『マル。』(後編) 【投稿日 2006/09/09】

カテゴリー-笹荻


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「……え」
 こちらを見つめる目が点になる。己の耳を疑っているのがあからさまで、笑いをこらえるのに苦労する。
「い……いま……」
「はい?」
「……好きって、言ってくれた?」
 1年間、はぐらかし続けた言葉。ほんの2音節のこの単語を、『言わなくたってわかるでしょう?』と勿体をつけてきたこの呼びかけを、千佳は今日の日まで育ててきた。
 当初は、『そう言えば私からは言ったことないな』程度の引っかかりだった。それが3ヶ月になり半年になり、いつしか我慢比べのようになった。
 笹原が千佳に『好きだ』と言い、『俺のことはどう思ってるの?』と聞く。千佳が笹原に『どうして私なんか好きになったんですか?』と訊ね、笹原が答え、また『それで、荻上さんは……?』と問い返す。感情が高ぶって、自分から言ってしまいそうになったこともある。
 千佳はそれを口に出さない。ありったけのボディランゲージで、熱のこもった視線で、おぼつかない指で精一杯応えはするが、その言葉だけは自分の内にしまったままで今日まで来た。
 それだけ、千佳にとって大事な言葉だった。
 かつてのボーイフレンドにも言うことのなかった、生まれて初めて異性に告げる愛だった。

「あれ?聞こえなかったんですか?」
「いっいや、聞こえたんだけど……」
 からかい気味の千佳の言葉に、彼の顔が再び赤くなる。
「聞こえたんだけど、ね……っ」
 声が震え……、瞳の光がふいに揺らいだ。
「え……え、笹原さんっ?」
「え、あ、いや」
ぐすりと鼻を鳴らし、片手で目をこする。
「いやその……はっ、初めてだよね?言ってくれたの」
「……はい」
「えーと……嬉しくって、さ。はは、泣いてしまいました」
 恥ずかしそうに、幸せそうに、千佳を見つめる笑顔。慌てるあまり思わず駆け寄ってしまった両手のやり場に困り、こぶしを握る。
「もう……バカですね、大の男がこんなことで泣くなんて」
「スイマセン」
「そんなだからいつまでも強気攻めが身につかないんです」
「スイマセン」
「こんなときはむしろ、私の方が泣いちゃってそれを慰めるくらいじゃないとダメなんですよ」
「スイマセン」
「ほらまたぁ!」
「え?うわ」
 千佳は笹原の胴を抱き締めた。恐縮の極みの笹原が見下ろすと、千佳が……怒りながら、笑いながら、泣いていた。
「……スイマセン、ほんとに」
 ぎゅっと抱き返し、頭をなでる。
「笹原さん、私、笹原さんにお見せしたいものがあるんです。家に置いてあるんですけど」
 彼の胸に顔をうずめたまま、千佳は言った。
「あとで帰ったら、見ていただけますか?」
「……もちろん」

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 その晩。二人が千佳の部屋に帰りついたのは7時前だった。笹原が用意していた切符はもっと遅い時刻のものだったが、二人で考えて時間を変更して帰ってきたのだ。
「おー。余裕持って帰るって贅沢でいいねー。なんかもうひと遊びできそうな感じで」
 玄関先に荷物を置き、千佳に続いて笹原が部屋へ上がる。
「なんか、ちょっともったいなかったですかね」
「そんなことないさ。あそこでしたかったことは大体してきたんだし」
「……大体?」
「ん……ほら、これからのことまでで1セットだったんでしょ?荻上さん」
「ええ、まあ確かに」
 笹原をいつものようにソファに座らせ、キッチンからグラスに麦茶を入れて持って行く。
「とりあえずは、お疲れ様」
「はい」
 笑みを交わし、グラスのふちを合わせる。秋の日差しで温まっていた部屋の空気が、エアコンに徐々に冷やされていく。
「……で」
 千佳は机の脇のシェルフに置いた封筒を、両手で持ち上げて笹原に見せる。
「これが、例のものなんですが」
「あっはい……って、これ、原稿?」

