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Way to you 【投稿日 2007/09/27】

カテゴリー-斑目せつねえ


「うー、飲みすぎたぜ」
 斑目晴信は深夜の住宅街を、ふらふらと歩いていた。
 今日は同人誌即売会に顔を出したあと、高柳と朽木の3人で痛飲して帰ってきたところだ。
「だいたいヤナの奴なんであんなに酒強くなってんだ。朽木くんは30分でつぶれちまうし、よくよく思い返してみればオタトークっつうより奴の仕事の愚痴ばっか聞いてたぞ、俺」
 飲み会を思い出しながらぶつぶつ言う。朽木は部室に行けば会えなくもないが、友人で同期の高柳とはリアルで会うチャンスは多くなく、たまに顔を見ると確実に深酒になるのが最近のパターンだった。
「まあいいや。結構収穫もあったし、これで当分夜間の予定にはことかかねえな、性的な意味で。ひへへへ」
 酔いも手伝い、下品な独り言をつぶやきながら2ブロック先のコンビニを目指す。腹は膨れたが少々飲みすぎたので、切らしていたミネラルウオーターと翌朝の朝食でも買っておこうと思っていた。
 次の四つ角を通ろうとした時、至近距離から人影が飛び出してきた。
「うわっと」
「す、すいませっ……斑目さん?」
 思わず声を上げて飛び退く彼に、人影は声をかけてきた。
「ん……笹原じゃねーか」
 あやうくぶつかりそうになっていたのは後輩の笹原完士だった。斑目の1年下の彼は今年の春大学を卒業し、編集者をやっている。斑目と同様、今でも大学の近所に住んでいるので、こうして夜中に出くわしてもそうおかしなことではない……が。
 しかし今は、彼の風体がおかしかった。ジャージ姿でスニーカーをヒモも結ばず突っかけている。まあそれはいい。ちょっとコンビニまで買い物などであれば、そんなだらしない格好もするだろう。
 おかしいのはそのディテールだ。ジャージが汗だくで、肩や胸が湿って変色している。顔面も蒼白。同じく汗びっしょりのその顔は、知らない人が見たら瀕死の重病人だと見まがうかもしれない。手に携帯電話を持っているが、それも強い力で握り締めているようだった。

「ど、どしたの?なんかお前、変だぞ」
「斑目さん……俺……俺ッ」
 明らかに様子がおかしい。ここで引き止めても埒があかないと思った。
「いや待て、とりあえず俺んち行こう。歩けるのか?よし、そんなら行くぞ」
「俺……荻上さんに……荻上さんが」
「荻上さんがどうかしたのか?」
 目を潤ませ、斑目の話を聞いてもいない様子の笹原の口からそんな呟きが漏れる。笹原の恋人、同じく斑目の後輩であり現視研の現会長、荻上千佳のことだ。
 質問に答える余裕はなさそうだったが、斑目には現在の状況からなんとなく想像がついた。
「ははあ、さてはケンカしたな、お前ら」
 カマをかけてみると笹原の肩がピクリと動く。図星のようだ。
「それできっとこうだ、荻上さんが怒って飛び出した。お前は慌てて探し回ったがどこにもいない。電話にも出てくれない、と」
「……ハイ」
「今までお前んちにいたの?荻上さんちは行ってみた?部室は?」
「……いませんでした」
 笹原の背中に手を当てながら斑目は考えた。
 彼女はカッとなるとなにをするか判らないところのある性格だが、笹原と付き合うようになってからはそういう危なげな部分は影を潜めていた。これはひとえに笹原が彼女を支えた功績であって、もう半年以上も交際していれば当人も充分承知していることだろう。
「出てったの、いつ頃のことだ?……2時間前?え、お前2時間も走り回ってたの?」
 飛び出した直後であれば極端な話交通事故とか、あるいは彼女が現視研に来たいきさつのようなあてつけ飛び降りとかがあっても言い訳できないと思う。だが、衝動型の人間は、実は意外と覚めやすいのだ。
 すでに2時間も経っているのなら、万一彼女の身に何かあったのならもうどこかから連絡が来ているだろう。最近の警察が所持品・遺留品で真っ先に目をつけるのが携帯電話で、着信やリダイヤルに笹原の番号が山ほど残っているはずだ。
 逆を言えば、そろそろ彼女も落ち着いている頃だろう。
 斑目は歩く足を止めた。
「気が変わった。笹原、お前んち行くぞ」

