Yell of magic 【投稿日 2007/07/26】

カテゴリー-斑目せつねえ


 夕刻。電子と萌え文化の街も濃い色の夕焼けで覆われ、なんとなく寂しそう。
 ゴールデンウイークも終わって、7月までは休日といえば日曜日しかありません。この街の活気は祝日があろうがなかろうが関係ありませんが、個人的にはやっぱりちょっとつまんないです。
 わたしは今日は田中さんと別れたあと、一人で秋葉原に来ていました。田中さんが気にしていたガシャポンの新ラインナップと、わたしの個人的な趣味の同人誌を見て回っていたのです。
 二年目、最終学年となる専門学校が忙しくなってきた田中さんは、近頃はあまりわたしの思うようには会ってくれません。しょうがないのでわたしも、最近はまじめに大学に行って、就職や院試のこと調べたりする日々です。
「うーん、めぼしいもの、ないですねえ。一人で来るんじゃなかったかな」
 中央通りの同人ショップを出て、腕組みして考えます。
「どうせなら荻上さんとか呼び出せばよかったかしら。でも今ネームが大詰めって言ってたし――あら?」
 ぶつぶつ言いながら通りを歩く人ごみを眺めていたときです。視界の端を誰かがかすめて行きました。
 見覚えのあるような、ないような。ショップの大看板越しに曲がって、背中しか見えませんでしたが……え?
 ひょろりと痩せた、背の高い後ろ姿。知っている人です。でも、なにか雰囲気が違います。でも、妙に確信があります。声をかけそびれてしまったので、早足でその人を追い越し、自然に見えるように振り返りました。
 さりげなく顔を確認するつもりでしたが……その人を見つめたとたん、わたしは身動きが取れなくなってしまいました。
「……ひゃあ」
「うわ!おっ、大野さん?」
 相手もわたしを認めたみたいで、まるで犯罪者みたいに片手を上げて顔を隠します。
「お久しぶりですね、斑目さん……ですよね?」
「や、はは、久しぶりだね。今日は一人?」
「ええ、まあ。……っていうか……聞いていいですか?」
「ん?」
 目の前の人物に、4年間も同じサークルに居た相手にこんな聞き方をしてしまいました。……だって。
「どうしたんです?イメチェンなんて」
「あ――やっぱ判っちゃう?あんまり見ないでクダサイ」

 だって、斑目さんが、眼鏡を外してるんです!髪の毛だってワックスでニュアンスつけて、上着はアキバ専用服ですけど、その下はおしゃれなブランドのシャツを素肌に着て、ボタンふたつも開けてるんです!
「なんで……なんでまた」
「そ、そんな笑うなよぉ」
「笑ってませんよ!」
 もちろん笑っていませんし、むしろ笑えません。……だって、斑目さんが普通にかっこいいんですから。
「ええ?すごいですよ斑目さん!どうしたんですか?オタクやめちゃうんですか?」
「やめねえよ!現にこんなトコにいんじゃんか」
 目の前に垂らした髪が気になるのか、何度もかき上げながら言います。
「きょ、今日はその、なんだ、馴らし運転っつーか、ちょっと気分変えてみようかなー、なんて感じで、さ」
 咲さんたちの卒業を境に、斑目さんの足が部室から遠のいてひと月以上になります。わたしも今は出席率がいいほうではありませんが、毎日顔を出している荻上さんや朽木くんからも、ほとんど来ていないと聞きました。
 わたしなんかそれこそ卒業式以来で、久しぶりに見た彼がこんな普通の姿でいたら、ホントに足を洗ったんじゃないかって考えても責められないと思います。
「馴らし運転?」
「いやその、……コンタクト。今日初めてなんだよね」
「えー!すごいじゃないですか、痛くありません?」
「痛かないけど、んー、目ん中に大きなゴミがずっと入ってる感じ?」
「ふふ、友達もそんなこと言ってました」
「も、ついさっき入れてきたんだけどさ、いや往生した往生した」
「いま入れたばっかりなんですか」
「全っ然入んねーの。こう指にレンズ乗せるじゃん?んで左手でまぶた開くじゃん?コンタクトが近づくとさ、目がすげえ抵抗すんだよ。『やめろショッカー!』ばりに。まぶたと指の激闘、見せたかったよ大野さん」
「あははは、ホントですかぁ?」
「とまあ、そんなワケっすよ。土地鑑のあるこの街で、眼鏡のないままで歩く感覚に慣れようとしてたトコでして」
 また前髪をかきあげて言います。
「それで今日は田中、どうしたの?」
「課題と就職の準備でここのところ、日曜日はあんまり遅くまで一緒に居られないんです」
「あ、そーか。元気?あいつ」
「ええ。……斑目さん?」
「はい?」
「わたしの質問、答えてないですよ?」
「は?いや、だからコンタクトを――」
「じゃなくて!」
 斑目さんも解った上ではぐらかしています。確信的な犯行なら、こちらも遠慮する必要はありません。
「斑目さん……わたし、気付いたこと言いましょうか?」
「……っ」
「そのシャツ、咲さんの趣味丸出しですよね?」
 フリーズした斑目さんの顔から、だらだらと冷や汗が流れてきます。
 そう。
 わたしは気付いてしまいました。
 斑目さんの妙に垢抜けたファッションセンスには理由があり、それはおそらく彼が現視研に顔を出さなくなったこととも密接に関係しています。
 すなわち。
「やっぱり……咲さん、ですか?」
「……ハイ」
 観念したような表情で、斑目さんはうなずきました。
「え!?お付き合いしてるんですか?」
「まさか、違う違う!春日部さんは相変わらず俺は眼中にないし、もちろん高坂君にベッタリだよ。まあ、彼ほとんど帰ってこないからこの表現も語弊があるけど」
 まあないだろうと思っていた質問もしてみましたが、こちらは猛スピードで否定されてしまいました。でもこれで解りました。斑目さんは咲さんの卒業後、わざわざ新宿まで咲さんを訪ねているのです。
「その、ですね、オシャレの手ほどきを、少しばかりしていただきまして」
「ストップ!」
 わたしは彼の解説を押しとどめました。
「なんだよ、今度は」
「斑目さん、わたし思ったんですけど」
「うん?」
「斑目さん、今夜のアニメって録画予約してますか?」
「ああ、そりゃまあ、当然」
「じゃ、斑目さん」
 わたしは彼に、一歩近づきました。
「今から飲みに行きましょう。聞きたいこと、山ほどあるんですから!」

