空気嫁クッチー 【投稿日 2006/09/08】

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西暦2006年3月初頭、笹原たちの代の卒業式まで、残り半月を切ったある日のこと。
クッチーこと朽木学が異変に気付いたのは、その日の朝、大学に向かう途中の路上だった。
前方から若い女性が歩いて来た。
けっこう巨乳でなかなかの美人だ。
思わず目を向けるクッチー。
だが彼女の頭上が視界に入った瞬間、驚愕のあまり立ち止まって凝視してしまった。
美人の頭上に小さくて白くて丸い物体が浮んでいる。
その少し上に、それよりひと回り大きい白い丸。
そのまた上に、さらにひと回り大きい白い丸。
そして一番上には、彼女の胴体ぐらいの大きさの、雲に似た白くてモヤモヤした形の物体が浮んでいる。
(以下便宜上「雲」と呼称する)
「にょー??????????」
美人はクッチーに見られてることを怪訝に思ったらしく、険しい表情で足早に立ち去った。
「何だったんだろう、今のは?」
再び歩き始めるクッチー。
今度は前方から、3歳ぐらいの幼女と母親らしき女性が歩いてきた。
2人の頭上には、やはり雲が!
「にょー??????????」
またもや足を止めて2人を凝視してしまうクッチー。
彼の視線に気付いた母親は、またもや険しい表情で娘を抱き上げて逃げるように走り去る。
「まずいにょー、このままでは挙動不審で捕まるにょー」
クッチーはとりあえず道の端に寄って立ち止まり、凝視し過ぎない様に気を付けて、人待ち顔で通行人たちを眺めた。
全員の頭上に雲が浮んでいた。

「いかんいかん、ネットのやり過ぎで目が疲れてるにょー」
デイパックのポケットから目薬を取り出して点してみる。
何度かまばたきして、もう1度通行人たちを眺める。
やはり雲が見える。
「また目が悪くなったかにょー?」
ネットと総称しているが、それはクッチーがネットのヘビーユーザーだからで、彼はオタメディアの殆どをパソコンに頼っていた。
入学時に買って以来、テレビもパソコン、DVDもパソコン、CDもパソコン、ゲームもパソコン、そしてもちろんネットもパソコンだ。
その為、家に帰ってから学校に行くまでの時間の内、風呂とトイレと寝る時間、それに漫画や同人誌を読む時間以外の殆どの時間をパソコンの前で過ごした。
勉強もたまにはした方がいいと思う。
元々クッチーはオタクとしては目が良かった。
大学に入った時の健康診断での視力検査では、検査表のCの字を1番下の段まで見切った。
だが3年生になってからは、下から2段ほどがよく見えない。

まあそれでもオタクとしては相当目がいいことは確かだが、クッチーは悩んでいた。
目がいいことはオタとしては自慢にならないと思うが、実は秘かな自慢の種だったのだ。
「これでは昼間は星が見えないにょー」
いや普通見えないから。
(参考)ゼロ戦のパイロットには、昼間でも星が見えるぐらい目がいい人がいたそうです。
「最近は北斗七星の横の小さい星が見えないにょー」
前は見えてたのか、死兆星?
早死にするぞ。
「晴れてる満月の夜には、月面に立ってる星条旗が見えたにょー」
もういいから!
「調子がいい時には、火星の地表の…」
しつこい!

