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『マル。』 【投稿日 2006/09/09】

カテゴリー-笹荻


 9月なかばの火曜日、笹原完士と荻上千佳は揃って軽井沢駅に降り立った。朝というより昼に近い時間だが、乾いた高い空から真夏とは表情の違う爽やかな日差しが高原の町に降りそそいでいる。
「到着ー。うわ、なんかもう涼しいね、こっち」
「そうですね、東京ですら早々と秋って感じになってましたけど、格段に違いますね。寒いくらいです」
「さて、時間もあんまりないし、気合い入れてぶらぶらしましょうか!」
「笹原さん……それ言ってることおかしいですから」
 二人の記念日に、笹原の体が空いたのは偶然の産物だった。もともと時間も曜日もお構いなしの職場であったが、9月の初旬は年末進行のスケジュール調整を始める割と忙しい時期だ。
 今回の幸運は笹原の担当ではない連載作品のアニメ化が決まり、出版社がその雑誌を上げて作品プッシュに躍起になったことだった。当の看板作家とその担当編集者は年末年始の無休が確定した一方、他の作家陣はこの企画に置いてけぼりを食ってしまったのだ。
 もちろん制作側としては最前線で活躍できない悔しさもあるが、体が楽なのも事実だ。職場の先輩たちも(休日返上となった編集者までもが)新米の笹原に「休めるときには休んでおけ」というありがたいアドバイスを贈ってくれた。
 ちなみに同じ雑誌のライバル漫画に応援コメントのプレゼント用色紙を描かされる羽目となった彼の担当作家は、商業主義のひずみについて笹原にひとしきり愚痴ったあと、妻との正月旅行の計画に没頭することにしたようだ。さすがプロ、と彼は舌を巻いた。
「笹原さん、疲れてるんですからそんなに張り切らなくてもいいんですよ?」
「電車でいっぱい寝たから大丈夫。……ていうか荻上さんつまんなかったよね、ごめんね」
「いえっ……実は……私もほとんど寝てまして」
 千佳が笹原からの『無事帰れました。これで明日は大丈夫ですよ』というメールを受信したのは午前2時を回った頃だった。過去に何度も仕事が原因でデートを中止させられている身としてはそれまで寝る気にもなれず、一人ベッドで小さな液晶を見つめていたのだった。
「携帯のアラーム入れてなかったら、二人で長野まで行っちゃってたかも知んないす」
「うひゃあ、あぶねー」

 ****
 二人が付き合うきっかけとなった軽井沢に、1年目の記念日に行ってみたいと言ったのは千佳のほうだった。1年前の昨日、笹原は千佳に自分の胸のうちを明かし、そして翌日千佳は笹原の想いを受け入れたのだ。彼女自身の、笹原への想いとともに。
「思えばぎりぎりまで就職決まらなくてテンパってたんだよな、去年の今ごろ」
「恵子さんが合宿話はじめた時の笹原さん、すごい顔して睨んでましたよね」
「だって殺意めばえてたもん、あん時の俺」
 ぶらぶらと歩きながら話す。
 去年の夏はあわただしい日々が続いていた。千佳の夏コミ当選、彼女の部屋での販売会議、コミフェス本番ではスーとアンジェラの来訪、そして千佳の心の傷を知る友人との遭遇。
 笹原自身も就職が決まらず神経をささくれだたせる日々を送っていた。同期の高坂真琴が目を見張るような手腕で有名ソフトハウスに就職を決め、春日部咲は自ら経営者になろうと意気軒昂だった。
 彼はといえば、千佳への想いに自分で気付くも恋愛経験の不足から一歩も踏み出せない焦燥感もあいまって、彼には自分の踏みしめている場所がまったく見えなくなっていた。
「私も、そろそろ就職考えなきゃならないんですよねー」
「俺が動き出したのが3年の後期始まってからだったな」
 千佳が言う。3年生の夏休みともなれば、すでに就職活動を開始している同期も多くなっている。
「でも荻上さん、就職する方向も考えてたの?俺すっかりプロ目指すもんだと思ってたよ」
「いやあー。踏ん切りつかないですよ、やっぱり」
「夏休みのうちに持ち込み、やってみたら?受け付けてくれる出版社、探しておくから」
「はあ」
 子供の頃から、それこそ物心のつく頃からずっと漫画ばかり描いてきた千佳としても、この世界に飛び込んでみたいとは常々考えていた。しかし、自分にやりぬくことができるのかという疑問に、どうしても答えが出せない。
 自分の技量でプロの世界に割って入ってゆけるか。ヒットをひとつ生み出すまでに、体力や才能がもつのか。自分一人生きてゆくだけの金を稼げるか。全ての見とおしが立たない今、千佳は趣味を職業とする覚悟が持てないままでいた。