 ****

「……すいません斑目さん、ご迷惑かけて」
「ああ、まったくだぜ。まさか俺が痴話ゲンカに巻き込まれるとはな。……あーだからそんなにヘコむな、言ってみたかっただけだから」
 行き先を変えたのは、ひょっとしたら千佳から連絡があったり、不意に帰ってくるかもしれないと考えたからだった。それに笹原の疲弊ぶりはただごとではなく、彼の体を自室で休めてやる方がいいだろうとも思っていた。
 笹原の家には学生時代に何度も来ていて、勝手が判っている。冷蔵庫のペットボトルから水をコップに移し、そちらは自分で貰ってボトルを笹原に渡す。斑目が水を一杯飲む間に、1リットル以上残っていたミネラルウオーターはほとんど全部笹原の胃袋に納まった。
「落ち着いたか?」
「……はい。ホントすいません」
「いーって。さてお兄さんに詳しいこと話してみるか?それとも自分で解決する?」
 正直言って、自分が恋愛相談などに乗れるはずのないことは重々判っていた。方や交際半年のラブラブカップル、こなた色恋と言えばもっぱらパソコンのディスプレイの中で、唯一リアルな恋心は絵に描いたような片想いときたもんだ。
 ただ彼は自分の身の回りでいさかいが起きるのが嫌だったし、それが目の前で繰り広げられてしまっては上手に逃げる方法も知らなかった。彼の知っているアニメや漫画の世界では、先輩キャラはこういうとき、後輩を元気付けてやるのがセオリーなのだ。
 ボトルの底に残っていた水をあおり、笹原は斑目に顔を向けた。
「自分で解決……できるんすかね、はは。俺、結局自分勝手なんスよ」
「なに言ってんだ。仲良くやってたじゃん」
 内心「身の上話をするほうの分岐だったか」などと思いながら応対する。
 聞いてしまえば、ケンカの中身は案の定というところだった。
 休日である今日もさも当然のように激務をこなし、へろへろで帰ってきた笹原に千佳が甘えてきて(笹原は『ちょっかいを出して』と表現したが、彼女だって寂しかったに違いない)、仕事の内容のことで苛立っていた彼の神経を逆なでした。
 千佳は千佳でせっかく夕食まで準備をしたというのにないがしろにされたように感じ、言い争いになった。あげく笹原が言い放った『うるさくするなら帰ってよ』というセリフがとどめとなって……という展開だ。