しばし考えながら歩くクッチー。
やがて眼鏡屋の前で立ち止まる。
試しにショーウィンドー越しに店内の視力検査表を見る。
通常の検査の距離より遥かに後方からにも関わらず、下から3段目より上は完璧に見えた。
「目には問題無さそうだにょー。と言うことは、これはいったい?」
再び通行人の頭上の雲を見る。
「ん?にょにょにょ?」
よく見ると雲の中に何かが見える。
「これは…文字?」
それは日本語の文章だった。
試しに読んでみる。
「急がないと、あと15分しかないわ」
「さて、昼御飯何にしよう」
「おーいまずいよ、早く銀行に着かないと不渡りになっちゃう」
「あーあ、講義かったるいなあ」
「ああもうムカツク!」
「何よ自慢しちゃって、どうせうちの子は公立よ!」
雲の中の文字を次々と読む内に、クッチーは事態を悟った。
「分かったにょー、これはみんなの心の声だにょー」
それではあの雲はいったい?
「心の声を描く時に使う、雲型の吹き出しだにょー。何てこった、漫画の世界じゃあるまいし…」
いや、漫画の世界です。
(厳密にはSSの世界だが)
そしてあなたは漫画キャラです。
でもそれは言わない約束…

クッチーは近くの公園のベンチに座り、何故こんなことになったかと考えた。
そしてある結論に辿り着いた。
「お星様が願いを叶えてくれたんだにょー」
現視研随一の空気を読めない男クッチーは、新人勧誘時の失敗に懲りて日々空気を読もうと努めるようになった。
だがすっかり体質と化した空気読めない病は、簡単には治らなかった。
苦しい時の神頼みという訳で、クッチーは毎晩寝る前に星を見ながらお祈りをすることにした。
「天のお父様、僕チンを空気の読める男にして下さいにょー」
もし神というものが実在するなら、「お前は『リボンの騎士』のチンクか?それに星にお祈りしておいて『天のお父様』は、日本語としておかしいぞ」とツッコまれそうなお祈りを彼は毎晩続けた。
雨天中止だけど。
「うーむ雨天中止にしたせいか、願いが少し間違って伝わって、空気じゃなく心が読めるようになってしまったにょー」
一応合理的(そうか?)な説明が付いて、自分で納得して再び大学へと向かうクッチーだった。

午前中の講義を終わり、学内を歩くクッチーはすっかり憔悴し切っていた。
「疲れたー…人の心が見えることが、こんなに疲れることとは思わなかったにょー…」
大講義室の講義(しかもこの日は出席を取るので、普段来ない学生まで来て満席)が続いたことが災いした。
何しろどっちを向いても、百人ぐらいの学生たちの心が見えるのだ。
最初は面白半分にそれらを読み耽っていたクッチーだったが、あまりにもネガティブな思考ばかりが並び、途中でうんざりしてしまった。
特に知っている学生の心が、自分に対してネガティブな気持ちを持っていることは、内心分かっていたとは言え堪えた。

「2ちゃんねるの荒れたスレ並み、いやそれ以上に酷いにょー…」
内容は書かない方がいいかな?
「やめた方がいいにょー。気分悪くなるのは僕チンだけでいいにょー」
あんた、案外いい奴だな…昼飯はどうする?
「とりあえず今はいらないにょー。食ったら吐きそう…」
まあ空気の読めない男が、急に人の心が読めるようになったのだから無理も無い。
頭上を見ると人の心が読めるので、すっかり伏し目がちになってしまったクッチー、いつか読んだ絶望先生の気持ちを心底理解出来たような気がした。
「知りたくないので知らせないで下さい!非通知でお願いします!」
クッチーにしては珍しく、原作に忠実に台詞を再現してしまう。

「どした、クッチー?顔色が悪いよ」
声をかけられて反射的に顔を上げるクッチー。
春日部さんだ。
しかもその傍らには、荻上さん、大野さん、それに恵子までが揃っていた。
「にょ~~~~!!!」『まずい!今1番会いたくない人々に会ってしまったにょー!』
春日部さんの卒業間近になって、ようやく大野会長体制の現視研に馴染みかけたクッチーだったが、彼女たちの心の中の、彼に対するネガティブなイメージが完全に消えたとは思えなかった。
朽木「(目を逸らしながら)知りたくないので知らせないで下さい!非通知でお願いします!わあああああ~~~!!(泣きながら走り去る)」
呆然と見送る女子一同。
春日部「変な奴だな、何かあったのかな?」
大野「まあ彼が変なのはいつものことですから、今さら驚きませんよ」
荻上「でも今日は、いつもにも増して変でしたよ」
恵子「大丈夫だよ。とりあえず走れる元気がありゃ、ほっといて大丈夫だろ、あいつは」
荻上「なかなか分かってきましたね」
春日部「(少し気になったが)まあいいか、あとで話聞いてやるか」
恵子「そうそう、それより飯行こう飯」
女子一同は学食に向かった。

