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『カエデ』 【投稿日 2006/12/20】

カテゴリー-笹荻


 荻上千佳が笹原完士と水道橋駅の改札を出たのは、11月の終わりの日曜日のことだった。今日も空は高く、よい天気だ。朝の風はもう冬の冷たさだが、日中は小春日和の1日となるだろう、と出掛けに見た天気予報は伝えていた。
「……笹原さん、なんかニヤケてますよ?」
 千佳の服装は普段とあまり変わらない。チノパンに重ね着のシャツに、ピーコートスタイルの薄手のコート。地元駅からここまでの1時間、世間話をしている間中も笹原は普段以上の緩んだ笑顔で千佳に接していた。
「いやー、ははは、ごめん。なんかさ、『デート』だなあって。カンゲキしてるとこ」
 笹原も綿のパンツにセーター、ハーフコートというスタイルだ。
「まだ何回もしてないじゃない?こんなデートっぽいデート」
「んー、まあそうですね……秋葉原とか即売会とかとは、なんか違う感じです」
 恋人にデートデートと連呼されて軽く頬を染める。ふと自分の姿が気にかかる。
「ひょっとしたら笹原さん、私こんなラフなカッコじゃないほうがよかったですか?なんかもっとこう、キチンとした」
「いやいや。そんなんされたら俺キンチョーしちゃうし」
「だってホテルのレストランなんて」
「その前に遊園地だよ、俺たち。ドレスとタキシードでジェットコースターでもないでしょ」
「まあ……ソレ言ったらチョイスからして変だつうコトすかね」
 ことの始まりは、学園祭で笹原が応募した大学生協の懸賞だ。
 彼らに限らず学生たちが気軽に応募するこの抽選会は学生食堂や売店、大学周辺の商店などが協賛して提供した豪華な賞品が目玉で、飲食店が多いせいか割引券やサービス券に混じって高額の食事券もいくつか入っている。
 笹原が当選したのは都心にある、椎応大学の理工学部キャンパスに隣接したホテルの食事券だった。
『東京エッグホテルとは言え、バイキングだそうから気負わないで行けるし、どう?』
『ありがとうございます、うれしいです』
『そしたら晩飯食うだけじゃなんだし、昼間どこか行かない?映画とか……』
『あ、それなら』
 誘われたときの会話を思い出す。彼女が行きたいと言ったのは、東京エッグホテルの敷地内にある東京エッグシティアトラクションズだった。ようするに遊園地である。

「やっぱ、いい年して遊園地なんておかしいですかね。せめて東京デスティニーリゾートとか言っといた方がよかったかな」
 恐縮してしまった千佳に、笹原は慌ててフォローを入れる。
「い、いやいやそんなことないよ、俺も楽しみだもん。オバケ屋敷とかティーカップとか」
「……私、田舎にいたときは遊園地なんか行く機会なくて。親があんまり連れて行ってくれなかったんですよね。遠足とか修学旅行とかで行ってすごく楽しくて、また行きたいなって思ってたんですけど。でも、大学生になって一人で行くのもおかしいじゃないですか」
「そうなんだ。なんか意外だね、荻上さんと遊園地って組み合わせ」
「そうですか?」
 都心随一の遊園地と言う謳い文句にたがわず、駅から5分で二人は遊園地の入り口に着いていた。
「あれ?入場券はどこで……」
「笹原さん、ここは入場券要らないんです。中でアトラクションチケット買うだけでいいんですよ」
「え、マジ?俺子供の頃来た時は買ってたよ?」
「5年ほど前にシステム変えたんです」
 笹原に誘われた翌日、学内の書店でガイドブックを購入したのは秘密だ。
「荻上さんよく知ってるね、頼りになるあ」
「あ、ダメですよ笹原さん。ちゃんと私のこと引っ張ってってください」
「うわぁアウェイだよ、厳しー」
「あはは、お願いしますね」
「わかった。頑張らせていただきます」
「あ、それから」
「ハイ?」
「……オバケ屋敷は禁止ですから」
「……よし。オバケ屋敷からGo!どこだ?お、アレがそうか『13月の扉』!」
「あああー!ヤですってばあそんな強気はぁ」
 笹原が千佳を引きずって移動する途中で、二人はある集団に出くわした。普段着とは明らかに違う服装、彼らの間を流れる、身に覚えのある雰囲気。