**** 

 二人で入ったのは、おしゃれな居酒屋。しかも個室の二人席。
 田中さんがなかなか遊んでくれなくなったところにネギしょって現れた斑目さん。その彼からお話をいっぱい聞こうと、少々抵抗されてでも無理やり誘おうと思っていたのですが、彼は意外なほどあっさりと一緒の夕食に応じてくれました。
 それも、こんなお店です。逢った場所から歩いて5分の大衆酒場にでも行くものだと信じきっていたわたしを、斑目さんはどんどん裏切っていきます。
「ふえ~。わたし入ってみたかったんですここ!斑目さん、どうしてこんなところご存知なんですか?」
「新宿の本店のほうに入ったことがあってさ。ここにも店があるのは知ってたんで、せっかく大野さんと来るんなら試してみようかなって」
「……あのう?」
「はい?」
「斑目さん、本当に……斑目『晴信』さんですか?」
「はあっ?」
「あっいえ、ひょっとしたら双子のお兄さんとかかなって、あははは。わたしの知ってる斑目さんとまるっきり違うんですもん」
「あのねえ。そこまで言うならいつもの俺に戻りますよ?」
 さすがに疑い過ぎました。苦笑しながら斑目さんが続けます。
「俺もけっこう必死なんスよ、こんなサワヤカお兄さん。ホントならアキバ来んならリュックサック背負って、このシャツだって中にTシャツ着るだろ、常識的に考えて。そんで両手に同人ショップの紙袋抱えて。ところがどうだ!」
 こぶしで軽くテーブルを叩き、すっくと立ち上がります。
「諸君らが愛してくれたマムシ72才は今様のお洒落着を身につけたために死んだ。何故だ!」
「死んでませんし、愛するってほど親密じゃなかったです」
「諸君の父も兄も、現代人の無思慮なファッションセンスの前に死んでいったのだ。この悲しみも怒りも忘れてはならない!それをマムシ72才は死をもって我々に示してくれたのだ!」
 斑目さんの十八番はだんだんボリュームを上げていきます。秋葉原とはいえ静かなこの店には、そろそろ似つかわしくありません。
「わかりましたよ、もうっ。降参です降参。斑目さんに間違いありません!」
 宙を見据えていた偽ギレンは演説を止め、わたしを見てにやりと笑いました。
「はー、助かった。ようやく解ってもらえてよかったよ」
「わたしが認めなかったらずっとやるつもりだったんですか?」