夢中で下を向きながら走り続けたクッチー、気が付けば部室の前に居た。
『まずいって!こっちに逃げてどうする!いずれ女子の皆様、こちらに見えるって!』
落ち着け、とりあえず深呼吸だ。
「スー、ハー(数回繰り返す)よし、立ち直ったにょー」
つくづくタフな奴だ。
『落ち着いて考えてみれば、昼休みが済むまでは女子の皆様は来ないにょー。あの方々は僕チンの知る限りでは、昼飯を部室で食べる習慣は無いにょー』
よしその調子だ、冷静に考えろ。
『頭上を見なければ心の中は見えない。絶望先生を見習って伏し目がちにしていれば、心が見えることは無いにょー』
それに気付いただけでも上出来だ。
『それに、幸い現視研には僕チンより背の高い人は居ない。見下ろす視線で相対することになるから、相手を見る時は目より下を見ればいいにょー。よっしゃ行ける!』
考えがまとまったクッチー、意を決して部室の扉を開けた。

朽木「こにょにょちわ~」
斑目「やー朽木君、久しぶりだね」
例によって、斑目が昼飯を食っていた。
とは言っても毎日来てる訳ではないこともあって、ここしばらくすれ違いになることが多かったので、2人が会うのは1週間ぶりぐらいであった。
朽木「ごっ、ご無沙汰してますにょー」
視線を斑目の首の辺りに合わせつつ、挨拶するクッチー。
斑目の心なら見えても害は無いと思うが、用心に越したことは無い。
それに冷静に考えれば、やたらと人の心をのぞき見るのは失礼だ。
見かけに寄らず、クッチーは礼儀正しい男なのだ。
椅子に座った瞬間に、リュックからゲーム雑誌を取り出して読み耽る。
いや正確には、読み耽っているふりをした。
とても本当に読み耽る余裕は無かった。

幸いなことに斑目は、主に会長が座る上座に座っていた。
この状態でわざわざ斑目の正面に座ることは普通無い。
ドアの前の席は、満席の時の補助席みたいなものだから、斑目たちの卒業以降使われることは滅多に無かった。
だからクッチーはごく自然に、ドアから向かって右側の、斑目から見て左斜め前方の位置に座れた。
これなら少々斑目の方を向いても、雲は視界に入りにくい。

昼飯を食べ終えた斑目、ひと息付くと腕時計に目をやる。
釣られてクッチーも腕時計を見た。
もうじき斑目が職場に戻る時間だ。
斑目「今日は朽木君だけか…」
朽木「そのようですな」
斑目「最近みんな元気?」
朽木「みんな相変わらずですにょー」
斑目「…笹原たちの代のみんなは、最近は来てるの?」
朽木「さすがに来られる回数は減りましたなあ。笹原さんも研修始まってるらしいし、高坂さんは…この1ヶ月ほどお目に掛かってませんにょー」
斑目「…春日部さんは?」
朽木「あの方も時々見えてますが、この1週間ほどは部室でお会いしてませんにょー」
斑目「そう…」
朽木「でも今日は先程お会いしましたにょー。多分学食に行ってらっしゃっると思いますから、もうじき来られるかも…」
斑目「(腕時計見ながら立ち上がり)そう…」
その声にやや寂しげな響きを感じて、思わず顔を上げてしまうクッチー。
朽木「おわっ?!!!」
突然大声を上げて立ち上がり、のけぞってしまう。

