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斑目、歩く 【投稿日 2007/12/14】

カテゴリー-斑目せつねえ


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もし俺が「フツー」の奴だったら。
 斑目晴信はふと考えた。足を止めて目を空に泳がせる。手を顎に当てようとしてやめた。わざとらしいポーズに思えたのだ。
 冬は終わり、春も近い。
異常なほどに冷え込んだ空気も今は若干の暖かさと湿気を含んでいる。乾いて軽かった冬の空気を斑目は懐しんだ。空気が肌の表面を舐めているように彼は感じた。
 汗がこめかみから頬を伝って首へと落ちた。肌着の中に入り込んだそれに気づいて彼は顔をしかめる。手で軽くつかんで服を二三度揺さぶった。しかしそうして送り込まれた空気もやはり重たく肌に吸い付いてくる。眉間に皺寄せて彼は天を仰いだ。
 太陽の光は圧倒的だった。
 降り注いでくる光線はアスファルトの上で弾けて四方に跳ねている。
 頭上から降り注ぐ光の雨。粉々に砕けて身体を打つ。その眩しさに文字通り目が眩む。健康的に過ぎる。そう思って再度彼は顔を顰めた。
 悪い酒を飲んだような気分だった。不透明な酩酊感に支配されていくのを彼は感じていた。きらめく光の刃に身が苛まれる。そんな錯覚さえ抱く。あながち錯覚にも思えなかった。
 再び天を見る。そして太陽に向かって舌打ちを漏らした。
 太陽は嫌いだ。

 立ち止まったまま、周囲を見渡した。
 公園を人の群れが泳いでいる。群れはあるいは一人であったが、多くは番いを成していた。
 彼らは手を絡め、あるいは腕を取って歩いている。口に出す声は喜びを含み、目は親愛の情を伝えている。
 一組の男女が横を通り過ぎた。そして彼のことを見た。
 視線を感じたのは一瞬だった。
 彼は通り道に立っていた。女は身を引いて彼を避けた。道の中に立つ彼を胡乱げに眺めて通り過ぎる。それはただの反射であり機械的な反応にすぎない。
 彼が女の進路上にいた、だから避けただけ。
 そこに特殊な意味はない。
 だからそこに「意味」を読み取るのは彼自身だ。視線に自己卑下を重ねて俯いた。アスファルトの向こうに池の水面がある。水面の向こうに見えたのはやはり男女の嬌声だった。
 何がそんなに楽しい。
 僻みだ。自分でもそう思う。しかし黒色の感情は心を浸して犯す。それは今、身を包む陽光の激しさにも似た感情だった。
 もし俺がフツーの奴だったら。
 もう一度考えた。あるいは違う姿もありえたのだろうか、と。
 そして首を振った。
 そんな仮定に何の意味がある。そう思ったのだ。仮定は仮定であり、現実は現実だ。仮定に蓋然性があるのならば思いを巡らせる価値もある。しかし、斑目晴信は明らかに「フツー」ではない。

 ――俺は「オタク」だ。

 自分の姿を省みる。
 おざなりな格好だった。一枚千円のワイシャツ、数百円のネクタイ、セールで買ったスーツにダッフルコートを羽織っただけ。見るものが見れば、どの程度の品物かはすぐにわかるだろう。そう、例えば、春日部咲が見れば。
 頭の中に浮かんだ顔は斑目の心を揺らす。本来ならば、春日部咲は自分のような人間とは触れ合うはずのなかった人間だ。
 数学の時間に習った「ねじれの位置」。
 自分と春日部咲はあの関係だと斑目は思う。決して交わることがない。
 彼女の整った顔立ちを斑目は思い出している。嫌味ではない程度に施された化粧がはっきりとした目鼻立ちを際立てている。黒めがちの瞳を斑目は濡れているようだといつも思う。

――もし俺がフツーの奴だったら。

 詮無き仮定を再び心に思い浮かべた。
 そして可能性を否定する。オタクではなかったとしても自分は随分と冴えない人間だっただろうと思ったのだ。春日部咲の恋人高坂に勝てる見込みは万に一つもない。
 今自分を動かしているのが願望であることを斑目は自覚している。しかし、それは心を灼く願望だった。
 だから彼は足をとめられない。再び大学へと足を動かし始めた。
 目指しているのは、椎応大学サークル棟304号室。現代視覚文化研究会部室。
 そこに「彼女」がいる。
そう思って、彼は足を急がせる。いるかもしれない、会えるかもしれない、それだけで十分なのだ。
 斑目晴信は恋をしている。
 打ち明けるつもりはない。ただ彼女と会うために昼休みに会社を抜け出し、部室へと足を急がせる。
 手元でコンビニの袋が音を立てた。カップルとすれ違う。自分と咲があのように一緒に歩くことはないだろう。斑目は思う。それでも、あの部室でならば、一緒に空気を吸い、一緒に話すことができるのだ。それでいい。

――春日部さんに言わせれば、やっぱオタってキモイねーってところか。

 斑目は苦笑を頬に浮かべた。確かに我ながら随分と気持ち悪いと思ったのだった。その「キモイねー」という彼女の声を聞きたい自分がいたからだ。
 百万分の一の「もし」を心に思いながら、彼は歩を進める。

―もし俺が「フツー」の奴だったら、高坂抜きでも、春日部さんの友達くらいにはなれたのかな。

 そんなことを思っていた。