「考えてみれば、荻上さんだって俺の部屋で、俺が帰ってくるのずっと待っててくれたんですよ。それを俺……」
「だああ、もうめそめそすんなよ。俺そーいうの苦手なんだから」
「すいません」
「まあ状況は把握した。それでは『第一回・笹原はどうやって荻上さんに謝ったらいいのか会議』~」
「……今の俺は乗れませんよ、そのテンション」
 疲労と恨みのこもった目で睨まれ、斑目はひるんだ。
「すまん。じゃもう少しまじめに聞くが笹原、これ誰かに相談したか?」
「いえ、電話といえば荻上さんにしかかけてませんし、会ったのは斑目さんが最初ですから」
「大野さんか春日部さんのとこに転がり込んでるんじゃねーのか?」
「その可能性はありますけど……ちょっと電話しづらくて」
「連絡しといた方がいいと思うがどうだ?」
「でも」
 笹原は口ごもるばかりだ。まあもっともな話だが、と彼は思い、言葉をかぶせる。
「ケンカしたのがバレると具合が悪い、とね。よしスネーク、こう考えるんだ。大野さんと春日部さんがすでにこのことを知っていた場合、ターゲットの潜伏先として当然予測される二人の所へアプローチをしなかったとすると、事態が収拾した後でお前の捜索能力が疑われる」
「はあ」
「同じく、このことが今バレなくても、将来二人の知るところとなった場合、恋愛経験が上である二人がお前に対して受ける印象もいいものではない。つまり問題の先延ばしにしかならないわけだ」
「そうかもしれませんね」
「これは、全てが秘密裏に任務終了しても……ええい判りづれえな、要するに二人に知られずに荻上さんを連れ戻せても、将来にわたってお前はずっと、このことを心配し続けるっつうリスクを負わねばならない。一方、聞いちゃえば逆に話は早いと思わないか?」
「でも、荻上さんが『教えないで』って頼んでるかも」
「好都合じゃねーか、荻上さんはお前に一つ負い目ができる。あまり上等な考えとは言えんがな」
 頭の中で考えを整理しつつ続けた。
「さらにだ、もしどちらかのところにいるのならお前が反省してることは即座に伝わるし、よしんば別のところにいたとしても後日、二人から荻上さんに『笹原はあの時すごく心配していた』とかフォローコメントが期待できるかも知れん」

 笹原が考え込んでいる目の前で、斑目はヒヤヒヤしながら説得を展開していた。彼はたまたま先週、そっくりな修羅場イベントがあるエロゲーをクリアしたばかりなのだ。
 彼が語っているのはその各シーンにおける選択肢の結末であり、そんなものになぞらえられていると笹原が知ったら(現にそんな行動をとっているとはいえ)ますますややこしいことになる。
「な?今ここで電話しても『お前と荻上さんがケンカした』という事実以上に気まずい情報は伝わらない。ひょっとしたら大野さんたちも心当たりを探してくれるかも知れないし、お前にとってはメリットの方が大きいんじゃねーか?」
「こんな……夜中にですか?」
「こんな時間になったのはまあお前のせいだが。だがな、なにもしないより、なにかした方がいいことは多いぜ」
「……そうですね」
 さらに長考の末、笹原は言った。
「斑目さんの言うとおりです。そもそも俺が悪いんだし、カッコ悪いとか言ってる場合じゃないですよね。今電話しちゃいます、ちょっと待っててください」
「おー。んじゃ俺、あっちで本読んでるから。それとも出てこうか?」
「あ、いやそれには及ばないスよ、気まで使わせちゃってすいません」
 笹原がキッチンで電話をする間、斑目はドアを閉めたリビングのなるべく遠い端で持っていた同人誌をめくってみたが、まったく目に入らなかった。
 居心地の悪さを払いのけたくて、周囲を見まわしてみる。部屋に入ったときから妙な違和感を感じていたのだが、今それを考える余裕ができた。
「……あー。片付いてるからだ」
 以前、斑目が遊びに来た頃と比べて、部屋全体がすっきりしている。机の上だけは以前と一緒で漫画やゲームソフトのパッケージが積まれていたが、たとえばゴミが放りっぱなしになっていないのはもちろん、雑誌が床に広がっている姿などどこにもない。
 万年床だったはずの布団も畳まれて押入れの中なのだろう、見当たらないし、洗って干し終えたあと、畳むのが面倒で床に小山をなしていた服も半透明の衣装箱に詰まっているのが判る。
 考えるまでもない。千佳が片付けたのだ。