「あれ、コスプレ?なんでレイヤーがいるの?」
「え、ああ。昨日と今日、ここでコスプレフェスティバルやってるんです。ここの目玉企画らしくて」
 エッグシティでは年に数回、コスプレのイベントを行なっている。これもまた一般の遊園地らしからぬ特徴のひとつだった。もともと、30年以上も以前から遊園地のオリジナルキャラクターを作ったり、ヒーローショーを行なったりしている場所だけのことはある。
 数年前に敷地を拡張した時からのイベントだが、毎回多くの愛好家たちでにぎわっており、近隣住民からも若干引き気味ながらおおむねの歓迎を受けていた。
「……オタクの市民権もずいぶん広がったもんだ」
「ここだけだと思います、こんなの」
「ねえ荻上さん?いま俺ちょっと思い当たったことあるんだけど」
 ふと笹原が口を開く。
「こーいうイベントに参加しそうな知り合いがいるっつうことなら、私も。でもダメですよ笹原さん、そういう事って考えちゃうと実現しちゃうんですから」
「あー、そうだね……っていうか」
 せっかくの二人きりを、たとえ頭の中でも邪魔されたくない千佳は笹原を牽制した。……が、少し遅かったようだ。
「ごめん荻上さん、実現しちゃった」
「あらぁ?荻上さんに笹原さんじゃありませんか」
 詫びる笹原の声にかぶさるように、千佳の背中から聞き覚えのある声が二人を呼んだ。眉間に皺を寄せて振り向いた千佳の目に入ってきたのは、案の定特製の衣装に身を包んだ大野加奈子と、カメラを抱えた田中総市郎だった。
「大野先輩……おはようございます。田中さんも」
「お二人も今いらしたところなんですか?いいですねえ遊園地デート」
「荻上さんおはよう。すまんな笹原、声掛けないでおこうって言ったんだけどさ」
「なに言ってるんですか田中さん、大学からこんなに離れた場所でめぐり合えるなんて、とぉっても素敵なことじゃありませんかぁ」
 少し遠くから二人を認めた田中は恋人初心者の笹原たちに気を使い、それぞれで楽しめばいいと加奈子に提案したそうだ。しかし楽しいことはどんどん大きくしたい主義の加奈子は田中の静止を振りきり、二人の元にまっしぐらと言うわけだ。
「いいんスよ。お互い隠しだてすることじゃないし、俺たちが気づかないままだったらもっと恥ずかしいことになるじゃないスか」

 笹原は言った。同じ敷地にいる以上もっともな話ではある。
「今日のは戦隊物ですか?」
「ああ。東京エッグに来たらコレだろ、やはり」
 二人の今日のコスチュームは、ちょうど今放映中の戦隊ヒーロー物を題材にしたものだ。
 田中は謎の強敵として現れる甲冑の剣士、加奈子は主人公サイドを見守る精霊の衣装を着ていた。田中のアレンジスキルはたいしたもので、放映時には正直ちょっと野暮ったかった精霊が、健康な色香を振りまく美女に仕上がっていた。
 周囲を通るギャラリーは、コスプレ愛好家の男どもばかりか、家族で遊びに来た男の子や女の子、父親までもが加奈子に目を奪われながら行き過ぎてゆく。
「いつものイベントとは違って、子供たちがたくさんいるのがいいんですよね。わたしたちを見る目が純粋で」
 加奈子はいつにもまして楽しそうで、それを見守る田中の顔もほころんでいる。ヒーローたちを苦しめる最強の剣士が、娘の入学式を喜ぶパパの顔をしていた。
「こないだの学祭のお食事券か。いいな、ホテルのレストランでディナー」
「からかわないでくださいよ」
「まあ楽しめ。俺たちは午後くらいまではこの辺にいるから、お前らの邪魔にはならんよ、多分」
「わたしたちはそれからアトラクション三昧なんですよねー」
 コスプレフェスティバルに登録するには費用がかかるが、代わりに登録証と一緒にフリーライドチケットがもらえる。コストパフォーマンスがいいのも、このイベントの人気の理由だった。
「じゃ、俺たちは一回りしてきますね。せっかく来たんだし、いろいろ楽しみたいし」
「ああ。あのジェットコースター、お勧めだぞ。観覧車くぐるのがスリリングだし、一番高い位置で理工学部の校舎が見える」
「遊園地まで来て学校思い出したくないっすよ」
イベントのメイン会場へ歩いてゆく田中たちを見送り、笹原はあらためて千佳に向き直った。
「……あはは、あなどれないね、あの人たち」
 千佳もまだ少し口元がこわばっていたが、しばらく考えて不機嫌になるのも無意味だと思いなおした。小さくため息をついて、あらためて笹原に笑いかけた。
「まあ、いいです。コスプレあるところ大野先輩あり、ですからね」

