いちおう「日本ファンタジーノベル大賞」大賞受賞作ということだから、クォリティはある程度は担保されているだろうと買っては見たものの、SF方面の知人友人のあいだで「京大ダメ学生(オタク)小説」等と大学名を冠されて話されることが多く、何とはなしに敬遠して積んでいたもの。
「読書感想しりとりリレー2006」の課題で「た」が回ってきたのをいい機会と、普段は手を伸ばさない棚にある『太陽の塔』をに読んでみたら、いやびっくり、これが猛烈に面白かった。愉快で、チャーミングで、切なかった。
『太陽の塔』の主人公は、非モテで、いちおう頭は良く、けれど肥大しきった自我を持て余しがちな京大五回生の男子で、これは彼が「終わってしまった恋」を再確認する、というような話だ。
『太陽の塔』の主人公は、非モテで、いちおう頭は良く、けれど肥大しきった自我を持て余しがちな京大五回生の男子で、これは彼が「終わってしまった恋」を再確認する、というような話だ。
しかし、私が女ッ気のなかった生活を悔やんでいるなどと誤解されては困る。自己嫌悪や後悔の念ほど、私と無縁なものはないのだ。かつて私は自由な思索を女性によって乱されることを恐れたし、自分の周囲に張り巡らされた完全無欠のホモソーシャルな世界で満足していた。類は友を呼ぶというが、私の周囲に集った男たちも女性を必要としない、あるいは女性に必要とされない男たちであって、我々は男だけの妄想と思索によってさらなる高みを目指して日々精進を重ねた。あまりにも高みに上りつめすぎたために今さら下りるわけにもいかない、そもそも恐くて下りることができないと思いながらも口をつぐみ、男だけのフォークダンスを踊り狂った。
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しかし、そろそろ社会復帰は無理という色合いが濃くなり、これ以上男だけのダンスを踊ると本当に後戻りできなくなる、一生このまま踊り続けて踊り念仏の開祖にでもなるしかないという危機感が絶望的に漂う三回生の夏ごろ、私はつい抜け駆けをした。今でもその裏切りのことを思うとやや心が痛まないでもない。
恥をしのんで書けば、私はいわゆる「恋人」を作ってしまったのである。
相手は私がグウタラ部員として先輩からも後輩からも軽蔑の視線を一身に浴びていた某体育会系クラブの新入部員であり、今にして思えば先輩として能うかぎりの特権を濫用し、それこそ万策を尽くして彼女を籠絡したのであった。事情を知る一部の友人から、いたいけな一回生を騙くらかしたと非難囂々、それでも正直に言おう、私は嬉しかった。それでいて喜んでいる自分に対して唾を吐きかけてもいたのであった。ただ「恋人」ができたぐらいでそんなに嬉しいのかオマエは、と。
彼女の名前は水尾さんという。
彼女については追々書くことになるだろう。今のところ私にとって彼女が唯一の女性であり、私の生活を描くにあたっては彼女を抜きにしては語れないからだ。だからと言って、読み進むうちに、この手記が嫌悪すべき相思相愛めろめろのラブストーリーに変貌してしまう心配はないから、安心していただきたい。彼女は知的で、可愛く、奇想天外で、支離滅裂で、猫そっくりで、やや眠りをむさぼり過ぎる、じつに魅力ある人間なのだが、残念なことに一つ大きな問題を抱えている。
彼女はあろうことか、この私を袖にしたのである。
(ほとんど)冒頭の部分を引用。物語のはじまりの状況はここに書かれているようなものだ。主人公は理系でオタクで自意識過剰で世人のすなるような恋愛に呪詛を燃やしていたが、ついうっかり恋人なんかを作り、けれど彼女には振られてしまい、また同じ世界同じコミュニティへ舞い戻ってきてしまった。この状況は、しかし、本質的には物語のおわりまで何も変わらない。
物語中で何が起こるか。
友人の、やはり非モテ男子連中とつるんでみたり、水尾さんを「研究」(と本人は主張するが、実際にはストーキング)するうちに同じような境遇の男・遠藤と知り合い、友情じみた奇妙な関係をはぐくんでみたり、はたまた冬の大文字山に登って寒々とした空の下、「大文字焼き」という名のバーベキューをしてみたり。彼は、「水尾さん」の回りをぐるぐると回るが、彼女の所にはついには行き着かない。
友人の、やはり非モテ男子連中とつるんでみたり、水尾さんを「研究」(と本人は主張するが、実際にはストーキング)するうちに同じような境遇の男・遠藤と知り合い、友情じみた奇妙な関係をはぐくんでみたり、はたまた冬の大文字山に登って寒々とした空の下、「大文字焼き」という名のバーベキューをしてみたり。彼は、「水尾さん」の回りをぐるぐると回るが、彼女の所にはついには行き着かない。
彼はずっと、水尾さんに惹かれる心を「これは恋心ではない。知的好奇心の当然の発露だ」とバカみたいに糊塗して、水尾さんと別れるときも、平静に、冷静に話し合い、握手して分かれて、恋愛に耽溺した馬鹿な男のようになど当然自分は泣いたりなどしないと決意し、それでも、それでも降る雪の下に涙をこぼす。
……そう、私は、ラストシーンの「太陽の塔」を子供のように見あげている様子や、鴨川の河原を歩きながら「ペアルックは厳禁しましょう」という様子や、そのほか、恋人として居た彼女のさまざまに魅力的な仕草や想い出の断片を回想する場面がどうしようもなく切なくて切なくて仕方がなかった。泣くかと思った。そう思ったら泣いていた。こんな奴でも、こんな奴なりにはきっと彼女のことを好きだったんだろうと思って泣いた。
ああ。だから。
私もそのように彼女のことが好きだったし、私もこのように彼女のことを好きでありたいと思うからだ。
だからこんなに読んで、面白くて、つらいのか。
最初に読み終わってから、ひとつきかけて、ようやくまた最後のシーンを読み返して、破れかぶれの感想をどうにか書けた。
(シンクロしすぎだ。ここ一ヶ月あまりの出来事と)
(シンクロしすぎだ。ここ一ヶ月あまりの出来事と)
付け加えるのなら、『太陽の塔』のやるせなく切ない感じは、ほとんど映画「トレインスポッティング」で、最後にレントンが呟く"choose your life"からの一連の台詞に似ている。これから選び取っていくだろう、下らなく、おそらく大事になるだろう物事、選び取りはしなかった、きっと下らない、だけどとても大切だった物事。レントンの台詞は選び取る側からの、『太陽の塔』の主人公の台詞は選び取られなかった側からの想いが反映している。選び取り、選び取られる状況に置かれ、足掻き、藻掻く。若者である、ということはそういうことで、だからこれは非モテのダメ男小説であるとともに、とてもただしく青春小説でもある。『トレインスポッティング』が、スコットランドのドラッグ漬けのダメ男映画でありながら、青春映画であったように。
俺にとってはとても大切な一冊です。その気持ちを忘れないでいるために。