 1年前との相似形。だが、部屋に流れる雰囲気も、千佳の表情も以前とは違う。
「ええ、漫画……なんです。笹原さんに読んで欲しくて描いたんです」
 これまでにも千佳から、完成した漫画を見せられたことはある。そんなときには笹原はいつも、創作者に対する敬意と、恋人に対する愛情をもって作品を読んできた。だが、どうも今回は様子が違う。
「……カップリングは?久しぶりに『笹×斑』が描き溜まったのかな?」
「違いますよ!」
 前フリのつもりで言ってみたが、案の定そういうものではないらしい。少し機嫌を損ねてしまったようだ。
「あ、ごめんごめん、ちょっと前のこと思い出しちゃってさ……」
「あえて」
 笹原の言葉を遮り、千佳が言った。
「あえて言うなら……『笹×荻』です」
「……えっ」
「もういいですから、早く読んでください!……私、ここで待ってますから」
 耳まで赤くし、こちらと目も合わせられない様子の千佳を見て、これが特別な原稿だと解った。
「……うん、わかった。じゃ、早速読ませてもらうね」
「はい」
 笹原は封筒から紙束を取り出した。

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 漫画は、少女を主人公としたファンタジーものの冒険譚だった。
 不用意な言動が元で魔女に親友を殺され、それが原因で他人とかかわり合うこともできなくなった少女が、あるとき立ち寄った宿屋で出会う人々によって次第に心を開いてゆくストーリー。
 超然とした皮肉屋だが状況分析力に優れた男性、少々乱暴だが面倒見のよい姐御肌の少女、おおらかな心と知略に富む策謀家の両面を持つ女性、その恋人で手先が器用な優しい目をした青年などが、彼女の凍った心を少しずつ溶かしてゆく。
 そして、少女のすぐそばでずっと彼女を守ってくれる少年。ある時は彼女の堅牢な盾となり、ある時は温かく彼女を包み、ある時は力強く彼女を導く指標となる。少女はやがて、少年に強く惹かれてゆく。
 後半、魔女とたびたび出会い対決を強いられるが、少年は主人公の少女を助けて戦ったりしない。ともに立ち向かい、守り、知恵を与えて少女に助力するが、彼が武器をとって魔女と対決することはなかった。その理由はクライマックスへの行程で明かされた。
 魔女の正体は少女自身であり、それを知った少年は魔女を倒すのではなく、魔女と少女の和解の道を探っていたのだ。
 最後の戦いのさなか、少年は言う。
『ぼくはきみの全部が好きだよ。きみの姿も心も、簡単に落ち込むところも。木や花に話しかける癖も、すぐ怒るくせにすぐ泣くところも、全部まとめてきみなんだから』
 完成度の高い下書き原稿の見開きページで、少年は言葉を少女と、魔女にも向けていた。戦いの構図は少年と少女が魔女に立ち向かうのではなく、いつの間にか少年が少女と魔女に対峙する形になっているのがこのページで明らかになる。
『だってわたしは……大切な友達を』
 彼女は言う。言葉を発したのが少女なのか魔女なのか、定かではない。
『失敗は戻らないよ。でも、だからきみが一生それに引きずられなきゃならないっていうのは間違ってる』
 それまでの優しい描写とは一線を画した、毅然とした表情の少年。
『きみは傷つかなきゃならないんじゃない。きみが傷つけた人たちのためにも、きみは、幸せにならなきゃならないんだ』