 東京エッグシティは遊園地としては老舗もいいところで、ビルの建ち並ぶ都心にあることもあって遊具のラインナップはむしろ地味な方だ。ビルにまとわりつき、ドーナツ型の観覧車をくぐりぬけるジェットコースターの他はごくごくオーソドックスなアトラクションが揃う。
 刺激を求める若者は郊外の巨大遊園地へ出向くため来場者は小さな子供連れのファミリー客が多く、全体的にゆったりとした空気が流れている。
 いろいろ回ってみると、千佳はスカイフラワーに夢中になった。高いタワーに沿って昇って行き、すとんと落ちるパラシュートの遊具だ。
「笹原さん、あの、これもう一回いいですか?」
「あ、うん」
 ほんのひと月ほど前に動物園の『初デート』で見せた無邪気な笑顔をまた見つけ、笹原はなにやら頬を緩ませて千佳を見つめる。
「なんか変ですか、わたし?」
「あ、いや、そんなことないよ。荻上さん、高いところ好きなの?」
「……なんだかバカだって言われてる気がします」
「わわ、ごめん、そんなつもりじゃ」
「ウソですよ。確かに私、背が低いですから大きなものや高いものに惹かれる部分あるのかもしれませんね。ほら、この間の象とか」
「あ、俺も思い出してた」
「……あの日、すみませんでした」
「なに言ってんの、済んだ話」
 広くはない敷地内に効率良く並べられたアトラクションを堪能し、近くのショッピングビルにも足を運ぶ。何軒もある雑貨屋でペアカップを選んだり、比較的リーズナブルなファッションショップで互いにどのセーターが似合うか見定めたり。
 あまりにベタなデートコースに、二人で何度も顔を見合わせては吹き出した。
「……お揃いのセーター、買ってみる?」
「ヤですよそんなの。一体いつ着るって言うんですか」
「じゃ、お揃いのパジャマとか」
「……知りませんっ!」

 夕食を豪勢に予定しているので、昼食は遊園地のファーストフードに入店した。ガーデンチェアに腰掛けてハンバーガーを片手に、目の前を行き交うコスプレイヤーを眺める。田中と加奈子のペアも何回か、手を振りながら通り過ぎて行った。
「なんか大野先輩」
 ジュースのストローから口を離し、千佳が笹原に話しかける。
「今でもほとんど田中さんの家から大学通ってるみたいなんですよ」
「へー、聞いてなかった。すごいね」
「お金大変じゃないですかって言ったら、にんまり笑って定期券見せてくれましたよ」
「ははは。でも楽しそうじゃない」
 ポテトを口に放り込んで続ける。
「あの二人、お似合いだもんね。案外そのまま……おっ」
 わあっ、と大歓声が上がった。そちらを振り返ると、どうやら戦隊物のコスプレイヤーが一堂に会し、全キャラ集合で決めポーズを披露したようだ。『東京エッグでボクと握手!』というわけだ。サブキャラクターの中にはもちろん、田中たちの顔もあった。
「うはー、すごいね荻上さん、あの人数」
「え……ええ、そうですねー。あはは」
 午後に差しかかり、アトラクション巡りの後半戦。いま二人は観覧車のゴンドラの中だった。
「あっほら、来るよ」
「うわ、真横なんてタイミングいいですね」
 ここの観覧車はドーナツ型をしており、中心に空いた穴をジェットコースターが通りぬけるデザインになっている。二人のゴンドラはちょうどコースターの線路をかすめる位置におり、千佳は思わず椅子を立ちあがって窓に貼りついた。
 ほんの数メートル脇を高速のローラーコースターが通り抜ける。先頭車両の客と目が合った気がし、あまりの近さに思わず腰が引ける。ゴンドラの微細な揺れに乗ってしまい、体のバランスを崩す。
「ふぁ……」
「荻上さん!」

