正月、久しぶりの友達と携帯のメールをやりとりしていたとき、最近読んだ本のことが話題になった。ぼくが池波正太郎の名をあげると、相手はすぐ「読んだことはないけど、出てくる食べものの描写が旨そうらしいね」と返してきた。そうなのだ。前日、本屋で「む」で始まる池波の本作を見つけたとき、ぼくも「読んだことないけど食べものが…」と思ったのだった(ダビンチとかで見たのだろうか)。しかもタイトルは『むかしの味』。きっと旨いにちがいない。
さて、本を開いてみると、最初に料理のカラー写真が載せられた数ページがあり、次の「はじめに」のところにはこう書いてあった。「もともと、この本は、いわゆるhtmlプラグインエラー: このプラグインを使うにはこのページの編集権限を「管理者のみ」に設定してください。の本ではない。私の過去の生活と思い出がむすびついている食べものや店のことを語ったものだから、この本を食べもの案内のようになさると、責任はもてない」(太字は原文では傍点)。しかし、すぐ後のページの目次を見ると、鮨、蕎麦、各種洋食、中華、甘味など、いろんな食べものが並んでいる。各章ごとにテーマの食べ物と店名がタイトルとして掲げられているのだ。これでも「食べ歩きの本ではない」?
読んでみるとたしかに、食べものそれ自体の説明はあっさりしていて、どこそこの素材をあの調理法でくどくど…といった解説はない。それよりも料理人や関係する人々の姿が主に描かれている。つまり『むかしの味』の「味」とは、味覚に限らず、むかしの暮らしの「味わい」を意味するのだろう。しかしそれでも、取りあげられる食べものはいちいち印象に残る。たとえば、ポークカツレツ。井上という友人とよく出かける温泉があって、そこで出されるカツレツを、
私も井上も半分残しておき、ソースをたっぷりかけ、女中に、
「これは、朝になって食べるから、此処へ置いといてくれ」
と、いっておく。
三国峠から雪が吹きつけてくる季節などには、朝になると、カツレツの白い脂とソースが溶け合い、まるで煮凝りのようになっている。
これを炬燵へもぐり込んで熱い飯へかけて食べる旨さは、余人はさておき、井上と私にとっては、たまらないものだった。(p.49)
ぼくはソースとご飯の組み合わせがあまり好きではないのだけれど、こう言われると一度やってみたくなる。これに限らず、ある状況や文脈の中に、食べものを登場させる仕方がとてもうまい。おそらく、さまざまな事柄の「味わい」を味覚とセットで記憶している人なのだろう。池波作品は食べものが旨そうだという評判が広まっているのも、もっともだという気がした。
ただ『剣客商売』『鬼平犯科帳』シリーズやその他の膨大な池波作品を手に取らずして、上のようなことを言うのもなんだと思ったので、手近にあった『剣客商売 包丁ごよみ』(池波正太郎・著、近藤文夫・料理)という本をめくってみた。この本は料理本で、料理の写真やイラストとレシピ、池波による月ごとの旬の素材についてのコラム、さらに『剣客商売』の中でその料理が出てくる箇所の抜き書きによって構成されている。紹介されている料理については美食の一言だが、抜き書きを見ると、やはり料理の挿入が場面の主にならない分量で効果的に行われているように感じた。あと、『剣客商売』シリーズは40歳ほども年下の料理上手な妻にいつも美食を用意させている男が主人公なのだそうで、このザッツ男の夢っぷりにはすがすがしさすら覚える。この点も含めて、いずれ手に取ることが避けられないシリーズだ。
といったところで、次走の和泉さん、「じ」または「し」でよろしくお願いします。