『X-COLOR / グラフィティ in Japan』展
会期終了直前の駆け込みで、『X-COLOR / グラフィティ in Japan』展(水戸芸術館・現代美術ギャラリー)に行ってきました。片道2時間半、電車賃だけで○千円…。このごろ卒論にかかりっきりなので、気分転換をかねた小旅行のつもりで。
写真撮影可、ケータイの通話もOK、スケートランプもある(スケボー持ち込み可!)という展示会場は、普通の美術館とはまったくちがう肌触りのする空間でした。足下に立ち入り禁止の白線なんて引かれていないし、スプレーの臭い漬けで大変そうな監視員さんたちも、見張りというより観客を出迎えるためのホストとしてのみそこに座っているような感じです。
普通の展覧会だと作品を出展した作家は展示会場をふらふらしていないものだけれど、出展作家のひとりは、午後中、会場内でスケボーに興じているようでした。そして展示会場が屋外のように肌寒い。それもそのはず、場内の一角に来場者が自由にスプレーを吹くことのできる壁(「ファースト・コンタクト」)があるせいで、中庭に通じる搬入口が換気のため全開になっている!
こう書くと「美術館の解体」とか「開かれた美術館」みたいな言葉を連想してしまうけれど、僕にはそのどちらの表現もしっくりこない気がしました。というのもこの展覧会は、「美術館の変容」ではなくて、最初っから美術館ではない(はじめから美術館という枠組みを前提としていない)、そんな感じだからです。
展示会場の雰囲気に一番近い肌触りとして僕が思い出したのは、いまは無き謎の画廊「大図実験」(中目黒)を訪れたときの感覚でした。「大図実験」は、グラフィティ・ライターを含めたいろんなアーティストたちが昼夜集っては作品を制作・展示していた場所。内壁も外壁もピースやタギング、ステッカーで埋め尽くされていて、まるで彼らの脳内をそのまま立体化したような空間でした(☆1)。イメージとしては、「落書き部」という集団があって、その人たちが部室を持っていたらこんななんじゃないか、という感じ。だからこの『X-COLOR / グラフィティ in Japan』という展覧会も、水戸市の中心に出現した彼らの「部室」だと思うと納得です。描き手の集う場所=作品が生まれるその場所に、観客が招待される経験としての展覧会——。
そう考えると、この展覧会が最終日を迎える12月4日に、美サクによる『東大のアトリエ展』がスタートする(☆2)ということに、なんだか運命めいたものを感じ、勇気づけられます。
もうひとつ、僕がこの展覧会で実感したのは、壁を塗り替えるという行為がいかに強力な〈武器〉であるのか、ということです。水戸芸術館は何年か前にも『川俣正 / デイリーニュース』という展覧会で、会場に古新聞を山積させて空間をつくりかえてしまうという作品を展示していましたが(水戸芸のお家芸?)、この『X-COLOR / グラフィティ in Japan』展の異空間ぶりは、それをも凌ぐものでした。
美術館というよそ行きの場所をグラフィティ・ライターたちの居場所——僕ら美サクの部員に馴染みの深い言葉で言えば「部室」のような場所——につくりかえてしまうことが可能だったのは、グラフィティが壁をキャンバスにする表現であったからにほかなりません。
実際、会場ですれ違ったスケーターやグラフィティ・ライターらしき人たちのリラックスぶりは、美術館にいることを忘れさせるものでした。なかには、会場内の椅子にマーカーでタグを打ちはじめる人さえもいる(どうやらこれも禁止されていない、というよりむしろ奨励されている?)ほどで、スケボーやブラック・ブックを片手に会場を徘徊する彼らの表情は、ここは自分たちの場所なんだ、という意図に満ちていました。
それだけに、この〈武器〉がどのように使われるべきなのかということは重大な問題でもあります。この展覧会の図録(☆3)には、水戸芸術館のキュレーターによる、次のような解説が掲載されていました。
「グラフィティを世の中で最も美しく可能性を秘めたアートフォームと見るか、憎むべき犯罪行為と見るかは、どの立場からグラフィティを見るかによって大きく見え方が違ってくる。その立場の違いとは、現代社会を変革すべきものとして捉え、そこに風穴を開ける新しい芸術としてグラフィティを認識するか、現代社会における管理、統制、監視といった制度維持的な考えにのっとり、それを脅かすものとしてグラフィティを捉えるかという違いだといえるだろう。」
しかし、それは「立場の問題」と言ってすまされるものなのでしょうか? 仮にそうだとしても、監視社会に与するのか、それともスプレーを手に立ち上がるのかという二者択一が、グラフィティを巡る「立場」のすべてだと本当にいえるのでしょうか?
グラフィティの犯罪としての側面——たとえば京浜急行の車両に描かれた巨大なピースを消去するためには莫大な金額が必要とされたということ——は、この展覧会ではほとんど触れられていません。グラフィティに愚痴をこぼす米国の警官のドキュメンタリー映像も展示されていましたが、それだって僕たち日本の観客からすれば、海の向こうで起きている抽象的な対立にすぎないものです。上野と水戸を結ぶ常磐線の車窓からは田んぼに囲まれた農家の家々を眺めることができますが、その壁やシャッターに書き散らされているグラフィティについて語る言葉を、この展覧会は用意できていたでしょうか(☆4)。
グラフィティが表現としての可能性に満ちた〈武器〉であると同時に、誰かを傷つけるかもしれない〈武器〉でもあるということ。このことは、僕がいま執筆している卒業論文『都市の落書きと公共性ーー社会問題/社会運動としてのグラフィティ(仮)』の中心的なテーマのひとつでもあり、現時点(締め切りまであと40日…軽くヤバい!)ではあんまり偉そうなことは言えないのですが、避けて通ることのできない問題であることは確かです(☆5)。
とはいえ、この『X-COLOR / グラフィティ in Japan』がとても刺激的な展覧会だったことは紛れもない事実。そればかりか、駒場と本郷の「部室」を舞台として、絵を描いたり、しゃべったり、歌ったり、映画を撮ったり、論文を書いたりしている僕たちの毎日と、なにか響き合うものを感じずにはいられませんでした。
会期は終了してしまいますが、展覧会場で撮りまくってきた写真がある(!)ので、興味のある人はどうぞ僕に声をかけてくださいね。
水戸からの帰路、常磐線上り列車の車中にて。
☆1)「大図実験」は今年の6月に閉廊してしまいました。マンションの建て替え工事が決定したためだと聞きます。合掌。
☆2)「アトリエに招待される」という経験は、「作品が描かれる現場」と「作品が観られる現場」の明確な分離(美術館は後者を純化した空間だといえるでしょう)に慣れきっている僕たちにとって、きっと新鮮なものになるはずです。
☆3)『X-COLOR / GRAFFITI in Japan』(フォイル、 2005年)
☆4)展覧会そのものには反映されていませんでしたが、出展していたライター——日本のライターの中でも一流の彼ら——の何人かと僕が話をした(卒論を書く過程でその機会に恵まれました)印象では、このジレンマに自覚的なライターは決して少なくないようです(とはいえこの展覧会を訪れ、刺激を受けた若いライターたちが夜の街でスプレーを握るとき、その思いが伝わっているのかどうかは疑わしい)。
☆5)この問題意識は、駒場祭の中心で「マ○コ」と叫んでいた「暗黒舞踏会」の主催者にも共有してもらえるかな? (>>歪彦さん)
(ijn)