いにしへのひじりの御代の政をもわすれ、民の愁、国のそこなはるるをも知らず、万にきよらをつくしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。

「衣冠より馬・車にいたるまで、有るにしたがひて用ゐよ。美麗をもとむる事なかれ」とぞ、九条殿の遺誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。

口語訳 昔の聖天子の御代の政治の有様をも忘れ、人民の嘆き、国の疲弊してゆくのにも気づかないで、万事に華美をつくして、それを立派なことだと思い、あたり狭しと威張っている人こそ、何ともひどく思慮のないさまに見える。
「衣冠からはじめて、馬や車(牛車)にいたるまで、有り合わせのもので間に合わせて使うように。華美なものを求めることがあってはならぬ。」と、九条殿(右大臣藤原師輔、冷泉・円融両天皇の外祖父)が子孫に遺された訓戒の書にも、記されていることです。順徳院(後鳥羽上皇の皇子、順徳天皇。承久の乱後、佐渡に遷された。彼の書かれた禁秘抄をさす)が宮中の諸事について、お書きになっている御文にも、「天皇のお召し物は、質素なのをよいこととする。」と、お記しになっていることである。

聖天子の御治世とは、いわゆる<延喜の治>の醍醐天皇と<天暦の治>の村上天皇の治世をさす。10世紀の前半から中期にかけての律令政治の最盛期(=最終段階)と目されていた時代である。両天皇とも比較的在位期間が長く、醍醐天皇で33年間、村上天皇で21年間その地位にあり、藤原氏の専権を許さず天皇の権威を保つことが出来た時代である。醍醐天皇は、その初期には菅原道真を登用したり、古今和歌集などを編纂したことで著名である。また、村上天皇は後選和歌集を撰集したり、皇朝十二銭の最後となる乾元大宝の鋳造したりして意欲的に親政をしいた。しかし、それも一瞬のことで、その後は藤原氏の専横におされて天皇の権威は衰微するばかりであった。逆に、天皇の権威が衰えているからこそ、<延喜の治>とか<天暦の治>といって、天皇の輝きを強調しているのかも知れない。

天皇が頂点にあって、摂関以下の大臣たちがそれを支えて行くのが理想であるのだろうけれども、実際には摂関家が中心になって政治を運営していったのが平安時代の姿なのである。更に時代を経て兼好の頃ともなれば、藤原氏はおろか鎌倉幕府も衰え権力の趨勢は不安定な状況にあると言ってよかった。にも拘らず時の権力にしがみついている面々は、民の困窮や国の疲弊も顧みずに華美・贅沢に走り、やたらと威張っているだけで全く思慮のない人間とだと批判をしている。彼は歌人の一人であるから、出入りする上流社会の非難は立場上あまり出来ないのかも知れないが、九条殿の訓戒書や順徳院の禁秘抄に強調されている質素さを例に取り上げて朝廷や幕府にたいして精一杯の抗議をしたのであろう。

中国の最古の王朝は伝説上夏王朝(最近ではかなり史実近いとか)とされている。聖天子の誉れの高い堯が舜に位をゆずり、舜は禹に位をゆずり、禹が禅譲という形で夏王朝をはじめたと伝えられている。これをBC8世紀からBC3世紀にかけての乱世の春秋・戦国時代に儒家たちによってひとしきり語られ広められたのは興味のあることである。力づくやら策謀やら中国全体が覇権争いに渦巻いていた頃、遥かBC千年以上も前に理想のような王位継承の話が存在していたとは、孔子ならずとも憧憬の念をもって語り継いでいったのではないか。儒教が日本に流入されるとともに、聖天子つまり堯・舜・禹の名も業績も当然入ってきて不思議ではない。博学の兼好は中国の古代のことは当然知っていたであろうし、それを敷衍して当時の現状を照らし合わせて批判したとしても可能性としては十分あり得ることである。いずれにせよ当時の世の乱れに対して昔の聖天子の政治の様子を引き合いに出して批判したことだけは確かなところである。