「ギレンでダメなら『諸君、わたしは秋葉原が好きだ』を準備してましたとも。あれ尺かせげるしな」
「あぶない人ですねえ、もう」
 でも、斑目さんのいつものテンションにちょっと安心しているわたしがいるのも確かです。わたしの知っている斑目さんが、現視研の長テーブルでコンビニ弁当を食べてた彼が、ようやく帰ってきたような気がしました。
 そうとなれば、いよいよ本題です。
「さて斑目さん。それでですね」
「うへ。大野さん、瞳が輝いておられますが」
「あったりまえじゃないですか。女の子はこの手の話が大好きなんです。腐女子かどうかに関わらず、ね」
 ちょうど注文していた生ビールが到着しました。二人でそれぞれのジョッキを持ち上げます。
「さー語りましょー話しましょー、『第一回・斑目さんの片思いはいつの間に咲さんにバレてたんだろう会議』~」
「……その件なんだけどさ、あん時の俺、そんなにバレバレだった?」
 ジョッキの端をコツンと当てて、斑目さんが聞いてきました。
「こう見えても本心を抑えるとか得意なつもりだったんですが」
「ふふふ斑目さん、女の子を甘く見ちゃあいけません。ぶっちゃけ卒業式時点で、斑目さんのこと気づいていなかったのはズバリ咲さんだけです!」
 ビールを一口飲み、斑目さんに言います。彼の恥ずかしがる顔を見たくて打ち明けたのですが、斑目さんの反応は違っていました。
「……いや……春日部さんも気づいてたミタイヨ?」
「はぁっ?」
 目玉が飛び出るかと思いました。思わぬ大声が出て、向かい側の個室からカップルがこちらを伺っています。
「いやその……俺さ。大野さんこの話……」
「え?あっはい、秘密ですね?わかりました!」
 前髪をかき上げ、ビールを呷り、しばし目を泳がせ、……わたしを見つめます。
「卒業式の日さ、俺、打ち明けたんだよね、春日部さんに」
「えええ――」
「シーッ!」
「はわっ」
 せっかくギレン演説を止めたのに、わたしが大騒ぎしたらうまくありません。慌てて口を押さえましたが、噴出し損ねた絶叫で頭が破裂しそうです。
「……え……え……え」
「指を差して笑うなあっ!」
「笑ってませんってば」

 わたしの正面で真っ赤になっている人物をまじまじと見つめます。
 絵に描いたようなオタク。とげとげしい語り口の理論派で、コンプレックスにまみれていて、口を開けばアニメ論議か皮肉ばっかり。会長職をやっていたものの、周りに流されることのほうが多く、トラブルが起きた時は率先してうろたえる役割のキャラ。
 相手のことが好きすぎて、人を好きになってもそれを言い出せなかった人物。
「ほら式の後、居酒屋現地集合になったじゃん?あん時たまたま春日部さんと二人きりになって――高坂君、例によって会社から電話入って別行動でさ。それで、ふっとした隙に……言っちまったんよ」
 身動きできなくなったわたしに、おずおずと話し始めました。
「俺としては固く決心してたわけよ、これでも。こんなの打ち明けたら春日部さんが混乱するかもって思ったし……そもそも高坂君がいる話じゃねーか、もともと勝ち目のない勝負はしない主義だったから、一生言わずに過ごそうぐらいに思ってたし」
 わたしの顔を見ていられないらしく、うつむいたままビールを飲み、おつまみを口に運びながら。
「でも、その時さ、『あ、今が言うタイミングだ』って確信して。も、なんかそれまでの覚悟がどうとか、全部吹っ飛んで、『言わなきゃ』っていう義務感とかですらなくて、自然と口をついて出たんよ。『春日部さんのことが好きなんだ』って」
 しばしの間をとって、斑目さんはようやく、ゆっくりと顔を上げました。
「ま、案の定フラレたわけですけどね。そん時に聞いたんだけど、わりと早くから気づいてたらしいよ……って大野さん?」
 わたしは無言で立ち上がり、斑目さんの横に置いてあった荷物をどかして、彼の横に腰を下ろしました。
「ナンスカ一体」
「……ちょっと待っててください。今しゃべったら泣いちゃいそうです」
「え」
 彼の右腕を、両手でぎゅっと抱きしめます。そしてそのまま、深呼吸。
「……ふう」
「大丈夫?」
「ごめんなさい、もう平気です」
 顔を上げ、斑目さんに笑ってみせました。
「えーと。アレか?俺があまりに不憫だから泣きそうになってしまった、と?」
「え、近いけど違います」
「近いんかい」

