ジャクソン・ポロックについて
久しぶりにいい映画を観ました。『ポロック』です。皆さんジャクソン・ポロックを知ってますか?今から50年前に活躍したアメリカの画家です。セザンヌが近代絵画の父なら、ポロックは現代絵画の産みの親でしょう。それくらい彼の登場はセンセーショナルであり、ポロックによってアートの中心地はヨーロッパからアメリカへと移りました。彼はポアリングといって、キャンバスを床に置き、緩い絵の具を上から筆で垂らす技法を用いて絵を描きました。
で、『ポロック』なんですが、B級映画好きなら必ず知っている、テロリストの親玉役が板についてしまったエド・ハリスが主演です。しかも実際のジャクソン・ポロックと本当にそっくりです。はげてるとこだけでなく。しかもしかも監督・製作まで本人が手がけるという熱の入れよう。構想に10年を要したと言われています。
ポロックの妻、リー・クラズナー役は『ミスティック・リバー』でティム・ロビンスの妻役で最も不幸な女を演じたマーシャ・ゲイ・ハーデンが熱演。むしろエド・ハリスと競演って感じです。
エド・ハリスはポロックのポアリング技法を相当練習したらしく、もう完全にポロックになりきって、いやポロックが憑依したかのように絵を描いてました。どうもスタントなし・つなぎなしで全部自分で描いたみたいです。ニコラス・ケージとショーン・コネリーが共演した映画(なんだっけな~?ど忘れ)のテロリスト役しかイメージのない私にとっては相当意外でした。
画家を主人公にした映画ってのは大体つまらないもんです。絵描きってのは普通しこしこと地味に描いてるもんですから。どんなに絵や人生がドラマチックでも製作中は根暗なのが普通です。でもポロックの場合は違います。なぜなら彼は「描くことそのもの」にこだわった画家だからです。だから製作に動きがあって画面映りがとてもいい。
私は画家には二種類のタイプがあるという勝手な思い込みがあります。
一つ目は本人の個性が絵にも強烈に表れてしまって、何を描いてもその人の絵だという事が分かってしまうというタイプです。このタイプの画家にとって、絵というのは自己を表現するための手段に過ぎません。そのため、型にとらわれず、大体伝統を破壊します。代表例はピカソです。
もう一つのタイプは、絵を自分の個性と乖離させて何か超越した特別なものに仕立て上げてしまおうとする画家です。彼らは「型」を非常に重視して、なるべく自分と言うものを絵の中から消そうとします。代表はフェルメールなどだと思います。言うまでもなく、私は前者のタイプの画家が嫌いです。特にピカソは基本的に嫌いです。今までの伝統に難なく乗っかった上で、破壊してその遺産を食い潰そうとするからです。で、彼の後にはガラクタしか残りません。新しい型を作ろうとしてもすぐ飽きてしまいます。
で、私はポロックはどーせピカソタイプのナルシシスティックアーティストなんだろうと前は思ってたわけです。でも最近この映画を観たからではないんですが、どうも違うなと。
ポロックはポアリングによってイメージを描くことから脱し、無意識を表現しようとしたといわれています。それは、近代以来の理性重視、頭で考える絵画の打破であると言い換えることもできるでしょう。要するに、ポアリングという「型」によってナルシスティックな自我を超えることを目指したのではないかな?と思うわけです。これはどうも後者のタイプに近いんではないか?
これは私が好きなカンディンスキーやパウル・クレーにも言えることなんですが、ポロックにも、今までの技法を否定するだけではなく、なんとか新たな技法、型を定立しようという気概がみられるんです。そこら辺がピカソとは決定的に違うとこなんじゃないかな?と思うわけです。