 慌てて笹原が、千佳の背中を抱き止めた。肩越しに顔を覗きこみ、心配そうに尋ねる。
「危ないよ。大丈夫?」
「あ……すっすいません、大丈……」
 『……夫』の口の形を捉え、笹原が素早く千佳にキスした。
「!」
「……あ……ごめん、嫌だった?」
 唇が触れ合ったのはほんの一瞬だったが、そのコンマ数秒で彼は真っ赤に顔を染めている。千佳の顔も似たようなものだが、こちらは驚きが若干濃い。
「その……つい、したくなっちゃって」
「……もう。やらしいですね」
 戸惑いながら目を逸らす。少しの間の後、視線を戻す。
「べつに……ヤじゃないですから」
「……ん」
 アクリル張りの個室は弧を描きながら上昇して行く。頂上に差しかかったところで、二人はもう一度キスをした。
「あ、あれ、小石川庭園ですよね」
 眼下に見える公園に気付いて千佳が言った。遊園地のすぐ隣地には、江戸時代からの庭園が残っているのだ。
「うん、実はこのあと、夕食までの腹ごなしにどうかなって思ってたんだけど。行ってみる?」
「へえ、風流ですね」
「今ちょうど紅葉の時期でしょ。ゼミの友達に聞いたんだけど、夕方までライトアップやってるんだって」
 水戸光圀の上屋敷跡としても知られる小石川庭園は都心にありながら幾重にも植生の連なった見事な枝振りの樹々で有名な場所である。数キロ圏内にある帝大植物園、駒込庭園とともにこの地域を緑豊かな場所として知らしめている。
 入場料の安さもあいまって近隣住民もしばしば深呼吸に訪れる庭園は、11月の後半には「紅葉まつり」と題して落葉樹のライトアップを行ない、普段と違った賑わいを見せていた。
「へー、けっこう暗くなるんですね」
「足元落ち葉だらけだよ、気を付けてね」
「はい」

 外周を壁と背の高い樹で覆い、内側に池と小川、四季折々の草木をちりばめた庭園は視覚効果も考え尽くされており、ほとんどの場所で外界のビルが目に入ることはない。殊に日が落ちてからは、油断すると本当に深い森に入りこんでしまったかのような錯覚を受ける。
 晩秋のひんやりとした風が草いきれを運ぶ中、二人は他の見物客とともに声もなく順路を進んでゆく。
 ところどころに銀杏や楓を照らし上げるスポットライト。光の柱がそれもまた一本の幹であるかのように見える。
「きれいですね」
 木々の隙間の草地に立って、光る紅葉をながめては感嘆のため息を漏らす千佳に寄り添い、笹原もうなずく。
「ぶっちゃけオッサンくさいかと思ったんだけど、意外とアタリだったね」
「あ、いや、でも実際オッサンくさいですよ?」
「うえええ?」
「ふふ、そこがいいんです」
 そっと体を傾け、笹原に寄りかかる。
「さっきの遊園地とここで、なんかバランス取れた気がしませんか?」
「きみがいいんなら、よかった」
 笹原は千佳の両肩を抱く。
「一歩入って思ったんだけど、大学の裏山の方がよほど紅葉きれいだったんじゃないかなってさ」
「あれとは趣が違いますよ。スポットライトもありませんし。それに」
 つい、と笹原の手を逃れ、千佳は人の途切れた広場へ歩み出た。
「それに、私の田舎は八王子なんかメじゃないくらいの山の中ですから。自然のままの森って言う意味なら、もっとすごいの知ってますよ」
「なるほど」
「ここの紅葉もすごくきれいで、よく考えられてるって思います」
 笹原が歩み寄るのを感じながら、楓を見上げて言う。
「でも郷里の山の紅葉も、圧倒されますよ。大学入ってから帰ってないですけど……あの」
 彼の方を振り返り、顔を見上げる。
「うん?」
「あの……いつか、一緒に見に行きたいです」