 ケンカになる前までは二人でのんびりしていたのが伺える。座卓に缶ビールとグラス、お茶の入ったコップ。
 とりあえずビールというわけか、ちょっとしたつまみが小皿に入って置いてある。買って来たものか千佳が料理したのかは判らないものの、小鉢に盛られたサラダとジャーマンポテトは満腹の斑目の目にも旨そうに映った。
 そして、そのローテーブルの脚の向こうには、投げ捨てられたエプロン。
「……うん、はい、ごめん、その通りですハイ、いや、だからそれは――はい、スイマセン」
 笹原が電話口で平謝りしているのが聞こえてきた。千佳が相手ではないようだ。
「……春日部さんだな、ありゃ」
 斑目が解き明かした通りの不手際を責められているのだろう。会話の調子からすると、まだ千佳は発見できていないと見える。
 彼はもう一度エプロンに目をやった。
 千佳のやるせない想いのままにねじくれ、はぎ取られて落とされたエプロン。
 電話を終えた笹原がドアを開けたとき、斑目はふたたび同人誌を読みふける体勢に戻っていたが、そのエプロンは場所だけは変えず、不慣れな手つきで畳まれて置かれていた。
「終わりました、斑目さん」
「ん、どうだった?」
「いや、ほんとにいないっぽいですね。二人ともびっくりしてました。春日部さんになんかガンガン怒られちゃいましたよ、はは」
「ソレ聞こえた。激しくお疲れ」
 時計はすでに真夜中を回っている。斑目は聞いてみた。
「さて、どうするか。もう一度あたりを探してみるかい?なんなら手伝うが」
「……いや、うちで待ってみようと思います。荻上さんあれで結構計算しますから、こんな時間まで外をうろうろしないでしょうし、見つかりたくないって思ってたらもう地元にはいないんじゃないかな」
「ああ、俺もそんな気がする」
「即売会とかで新宿のネカフェいろいろ使ってるし、彼女普段から現金持ち歩いてるんで路頭に迷ったりってのはないですよ」
 ため息を一つつく。
「あはは、今夜は長い夜になりそうです」
「明日仕事あるんだろ?寝た方がいいんじゃねーか?」
「俺のケジメですから。もし帰ってきたら、すぐに謝りたいんです」
 疲れた顔で笑う後輩に、斑目は恋愛の甘くない側面を見た気がした。

「……大変そうだな」
「そうでもないスよ。普段の仕事でも、勤務内容の80%は『ひたすら待つ』ですから」
「ますます大変じゃねーか、足したら100%超えるんじゃねえの?」
 二人で軽い声を立てて笑う。
「斑目さん、でもね」
 笹原は立ち上がった。斑目も釣られて腰を上げる。
「荻上さんとケンカとか、行き違いがあるたびに思うんですよ。やっぱり彼女のこと、好きになってよかった、って。荻上さんと付き合えてよかった、って」
「……」
「今回みたいに俺が全面的に悪いこともあるし、逆に荻上さんが謝ってくることもあるけど。でも、そんなのがあるたんびに、俺たちお互いが解ってくるように感じるんです」
「ドラマチックな話だな」
「荻上さんも俺と同じに思ったって聞いたことあります。もとは赤の他人なのに、生まれも育ちも全然別なのに、こうして同じ空気を吸うことになるなんて単なる偶然だと思うんです。そこからお互いに歩み寄って、偶然を必然にしていくのが恋愛なんじゃないかって思うんですよ」
「……お前らしくねーんだけど。そのセリフ」
「実はですね、今日の仕事ってポエム雑誌の編集のヘルプだったんです。読者投稿コーナー」
「ソレでかい」
「ちょっと歯が浮いてますよ、今」
 また笑った笹原の顔はしかし、さっきよりは明るくなっていた。
「斑目さん、ほんとにありがとうございました。あとは俺がなんとかする話ですから。長々と引き止めちゃってすいませんでした」
「気にすんなって、俺が勝手に上がりこんだんだから。じゃ、帰るな、俺」
「はい。おやすみなさい」
 ドアを開け、外に出る。春の夜とはいえ、はやばやと夏の訪れを感じさせるほどに暖かい。
「じゃーな。……笹原」
 斑目は軽く手を上げ、ドアを閉めようとして考え、笹原に言った。
「なんですか?」
「幸せになれよ」
「ぶ?ナニ言ってんスか」

