絵は死んだのか?
現代アートはよく分からないといわれる。「ただ小難しいだけ」。僕もそう思う。
オシャレ気取りの奴が美術館で、筆をキャンバスに滑らせただけの絵の前で唸る。
描いてるほうも同じだ。絵を描く行為そのものに酔う。
資源の無駄遣い。無自覚なナルシシスト。
オシャレ気取りの奴が美術館で、筆をキャンバスに滑らせただけの絵の前で唸る。
描いてるほうも同じだ。絵を描く行為そのものに酔う。
資源の無駄遣い。無自覚なナルシシスト。
かといって印象派展。モネ?ルノワール?ゴッホ?もう十分。
僕だってモネもルノワールもゴッホも好きだ。でもモネが好きだと公言する奴は嫌いだ。
百年前からずっとモネ。少しは飽きないのだろうか。
美術館は美術館で、「どうせモネが一番無難だしスポンサーもつくから」みたいな理由があるんだろう。ポスターに大きく「モ、ネ、」。馬鹿の一つ覚えはいい加減にして欲しい。
僕だってモネもルノワールもゴッホも好きだ。でもモネが好きだと公言する奴は嫌いだ。
百年前からずっとモネ。少しは飽きないのだろうか。
美術館は美術館で、「どうせモネが一番無難だしスポンサーもつくから」みたいな理由があるんだろう。ポスターに大きく「モ、ネ、」。馬鹿の一つ覚えはいい加減にして欲しい。
こんな状態じゃもう絵は死んだと言われても仕方ないような気もする。僕だったら美術館に行くよりツタヤに行く。そのほうが楽しい。
でも困った。そうなると非常に困ったことになる。なぜなら僕は絵を描くのが好きだからだ。
もう死んだはずの絵を楽しんで描いている僕は無価値だろうか?
論理的に考えるとそうなる。じゃあそれを無視してこう考えよう。
美術館で絵を見るのは死んでる、自分が書いてる絵は死んでない。
でも、僕はなんとかして個人的な違和感を社会化したい。
もう死んだはずの絵を楽しんで描いている僕は無価値だろうか?
論理的に考えるとそうなる。じゃあそれを無視してこう考えよう。
美術館で絵を見るのは死んでる、自分が書いてる絵は死んでない。
でも、僕はなんとかして個人的な違和感を社会化したい。
だからこう考えることにしていた。
「今絵が死んでるように見えるのは美術館やらオシャレ雑誌やらがわけの分からない絵をもてはやしてるからだ。」
「じゃあ普通に良い絵を描けばいい。」
理屈なしに良い絵。良いから良い絵。滑らせるんじゃなくてねちっこく叩き付ける筆。それを目指してきた。
「今絵が死んでるように見えるのは美術館やらオシャレ雑誌やらがわけの分からない絵をもてはやしてるからだ。」
「じゃあ普通に良い絵を描けばいい。」
理屈なしに良い絵。良いから良い絵。滑らせるんじゃなくてねちっこく叩き付ける筆。それを目指してきた。
でも、今の画家を注意して見ると、そういう人は沢山いる。実は。最近ドイツの現代画がたくさん来日してるけど、普通にいい絵ばかり。リヒター、バゼリッツ、ポルケ。少し前にもう死んでしまったが、フランスにもバルチュスというすごい画家がいた。日本にも探せばきっといるはずだ。
でも、探さないといない。注意して見ていなければ存在すら分からない。探さなくてもその辺にいるのはモネ、ルノワール、セザンヌ、ミュシャ、あとは村上隆ぐらいだろうか。
それは考えてみれば無理もないことで。これだけ世の中に娯楽があふれていれば、わざわざまじめにシコシコ描いてる地味な画家の絵なんて見たいとは思わない。
写真、映画、音楽。僕は声を大にして主張したい。お前らずるいぜと!
ある程度良ければ即大量生産、大量頒布。
それに引き換え、絵なんていくらいいものを描いてもせいぜい美術館に閉じ込められるか、もっと悪いとホコリを被ってどこかに積まれるか。
無いものねだりはこの辺にして。
でもだんだんわかってきたような気がする。
写真、映画、音楽。僕は声を大にして主張したい。お前らずるいぜと!
ある程度良ければ即大量生産、大量頒布。
それに引き換え、絵なんていくらいいものを描いてもせいぜい美術館に閉じ込められるか、もっと悪いとホコリを被ってどこかに積まれるか。
無いものねだりはこの辺にして。
でもだんだんわかってきたような気がする。
死んだのはたぶん、絵じゃなくてそれを取り巻く環境だ。
死んだのは美術館?その可能性は大いにある。
もう大方の美術館は、印象派展をやるか、アール・ヌーヴォー展をやるか、あとは奇抜な現代アート展をやるしかないくらい追い詰められている。別に美術館を責めてるわけじゃない。
画家という職業。これも共犯の可能性が大。若くて才能のある画家はどうやって世に出ればいいのか?美術館はもう「守り」だから助けてくれない。日展やら院展やらに媚売ったって耄碌した頃に三越に作品が飾られるのが関の山。あとは個人のキャラを生かしてメディアに出て、付加価値とやらをつけてごまかすか。
死んだのは美術館?その可能性は大いにある。
もう大方の美術館は、印象派展をやるか、アール・ヌーヴォー展をやるか、あとは奇抜な現代アート展をやるしかないくらい追い詰められている。別に美術館を責めてるわけじゃない。
画家という職業。これも共犯の可能性が大。若くて才能のある画家はどうやって世に出ればいいのか?美術館はもう「守り」だから助けてくれない。日展やら院展やらに媚売ったって耄碌した頃に三越に作品が飾られるのが関の山。あとは個人のキャラを生かしてメディアに出て、付加価値とやらをつけてごまかすか。
でも。でもやっぱり描いてしまうんだからしょうがない。描くのが楽しいんだからしょうがない。
描いてるときは憑きモノが降りてきて快感。描き終わって独りで眺めながら自己満足。人に見せて褒められてまたうれしい。身近な奴の絵がすごく良くて、悔しくなって、そのあとうれしくもなる。
きっと世にいる地味で売れない絵描きもそういう悦びを感じているんだろう。だから取り巻きの環境がいくら不利になっても絵を描く人間はいなくならない。
絵を描く人はずっと前からそこにいる。それは目を凝らさないと見えてこない。ある意味とても脆い。でもそれでいて頑固でしつこい。
描いてるときは憑きモノが降りてきて快感。描き終わって独りで眺めながら自己満足。人に見せて褒められてまたうれしい。身近な奴の絵がすごく良くて、悔しくなって、そのあとうれしくもなる。
きっと世にいる地味で売れない絵描きもそういう悦びを感じているんだろう。だから取り巻きの環境がいくら不利になっても絵を描く人間はいなくならない。
絵を描く人はずっと前からそこにいる。それは目を凝らさないと見えてこない。ある意味とても脆い。でもそれでいて頑固でしつこい。
絵は死んだのだろうか?
死んでない。
死んだのは美術館。絵を美術館で見る形態。絵を眺めて高尚ぶる形態。画家という職業。絵を買う金持ち。画家に絵を描かせる「文化的」な政府。メディアとしての絵画。公募展。「絵のある生活」。「現代アート」。「美術手帖」。
でも絵は死んでない。
(小)