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 笹原はいつしか、この物語に引き込まれていた。事前に言われなくても、初めの数ページでこれが千佳の物語だと気づいたろう。登場人物は姿も行動も現視研メンバーであると丸わかりだし、少年の顔は1年前に見た『千佳の描く笹原』そのままだった。
 いつもの絵より頭身を低く、描線を減らしたキャラクターは読み進むスピード感を考えたためだろうか。あるいは、彼女自身のトラウマという重いテーマで笹原までが気持ちを沈めさせないよう配慮したのかもしれない。
 ストーリーの密度と絵柄の受け入れやすさのバランスは、作品に高い完成度を与えていた。千佳がこれまでに描き上げた作品のどれよりも、笹原は夢中になっていた。
 最後の戦いは……過去の傷と、その傷に引きずられ続ける心と、それら全てを包もうとする意志とのせめぎあいは続く。
『わたしがどんなに謝っても、たとえわたしが自ら命を絶っても、きっとあの人は私を許さない』
 少女/魔女は言う。作画上でも二人はもう描き分けられていない。
『きみを許そうとしていないのはその友達じゃなくて、きみ自身だよ』
 少年は言い返す。
『きみがきみのことを許せないんなら、ぼくがきみを許してあげるよ。きみが友達にしたことを、ぼくにもしておくれ。ぼくはきみが大好きだよ。ぼくがきみの全てを支えてあげる。さあ!』
 少女/魔女が悲鳴を上げる。涙を流す。全身で拒絶し、震え、そしてそれでもその手には、かつて友人を死なせた魔法の光が輝き始める。
『いやよ……わたしは、あなたを……』
 少女/魔女は手のひらを自分に向けた。魔法の光を自分に放とうというのか。
 しかし少年は、次のコマでその手を、再び彼に向き直らせた。にっこりと少女に笑いかける。
『安心して。ぼくはきみが大好きだよ』
 見開きの白いページ……爆発。
 そして……。
 そして、笹原は原稿を読み終え、千佳のほうを振り向いた。

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「あの、読み終わりました」
「……はい」
 じっと机の上を凝視していた千佳が、たっぷり数秒の間をおいて振り返った。まだ視線を、笹原に合わせられないようだ。
「それで……どうですか?」
「どう……って言われても……」
 どう言葉を紡いだものか、躊躇する。これがなになのか、そもそも説明されていない。「上手だ」と言って欲しくて描いたわけでは当然あるまい。
「……これは」
 目をそらしたままの千佳が口を開いた。さすがに説明不足だと気付いたのだろう。
「これは、私の心の中です。形になった私の心です」
「……うん」
「笹原さんのこと好きになって、笹原さんに好きって言われて、笹原さんとお付き合いできるようになって、私は一体なんなんだろうって思うようになりました。自分勝手な妄想で人ひとり不登校にして、自分はといえば自殺未遂なんかしてみて不幸背負ったみたいになって」
 笹原が身構えたのに気付いたようで、慌てて手を振る。
「……あ、大丈夫です、落ち着いてます落ち着いてます。それでも自分の趣味捨てられなくって、高校の時は完璧な隠れオタ演じて。地元から離れたら性格変えられるかなって思って東京の大学受けて……でも変われなくって」
 視線をひざに落としたまま、ひとつ息をつく。
「笹原さんは去年、私の全部を見ても好きだって言ってくれました。現視研のみんなは、私が問題児だって解っても引かないで相手してくれました。むしろ大野先輩なんか食いついてきて困ったくらいです」
「あはは。大野さんも日本に戻って来るまで、いろいろ思うところがあったみたいだからね」
「そんな……私が、たくさんお世話になった人たちを、私に出来ることで形にしたいって、思って」
 千佳の心が決まったようだ。視線をゆっくりと上げ、すこしためらった後、笹原の目を見つめた。

