来なかった。
男の前に現れた訪問者の正体は、サキュバスだった。
女は、今まで餌にしてきた者達とは違う反応を見せる男に困惑して問う。
「どうしてあなたは私のことを見ないの?」
「今まで誰だって、私に擦り寄ってきたのに」
その言葉を聞いた男は、目の前の懐かしい姿の女が、どのような存在か、
そして、何が目的なのかを悟り、しばし黙り込んでしまった。
女は、まだ存在し始めたばかりの若いサキュバスだった。
だから、いつもの様な食事を行えない男に対して、初めて興味を持った。
すると気付く。
―わたしは、この男のコトを知っている?―
―ドウシテ、わたしは貴方のコトわかるの?―
普段の餌なら、どれも同じにしか見えなくて、見分けるなんて出来ないのに。
女もまた、黙り込んでしまった。
互いが何者で、何が目的なのか解っているのにもかかわらず、奇妙な沈黙が部屋を包む。
そして男が不意に女を直視する・・・。
―それはどちらから発した言葉なのか。
「踊りましょう?」
男は驚いた。
今、手を取って踊っている女は、決して自分の知っている彼女ではない。
では、どうしてこの女は彼女と同じダンスをするのか――。
女は戸惑った。
何時もの様に誘惑の踊りを舞い、忘却のリズムを踏んでいるのに。
それなのに男の意識は揺るぎもしていないなんて――。
実際は、仮にもサキュバスの踊りであるため、人間に効果がないはずがなかった。
この踊りとリズムで、餌となる者は否が応にも、今も昔も忘れ自我を失くす。
そして、この男にもそれは作用した。
ただし、今のこの時だけを忘れさせて。
過去に返った男が最愛の彼女の言葉に応える。
「こっちに来て」男は彼女に近寄る。
「そっと触れて」男が彼女をそっと触れる。
「優しく抱きしめて」男が彼女を抱きしめる。
女は言うとおりに動くようになった男に、食欲以外の感情を抱く。
―それが何かも解らないまま、女は男へ再び言葉を向ける。
「こっちを見て」男が彼女を見つめる。
「そっと笑って」男が彼女にふわりと笑いかける。
「優しく口付けて」男が彼女に柔らかなキスをする。
―その時だった。
男の夢が女に流れ込んでいった。
今だけを忘れた男の、昔の記憶の中にいる男女をサキュバスとして視た。
そして女は理解した。
この男が誰なのか、先ほど抱いた感情は何なのか―。
―こんな事、気付きたくなんて無かった!知りたくなんてなかった!
貴方の見る夢は、昔も今も優しくて甘いまま。
でも、気付いた今の私には、貴方の夢という世界は苦しくて辛いの―。
変わらないままの貴方を、変わってしまった私が堕とすのは簡単なのよ。
そう、もう余計なことなんか考えないで、サキュバスになった私の本能に任せてしまえば。
きっと姿まで変わってしまった本当の私のことなど、貴方は気付かないまま。
貴方が今見ている私は、貴方の理想だった、昔の誰かの姿を借りているだけ―。
昏睡している男を尻目に、サキュバスは古びた鏡を見る。
何も映らない。
誰の目にも触れていないサキュバスの姿は、果たして変わっていたのか、過去の姿なのか。
それはサキュバス自身にも解らない事だった―。