霧舎巧を僕は"タクミン"と呼ぶ。
嘘。呼ばない。もちろん藤原伊織のことも"イオリン"とは呼ばないが、佐藤友哉は"ユヤタン"と呼ぶかもしれない。"なっち"といえば安部ではなく京極だし、"辻ちゃん"は辻真先に決まっている。これはミステリ読みにとっては常識と言えることである。知らねば恥ずべきことだが、人に言ったらもっと恥ずかしいことになると思うので、口外するのはお勧めしない。
さて、冒頭の挨拶(挨拶だったんだ)は、これくらいにして作品の感想に入りたいと思う。
本作は筆者のデビュー作から続く「あかずの扉研究会」シリーズの三作目にあたる作品である。全編に漂うラブコメ臭と霧舎学園シリーズの扉イラストのせいで、霧舎巧という作家にラノベ寄りのイメージを抱いている人があるかもしれない。しかし本作を読めば、そのイメージは覆されるだろう。
ミステリの古典的な要素に対して真摯に(・・・・・・真摯かな? どうだろう。んー・・・・・・たぶん、本人的には真摯に)向き合い、作品を作り上げようとしていることが伺える。今回は「ダイイング・メッセージ」を取り扱っている。今日日、ダイイング・メッセージを話のメインに据えた長編を書いてしまうあたり、彼が本格に対して強い意欲を持っていることがわかるだろう。
ただ、これだけ確認しておかなければならない。
意欲作イコール傑作ではないということだ。
話の端々でとても強引な印象を受けた。オーソドックスな展開に捻りを加えたのはいいが、それが大きな効果を生み出すまでには到っていない。多少、気の利いた仕掛けは施されているものの、全体的な完成度については、あまり高いとは言えない。お世辞だったら・・・・・・やっぱり言えない。
そして、これはシリーズを通してなのだが、過度にミステリの知識を登場させており、ミステリに詳しくない読者が読んだときに置いてけぼりになってしまう可能性が高い。しかも登場のさせ方があからさま過ぎるので、ある程度ミステリに触れている読者でも興ざめしかねない。
筆者の本格への意欲が見事に空回りしている。あまりの回りっぷりに大人ひとりくらは飛ばせるんじゃないかと思ってしまう。重力にも果敢に挑む霧舎巧に幸多かれ。
次回はサブタイトルもきちんととり。「へ」でお願いしたい。自分で振っておきながら、橋立さんがこのお題でどんな作品を持ってくるか、すごくワクテカしている。最後にフォローしておくと、霧舎の本格への意欲がいい方向に向かった作品もあるので、機会があれば手にとってみて欲しい。