「だって斑目さん、つくづく総受けなんですもん。そんな死亡フラグ立ちそうな告白なんて今どきそうそうないですし。その展開で咲さんが受け入れてたら、斑目さん帰りがけに車に轢かれてたと思いますよ」
「殺すなよっ!……でもさ」
 彼はわたしのセリフにツッコミを入れて、わたしはようやく彼から手を離して。斑目さんはひと息ついたように、続きを話し始めました。
「そうやってフラれて、確信したんだよね。春日部さんのこと、全然あきらめられねーって」
 こちらを向いて、ようやく笑顔を見せました。
「だから俺は春日部さんに、もっともっと俺のことを伝えてやろうって。でもストーカー扱いはごめんだから、そばにいても邪魔にはされないように。俺がそこにいることを、彼女が許容してくれるように。俺がいつまでも、そこにいつづけられるように」
 髪の毛を手で払います。
「もう言っちまったから怖いものなんかなくてさ、春日部さんの店がオープンするなり花束届けに行ったんよ。その時に大野さんとかに出くわしたらそれはそれだって思って。春日部さん、喜んでくれてさ」
「思い出しましたよ。『現視研与利』って書いた花かごですよね、わたしたち二日目に行ったんです」
「それから何回か、森やら虎やらのついでのフリして寄ったんだ、春日部さんはきっと解ってたと思うんだけど。2度目だか3度目だか顔出したときに『店に来るのはいいけど、とりあえずココ行って1着でいいからシャツ買え』、って知り合いのメンズの店紹介されて」
「それがそのシャツですか?」
「そ。次にコレ着てったら試着室に連れ込まれてさー、もう陵辱三昧」
 斑目さんの話によると。
 おそらく斑目さんの『下心』を100%理解したうえで、咲さんは斑目さんのアタックに付き合うことにしたようです。ただ、10キロ先から見てもオタクと知れるような人間を、業界人としても店長としてもファッションを扱う自分の店に入れるわけには行かなかったのでしょう。
 お店に来るたび斑目さんにおしゃれ指南を施して、シャツの着こなしを教え、髪形に気を使うよう説明し、コンタクト入れたらカッコいいよとアドバイスを重ねたのだそうです。

「でも一番言われたのは服じゃなく姿勢かな。猫背禁止令が出て、しばらく背筋がキビシかったのなんの」
 さっきわたしが彼を見誤ったのも、おそらくこれが原因でしょう。慌てて追った背中は、彼の学生時代にわたしが見ていた肩を落とした挙動不審な人物ではなく、胸を張って自信に満ちた足取りで歩く青年だったのですから。
「斑目さん、カッコよくなりましたよ、ほんとに」
「お、嬉しいこと言ってくれるねえ。俺、今まで外見の評価なんかこんなに気にすることなかったぜ」
「高坂さんとは違った味が出てて、なんて言うんでしょう、頼れるセンパイって感じ?」
「うはー」
 斑目さんは大げさに喜んでいますが、本当のことです。こうして彼の隣に座っていると、なにか心が落ち着きます。
 忙しくて、以前ほど一緒にいてくれない田中さんの空隙を、すこし違った感触で埋めてくれているような感じ。
 わたしは座りなおすフリをして、ほんのちょっと斑目さんに体を押しつけました。
「……んで、大野さん。今日の大野さんのポジションはココに決定なのかな?」
「いーじゃないですかぁ!とりあえず田中さんも咲さんもいないわけですし」
 テーブルの向こう側に置いてきたジョッキと割り箸を引き寄せて、底に残っていたビールを飲み干します。
「ささ、斑目さんも飲んでください。咲さんの話、もっと聞かせてくださいよ」
「ん、ああ」
「わたしより斑目さんのほうが咲さんと会ってるんですから。ね、斑目さん、咲さんとお酒飲みに行ったりしてるんですか?」
「あるよ、一回。ほらさっき言った、ここの新宿の店」
「ああ」
「そういやさ、そんとき春日部さんに聞いたんだけど――」
 斑目さん、楽しそうです。そしてわたしは彼の横顔を見上げながら、胸の奥のほうでうずく感情に戸惑っていました。
 咲さんがひどく忙しかったらしい日の閉店間際に彼女を訪ね、高坂さんとも全然会えない憂さ晴らしに行って。その時も別に何があるわけではなく、ちょっとした業界ウラ話を聞いて感心して、っていう話を、まるで。
 まるで海賊が金銀財宝を探し当てたみたいな口ぶりでわたしに話してくれる斑目さんの楽しげな表情を見つめているうちに、ちくちくとうずく胸の痛みがわたしを責めさいなみ始めていたのです。