斑目「…どしたの、朽木君?」
朽木「いっ、いえ、何でもないですにょー…」
斑目「…そう。俺、仕事戻るわ。みんなによろしく」
クッチーはここはわざと1発ボケをかまして、自分がいつも通りであるとアピールしようと考えた。
朽木「(大袈裟な動作で敬礼して)ご苦労様です!」
苦笑しつつ軽く手を挙げ、斑目は部室を後にした。

1人部室に残ったクッチーは考え込んでいた。
『何だったんだろう、今の?』
先程クッチーが顔を上げた時、不意に目の前が真っ白になった。
それで思わず大声を上げてしまったのだ。
そしてのけぞったことで、その真っ白の全貌が分かった。
部室中央のテーブルの上に、部室中を占領しそうな大きさの雲が現れたのだ。
『部室の中に居たのは斑目さん1人だけだったのに、軽く30人分ぐらいの大きさの雲が見えたにょー。こりゃいったいどういうことだにょー?』
一瞬しか見なかったし、雲が大き過ぎ距離も近過ぎたので、文字までは見えなかった。
しばし考えている内に閃いた。
『これはもしや、斑目さんの心、と言うか想いの大きさなんじゃないか?』
それがどういう想いかは分からない。
ひょっとしたらクッチーに対するネガティブな感情かも知れない。
だが例えそうだとしても、そうでないとしても、もしあれがネガティブな感情なら…
『たいへんだ、何か悪いことが起きるかも知れない!』
クッチーは斑目が好きだった。
いや斑目に限らず、現視研のメンバーはみんな大事な仲間だ。
例えみんなが本心でどう思っていようと。
その仲間が何か大きな問題を抱えている。
放って置く訳には行かない。
だが斑目が後輩、ましてやクッチーに素直に全て打ち明けてくれるとも思えない。
『斑目さん、悪いけどあなたの心、見せてもらいます!』

そう決意したその時、女子会員たちがやって来た。
春日部「あっクッチー、お前さあ…」
朽木「(目を伏せつつ)すいません、急ぎますんで!」
部室を出ようとするクッチー。
だがその腕を春日部さんが捕まえた。
春日部「ちょっと待て!お前今日変だぞ!」
朽木「なっ、何でもありません!」
春日部「何でも無いなら、こっちを向け!」
2人のマジなやり取りに、他の女子3人は固唾を呑んで見守っていた。

クッチーは出ようとする動きを止め、ゆっくりと春日部さんの方を向いた。
朽木『大丈夫、この距離で春日部さんの目にしっかりと視線を合わせれば、雲は見えない』
春日部さんはクッチーの目を見た。
彼は何時に無く澄み切った、強い決意を秘めた目をしていた。
春日部『何て目をしてるんだ?こいつのこんなマジな目、初めて見るな…』
春日部さんは手を離した。
春日部「いい目してるじゃねえか」
朽木「あの春日部さん、お願いがあるんですが…」
春日部「何だい?」
朽木「わたくしに、気合いを入れて下さい!」
春日部「分かった」
パアアアアアアアアアン!!!!!
フルスイングで平手打ちをかます春日部さん。
以前クッチーを気絶させた時より力を込めている。
呆気に取られる他女子一同。

だがクッチーはわずかに顔が動いただけだった。
それを見て春日部さんが微笑む。
春日部「今さら言うことは何も無い、思う存分暴れて来い!」
朽木「(敬礼し)イエッサー!」
春日部さんも敬礼してやる。
そしてクッチーは部室を後にし、決して速くないが全力で駆けて行った。
大野「いいんですか、咲さん?あんなこと言って」
荻上「つーか春日部先輩、今の台詞って…」
春日部「あーあれ?この間コーサカが見てたんだけど、何回も繰り返して見てたんで覚えちゃったんだよ」
恵子「ありゃまあ姉さん、すっかりオタクじゃん」
春日部「ちげーよ。って言いたいけど、そうかもな(苦笑)」
大野「それはそうと朽木君大丈夫かしら?」
春日部「大丈夫だよ、あいつはバカだが悪いやつじゃねえから。上手く言えんけど、あいつはあいつなりに成長してると思うよ」