 ****
 9月に入ったため家族連れの観光客はほとんどいないが、それでも大学生グループや若い二人連れ、そして意外に多い壮年のカップルで避暑地は賑わっていた。
 去年は現視研のメンバーで歩いていた陽だまりの町を、二人で歩く。いつもならいらないちょっかいをかけてくるメンバーがいないと、妙に寂しい気もする。
「……そういえば朽木君、まだ就職決めてないんでしょ?」
「朽木先輩ですか?今もスーツで部室来て落ち込んでますよ、毎日」
「いろんなツテ頼って日本全国面接して歩いてるらしいじゃない。これで就職浪人なんてことになったらシャレにならないなー」
「私が心配してるのはそれより、先輩が卒業できるかどうかの方なんですけどね」
「あはは」
 雲ひとつない、青く丸い晴れた空の下。あちこちの店でお土産を買い、つまみ食いをし、ゆったりとしたテンポで見物して回る。表通りから一歩奥へ入って『ポモドーロ』で昼食にすることにした。
「どうですか荻上さん、あらためて来た軽井沢は?」
「去年は結局、ほとんど楽しんでませんからね。笹原さん、あの時はホントすいませんでした」
 ナイフとフォークを使いながら聞いてくる笹原に、パスタを巻き取る手を休めて答える。去年は旅行の日程のうち1日を千佳は二日酔い、笹原はその看病で費やしてしまっていた。
「謝らないでよ。あのおかげで、今日こうして荻上さんとここに来れたわけだし」
「去年の写真……朽木先輩が撮ったやつ、私ゆうべ引っ張り出して見てたんです」
「あはは、常にフレームが斜めのヤツね。出来上がった写真見て田中さんが激怒してたよねー」

「あのあと1ヶ月くらい田中さんわざわざ顔出しに来て、写真部の居残り特訓みたいになってましたもんね、朽木先輩。……最終日に町を歩いてるときも、笹原さんと私、同じ写真に写ってることがほとんどなかったんですよ」
 傍らのバッグを探り、写真を取り出す。
「あれ、写真持って来たの?」
「その、二人とも写ってる写真だけ。この2枚だけなんですけど」
 1枚は軽井沢を発つ時に駅員に撮って貰った集合写真。もう一枚は写真係を買って出た朽木学の撮影による微妙にブレた写真で、町を散策しているときのものだった。
「え、この2枚だけ?」
「集合写真だって笹原さんと私、こんなに離れて。こっちに至っては道の両サイドの店で別々に買い物してるってだけです」
「うわ、俺ちっさー。荻上さんよく気づいたね、コレ俺だって」
「この写真、実はすごいんですよ。カメラ持ってた朽木先輩以外、全員フレームに収まってるんです」
「マジで?……あ、これ恵子だ……するとこの横向いてるのが春日部さんで……うわ、こっちが斑目さん?てゆーか、『ウォーリーを探せ』?」
「あはは、私も思いました」
「はは……でも残念だな、俺写真見返してなかったけど、もっと写ってるって思ってた」
 写真を返しながら言う。
「今日はいっぱい撮ろうね。カメラも買ってきたし」
「でも、人にシャッターお願いするの、なんか恥ずかしいっすよ」
「大丈夫大丈夫。俺仕事始めてから、初対面の人に無茶なお願いするの得意になったから」
「相手は漫画家でも印刷所でもないんすからね、無茶なのはダメですよ」