「そのあとでカラオケ行こうって言うんだよ。水曜だぜ?俺は次の日仕事だっていうのに、自分が休み振ってるからって。まあ行ったんですけどね結局」
 高坂さんから教わったというゲームのテーマソングを咲さんが歌って、以前は彼女がオタクに染められる姿を見たくなかったのになぜかその日はそれが嬉しかったとか。斑目さんもたまたま知っていた一般ヒット曲をデュエットして、咲さんのキーの広さにおどろいたとか。
 そんな、まるで普通の恋する青年のような斑目さんを見ていて、わたしはまた目がうるみ始めていました。
「……ぅわ?大野さん、またかい?」
 鼻をすするわたしに気づいて、斑目さんが慌てます。
「斑目さんって……けなげですねえ。ぐすっ」
「そんなに下向きのテンションで同情すんなよ~。俺はなに?そんなに勝ち目のない恋をしてるワケ?」
「斑目さん、わたし今ちょっと思ったんです」
「ん、何を?」
「斑目さんは、もっといろんな人とお付き合いすればいいんじゃないかって」
「……は?」
「恋愛の経験値が低すぎるんですよ、斑目さんは。今の話だって、まるで中学生の片想いじゃないですか。せっかくファッションセンスも磨いてるんだし、もっと大人の恋愛をこなすべきなんですよ」
「そんなこと言ったってですね」
 ほら、こんなあからさまな誘い文句に気付いていません。わたしは熱弁に力が入ったふりをして、彼に顔をぐっと近づけました。
「そうすれば、咲さんにどんなタイミングでどんな行動をすればいいか、もっと勘が働くようになると思うんです」
「……大野さん?」
 斑目さんの膝に両手を乗せて。切なく潤んだ瞳で(自分で言うの、恥ずかしいですね)至近距離から彼を見つめて。
「斑目さん……わたし……」
「……え」
「わたし……っ」
「ちょ――」
 壁に囲まれた個室は、逃げ場がありません。
 斑目さんが驚いた表情で壁に後頭部をぶつけるのもかまわず、わたしは彼の唇を奪っていました。