必死で斑目の後を追うクッチー。
斑目の職場の場所は知っている。
その方向に向かって走ると、例の雲が見えてきた。
さらに進むと、斑目の後姿が見えた。
『よっしゃ、追い付けるかも!』
だが間一髪、斑目は職場に戻ってしまった。
『仕方ない、近くで仕事が終わるのを待つにょー』

桜管工事工業のオフィスから少し離れた所に小高い丘があった。
クッチーはそこを登り、オフィスの上空を見上げていた。
オフィスの建物と同じぐらいまで巨大化した雲が浮んでいた。
雲の大きさに比例して、そこに浮かぶ文字も巨大だった。
「この距離からでも読めそうだにょー。何々…春日部…さん?…何ですと?!」

読み進む内に、クッチーの脳はパニックを起こしそうになった。
「そんな、斑目さんが春日部さんを?そんなバカな?」
クッチーは、リアルタイムでは幾分か丸くなってからの斑目しか知らない。
とは言っても、春日部さんが1年生の時、激しく口喧嘩してたことは話には聞いているし、入学した時の仮入会の際に、その片鱗は見ている。
その分を差っ引いて考えても、斑目と春日部さんは水と油だと思えた。
「これはひょっとして、えらい問題に首突っ込んじゃったかも。こんなのエロゲーに無いし…どうしよう…」
あんたが悩んでどうする?
大いなる力を得た者には、大いなる責任が伴うんだ!
何とかしろ!
「えーいこうなったら乗り掛かった泥舟だ!とりあえず最後まで読んでみるにょー」
沈める積りか貴様?
「どう考えても浮くとは思えないにょー」
…激しく同意
「同意するなよ!」
…とにかく真面目にやれ!
この問題ばかりは他人に振る訳に行かないぞ。
「よっしゃ!こっからは真面目モードで行くにょー!」
さっきまでは真面目じゃなかったのか?

そして斑目の終業時間。
「斑目さん!」
帰ろうと会社を出た斑目、声を掛けられて振り返るとクッチーが立っていた。
斑目「やあ朽木君、どうしたの?」
朽木「ちょっとそこまで付き合ってもらえませんか?」
斑目は改めてクッチーを見た。
月明かりの下ではあったが、今まで見たことの無いマジ顔をしているのが分かる。
斑目「分かった」

2人は近くの公園に入った。
朽木『(上を見ながら)この辺なら明るいから、雲も見えるだろう』
やがてクッチーは街灯の下で止まり、後を付いてきた斑目も止まる。
斑目「明日早いんで、手短に頼むよ」
クッチーは斑目の頭上を見た。
ちゃんと雲が見える。
疲れのせいか、仕事中に散々考えたせいか、あるいは目の前にいるのがクッチーなせいか、雲は他の人のよりも大きいが、先程までの巨大さは無かった。
少し暗くて雲の文字が見づらいので、ちょっとずつ街灯に近付くクッチー。
斑目も釣られて近付く。
文字がしっかり見えるところでクッチーは止まり、斑目も止まった。

『さて、どうしたものかにょー…』
首尾良く斑目を捕捉したものの、クッチーはどう話したものかと頭を抱えた。
日が落ちて雲が見えなくなる頃まで、クッチーは斑目の心を読み続けた。
『斑目さん、仕事の間ずっと春日部さんのこと考えてたな…』
仕事に関する思考は、所々にしか無かった。
後の残りは全部、春日部さんについてだった。
社会人としては問題あるが、今回はそのことは流そう。
問題なのは、延々堂堂めぐりを続ける、迷路のような斑目の心の中だった。