 笹原の顔を見ていられなくなり、頬を染めてうつむく。
 笹原はそんな千佳に優しく笑いかけた。
「うん。俺もぜひ連れて行って欲しいな」
「はい」
 上目づかいに見上げ、にこりと笑みを返した。
 エッグホテルの3階レストランは大賑わいで、『シティホテルのレストラン』に気迫負けしていた二人をほっとさせた。もともと遊園地と野球場に隣接した施設だ。休日の晩はファミリーと酔客ばかりで、ファミレスと大した違いはない。
「緊張して来たけど……なんか拍子抜けだね」
 両手に料理の皿を持って戻ってきた笹原が、テーブルで待つ千佳に言った。彼女も半笑いで、笹原を元気付けるように言う。
「いえ、でもよかったじゃないですか?これで紳士淑女の社交場だったら私たち、絶対お食事おいしくなかったですよ」
「ま、そうとも言えるか」
「食べましょうよ、せっかくのバイキングですし。あ、そうじゃなくて『ブッフェ』って言うんでしたっけ」
 笹原が戻ってくる直前にテーブルに置かれた、ビールのピルスナーグラスを指し示す。
「そうだね。じゃ……」
 二人でグラスを持ち上げる。千佳は笹原を見つめ、笹原は少しの躊躇の末こう言った。
「君の瞳に乾杯」
「……ハア。言うんじゃないかと思いましたよ」
「あれ、ダメだった?」
「もう全部ブチ壊しです。あははは」
 食事を続けるうち、周囲の客も落ち着いてきたようだ。広いホールである上テーブルの間隔も贅沢にとってあるため、時折横を通る人を気にしなければ悪くない雰囲気がただよう。
 予約しておいたのが良かったのか、二人の席は窓の外にエッグドームのイルミネーションがまたたく場所だった。真っ暗な空と、金のランプが幻想的なコントラストをもたらす。

「あとで、あそこも歩いてみようか。ちょっと気が早いみたいだけど、どうせ俺たちクリスマスは忙しいしね」
「1ヶ月前倒しですか。でも笹原さん、あんまり遅くなっても、明日も会社行くって言ってましたよね?」
「まだ大丈夫でしょ。それにいざとなったらこっちに泊まるって手も」
「またそんな事を」
 先ほどの乾杯と言いあまりに古臭い展開に、千佳は若干引きつり気味の苦笑を見せる。ところが、笹原の顔は真剣そのものだ。
「笹原さん?どうかしましたか?」
「……荻上さん、あのね」
 上着のポケットに手を入れる。なにか思いつめたような顔をして取り出した手には、アクリルのキーホルダーにつながった鍵があった。
「……このホテルの部屋をさ、取ってあるんだ。実は」
「!?」
 パタン、という音とともにキーがテーブルの上に転がる。
 二握りほどの長さの透明なアクリル棒に太いチェーン、その先には……部屋の鍵。
「……っ」
 千佳は息を飲み、笹原の顔を見た。頬を染め、まるで呼吸まで止めているような真剣な表情。
「あっ……あ、の……」
 一瞬で体温が上がるのを感じる。自分を見つめる笹原の熱を帯びた視線が、さらに顔をほてらせるようだ。
 胸の鼓動が早くなる。笹原の顔を見る。キーホルダーに目をやる。自分の膝に視線を落とす。ますます動悸は早くなる。
「え……と」
 ルーティーンが3周目に入ったとき、あることに気付いた。はっとして身を乗りだし、キーホルダーの印字を読み取る。
 筆記体の英字フォントで箔押しされていたため気に止めていなかったが、そこに書かれた文字は『Tokyo Egg Hotel』ではなく……『Genshiken』となっていた。
「……えっ」
 部屋番号も見たことのある数字。304……部室のナンバー。ひとり部室で原稿を描くことも多い千佳自身が持ち慣れた、先端に特徴的な切り欠きが並んだ鍵。
 顔を上げて笹原を睨む。『ような』、ではなく、噴き出さないように本当に呼吸を止めている、真っ赤な顔。千佳はからかわれたのだ。
 一瞬、怒りをぶちまけて帰ってしまおうかと考えたが、ふと思い当たった。要するに今日のキーワードである『デート』の一環ではないのか。