「お前のポエムに影響されたんだよ」
「てゆーか、斑目さんが言うと死亡フラグに聞こえます」
「殺すな!言われたらほんとにそんな気がしてきたわい」
「お車と背後の暗がりに気をつけてくださいね」
「ヤメテホントニ」
ドアを笹原に預け、手を振りながらきびすを返す。数十歩ばかり歩いたところで、ドアが閉まる音が聞こえた。
「……はあ。まったく、うらやましい限りだぜ」
 そっと口に出してみる。
「こちとら手の届かない高嶺の花に懸想して、同じ空気とやらもろくろく吸っておれんというのに。せいぜい楽しんでくれってんだ」
 暖かい夜道をぶらぶらと帰る。とんだ事件に巻き込まれてしまい、酔いはすっかりさめていた。
 歩きながら、彼の想い人の顔を浮かべてみた。初対面の時の不機嫌な表情、思いがけず目にした涙、卒業式の晴れやかな笑顔。
 俺が彼女と同じ空気を吸っていた4年間。
 俺はあの偶然を、必然に変えることができなかったということなのか。俺はその距離を、歩み寄ることができなかったのだろうか。
 自分の歩く道を見つめる。遠い街で、しかし同じ地続きの街で働く彼女に続く道。
「……恋愛、ねえ」
 これからそれを、変えていくことはできないか。今から彼女に向かって、歩んでゆくことはできないか。
 斑目は思った。
 なにもしないよりは、なにかをした方がいいことは多い。
 後輩を焚きつけている場合ではない。さっき喋った言葉がまるごと自分に返ってきた気がした。
 なにができるかは判らない。だが、なにかができるはずだ。
 漠然とした……あまりにも漠然とした期待だが、そのことは彼を元気づけた。自分にできることは、必ずある。それがこの恋にどう影響するかは不明だが、自分にとってはメリットの方が大きいのではないか。
 見上げた夜空に彼女の顔を描く。回りに通行人がいないのを確かめてから、そっと手を伸ばしてみる。どうだ、伸ばした手の長さだけ、彼女に近づけたではないか。
「はは。駄目だ、俺もポエム脳が感染ったぜ」
 そう言いながらも斑目はぶらぶらと、しかししっかり前を見据えて、自宅への帰り道を歩いていった。

 ****

 翌日の昼休み。斑目は現視研には顔を出さず、近所の公園で弁当を食べた。パッケージをゴミ箱に捨てて周囲を見回し、見知った顔がないのを確認する。
 彼は千佳の携帯に電話した。野暮なのではないかとも思ったが、なにかせずにはいられなかったのだ。
 3コール、5コール、10コール。思ったよりヤバイかも、と感じ始めた時、回線がつながった。
『はい。荻上です』
「おー、荻上さん。出てくれたか」
『え?』
 斑目が経緯を掴んでいるとは知らない様子。とすると、まだ「家出」中なのか。
「いや、笹原から話聞いてね。 俺なんかに相談してもどうしようもないだろーに、あいつ相当ヘコみやがってさ」
『あの……どういうことですか?』
 たずねてくる千佳に、なるべく気楽に聞こえるように説明する。
「あん?笹原がキッツイ事言って荻上さんのこと追い出したんじゃねーの?俺はあいつからそう聞いたんだけど」
『……違います。私がわがままを言ったんです。悪いのは私なんです』
「あれ、そうなの?んー、でもお互い反省してるんだったらもういいんじゃない?会って話、してやったら?」
『……いえ……なんか、もう』
 呼吸音?鼻をすする音?
『なんか、笹原さんに迷惑かけるのがもうイヤになって……私、もうやめにしたほうがいいんじゃないか、って』
「おいおい、それはおかしいでしょ」
 首を突っ込んだ以上はカタをつけてやらねば。斑目は言葉を継ぐ。
「ちょっと聞いてくれよ、荻上さん」
『……』