 聖パウロ教会、犀星記念館、三笠ホテル。雑木林にも入り、初日に散策した木陰の道を歩く。バスを使って小瀬温泉で降りる。
「……入ってく?」
「ここ日帰り入浴不可みたいですよ。……残念ですが」
「え~」
 その先の竜返しの滝では、千佳は大野加奈子からもらったというコスプレの写真を出して笹原に見せた。同じ構図で写真を撮りたいと言い始めた笹原をなだめすかし、ぎりぎり別アングルのツーショットを居合わせた観光客に撮ってもらった。
 まだ時間は早いが、頭上に見える午後の太陽は、その色合いをゆっくりと変えていく。バス停へ戻る道を歩きながら、笹原がふと時計を見た。
「そろそろ……行こうか?」
「そうですね」
 バスを途中下車し、二人は林の奥のほう、別荘の立ち並ぶ地区へと歩く。目的地はほどなく見えてきた。
「……あ、あそこ」
「うん、あのコテージだったよね。今日は誰か泊まってるみたいだけど……近くまで行ってみる?」
 別荘地のはずれ、急なキャンセルがあってあの日、幸運にも予約の取れた貸し別荘。半開きのカーテンが生活感を感じさせる。とはいえ、今の時間なら泊り客も散策に出ているだろう。
 建物へ続く板敷きの階段の端に立ち、記憶より若干古びた屋根を見上げてみる。
「1年かー」
「……なんか、全然違う建物に見えますよ私。そもそも去年はコテージなんか見てなかったかも」
「二日酔いで記憶が飛びましたかね?」
「その部分だけは思い出したくありません!」

 ****
 コテージを背にして、あらためて右へ。あの時は無我夢中で、どこをどうしてあの場所にたどり着いたのかまったく思いだせない。二人でぎこちない距離を保ち帰った時の記憶を手繰り寄せながら、ほどなく橋が見つかった。
 橋とは言っても、名もない小さなものだ。別荘地に流れる小さな渓流に、人や車の通行のための道を作っただけのものだった。
「ここ……だったね」
 二人は橋の上に進んだ。千佳は欄干に近づき、笹原はそれを追うように橋の中央に立つ。
「あらためて見ると……小さいですね。あの時はもう暗くなってて、もっと深くて大きい川だと思ってました」
「俺もー。この時間なら見とおしが明るいけど、暗くなるとすっかり森の中って感じだったよね」
 少しの間の沈黙。わざわざ1年かけてここに戻ってきて、互いが互いに言いたいことがあった。それをどう切り出せばいいのか、二人とも躊躇していたのだ。
「……あのさ」
 やがて、笹原が口を開いた。
「あの日に言ったこと、俺は今でも時々思い出すよ。『荻上さんを好きだから、守りたいからここにいるんだ』って」
「私、びっくりしました、あの時」
 千佳が応えて言う。
「びっくり?」
「笹原さんが、私に『好きだ』なんて言うんですから。びっくりしますよ。……それも、二日酔いでゲロゲロになってるところに」
「……はは、ごめん」
「さすがに混乱して逃げちゃいました。あの時も、転校したクラスメートのこと夢に見てたところだったんです」
「ああ、あの」
「笹原さん、私まだ説明していなかったと思うんですが」
 笹原の方を振り返る。
「……その友達、私のこと好きだって言ってくれた人なんです」

 彼の表情を探る。今の言葉に少し見開かれた瞳の奥を覗き込む。言わないままの方がよかったんだろうか……それとも……。
「私もその人のこと嫌ではなくて……まあ中学生ですからね、帰りがけに待ち合わせて神社で世間話したり。でもそれから何日もたたないうちに、私のイラストが彼の目に触れて」
 笹原は黙ったまま聞いている。その瞳はいつものように優しい光をたたえて、恋人を見つめている。
「私の夢に出てくるその友達は、私のことを責めないんです。夢ではいつも、私が一方的に彼のことを追い落とすんです」
 これまでに見た数百の悪夢が脳裏をよぎる。数百回、校舎の屋上から転落する彼と、それを面白半分の冷たい笑顔で見下ろす自分。背中に冷たいものが走った。
「告白される前から、その友達は私の中では『総受け』で……文芸部の友達みんなで小説書いて……私がイラストを……」
 連絡もなく彼が学校に来なくなった日。何日たっても登校して来ず、胸騒ぎが止まらなくなったとき。あの日教室に入った瞬間、自分を見つめた文芸部のみんなの視線。
「その人は……それっきり……私は……」
 このことを考え始めると、とたんに自分が中学生に戻ったように感じる。あれから数年の経験も全てリセットされ、何をどうしていいのかわからずただ泣いていた日々に。
「私……巻田くんになんにもしてあげれねくて……謝ることもできねくて……そンだのに、私だけまた男の人に『好きだ』なんて言われてぇ……」
 笹原が一歩、千佳の方へ踏み出した。反射的に一歩退く。ふるふると首を振る。
「だッだから……私ひとり暢気に色恋に浸るなんか許されねって思ってぇ」
「荻上さん」
 ふわ、と風がなびく。我に返ると、千佳は笹原の両腕に抱きしめられていた。
「荻上さん、俺さ、荻上さんのこと、守りたいんだ」
 千佳の耳元に、あたたかい吐息。