 遊園地。観覧車でキス。落ち葉の道を二人で歩き、ホテルでディナー。夜景を見ながら『君の瞳に乾杯』、極めつけは今の『上の部屋を取ってあるんだ』。子供の頃に故郷のリビングで観た、古いラブストーリーさながらの展開。
 つまりは全て、笹原なりの演出なのだ。
「さ……笹原さんって……こんなデートしたかったんすか」
 思わず脱力し、テーブルに突っ伏す。
「あー……その、最後のキーは俺じゃなくて田中さんから、でして」
 怒らせてしまったと思っているのだろう、探り探り言う。
「荻上さんトイレ行ったとき、ちょうど田中さんも一人で通りかかってさ。俺だけだって知ったら『秘密兵器を貸してやろう』って、コレを」
 おおかた見当がつく。田中もきっと、加奈子をこれで赤面させたことがあるのだ。
「ったく……だいたい今時のシティホテルが、こんな地方のビジネスホテルみたいなキー使ってるわけないじゃないですか」
「あ、それは俺も思った。でも荻上さんもドキっとしたでしょ?」
 まったくだ。我ながらどうかしてる。
 図星を差されて再び睨みつけると、笹原はたじたじとなる。
「俺さ、荻上さんとオタっぽくないデートできるって思って、はりきってたんだよね。ぶっちゃけ彼女できるなんて生まれて初めてのことだし、そうしたらどんなのがスタンダードなのかさっぱり判んなくて」
 キーホルダーに視線を落とし、話し始める。
「恵子に聞くのもなんか癪だし、ネットでいろいろ調べてみたんだけど……途中で、そういうんじゃないって思ったんだ」
「『そういうの』?」
「んー、マニュアルとか、今どきの流行りとか、そういうのに乗っかるのは俺らしくないんじゃないか、って」
 一口ばかり残っていたビールを手に取り、飲み干す。
「俺がさ、これまで自分で妄想していた『理想のデート』を、荻上さんに見てもらうほうがむしろ、俺にとっても荻上さんにとってもいいんじゃないかって思った。言ってみれば、それそのものが俺自身だから」
 笹原の『理想』の出どころは、千佳が感じたのと同じく子供のころのテレビドラマだった。家族が食卓で、たいして集中もせず眺めるラブストーリー。