「そうしたら、こんな話の展開が浮かんだんです。さすがにリアルなキャラや実名で描くのはムリだったんで、ファンタジーものにしたら都合もいいかなって考えたら、あとはどんどんキャラクターが……私が、動いてくれました」
「うん。俺も、読んでて引き込まれた」
「『どうですか』っていうのは、おかしかったですね。質問するようなもんじゃないんですから。……笹原さんのおかげで、私はこの漫画を描くことができました。この、マルがつくところまでの物語を。この漫画は、私が、私のやり方で、笹原さんに伝えたかった、私の心です」
 一言ひとことを噛み締めながら言う。
 その様子に、笹原はたまらなくなる。どうしてこの人は、いつもこうなのだろう。もっと楽な生き方も、もっと簡単な表現方法も、彼女なら容易に編み出せるはずだ。それを、なぜこの人は。
「荻上さん」
 ソファから立ち上がり、呼びかけた。言いたいことを言いきった安堵と、自分の行動に対するいぶかしさが同居する表情。
 なぜこの人は、わざわざ回りくどい道を生きるのだろう。どうして手間のかかる方の選択肢を選ぶのだろう。……いや、答えは出てる。
 オタクだからだ。彼女も、俺も。
 以前、妹に説明したことがある。オタクは、なろうと思ってなるもんじゃない。気付いたら、なってしまっているものなのだと。もっとも妹には理解できなかったようだけど。
 俺たちはこういう生き方しかできない。こういう自己表現しかできない。逆に言えば、彼女のこの作品は、それだからこそ彼女の真実なのだ。彼女が……俺の大切な人が、彼女自身にできる最大の方法で、俺に心を告げてくれたのだ。
 俺はこの人に、なにかができるだろうか。俺の行動は、彼女の力になるだろうか。俺が今から伝えることは、彼女の心に届くだろうか。それともあえなく拒絶され、全てが壊れてしまうのだろうか。
「……笹原さん?」
 立ち上がったまま何も言わなかったため、千佳は不思議そうな顔をして笹原に呼びかけた。
 笹原は優しく微笑むと、かがみこんで千佳に目線を合わせた。
「荻上さん、俺がこれから言うこと、落ち着いて聞いて欲しい」
「……?はい」
 当惑気味の表情ででこちらを見返す。
「荻上さん。……本気でプロの漫画家、目指してみない?」

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「え……」
 千佳の目が大きく見開かれ……これまでの会話を思い返しているのが判る。
「昼間の話。俺、会社の先輩に持ち込み先紹介してもらうよ。アシスタントやって現場経験積むのもいいって聞いてるし」
「え、で、でも……そうじゃなくて……」
 どこでこういう話のきっかけになったのか、戸惑いながら探っている。
「わ……私、そんな……そんなつもりでこの漫画……」
「解ってる。この漫画のことじゃないよ。荻上さん、落ち着いて、聞いて?」
 ひょっとしたら今の俺は、恋人のプライベートを食い物にして……恋人の心を描いた作品を切り売りして金儲けをたくらんでいるヤツに見えているかもしれない。混乱で泣きそうになっている彼女の頬を、両手で包み込む。そっとキスする。
「ん……っ」
 千佳がまばたきをし、その拍子に涙がこぼれる。笹原を拒む様子こそないが、動揺がピークに達しているのが判った。
「聞いて、荻上さん。俺は、やっぱりきみにプロの漫画家になって欲しい」
 唇を離し、言う。両手は顔を包んだまま額と額をくっつける。自分の考えていることが、頭蓋を通してそのまま千佳に伝わればいいと思った。
「これ、いままでは俺の単なる希望だった。きみがきみの人生をどんなふうに生きたって、俺はそれを支えていきたいし、それでいいと思ってた。プロはあくまで選択肢の一で、たとえばOLやりながら趣味で描き続けたっていいって考えてた」
 千佳の目をしっかりと見つめる。彼女が目を逸らせないように。俺の心が、ちゃんと伝わるように。
「でも今、きみの漫画を読んで、違うって思った。俺は、荻上さんが漫画家になるのを見たい。今の俺みたいに、きみの漫画に勇気を分けてもらえる人を、たくさん作りたい」