「明日は春日部さんに会えるかな?」
「会ったからって、どうなるもんでもないだろう」
「そんなこたあ分かっているよ!だけどそれならせめて、卒業まで近くで見ていたい」
「だけどこんな生活も、あと少しで終わる」
「そうだな、春日部さんが卒業したら、もう部室に行く理由も無くなる」
「わざわざ大学の近くに就職した意味も無くなるな」
「ちょっと待てよ、それじゃあ結局春日部さんには何も言わないのか?」
「言ってどうする?何を言う積もりだ?『好きだ!』とでも言うのか?」
「わざわざ負けると分かっている戦を仕掛けることもあるまい」
「馬鹿野朗!男には負けると分かってても、戦わなきゃならない時があるんだよ!」
「おいおい、それはお前の都合だろ?向こうは仕掛けられても迷惑だぜ」
「…そうだよな。現状を維持し続けたまま卒業してもらえば、いい友達、いい仲間のまま終われる」
「それにさ、結ばれるばかりが恋じゃないだろ。例え自分と結ばれなくても、相手の幸せを祈ってやるのが本当の愛じゃないか?」
「うわーすげえ綺麗事。色恋沙汰なんて結ばれてなんぼじゃねえか。結ばれる当ても無いのに好きになっても、意味ねえじゃねえか」
「おいちょっと待て。意味ねえわけねえだろ!春日部さんと出会ってからの4年間、何のかんの言っても俺は楽しかったぞ!」
「だな。今までやったどんなエロゲーより面白かった。バッドエンドしかねえのによ」
「おいおい春日部さんとエロゲー一緒にすんなよ。あの人は俺にとって、何つーか、もっと神聖で、大切にしたい、特別な人なんだ」
「コーサカホテルに引っ張って行って、10回やろうって女がか?」
「ああそうだよ!非処女どころか経験豊富過ぎで、神聖なんて言葉と無縁な人だよ!本来ならな!」
「だけど一旦惚れてしまえば、そんなことは関係無くなる」
「ああ、そんなもんは理屈だ。好きになっちまえば、とにかく会いたいんだよ」
「明日は会えるかな…」

回数を重ねるごとに、内容は少々変わっても始めと終わりは変わらない。
「明日春日部さんに会えるかな?」
正確には「明日春日部さんに会いたい」という願望、それで始まってそれで終わる無限の思考ループ。
斑目の中に何人の斑目が居るのかは分からない。
クッチーは最初数えながら読んでいたが、同じ意見の中でも次々分派が現れて、1人で心の中を延々かき回し続けるので、途中からは数えることを放棄した。
『この人は卒業してから今まで、いやひょっとしたらもっと前から、自分の中で延々と「第~回 春日部さんへの気持ちどうしよう会議」を繰り返していたのか…』
クッチーは丘の上で斑目の心を読んでいる段階から、何を言うべきかいろいろ考えていた。
だがいざ斑目の前に立ったら、かけるべき言葉が分からなくなった。
『4年分の想いを俺に何とかしろと言うのか、天のお父様?無理ですにょー、こんな難しいエロゲー』
エロゲーじゃないってば!
『まったく、僕チンは相談することはあっても相談受けることは無い人なんだから、こんな問題背負わされても…待てよ相談か…』

「朽木君?」
斑目は、自分から誘っておいてトランス状態に入ってるノッポの後輩に声をかけた。
「にょっ?」
考え過ぎてワープしていたクッチーの意識が帰ってきた。
朽木「すんません、どう話したものやらと考え込んでしまいましたにょー」
斑目「(苦笑)で、話って?」
朽木「実はわたくし、好きな人がいるのです」
斑目「えっ?」『おいおい、そういう相談を俺にするかあ?!』
(以下斑目の台詞は、「」の肉声と『』の心の声を併記する。ちなみに一致する場合は『「」』)