「人間てのは結局さ、素直になれるのが一番いいんだろうな。こんな風にしてあげたいとか、あんな風にして欲しいとか。でもこれがなかなか、ね。こうやってケンカの原因になっちまったり……ま、色々起こるわけよ。それはしょうがないことだと思う」
『はい……』
「でもさ、そんなことで欲しいものが手に入ったり、逆にあっさりと諦められるようなら、苦労はしねえよな。俺はさ、幸せになる方法ってのは二つあると思ってるんだけども――」
 諦める、という言葉を使った時、胸がちくりと痛んだ。――俺がかつて望んだ状況。
『二つ?』
「ああ。一つは当然、その夢がかなったりすること。で、もう一つはそいつらを全部……諦めることだ」
 また、この言葉。続ける言葉を、俺は一体誰に向けようというのだろう。
「諦められたら、そりゃースッとすんだろーなー、はあぁ」
 聞き違いかもしれないが、くすりと笑う声が聞こえた。俺の片思いは、現視研の女性陣に気づかれてるフシがある。本音の言葉になっているのがバレたかな?まあ、いいか。
「でも、大概の奴が諦められず追いかけ続ける。簡単に諦めることが出来りゃ世の中さぞ幸せだろーと思うぜ」
『そうですね』
 少し明るくなったトーンで、千佳が応じる。
「なんだ……その、荻上さん、きみはソイツを手に入れてるんだよな。一時の思いで手放しても、きっと後悔するだけだと思うぜ」
『……はい』
「諦めるの、大っっ変だよ?簡単にできるなんて思わないほうがいい」
『はい……はい、そうですよね。そうだと思います』
 先ほどよりも、さらにはっきり明るくなった声。斑目は安心した。ふと公園の中央にある時計を眺め、時のたつのを忘れていたことに気づいた。
「あっヤベ、昼休み終わっちまう。そういや荻上さん、今どこにいるの」
『仙台です』
「せ……仙台ぃ?」

 早口で教えてもらったところ、彼女は朝まで新宿のネットカフェにいたそうだ。ここまでは笹原の予測どおりだったが、千佳の決意は笹原が考えていた以上に深刻だった。彼女は朝になると、郷里へ帰る切符を買っていたのだ。
 新幹線に乗ったところで夜明かしの疲労から寝入ってしまった千佳は、たまたま仙台駅直前で目を覚まし、バッグの奥底にねじ込んでいた携帯電話を確認した。
 そうして着信履歴を埋め尽くす笹原の名前に驚いているところに斑目から電話が入り、ちょうど停車した仙台駅で無我夢中で列車を降りたのだという。
『乗ってた汽車は行っちゃいましたし、これから切符買いなおして帰ります。お騒がせしてすみませんでした』
「はー、ま、まあよかったよ。早く帰ってきな、笹原めちゃめちゃ反省してるから」
『はい。私も謝らなくちゃいけませんね。本当にありがとうございました』
「あ、笹原に電話してやりなよ?あいつ寝てないかもしれないし」
『え、寝てないって……本当ですか?』
「反省してるって言ったでしょ?」
『わかりました、すぐ連絡してみます』
「あ、あー俺会社戻っから。笹原によろしく言っといてよ。ほんじゃねっと」
 言うだけ言って通話を切った。千佳の性格からすると長引けば延々謝罪し続けかねないし、その言葉は自分ではなく笹原に早く聞かせてやるべきだろう。
 携帯をポケットに放り込み、会社へ向かって早足で歩き出す。緩い会社なので5分やそこら遅れても誰も何も言わないが、達成感に満ち満ちたこのテンションを仕事に活用したかった。……そして。
 そして、とっとと今日の仕事を終えたら新宿に出て、あの人の店にでも顔を出してみようか。

 斑目はそんなことを考えながら、少しずつ道を行く足取りを速めるのだった。


おわり


註:このSSは二つの幸せという作品をインスパイアしています。