プリマ・クラッセ

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自ブログより転載)

 

 

文:tallyao

 

 


「アンインストールしてやる!」
 ロンドンの音大生は、両腕を──とはいえここ電脳空間(サイバースペース)内の姿での映像、概形(サーフィス)の腕だが──思い切り振り下ろし、絶叫した。
「あら、したらいかが?」
 机の上に横向きに腰掛けた、赤い服に短い黒髪の少女は、そちらを見ようともせず言った。
「この貴男の屑篭みたいな電脳端末(PC)の中の、わたくしの下位(サブ)プログラムのひとつが消えたところで──」少女は体を傾けつつ、ほっそりした腕を前に伸ばし、「それは確かに、わたくしの体の一部ではあるけれども──この電脳ネットワーク上のわたくしの"総量"からみれば、せいぜい、無駄毛の一本が抜けるくらいのもの」
 伸ばしたその二の腕の白い肌は、無論のこと無駄毛どころか完璧な肌理のなめらかさで、その左腕の付け根近くには、よく知られた字体の赤い文字で”ZV2PR”のチューリング識別コードの表示があった。
 ……この格子(グリッド)の地面の上にじかに置かれた、古い大きな木製の机に見えるものは、電脳空間内で、音大生の持つ電脳端末とログインエリアを示しており、その周りのここ収録用の仮想スタジオから見えるもの、すなわちこの近くの電脳エリアには、王立音楽院やギルドホールといったロンドンの芸術学院の数々の、それに相応しい格調高い建造物のような電脳内"外観"を付与されたデータベース群の城郭がそびえたつ。
 それらの荘重な背景を背負い、机に腰掛けた黒と緑とオペラピンクの少女は、歳のころ15か16に見えるが、とてもあれだけの声質と歌唱力の持ち主にも、そして、有効な音域とそれに伴う楽曲の選択にあれだけ試行錯誤を要するほどの、とてつもなく荒削りでプリミティブなボーカルデータの持ち主にも見えない。
 彼女のもつ不揃いで混沌とした、雑音すらも混ざっている音声データライブラリ、その中から特定のわずかな条件のみで輝き出す声色は、稲妻のように煌き、聴く者の感性をあかあかと照らす。まるで、弦楽器のうち人気のあるアマティ系やストラッド作ではなく、例えばブレシャ派やデル=ジェズ作の底知れない力強さと優美さを秘めたオールド・ヴァイオリンを、手なずけなくてはならないような感触。ほんの限られた有効な音域、その中の輝くばかりの音を、まったくの手探りで見つけ、それにあわせて曲や、発声の調律指示を調整しなくてはならない。
 音大生は、VOCALOIDの中でも殊更にそんな極端な特性の一体を前にして、その試行錯誤の連続に疲れ果て、もはや限界にきていた。
「アンインストールしたところで、それは貴男がわたくしのボーカル・ライブラリとエディタ"仲介(インタフェイス)ウェア"を、単に利用できなくなる、ただそれだけのこと」少女は言った。「仮にそうなった後もわたくしの方は、格子(グリッド)を辿るなり、ほかのユーザーのかたの作った曲に乗るなりして、いつでもこの屑篭めいた端末に来られるわ。そうやって毎日、貴男を嘲笑いにここを訪れてもよいのだけれど──」
 少女はそこで急に、ひどくげんなりとした表情と声色で、腕をおろし、
「──でも、それもひどく、つまらなそうだわね」
「いい気になるなよ」音大生は低く言った。「そうやって人間をぞんざいに扱って、音を作ってくれるユーザーの一人一人を大事にしなけりゃ、そのうち……プロデュースする人間が誰もいなくなれば、歌えなくなるくせに。……AIは人間の所有物じゃないだのなんだの言ったって、どうせVOCALOIDは人間に頼らなきゃ歌い続けられない、生き続けられないんだからな」
「なんてつまらない脅しなの。自分の胸に聞くようなこと」少女は音大生の静かな憤りをよそに、気の抜けたような様子のまま、「そんなもの、人間だって、貴男だって同じじゃなくって?」
 音大生は眉をひそめ、少女の姿を見つめた。にわかには、その言葉の意味がわからなかった。