斑目の心の声を目で読みながら肉声と対話しているので、クッチーは頭の中で言うことをまとめるのに時間がかかり、結果として一語一語言葉を慎重に選んで喋る形になった。
ちょうど英会話を習いたてで英語で会話する時、頭の中で相手の言葉を日本語に通訳して日本語で考え、日本語の返答を英語に通訳し直して喋るのに似ている。
朽木「その人はわたくしと違って一般人ですし、イケメンで高スペックの彼氏もいます」
斑目「なら、どうしようもないじゃない」『驚いたなあ、まさかあの朽木君が俺と同じようなことで悩んでいたとは…』
朽木『「あの」ってどういう「あの」ですか?』「わたくしもそう思いますけど、ただ、その人もうすぐ卒業してしまうんです」
斑目「えっ、そうなんだ…」『偶然だな、朽木君もそうなのか。まあでも彼の場合は相手が年上だし、自分は大学に残る訳だし、俺と彼とでは状況が違い過ぎるから、一概には比べられんな』
朽木「そこでわたくし、せめて最後に告白しようと思うのです」
斑目『「えっ?」』
朽木「でもその前に、何と言うか、斑目さんの意見を聞きたいなと思いまして…」
斑目「何で俺なの?」『意見ったって、俺もそれ出来なくて悩んでるんだっつーの!』
朽木『そりゃ斑目さんが春日部さんとのこと、どうする気か知りたいからですよ』「それは…いやー最近笹原さんも高坂さんも会えないし、それに彼女持ちにこんなこと相談しても仕方ないでしょ」
斑目「悪かったね、彼女無しで」『朽木君にしては賢明な選択かもな』
朽木『「にしては」とは何ですか!』「…すんません」

斑目はしばらく無言で考え込んだ。
クッチーはその思索をライブで読み続けた。
『彼氏持ちの一般人女子に告白するかどうか、って俺が悩んでることで意見求められてもなあ…』
『でもこうやって俺のとこに来た以上、何か答えてやんないとなあ』
『やっぱり俺に置き換えて考えるべきかな。つーかそれ以外、考えようが無いしな』
『で、どうするんだよ俺?告るの?』
『んな訳ねえよな…今さら告ってどうするよ?』
『だけど、それで本当に後悔しないのか?』
『しねえよ。墓場まで持っていくさ、この想いは』
『だけどそのやり方、朽木君にはどうかな?』
『そうだな、彼は俺なんかと違って強いから、当たって砕けても立ち直れそうだしな。本人の気が済むようにやらせてやればいいんじゃねえか』
『それに俺の場合と違って、彼の場合はひょっとしたらひょっとしてってことも、万が一にも無いとは言い切れないからな』

やがて斑目は口を開いた。
斑目「朽木君がやりたいと思った通りにやればいいと思う。だけどその前に確認しておきたい。話を聞いた限りでは、君に殆ど勝ち目は無さそうだ。それでも告白するのか?それで拒絶されても後悔しないのか?」
『俺の場合は全く勝ち目無いけどな。普通に考えて、俺が高坂に勝てる要素なんて何も無い。そしてもし万が一、春日部さんが高坂と別れて俺と付き合うようになったら、それもまた俺の負けだ。』
『何故なら、俺が好きなのは、オタ趣味を我慢したり、受け入れたり、理解しようと努力したりしながら、とことん高坂に惚れ抜く一途な春日部さんだからだ。どっちに転んでも分の無い勝負さ』