「――ん」
 唇が触れていたのはほんの一瞬です。優しい斑目さんはわたしを押しのけたりできず、ただ目を見開いてこちらを凝視するばかりでした。
「斑目さん、わたしって、魅力ないですか?」
「……ナニ言ってんの、大野さん」
 自分の口に手をやり、まだすぐそばにあるわたしの目を見つめます。
「だって……大野さんは」
「その切り返しも古いですよ、斑目さん」
 わたしは田中さんとお付き合いしていますし、田中さんを愛しています。
 だから斑目さんにいま抱いているこの感情は、愛ではありません。
「わたし、斑目さんのこと、大好きです」
 ……少なくとも自意識の表層では、自分にそう言い聞かせています。
「だからわたしは、その斑目さんに、咲さんとつりあう人になって欲しいんです」
「春日部さんと……」
「斑目さん、今だけでいいです。今夜だけ、わたしのこと、好きになって下さい」
 斑目さんの両手をとります。
「ずっとなんて言いません。斑目さんには咲さんっていう目標があるんですし、わたしだってお付き合いしている人を裏切る気はありませんから。でも、でも今夜だけ、斑目さんの恋人になって、そのことで斑目さんを咲さんの近くに連れて行ってあげたいんです」
 わたしは、自分がお節介な人間だなって思います。
 斑目さんは今、自分のペースで咲さんにアタックしているのに、わたしはそれに介入しようとしているのです。
 少し前に、荻上さんに笹原さんをくっつけようとしていたことを思い出しました。わたしの行動が彼らになにか役立ったかどうか、いまだにわかりません。……そのかわり。
 そのかわり二つ、確信したことがあります。一つは、わたしにできることは、そう多くはないということ。荻上さんにコスプレさせて、偶然出くわした笹原さんをキュンとさせたり、打ち合わせにかこつけて彼女の家に彼を連れ込むのが関の山です。
 もう一つは、だからこそ、自分がしたいと思ったことはしてしまうべきだということでした。
「斑目さんは、咲さんがいろんなサインを出しているのを見落としてるかも知れませんよ?」
「サイン?」
「ゲームならすぐわかるでしょう?『相槌が欲しい』『褒めて欲しい』『励まして欲しい』。現実の女の子は、コマンド選択の時に画面にポーズかかったりしませんからね」
「……あ、その話解りやすい」
「その選択肢の中には、ひょっとしたら『頭をなでなでして欲しい』とか『ぎゅって抱きしめて欲しい』っていうのがあるかも知れませんよ。高坂さんとはなかなか会えませんし、咲さんだって生身の……人間なんですから」
 ほんとは『生身の女だから』っていうことが言いたかったんですが表現を変えました。
「誰かにぎゅってして欲しい時、うまくそうしてくれる人がいたら、やっぱり嬉しいと思いますよ。それが何回も続けば、その人が自分をずっと見ててくれてるんだって、解りますよ。小手先の計略の話じゃなくて、それで斑目さんの本当が解ってもらえるんです」
 斑目さんはわたしの言ったことを反芻しているようです。かなり長い間考えて、……ようやく、顔を上げました。
「……大野さん」
「はい」
「俺は、そんな器用な人間になれるかな……?」
 言葉は疑問形で語っていますが、斑目さんの目は違いました。ひとひらの揺らぎもありません。
「卒業からこっち、彼女を普通に訪ねていけるようになって、話ができるってだけですげー嬉しかったんだ。いま言われてみると、俺はソレっぽい会話をはぐらかしてきたかもしれない」
 ずっと握ったままだった両手を、逆に握り返されました。手のひらから伝わる熱が、瞳にたぎる決意が、ここにいない咲さんではなくわたしの心を揺さぶります。
「俺は……春日部さんのことをもっと解ってあげられるようになれるのかな?」
「……さあ?どうですかね」
 いじわるなセリフと、その真逆の本心を、言葉と表情の両方で伝えます。斑目さんはもう、これくらいのことは理解できる人になっています。
「大野さん……いまさら基本に立ち返るけど、俺は春日部さんが好きなんだよ」
「知ってますよ、そんなこと」
「春日部さんと高坂君がお似合いなのは百も承知だよ。だけど、俺はそれでも春日部さんが好きなんだ」
