高校生の頃の私の読書生活には、過渡期が訪れていた。それまでSFが好きでハヤカワ文庫ばかり買っていたのに、思春期にありがちな中二病に罹ったせいで、「ブンガク」の世界へ興味を抱きだした。エンターテイメント小説をくだらないと切り捨て、その割りに無理して買ってみた文学全集は数ページで眠くなって挫折したり、我ながら馬鹿な生徒だった。
そんな時に、何の違和感もなくスムーズに、自分をSFから文学の世界へ連れていってくれたのが、本著である。
安部公房さんは実際にバリバリのSFもたくさん書いているし、本書の設定もややSF風味である。しかし、ただそれだけの理由でSFと文学を繋いでくれたと言っているわけではない。
安部公房さんは実際にバリバリのSFもたくさん書いているし、本書の設定もややSF風味である。しかし、ただそれだけの理由でSFと文学を繋いでくれたと言っているわけではない。
安部公房の作品は両者とも、非日常的な出来事が起こり、それに対処していくという点では変わらない。違うのは、その非日常が何によって作り出されたかだ。SFの場合、言うまでもなく発達した科学によって作り出される。少なくとも、作り出されることになっている。では、文学の非日常は、何によって生み出されるのだろうか。
私は、それは「メタファー」であると思っている。SF世界に降る爆弾は、たぶん何かの物理現象や(文系の自分には例示すらできないが)、素粒子だの他の未発見の何とか子やらの働きで出来ているのに対し、文学世界に降るそれは、誰かの怒りであるとか、破壊に対する作者なりの哲学などで出来ている。だから、自ずとそれに対する対処の仕方も変わってくる。SF世界の爆弾に対しては、やはり何か難しい物理現象を利用した盾を作らなければいけないが、文学世界の爆弾には、それに対抗しうる思想を示すことが出来れば良い。
というわけで、やっとのことで本題に入るが、本著における「爆弾」は、突然理不尽に砂の家に閉じこめられることにある。この時点では、まだ少しSF的である。辺境の地で、昔から砂の家で生活している村があってもおかしくないし、彼らの生活スタイルは、砂の中で生きるためにはけっこう合理的だ。
だが、主人公のその後の対応は、まさに文学的であった。彼は科学の力で脱出しようとはしない。いや、最初の頃は試みるが、ある時から、自分の内の思想を変化させることで、解決を図ろうとし始める。
だが、主人公のその後の対応は、まさに文学的であった。彼は科学の力で脱出しようとはしない。いや、最初の頃は試みるが、ある時から、自分の内の思想を変化させることで、解決を図ろうとし始める。
まさにその瞬間が、読み手のSF少女が文学少女に変わる瞬間だった。