ここで、少し太平記的な内容の記述を続けて見ようと思う。

鎌倉末期の時代の主役の一人は後醍醐天皇であることは疑いのないところであるが、天皇の行動はただ一つ自分の皇位を死守すること、それを妨げるものは何が何でも阻止しなければならない不動の信念であった。例え、相手が幕府であろうとも怯むところではなかった。倒幕の手段に訴えてでも自分の地位を守りたかった。彼は元々皇位につける環境にはなかった。彼は後宇多上皇の二番目の皇子で、母の出自は低く、少年期は放って置かれていた。しかも、両統迭立のレールは敷かれ、皇位継承の埒外に置かれていた。しかし、兄の後二条天皇が若くして薨じられてから事情は一変した。大覚寺統系の当面のエースとして持明院統系の花園天皇の下、21才で皇太子(1308年)に据えられた。およそ十年で交替のルール通り、31才で天皇(1318年)に即位する。異例の遅咲きの天皇であった。しかも皇太子は、父後宇多上皇の尽力で後二条天皇の皇子・邦良親王がなった。後醍醐天皇は天皇になったものの、父後宇多上皇より天皇はつなぎで一代限りと厳しい条件をつけられ、自分の子への継承は望めなかった。両統迭立の制約もあり、邦良親王への交替の動きもあり、後醍醐天皇の地位は不安定で非常に落ち着かないものがあった。座視していれば権力の舞台から消え去るのは目に見えていた。しかし、父後宇多上皇が1324年6月に崩御され、二年後には皇太子の邦良親王が薨じられ(1326年)、ライバルは持明院統系のみとなった。つまり邦良親王の後、量仁親王が立太子した。後の光厳天皇である。父後宇多上皇が亡くなられてから、後醍醐天皇は変った。何かにつけて積極的になった。立場が不安定でいろいろ制約があるが故に、逆に強気で周囲に立ち向かって自分を守る姿勢をとったともいえる。

期待されないで即位したために、天皇周辺には格式高い貴族たちは敬遠して二線級がスタッフとして集まった。しかし、却ってその方が天皇の独裁を推し進めるのには都合がよかった。幕末の不穏な情勢はすべて天皇の意向によって惹き起こされたと言っても過言ではなかった。後宇多上皇が亡くられた年の9月には倒幕計画・正中の変を起こして日野資朝・俊基等が六波羅に捕らえられて挫折をし、それに懲りずに1331年には元弘の変を起こして失敗し(倒幕の機密を吉田定房が六波羅へ密告)笠置に脱出するが捕らわれ、翌年隠岐に遷される。その時に、日野資朝は配流先の佐渡で斬られ、日野俊基は鎌倉に送られる途中、相模の葛原で斬られる。しかし元弘の変の波紋により、各地に楠木正成のような小豪族が立ち上がり反幕府(北条)戦線が出来上がった。

幕府は、先ず六波羅勢が緒戦に比叡山を討たんと向うが逆に僧兵に討たれる始末で、やがて鎌倉より大軍を率いて鎮圧に向うが、士気が上がらず、統率もばらばらで楠木正成等の意外な抵抗により一進一退の攻防をくり返す内に反幕府勢力側が勢いを増して全国的に打倒幕府の機運が盛り上がった。形勢を傍観していた最強ともいえる軍団を率いていた足利高氏(この時は、まだ尊氏ではない)は後醍醐天皇側に寝返り、倒幕の趨勢に決着をつけた。一方鎌倉では新田義貞が幕府を攻めて、北条高時以下の幕府首脳を倒して北条氏が滅びる。

後醍醐天皇は、配流先の隠岐を北条氏が滅びる前(1333年2月)に脱出し、伯耆国の土豪名和長年の協力で船上山に落ち着くことができた。ここより京都の形勢を眺め、北条氏の滅亡を確かめてから6月に都に遷幸した。不撓不屈の精神をもって不利な形勢を挽回して見事京に凱旋したのである。帝の得意や思い知るべしである。後醍醐天皇のことについてはまだまだ書くことはいっぱいあるが、一先ず措いて、光厳天皇のことについて少し触れておきたいたいと思う。邦良親王の逝去により途中から急遽東宮(量仁親王)になられたお方である。ピンチヒッター的な色合いが印象としてどうしても否めない。更に、十年過ぎても一向に退位しようとしない後醍醐天皇は正中の変の騒ぎを起こして京都を逃げ出す始末。ここで高時は東宮を擁立して光厳天皇として践祚する。しかし、後醍醐天皇は捕らわれても決して退位の意向は示さず、天皇のままであり続けた。そうこうしているうちに倒幕の火は各地に広がり幕府の方が耐え切れず崩壊してしまった。後醍醐天皇が京都に凱旋する直前に光厳帝は廃されてしまう。三年にも満たない短い在位期間である。しかも、戦火が京にも及び六波羅に避難していた光厳天皇は、後伏見・花園両上皇ともども六波羅探題の北条仲時等と鎌倉をさして落ち延びようとしたが、番場の峠(米原)までさしかかった時、後醍醐側の反幕府勢力に囲まれて進退きわまってしまった。ここで北条仲時以下一門の名ある武士たち四百人以上が寺に入り次々と腹を切って果てた。天皇を具しても彼等の護り神とはならなかった。光厳天皇および一族の方々が、血の海に伏す凄惨な光景を目のあたりにして立ちすくむばかりであった。やがて天皇たちは捉えられて都に連れ戻される。光厳天皇と後醍醐天皇の関係はこれで終わりでなく、不思議な宿縁で表裏一体となって以後いろいろと続く。後醍醐天皇の建武の新政は現実と合わず、開始から僅か3年で破綻をきたし、足利尊氏の反旗により吉野に奔り南朝を開く。退位した光厳天皇は尊氏に乞われて、弟の光明天皇が即位し、光厳院として院政を開始することになる。いわゆる南北朝の分裂である。