 原典はいろいろだが、そのエッセンスが落ち葉の道の散策であり、ホテルの夜景だったのだという。ひとつひとつのシーンで俳優たちが、ある時はほのぼのと仲むつまじく、あるときは灼熱の恋のさ中で、それぞれの愛を確かめあう姿が強く印象に残ったと言うのだ。
「ホテルの食事はラッキーなことにタダ券が手に入ったし、すぐそばに小石川庭園があるのもすぐ思い当たった。荻上さんのリクエストの遊園地に関しても、俺ん中ではビジョンがあってさ」
「それ、観覧車の時の……ですか?」
「あ……バレてた?あははは」
 照れて笑いながら頭を掻く。
「今日のそれぞれが、俺の思っていた『恋人と一緒にいる時間』だった。我ながらベッタベタだし、ひとつひとつがつながってないのは判ってたけど、でも俺はそういうシーンを、好きになった人と過ごしてみたかったんだ」
「……ホテルのキーも?」
「ん、実はそう。田中さんからこんなもの貰って、渡りに舟デシタ」
 ばつのわるそうにこちらを見る笹原に、千佳は怒る気が失せていた。
 キーのことにしても、結局悪気や下心でからかっていた訳ではない。それに他のイベントも、千佳自身が楽しんでいた。
 今の打ち明け話で、笹原の心も受け取れたように思う。いま言われた通り、彼にとっても自分にとってもよかった、ということは間違いではない。
 自分も彼も、こと恋愛に関しては笑えるくらい経験不足だ。この点で笹原が嘘をついているとは思えないし、自分の知っている恋愛は手すら握れない、ひどく幼いものでしかない。
 そんな自分たちには、このくらいありがちなものの方が似合いなのかも知れない。ピアノで言えばバイエルだし、絵画なら素描の段階なのだ。
「ふう。大体解りましたよ、笹原さんの言ってること」
 苦笑混じりの溜息をついて、千佳は笹原を問い詰めるのをやめることにした。
「笹原さん、それで、楽しかったですか?」
「そりゃもう!……あ、荻上さんがつまんなかったら申し訳なかったけど」
「いえっ」
 謝罪を遮って言う。
「私も、デート満喫しました」
 彼を元気づけるように微笑み、続けた。
「動物園の時も、今日のことでも思ったんですけど、私、こういうの意外と好きみたいです。いつもの同人ショップめぐりとかも楽しいんですけど、今日みたいなのって、その……ドキドキします」
「よかった」

 笹原もほっとしたように笑う。
 私たちは図体こそ大学生だが、その中身は実年齢ほど育っていない。せいぜい高校生くらいなのだろう。私と笹原さんは今、高校生の恋愛を楽しんでいるのだ。
 すでに肉体関係もあるクセに、彼氏彼女の経験はこれから築くという本末転倒なカップル。事前の知識理論ばかりが先行する、オタクならではの生態というわけだ。それも一興ではないか。
「あの、笹原さん」
「ん?」
「笹原さん、まだこの手のビジョン、持ってますよね」
「ん、んー、まあ」
「私もあるんです。冬コミまでにもう一回くらいこんなデート、してみませんか?今度は、私のプロデュースで」
「あ……うん!面白そうじゃない」
 笹原の楽しそうな笑顔につられ、千佳も頬を緩ませた。
 ふと窓の外を見ると、風が庭園から運んできたものか、二枚の楓の葉が宙を舞っていた。建物の壁でつむじを巻く風に乗り、ひとしきりダンスを踊るようにして視界から飛び去って行く。
 触れては離れる小さな手のひらのような紅葉は、互いに手をつなぐことにさえ不慣れな自分たちのようだと思った。そうだ、今日だって並んで歩いていても、手をつないですらいないではないか。
「ちなみに荻上さんのビジョンって、一体どんな……?」
「秘密ですよ。言ったら面白くないじゃないですか」
「うっ、そか」
「楽しみにしててくださいね。ところで笹原さん、ベルばらとかポーの一族とかお好きですか?」
「……今の流れとソレと、もしかして関係あるんでしょうか?」
「さあ?あはは」
 あとで行こうと誘われたイルミネーションの道もきっと彼のビジョンの一つで、道の真ん中で抱き締めてくれるとか、ひょっとしたらもう1回くらいキスしてくれるつもりなのだろう。
 このあとの笹原の『ビジョン』にまた胸を高鳴らせながら、千佳は自分の理想のデートを練り始めていた。もちろんベルばらだのは冗談だ。
 千佳はその計画の内容を今、まず一つだけ決めていた。残りは帰ってからゆっくりと考えればいい。
 そのデートでは……、

 二人でずっと手をつないで歩くのだ、と。


おわり