「斑目さん」
 わたしは彼の左手首を持ち上げ、腕時計を確認しました。もうすぐ7時。
「わたし、今から斑目さんに魔法をかけます」
「え?」
「斑目さんがわたしのことを好きになる魔法。今から朝まで……12時間だけわたしを好きになる魔法です。斑目さんは、魔法が効いている間に、強い男の人になって下さい。咲さんと釣り合う、強い人に」
 いったん手を離し、彼を力いっぱい抱き締めました。わたしの耳元で、漫画みたいに息を飲む様子が感じられます。
「明日の朝になったら魔法は解けちゃうんです。斑目さんは咲さんを好きな斑目さんに、わたしは田中さんを愛している大野加奈子に戻っちゃいます。だからそれまで、わたしの恋人になって下さい」
「大野さん……俺は」
 自分の手を、わたしの胴にまわそうかどうしようか躊躇している斑目さん。彼には魔法がなんだのと言いましたが、わたしの方にこそ魔法がかかっているみたいです。
 なにを考えていたのでしょうか。しばらくの間があった後、斑目さんはわたしを抱き締め返してくれました。
「斑目さん、アブラカダブラ。あなたは、わたしを好きになる」
 顔を起こして、彼にもう一度キスします。今度は、もっと長く。わたしの体に回された手のひらから、胸に響く心臓の鼓動から、触れ合った唇から温かい感情がわたしの中に流れ込んできます。
 斑目さん。
 斑目さんは、咲さんが好きなんですね。
 咲さんのためになら、どんなことでもやり抜こうと思ってるんですね。
 わたしは、そんな斑目さんが大好きです。わたしは、斑目さんが幸せになる姿が見てみたいです。
 この先、いろんなことがあると思います。最終的に斑目さんが咲さんとお付き合いできるかどうか、わたしには判りません。
 でも今、斑目さんがそれを望んでいるなら、わたしはそのお手伝いをしたいと思います。
 だから――。
「斑目さん、大好きです」
 キスを離して、あらためて伝えます。
「大野さん……」
「夜はまだまだ長いですよ。このお店を出たら、すこし街をぶらぶらしましょうか。それから新宿行って――はダメか、誰が見てるか判りませんね――地元に帰りつつカラオケ、どうですか?」
「……オイオイ」
 明るい声で今後の計画を話すと、斑目さんは髪をかきあげて困ったような声を出しました。
「明日会社あるんだよ?大野さんも学校でしょ?」
「大丈夫!魔法は明日の朝7時で切れますから、それで家に戻ればちょっと休めますよ」
「待て。寝かさない気デスカ」
「やですねえ、愛する二人には刹那の時しか与えられていないんですよ。それに、斑目さんには女心をたっぷり教えて差し上げなければならないんですから」
「あれ、加奈子先生って思ったより厳しい?」
「スパルタですよお、ふふ」
 斑目さんもノリを取り戻したようです。大まじめな斑目さんも恋に悩む彼も素敵ですが、やっぱりこの一歩引いた感じがいちばん似合っていると思います。
「たまんねーな、朝までカラオケやる体力なんて――」
「STOP!誰が夜通し歌って過ごすなんて言いましたか」
「ふぇ?」
「カラオケのあとは……」
 斑目さん、勘がよくなりました。わたしは彼の、すでに真っ赤になった耳元でささやきます。
「大人の恋愛のこと、もっと勉強してください、ね」
 耳たぶに、キス。
 斑目さんは避けませんでした。たぶん、12時間うんぬんのあたりで展開は読めていたんじゃないでしょうか。
 密着したままの胸に、ますます早くなる鼓動が感じられます。
「……大野さん」
 興奮を沈めようとしているのでしょうか、鼻で呼吸をする様子とともに、斑目さんが言葉を発しました。
「はい」
「それなら、その……もう一回、呪文をお願いできねーかな」
「えっ」
「俺もホレ、往生際の悪いヤツだからさ。とどめ、刺してくれよ」
「もう。面倒な生徒ですね」
 もう一度、キス。と、斑目さんがわたしの両頬を押さえました。
「サンキューな、大野さん」
「……いえ」
「大野さん、好きだよ、俺も、あんたのこと」
 斑目さんからの、不意打ちのキス。
 ――決意の、キス。
 またちょっと泣きそうになりましたが、我慢して目で笑いかけました。