後醍後天皇は、武士主導の政治を破壊し、朝廷主体の政治を取り戻すべく革命を起こしているのだという信念で幕府に挑んだのである。朱子学を学びその影響からか大義名分論にこだわり、君と臣下の関係を明確にして分をわきまえ、君(天皇)は政治の中心にいなければならないとして、現状の逆転した幕府と天皇の関係を正そうとしたのである。だから大義名分の革命のために後醍醐天皇は屈せず己の信念に向って邁進して行ったのである。しかし、革命は新しいことを行なうために混乱や破壊はつきものだが、やがて大勢に理解され受け入れられるものでなければならない。後醍醐天皇の行なう改革は性急でしかも時代に逆行するもので空回りするところがあった。当時の社会に受け入れられなかった。混乱は更に長引き解決は次世代に受け継がれていく。

これが、「いにしへのひじりの御代の政をもわすれ…」と兼好を嘆かせた鎌倉末期の実態である。或いは兼好の嘆き以上に実際は深刻な事態であったのである。なにしろ南北朝という前代未聞の二王朝が60年間も続いた端緒であったからである。そうして長い混乱の内にも確実に後醍醐天皇の意図に反して朝廷を始めとして貴族階級の権力・地位や土地は武士階級によって確実に蚕食されて行ったのである。鎌倉時代は武士の世の幕開けと言ったところで、まだまだ朝廷の力も侮れないものを有していた。南北朝を経て室町時代になれば確実に武士が権力のヘゲモニーを握ったと言ってもよいのではあるまいか。後醍醐天皇の革命が王権の復活どころかかえって武士の権力の強化に貢献しているのである。後鳥羽上皇の承久の乱といい、後醍醐天皇の建武の新政といい、武力による権力の掌握を目指していずれも失敗に帰している。

後醍醐天皇の政治に、後宇多上皇の院政をやめて(1322年)親政を開始してから目指すものに、当時の商品流通・貨幣経済の中心地、ならびに公家をはじめ寺社権門が集住する京都を王土思想のもとに掌握することがあった。即ち京都の土地と人の支配である。ために、極めて厳しい専制政治的姿勢でこの課題に取り組んだ。元亨二年(1322年)に発せられた「神人公事停止令」と「洛中酒鑪役賦課令」の二法令がそれである。前者は、洛中を中心に集住する寺社権門に属して広汎な商業活動を展開してきている神人が本所(寺社)に納める諸公事を免除するという内容、後者は、寺社権門の神人として交易にたずさわっていた洛中の酒屋を宮廷経済の基盤として再編成しようというものである。この二つの法令のねらいは洛中神人(特権商人につながるものか)に対する寺社権門の本所支配権を断ち切り、彼等を天皇支配の供御人として編成することであった。この姿勢は在位中はある程度持続されたものと思われるが、如何にせん短命の政権であるが故に、着想は画期的でもほんとうの成果は見られることもなく後世に委ねられるのでる。

後醍醐天皇は吉野で、死に際して太平記では

「…玉骨はたとひ南山の苔にうづまるとも、魂魄は常に北闕(内裏)の天を望まんと思う.…」

と、京都制圧、天下統一の烈々たる望みを遺言しているが、これも混乱を長引かせただけで適わぬ夢に終わっているのである。

現代の政治も改革と称して政治をいじりまわしているが、見せ掛けの改革で実態はあまり変らずどころか富者と貧者の格差は拡大して、庶民のくらしは却って苦しく効果はないと批判されている。一方施政者は自分がやらねば誰が改革をしたのかと大いに自讃しているが、官僚制には手付かずで、福祉制度の負担は増やして、果たして改革に値するものだったのか、値しないものだったのか、いずれ歴史が審判を下すことになるだろう。

この章の参考文献
徒然草 日本の古典 小学館刊      
史記一  徳間書店刊
太平記一  新潮日本古典集成  新潮社刊
後醍醐天皇  森 茂暁著  中央公論新社刊


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最終更新:2006年06月21日 02:45