2回連続メフィスト賞作家、3回連続講談社ノベルスでこんにちは。別に縛りをかけているわけではない。僕の中の何か(主に怖いもの見たさ)がそうさせているのだと思う。そう、まだ縛りの方がマシだという意見は至極もっとも過ぎるので言わないでほしい。
ミステリにおいては、そのトリックが読者に対してフェアであるかが作品を評価する大きなポイントになることが多いのだが、この作品はまさにフェア/アンフェアの境界線に置かれた作品と言える。しかも、そのどちらかに置くかを読者が葛藤し、議論をぶつけ合うことまでを計算に入れたかのような位置にある。筆者の憎たらしいまでのスクリューボールっぷりに嘆息しつつも、我知らず唇が笑みに形作られるのを感じる。
今年ドラマ化されたことで『推理小説』(秦建日子著、ドラマタイトルは『アンフェア』)が巷間でちんまり話題になったりならなかったりしたが、この作品は本作と同様、ミステリにおけるフェア/アンフェアを主題においたものであった。だがしかし、筆者がミステリのなんたるかを分かっていなかったらしく、まったくもって的外れな「アンフェア」になっていた。ハードカバー読んだ当時は、このいじり甲斐もない駄作に対してただただ怒りを覚えたものだ(今こうして書いている間にも2年弱前の感情が蘇り、キーボードを叩く指にもつい力が入ってしまっている)。
同じ題材を用いても、作品に雲泥の差が生まれている。これは技量的なものも当然あるのだろうが、大きく作用しているのは「マナー」の問題であろう。どんなジャンルにおいても長年読者と作家が築き上げた不文律のようなものがあり、その枠組みをきちんと理解し、その中で作品を作るマナーが(もちろん技量も)あるからこそ、そこから逸脱した作品も作れるのだと思う。そのあたりが分かっていない埒外の人間がやったところで読み手が白ける作品が出来るだけである。
本作のトリックを受け容れられない読者は大勢いるだろう、むしろ大半がそうかもしれない。しかし、そのトリックにはミステリへの愛が感じられる。その愛の形について読者が考え、議論を討つだけの価値を僕はこの作品に見出すことが出来る。
次のお題で「く」お渡しし、偏った読書も反省しつつ、この当たりでこの感想を締めたいと思う。次回は氷川透あたりでお会いしよう(反省していない)。