学生映画主義
映画は現在、文学ほどは廃れていないけれど漫画ほどは流行ってないんじゃないかっていう位置にある。そしていろんなものがパソコンを中心として動く世の中に変わり行く中で(このサイトもそうですね)、学生映画もパソコン無しでは活動できない状態にあるのです。昔はやっぱり8mmとかでとって暗室で現像してフィルムを切り貼りしてカタカタ音をたてる映写機で上映!ってな具合だったんでしょうが、今は違う(今それをやっているところもあるし、最前線ではむしろやっぱりフィルムで撮っている)。手軽に出来るのはdvテープ。家庭用ハンディカムよりもちょっといいカメラを使って、dvテープで取った映像をパソコンに繋いでパソコンで映像編集。そしてパソコンからまたdvテープに書き出してビデオ用プロジェクターで上映!っていうのが今の学生映画の主流なんじゃないでしょうか。8mmで撮ってた時代に比べてフィルム代や現像代がかからなくて大幅に制作費は減ったし、専門的な技術もいらなくなり、手軽に映画が作れるようになったと思います。そのため学生映画界は(そんなものあるんでしょうか)、以前に比べ非常に敷居の低いものとなっているわけです。しかし手軽に撮れるようになったからといって、手軽にいい作品を作れるようになったと勘違いしてはいけません。むしろこの“手軽さ”こそに弊害があり、作り手もそして(学生映画に限定して)見る側も大きな誤解をしていると思うのです。そのことを一度検討してみたいと思います。ついでに文体も変えます。
大したものも作ってないのに映画を撮った気になってはいけない。これを肝に銘じておく必要がある。我々は映像に大量に接し(それは美術作品や写真の比にならない)、日々過ごしているのになぜ自分たちが映像を制作する側にまわった瞬間、ぼくちゃんよくできまちたー、などという自己満足ナルシストに成り下がってしまえるのだろうか???そして見る者も、まー、いっちょうけんめいがんばりまちたねー、という親馬鹿ならぬ大馬鹿と化してしまうのだろうか???いや、見る者は少なくとも疑問を頭に浮かべながらも一種の礼儀として褒めているに違いない。そう信じたい。
学生映画。つまりは、大学生(もしくは専門学生)のインディーズ映画。それはほとんど素人映画と言い換えてもよい。しかし昨今の映像編集にはびこる“手軽さ”の亡霊が創作にまで影を落としている。私たちはほとんど技術的な知識なしに映画を撮り出したはずなのに、高性能のヴィデオカメラと高性能の映像編集ソフトをさわってみただけで出来上がった映像を作品と呼んでしまってはいなかっただろうか。これが映画でなく絵や写真や小説であったらこんな無防備なままで人前にお見せしてしまっていただろうか?想像とうらはらに取り敢えずは映像が撮れてしまうという“手軽さ”に翻弄され私たちは創作の源であった熱い衝動をどこかにやってしまったのではないか?そしてその“手軽さを”素通りして見るものもわけも分からず学生映画なるものに同情してしまってはいないだろうか?(しかもその同情は作品そのものではさく制作者達に向けられていないだろうか?)
そもそも、何故映画を撮るのかを考える。たいして流行りもせず、新しくもなく、技術及び金銭面で大きくプロと水をあけられていることは分かりきっているこの映画という媒体で、私たちは痛々しくも創造し発表している。しかし決して自己満足、自己顕示欲の集まりで終わる作品作りはしたくない。私たちは、自分たちを観て欲しいから映画を作るのではなく、あなたたちに観て欲しいから映画を作るのである。映画には何でもある。絵もかけず、写真も撮れず、小説が書けない人でも、その作品の一翼を担うことが出来るほどの懐の深さを映画は持っている。大学生の僕らの前には映画があり、きっと長い人生の中で今しか映画制作にかかわらない人もいるだろうけど、だからこそ恥ずかしくない作品をつくり、提供したい。高校野球にはプロ野球や大リーグにないよさがあり、インディーズミュージックにはメジャーにないよさがあるように、私たちはそれ自体でよい映画を作りたい。ハリウッドの大作に飽きたらヌーヴェルヴァーグの作品を観て、そしてたまには学生映画を、となるように学生映画の定義を塗り替えたい。
学生映画。つまりは、大学生(もしくは専門学生)のインディーズ映画。それはほとんど素人映画と言い換えてもよい。しかし昨今の映像編集にはびこる“手軽さ”の亡霊が創作にまで影を落としている。私たちはほとんど技術的な知識なしに映画を撮り出したはずなのに、高性能のヴィデオカメラと高性能の映像編集ソフトをさわってみただけで出来上がった映像を作品と呼んでしまってはいなかっただろうか。これが映画でなく絵や写真や小説であったらこんな無防備なままで人前にお見せしてしまっていただろうか?想像とうらはらに取り敢えずは映像が撮れてしまうという“手軽さ”に翻弄され私たちは創作の源であった熱い衝動をどこかにやってしまったのではないか?そしてその“手軽さを”素通りして見るものもわけも分からず学生映画なるものに同情してしまってはいないだろうか?(しかもその同情は作品そのものではさく制作者達に向けられていないだろうか?)
そもそも、何故映画を撮るのかを考える。たいして流行りもせず、新しくもなく、技術及び金銭面で大きくプロと水をあけられていることは分かりきっているこの映画という媒体で、私たちは痛々しくも創造し発表している。しかし決して自己満足、自己顕示欲の集まりで終わる作品作りはしたくない。私たちは、自分たちを観て欲しいから映画を作るのではなく、あなたたちに観て欲しいから映画を作るのである。映画には何でもある。絵もかけず、写真も撮れず、小説が書けない人でも、その作品の一翼を担うことが出来るほどの懐の深さを映画は持っている。大学生の僕らの前には映画があり、きっと長い人生の中で今しか映画制作にかかわらない人もいるだろうけど、だからこそ恥ずかしくない作品をつくり、提供したい。高校野球にはプロ野球や大リーグにないよさがあり、インディーズミュージックにはメジャーにないよさがあるように、私たちはそれ自体でよい映画を作りたい。ハリウッドの大作に飽きたらヌーヴェルヴァーグの作品を観て、そしてたまには学生映画を、となるように学生映画の定義を塗り替えたい。
そして映画はひとりでは作れず、多くの熱い人間によって生み出されるものだ。“手軽さ”の存在を自覚した後は、それに感謝し利用するしかない。私たちは一丸となって学生映画を撮ってゆく。最後に大学闘争時に安田講堂に書かれていた落書きで締めたいと思う。
「連帯を求めて孤立を恐れず
力及ばずして倒れることを辞さないが
力尽くさずして挫けることを拒否する」
くしくも同じ大学から一石を投じ、ぶっ倒れるときは、私たち全員で思いっきりぶっ倒れようではないか。
(庭)