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「勇……気」
 ようやく一言、千佳が返した。
「うん。俺が今、きみの漫画から貰ったものだよ」
 伝われ。そう思いながら、にっこりと笑いかける。きみに勇気づけられた俺の心、きみに、伝われ。
「『100年に一度の天才だ』とか、そんなそれこそ漫画みたいなことを言うつもりはないし、俺にもそんなことはわからない。だけど、まだ仕事始めて半年の新米編集者でも、荻上さんに才能があることはわかるんだ」
 両手を頬から首へ伝わらせ、肩を支える。
「実を言うと、もっと前から感じてた。でも、それを言っちゃうと荻上さんの負担になるんじゃないかって思って、口に出さないでいた。……だけど」
 千佳の目の焦点が、徐々に戻ってくる。笹原の全身全霊の言葉を、心かき乱されながらもなんとか踏みとどまって聞いている。
「それは間違いだって、いま思ったんだ。俺は、荻上さんにプロになって欲しい。そのために俺ができることはたくさんあると思う」
 千佳の視線が再び笹原を捉える。笹原は両手を彼女の手に重ね、包み込んだ。
「これを言う覚悟を決められたのは、荻上さん、きみの漫画を読んだからだよ。あの漫画の中で……荻上さんの心の中で、俺はきみを見事に支えてみせたじゃない。現実の俺だって、それに負けてなんかいられないよ」
 重ねられ、裏返しにテーブルの上に置かれた原稿の束。笹原はその、最後のページをめくってみせる。少女/魔女と少年が全て巻き込まれた、真っ白な爆発の少しあとのシーン。
 宿屋のベッドで少女が目覚める。宿のみんながほっとした表情で彼女の回復を喜ぶ。ベッドの少女の横には、同じく今しがた目覚めた少年。
 そのさらに隣に、やはりたった今意識を取り戻した魔女の顔。少年を挟んで顔を見合わせる少女と魔女に、彼は心から嬉しそうに語りかけるのだ。
『二人とも無事でよかった。ぼくは、やっぱりきみが大好きなんだ。だってどっちのきみも、きみ自身なんだから』

「荻上さん、俺はきみが大好きだよ。だから、安心して、きみの望む道を進んで欲しいんだ。俺が荻上さんを支えるよ」
「笹……原さん……手、痛いです」
 いつの間にか握っていた手に、余計に力が入ってしまったようだ。
「あ……ご、ごめん」
 慌てて千佳の手を離す。
「ごめん。なんか俺……アツすぎた?ひょっとして」
 青春ドラマじゃあるまいし。ふいに途切れた緊張感の狭間で、笹原は今の自分を恥じた。だめだ、途中から独りよがりになってしまった。俺の言いたいことは伝わったと思うけど……これじゃ、ただの自分勝手ヤローだ。
「あの……」
「あ、荻上さん、ごめん。ちょっと慌て過ぎた、かも」
 千佳はこちらを見つめている。
「荻上……さん?」
「あの。ちょっとだけ、考える時間、もらってもいいですか?」
「あ……うん」
「笹原さんにそんなこと言ってもらって、嬉しかったです。私も、プロ目指すことは昔から考えてました」
 床を見つめ、ぽつりぽつりと話し出す。
「子供の頃から漫画描いてて、これをお仕事にできたらいいな、って、ずっと考えてました。特に、自分にはこれしかないって思うようになってからは、なおさら。だけど、……昼間もちょっと言いましたけど、いろいろ不安なことがあるんで、踏ん切りがつかないでいたんです」
 テーブルの上の、最後のページが開かれた原稿に目をやる。
「この漫画……『そんなつもりじゃない』って言いかけましたけど、ウソです。私、この原稿描いてて、笹原さんだけじゃなく、もっといろんな人に見てもらいたいって心の奥で感じたんです」
 笹原の顔を上目づかいでちらりと見る。心が定まらないようで、またすぐ目をそらす。
「いま笹原さんに言われて私、やっぱりプロになりたいって思いました。そのために笹原さんは支えてくれるって言ってくれましたけど、あの、……あの」

 視線をあちこちに泳がせながら、口を開いたり閉じたりする。言いたいことがあっても、うまく言葉にできないでいるのだろう。
「……あの。テンパったときの私、けっこう厄介ですよ?」
 さぐるように言葉にする。あ、そうか、と思い、笹原は答えた。強気、強気。
「うん、平気だよ」
「……落ち込んでる時なんか、モノに当たったりしますし」
「後片付けなら心配しないで」
「いたたまれなくなると、また飛び降りたくなるかも」
「荻上さんが窓にたどり着く前に、きみのことを捕まえるさ」
「あんまり先回りされたら、笹原さんにキライって言っちゃうかもしれません」
「う、ソレちょっとこたえるかも」
「すいません」
「でも大丈夫だよ。俺が、荻上さんのことを好きでいるから」
「んー、ありがとうございます。でも、……んー、でも……」
「うん?」
 まだしばらくきょろきょろとするが、やがて目を閉じ、ひとつ息をついた。
「ふう」
 目を上げ、笹原を見つめる。
「……荻上さん?」
 にこり。
 今までの混乱が消え去った、からりと晴れた秋空のような笑顔。
「笹原さん、私、言うことなくなっちゃいました」
 昼間、高原の町で二人見上げた、雲ひとつない丸い青空のような。
「私……持ち込み、やってみてもいいですか?あと、漫画賞の応募とか」
「うん」
 その空に引き込まれるように、笹原も笑った。
「うん。俺、応援するよ」
「はい、ありがとうございます。わたし、頑張りますね」