「1年前にも言ったけどね。荻上さんを傷つける全てのものから、俺はきみを守りたい。夏の暑さも冬の寒さからも。オタクの実態を知らない人たちの誤解からも。本当言えば、きみのことを責めるきみ自身からも」
千佳を抱く腕に力がこもる。
「1年間頑張ってきたけど、どうかな?俺、ちゃんとやれてる?」
「笹原さん……」
 彼が身を起こし、千佳の瞳を見つめる。先刻千佳が覗き込んだ時より、優しさの光は力を増したように見える。
「笹原さんは私なんかにはもったいないです」
「ありがたきお言葉」
 くすりと笑う。
「もったいないって思ったら、もっときっちり使い込んでくださいね、俺のこと」
「な……そっ、できませんよそんなこと!」
 笹原を押しのける。おどけながら大仰にのけぞる彼を睨みつけて、深呼吸し、笑顔で向き直る。
「すいません、パニクっちゃいました。もう大丈夫ですから、続けますね。笹原さんに聞いていて欲しいことがあるんです」
「うん」
「笹原さん、前に『逃げないことを選ぶのは、いつか自分の生き方に折り合いをつけるためだ』って言ってくれたこと、ありましたよね。私、あれでずいぶん楽になったんですよ」
 つきあい始めて間もない頃、自分を変える事ができずに落ち込む千佳に彼が言った言葉だった。
「それまでは『変わらなきゃいけない』のに『変われない』自分に思考停止しちゃってて、イラついて回りの人に当たって。まあ、そのあとも大して進歩してないですけど、それはそれなりに整理をつけるのも正しいんだって思えるようになりました」
 欄干に手をかけ、川に向かって伸びあがってみせる。笹原は一瞬びくりとするが、思い直したようで彼女を見守ってくれている。
「この下に、1年前の私がいるんです」
 あの夜のことがよみがえる。パニックに襲われてコテージを飛び出し、めちゃくちゃに走って息を切らし、立ち止まった場所。背中から聞こえてきた足音、眼鏡をかけていない視界にぼんやりとした輪郭しか見えない人影。

 ****
『あれ……え?笹原さん、ですか?』
 相手の正体が判った時に強まった鼓動は今思えば安堵によるものだったが、その場の主導権を握ったのは今の千佳ではなく、心を壁で防御し、暗い瞳をした当時の千佳だった。
 自嘲し、再浮上した罪の意識にさいなまれ、自身がどれほど罪科にまみれた存在であるかを涙とともに吐き散らす。笹原はそんな千佳を、今のような優しい表情で見守ってくれていた。彼女が最も忌み、そうしていてなお離れがたいやおい原稿に対してさえも。
『じゃあそれ、見てみよう』
 その言葉で、千佳が二人に別れた。
 優しい言葉を……たどたどしく、探り探りではあったがとてもあたたかい言葉をかけてくれた笹原に、千佳は同時に思ったのだ。『笹原さんなら受け止めてくれる』と。『笹原さんでもそんなことできない』と。
 笹原に心を委ねようと思った千佳は、その場で嗚咽をこらえながらそれでも笹原が傷つかない方策を探り、……笹原を拒絶した千佳は橋から身を投げたのだ。
「……私、笹原さんがショック受けるくらいなら私が自爆して現視研やめればいいって思ったんです。そのときに先走って飛び降りた『もう一人の私』が、ここにまだいるんです」
 千佳の視線の先には、あのときのジャージ姿の自分がいた。小川の真ん中に立って、黙ってこちらを見上げている。
 笹原も彼女の隣に来て、欄干から下を見下ろした。もちろん彼には、橋の下の幻など見えていないだろう。
「……浅いねー」
「……ええ。飛び降りなくてよかったですよ。これじゃ怪我もしないし、自爆にならないっすね、はは」
 川の中に立つ千佳は、問いかけるように首をかしげた。橋の上の千佳は、うん、とうなずいた。川の中の千佳は笑いこそしなかったが、なにか満足したようにうなずき返した。