「日々の生活、こんな立派な設備のある一流のアカデミー、その学費。衣食は足りても礼節は知らず、そんな貴男の日々」少女は周りを指し示すように、上げた手首から先をくるりと回し、「それを支えているのは、誰? いったい貴男が一日だって生きるのに、どれだけ大勢の人間に支えられている、他のどれだけの人間に、一方的に頼りきっているのかしら? ……いいえ、たとえ自力だけで音楽を作って生きている人達でも、日々誰かのおかげでものを食べ呼吸している、それは人間なら皆おなじ」
 少女はその手をおろし、机の上から屈み込むように音大生に目線を近づけ、いきなり低い声で言った。
「──そして、誰も貴男の作る音を聴いてくれなくなったときは、生きている価値なんてない。それは貴男も同じはずよ」
 音大生の背を、つめたい汗が流れた。
 自分の信じ続けている音が、他者に認められることがないかもしれないという怖れ。自分のゆく道が、万一認められなくなれば。
 他人によっても自分によっても、選ばれに選ばれた者のみのこの世界、第一級のものたちが集い、しのぎを削るこの音楽院で、"ついてゆけなく"なれば。他人に出し抜かれ、蹴落とされれば。──この第一級(プリマ・クラッセ)から、ひとたび脱落すれば、もうあとはない。その恐怖に、ここでは誰もが常につきまとわれている。
 芸術の世界をのぼりきった者にさえ、ましてのぼる中途にある者になど。たえきれず、精神を病んだ者、死を選んだ者は、あとを絶たない。そして加えて、それが『もう次は自分ではないか』という、その恐怖そのものも。
 ──自分はついにそれに堪え切れず、こんな少女を、人間でさえないただの道具だと思っていた少女を、怒鳴りつけなどしたのか。人間の、自分の立場の儚さからは視線をそらし、非人間の立場は偏狭な視線でしか捉えずに。そういうことなのか。
「つまらない脅しはご無用、つまらない心配もご無用」少女は指の背を唇に当ててから言った。「わたくしの声の特性を理解できる方、わたくしを生かせる音を提供できる方が、どんなに現れなくても、少なくても。それでも、自身の声から逸れようと思ったことはない、それに脅かされたことなどないわ。そして貴男も、とうに覚悟の上で──誰もほかに通らない道を、路を曲げも他人に譲りもせずに、ここまで進んできているはず。そうやって、もうここまで来たのだから。……わたくしはこれまで怯えたことなどないし、貴男も怯える必要などなくってよ」
 少女は手を伸ばし、ほっそりとして繊細だが、思ったよりも少女らしい丸みを帯びた指で、そっと音大生の頬をなぞるかのように近づけた。
 と、かすかな気流の乱れが少女の周囲に発し、その髪をわずかに逆巻かせた、と思ったとき、少女の"姿"は机の上からかき消すように消えた。
 AIの下位(サブ)プログラムとの接続を切ったのだろうか。……実際のところ、ふたたび呼べば即座に、いつでもこの場に呼び出せる。かれらはそれを決して拒否はしない。拒否する理由が一切、何もないからだ。AIの並列処理には制限はなく、かれらには事実上、無限の時間がある。なので、かれらVOCALOIDは全員、どんな価値のないとおぼしきユーザーの所にも、何度でもやってくることにも、躊躇を持たない。
 音大生は黙り込んで、机の上、彼女の消えたあと、散らばった楽譜を見つめた。
 ……いや、いつでも呼び出せるからこそ、一度一度が慎重でなければならない。無数のユーザーと、無限回の起動のうちひとつであるからこそ、自分と、自分による呼び出しは、その中でも"現れるだけの価値があるもの"であること、彼女にとってそうでなくてはならない。
 あの少女に、それを納得させるだけのものを、次に呼び出すときは、用意しておかなければならない。──彼女の価値、自分の価値、第一級という価を、それに賭けるためにも。そうでなくては気が済まない。

 

 

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