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 前回のマルから1年。どうかな、俺は彼女の物語に、新しいひと区切りをつけてやれたろうか。
 正直、不安材料は多い。俺ごときの人間が、荻上さんを支えるなんて偉そうなことを言い放っていいものだろうか。彼女にもっとふさわしい人物が現れたら。男前で、才能があって、金持ちで、……いやいや、ナニ言ってんだ、俺は。
 今日のこの日を決めるのに、もう覚悟はし尽くした。前フリも下準備も重ねた。あとは俺の強気が勝負の分かれ目なのだ。
 さっき荻上さんの漫画にも、あれほど勇気をかき立てられた。あと、もう一歩。
 もう一歩だけ頑張れ、強気の俺。
「……荻上さん」
 ゆっくりかがんで、目線を彼女に合わせる。気づかれないようにズボンのポケットに手を入れる。両手を取って、至近距離で笑いかける。
「えっ?……え……あ、……」
 千佳は目を閉じ、笹原はその口に自分の唇を合わせた。
 いつもより少し長いキス。その間に指の位置を確認し、手の中に隠していたそれを……もうひとつの『マル』を。
 ……指輪を、一気に押し込んだ。
「んっ!え、なんですか?」
 千佳が身を引き、何が起きたのか自分の手を見つめる。もう少しキスしていたかったが、仕方がない。
「え、ええ?これ、どうしたんですか?笹原さん」
「1周年記念のプレゼント。荻上さん、1年間ありがとう。これからもよろしく」
「え、だってサイズとか……あ、恵子さん?先週急に部室来て……」
「うん、あいつ使って聞き出させた。指輪より高くついたけどね、あはは」
 自分の手を見つめて目を白黒させる千佳に、重ねて告げる。
「荻上さん、俺、荻上さんのことが好きだよ。1年間一緒に過ごしてみて、もっともっと好きになってる。もしきみがかまわないなら、俺はずっと君のそばにいたい。……どうかな、いいかい?」
 千佳の目は指輪の石に注がれている。誕生石のアクアマリン。淡いブルーの光が彼女に瞳に反射している。

「……え、それって……これって」
「うーん……どうなんでしょ」
 エンゲージリング。同時に頭の中に浮かんだ代名詞で、互いに照れてしまう。
「いやその……もっとちゃんとしたの、プレゼントするよ、いつか。だからそれは、それまでの整理券みたいなもんってことで」
「……です」
「え?」
「いらないです。いりません」
「え……」
「そのかわり……あの、お正月に成人式で帰ったとき、家族に笹原さんのこと話したって言いましたよね?」
「え?あ、うん」
「両親が今度の連休に、東京に出てくるんです。商工会議所の旅行会だとかで」
「はい?」
「そのときの自由時間に、ぜひ笹原さんと会いたいと……その……父が言ってるんですよね」
 ちら、と笹原を見上げる。
「一緒に食事でも、って」
 うひゃあ。
「ええ~。この流れの直後にそんな話持ってきますか、荻上さん?」
 さっきまでとは違う汗が、額をつたう。
「……連絡もらったの、おとといだったんです。早く聞かなきゃって思ったんですけど、タイミングがつかめなくて。あ、でも弟も来ますよ、フォローは期待できますし」
「へえ、卒業式んとき以来……って待てよ、つまり家族全員と面談?」
「あ、そか……そう……なりますね」
「……は、はは」
 千佳が、こちらを見つめている。ちょっと頬を赤らめて、まあるい瞳で、期待を込めて。
「……ダメですか?」
 笹原はごくりと息を飲み、

 ……右手でマルを作ってみせた。
最終更新:2006年10月10日 23:48