**** 

 わたしは、斑目さんが好きです。
 もちろん田中さんを愛しています。ここのところ会える数が減って、若干欲求不満気味かも、ですけど。
 斑目さんに対する想いは、田中さんへのそれとは随分違うように感じます。そもそも、斑目さんはわたしの方を振り向いてもくれません。
 わたしは、斑目さんに幸せになってほしいと思います。彼の見つめる先がわたしでなくっても構いません。彼が、彼の想いを、彼の想う相手に100%でぶつけられるなら……わたしがそのお手伝いをできるなら、それでいいのです。
 わたしはわたしの働きかけで、斑目さんが一歩踏み出す決心をしてくれたことに満足していました。今夜は夜通しかけて、彼に女性とのつきあい方を――わたしごときがおこがましいですが――教えてあげましょう。
 それが彼にとってどういう結果になるかは、わたしには解りません。わたしにできることは、そう多くはないのです。
 でも、だからこそ、わたしは斑目さんを全身全霊で応援してあげたいのです。
 彼のキスに応えながら、わたしは自分の不思議な恋が成就した喜びに……。
 そしてこれからの12時間で行なわれる恋愛への期待に、胸を高鳴らせるのでした。

**** 

 翌日、月曜日の午後。わたしは久しぶりに現視研の前まで来ていました。けさ斑目さんとお別れしたあとも目が冴えてしまって眠れず、そのまま大学の1限を受けてきました。せっかくだから荻上さんたちの顔を見ていこうと思ったのです。
「ふわああ。こんにち――ぅわ!?」
 生あくびをかみ殺しながらドアを開けたわたしの目と鼻の先にいたのは……斑目さんでした。『いつものとおり』の。眼鏡をかけて、ぺったりした髪型の。わたしは夢でも見てるんでしょうか?
「あ、大野さん、久しぶり」
「……斑目さんじゃないですか。ご、ご無沙汰してます」
 スーツの上着を羽織りながら話しかけ、同時に背後の荻上さんに見えないようにウインクをしてきました。
 あわてて調子を合わせると、わたしと入れ替わりにドアをくぐって出てゆきます。
「せっかく会えたのにごめんな、もう昼休み終わるから戻らなきゃ。また積もる話でもしよーや。じゃ」
「あ……。そうですか、はい。それじゃ、また」
 わたしの肩をぽんと叩いて、前髪をかきあげ、ドアの外で振り返って手を振って。そうして斑目さんは帰っていきました。わたしの返事も全部聞いたかどうか微妙です。
「……大野先輩も、けっこう久しぶりですね」
 いつまでも鉄扉を見つめているわたしに、背中から荻上さんが話しかけてきます。
「斑目さん……なんだか、変じゃありませんでしたか?」
「え?なっ、なにがですかぁ?」
「えーっと。うまく言えないん、ですけど」
わたしの動揺には気付かなかった様子で続けます。
「久しぶりに見た斑目さん、なんか、なんていうか……カッコいいんですよ。見た目なんにも変わってないのに」
「ええー?」
「大野先輩、今すれ違っただけだし解んないスよね。それとも私の考えすぎですかね……。最近は現視研にいても朽木先輩しか来ないから、人恋しくなってんですかね、私。たはは」
「……うーんと」
 荻上さんが混乱しているので、わたしの方に心を落ち着ける余裕ができました。
「それは暗にわたしの事を責めてるんでしょうか?」
「え!あっいや、そんな、ちっ違いますよ、すいません」
「謝るってことは思い当たるってことですかぁ~?」
「え、え、えっと」
「やですね、冗談ですよ荻上さん。コスプレでもして気を静めたらいかがですか?」
「……今のですっかり冷静になりました」
 荻上さんをからかいながら、わたしはまた斑目さんが出ていったドアのほうを見ていました。
 夢じゃありません。彼がわたしのすぐ脇を通ったので、気付きました。
 斑目さん、ほんの軽くコロンをつけてます。かなり控えめで、そうとう近寄らなければ判らないでしょう。
 ネクタイのブランドが例の、咲さんの御用達でした。あれも買わされてたんですね。
 それから、ちょっと考えてようやく思い当たった違和感。彼の眼鏡……ひょっとして、度が入ってなかったんじゃないでしょうか。
「大野先輩?」
「あっああ、ハルヒと長門、どっちやるんですか?」
「どっちもやりませんっ!」
 なによりさっきの、髪をかきあげる仕草。ぴんと背中を張った、颯爽とした立ち姿。自信ありげな、優しい笑顔。そんなひとつひとつが荻上さんにも伝わっていたのでしょう。
「斑目さんがカッコいいなんて大事件じゃないですか。ここはひとつ、難事件を解決しなければなりませんね」
「ナニ言ってんスか」
「わたしが蘭ちゃんやりますから荻上さんは哀ちゃんを」
「言うにことかいて幼女ですかっ!肝心の探偵がいねェし」
 荻上さんの件は混ぜっ返すことにしました。
「歩美ちゃんよりいいかと思ったんですけどねえ。じゃあじゃあ、荻上さんは名探偵弥子ちゃんで、わたしはアヤを」
「しませんってば」
「アレも頭脳労働担当じゃないですしねえ。プティアンジェなんかどうですか?……あ、大変ですよ!」
「えっ?」
「わたしのできるキャラがありませんよ」
「知りませんよそんなのっ!」
 まあ、せっかくですから黙っておきましょう。本人からのさっきのウインクも、そういう方向の依頼だと思いますし。
「探偵ものって女性が主役の作品、少ないんですよね。小説や実写だとけっこうありますけど、ミス・マープルやら桜乙女やらどれもこれも年齢的に納得いきませんし」
「いいじゃないスか、怪事件に首突っ込むだけなら探偵じゃなくても。歴代の魔女っ子だってホームズのコスプレくらいしてますよ」
「あら荻上さん、やる気まんまんじゃないですか。それじゃあいっそモモ&マミで」
「だからそーじゃなくてッ!てゆーか途中から古すぎです!」
 わたしは荻上さんとじゃれあいながら、さっきドアを出ていった『もと恋人』を……12時間だけの恋愛を思い返してみました。
 あの二人の時間で、斑目さんはなにかを得ることができたでしょうか。わたしは彼になにかお手伝いができたでしょうか。単に、わたしのムラっ気のおもちゃで終わったりしていないでしょうか。……いいえ。
 いいえ、そんなこと、ありません。
 前知識なしで彼を見た荻上さんの感想が、すべてを物語っています。
「荻上さん荻上さん、ちょっと話戻しますけど」
「なんですか?」
「斑目さん、そんなにカッコよかったですか?」
「……はい。カッコよかったです」
「男の人として?」
「そうなんですよ」
「好きになっちゃいそう?」
「それはありません!」

 ……まあまあ、ですかね。

彼の想いが、彼の好きな人に届きますように。
彼の心が、彼の好きな人に受け取ってもらえますように。
魔法でもなんでもない、彼の努力が、彼の想い人の気持ちを動かしますように。

荻上さんに強要するコスプレトークの次の話題を考えながら、わたしは斑目さんにこっそりエールを送るのでした。




おわり

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最終更新:2007年11月02日 01:18