 ****
「いま、その橋の下の荻上さんと、なんか会話してた?ひょっとして」
 笹原が千佳の顔を覗き込む。我が事ながらあまりの自己陶酔っぷりに赤くなって、千佳は笹原にもうなずいてみせた。
「えー、あの、はい。なんか、区切りをつけたほうがいいんじゃないかって思ったんです」
 区切り。ピリオド。句読点。……マル。
「中三のあのときから1年前の私までが、ひと区切りなんだって思ったんです。漫画なら第なん部かの『完』。文章なら、去年の昨日で『マル』がついたんだって、少し前に考え始めて。それで、今日はここに来たいって思ったんです……笹原さんと一緒に」
 下を見下ろすと、もう幻影の千佳はいなくなっていた。
「『荻上さん物語』ってワケですね、先生!自伝の構想まで練っておられたとは素晴らしい」
「茶化さないでくださいよ、もう!」
「あ……ごめんごめん、そんなつもりじゃ」
 茶化すつもりでないのは解っていたが、そう言って怒ってみせる。予想通りにうろたえてくれる笹原を見て、心が軽くなるのを感じる。
「去年、『飛び降りなかった方』の私とお付き合いしてくれて、ありがとうございます。これまでも何度も迷惑かけたのに、辛抱してくれてありがとうございます」
 隣で笹原は笑顔で見守ってくれている。
「こんな私ですけれど、これからもお付き合い、続けてくれますか?」
「はい。よろこんで」
 笹原は千佳の肩に手を回した。千佳は頭を、彼の胸にもたせかける。顔は平静を装っているのに、早鐘のように打つ彼の鼓動が耳に響いてきた。
「俺も、荻上さんにおんなじことお願いしようと思ってたんだよ。『マル』の話も、俺もちょっと考えてた」

 胸から耳を離して笹原の顔を見上げる。
「大学入って、『よしオタクやるぞ』って覚悟決めて、会長やってコミフェスもサークル参加して、就職も編集者目指そうって決心して。……現視研に……あのサークルに入ったことで、人生決めちゃったんだよね、俺」
 左手の親指と人差し指をあわせ、丸を形作る。片目をつぶり、できた穴から向こうの雑木林を見通す。その手を右へ動かし、こちらを見つめる千佳の目を、丸の中心に捉えた。
「斑目さんや、高坂君や、春日部さんたちでつないできたサークルが、俺にこんなにも多くのものをくれた。で、その中で一番大きいのは、荻上さんだった」
 左手を元へ戻し、千佳の肩に置いていた右手も外した。笹原の目は千佳の目を見つめたままだ。ほんの少しの距離をおいて、正面に向き直る。
「現視研に入ったから、荻上さんに出会えました。あそこで俺にたくさんフラグが立って、きみを好きになりました。サークルでいろいろ経験値を上げることができたから、きみに告白できました。まあ確かにいくつかイベントも発生したけど、俺は荻上さんの全部が好きです」
 しばしの間。彼の頬が上気しているのが判る。
「なんべん頑張っても強気になりきれないヌルオタですけど、これからも俺と一緒にいてくれますか?」
 この1年、彼は何回も千佳を好きだと言ってくれた。そのたびに、自分の幸せを噛みしめていた。
「(私も……)」
 私も、笹原さんに幸せを感じて欲しい。私なんかの言葉で、行動で、笹原さんは嬉しいと思ってくれるだろうか。私が今から言う言葉は、笹原さんの心に届くだろうか。
「はい、よろこんで。……あの、笹原さん」
「ん?」
 ひとこと目で彼の緊張がほぐれているのが見て取れた。なるべくなんでもないふうを装って、続ける。
「私も、笹原さんが、好きです」