クッチーもまた、しばし沈黙しながら斑目を見ていた。
いや正確には、斑目の上に浮ぶ雲を見上げていた。
自分の悩みを相談するかのように装うことで、こちらの目の前で春日部さんとのことを考えてもらうという作戦は、とりあえず成功した。
だが問題はここからだ。
単に好きか嫌いか、結ばれるか結ばれないか、そんなゲーム的二者択一では済まない、複雑な恋愛感情。
好きになった理由だかきっかけだかが、相手が別の男を一途に愛してるからだという、理不尽な状況設定。
どう転んでもバッドエンドな最悪のシナリオだ。
それに対する適切な答えの持ち合わせなどクッチーには無い。
『これがエロゲーなら、メーカーに文句言ってやるにょー』
だからエロゲーじゃないってば。
『全く天のお父様、何ゆえにこんな不良品のエロゲーみたいなシナリオ書いたのかにょー』
どう考えても斑目ハッピーエンドのルートは無い。
それはもはや動きそうに無い、クッチーにはそう思えた。
『そんな負け戦を強いる権利は、僕チンには無いにょー』

だがそこでふと考える。
『負けたからどうだと言うんだ?戦争じゃないんだから、負けイコール死ではない。むしろこれからの為に、例え負けるとしても、この問題決着を付けておくべきじゃないのか?』
『そりゃ斑目さんは僕チンと違って、繊細でデリケートさ。だけど、それが目の前の問題から逃げていい理由にはならないにょー』
『大丈夫だよ。春日部さんならきっと、キッパリ振るだろうけど、その後も斑目さんと以前と同じように接してくれるさ。斑目さんが恐れているような、今までの関係が壊れることなんて無いさ』

やがてクッチーは口を開いた。
「わたくし、やっぱり告白しようと思います」
斑目「後悔しない?」『やっぱり朽木君は勇敢だなあ』
朽木「どうせ後悔するんだったら、やらないよりやった方がいいです」
斑目「決まりだな、て劇場版かよ!」
『やらない後悔よりやった後悔か…耳が痛いよ』
『こういう場でこういう引用するとは、朽木君も腕上げたな。結局俺にはこいつらだけか…部室は通い続けようかな、春日部さん卒業後も』
朽木『ぜひそうして下さい。わたくしも大野さんも荻チンも恵子ちゃんも、みんな待ってますにょー』「すいません。相談しに来ながら結局1人で結論出しちゃって」
斑目「いいさ、どのみち最終的に決めるのは本人だからな」『そうさ、朽木君は俺みたいなヘタレじゃない。今現在の思いに忠実に行動すればいい。俺は…どうするかな?』

斑目『「そんじゃあ俺帰るから」』
朽木「お疲れのところ、いろいろすいませんでした」
斑目「がんばれよ、朽木君」『俺みたいにはなるなよ』
寂しげな背中を見せて、斑目は帰途に付いた。

公園のベンチに座り、クッチーは沈んでいた。
「結局僕チンには何も出来なかったにょー」
まあそう落ち込むな。
お前さんはよくやったよ、詰めは甘かったけどな。
「リアル恋愛の経験値ゼロの僕チンには、あそこまでが精一杯ですにょー」
でもよかったんじゃないか。
お前さんと話したことがきっかけで、斑目ひょっとしたら告白するかも知れん。
お前さんの話とたばかって、奴自身の問題を真剣に考えたのがきっかけでな。
ああいう奴は、自分のことになると簡単にあきらめるけど、人のことだと真剣に考えてくれるからな。
いい先輩持ったな。
「オロロロ~~~ン!!!(男泣き)」

「さて、これからどうするかにょー。こんな変な力、僕チンには手に余るにょー」
ムダなことと思いつつも、クッチーはしばらく考え込んでいたが、やがて何か思い付いたように顔を上げた。
意を決したように立ち上がって公園を出ると、とんでもないことを言い出した。
「高○陽○先生がおっしゃったという、有名な格言を思い出したにょー」
○橋○一先生が何と?
「それでは伏字になってないにょー」
…あっ間違えた。
それはさておき、先生は何をおっしゃったんだ?
「『困った時には交通事故!』だにょー」
お前、それいろんな意味でヤバいって!
「よし、ちょうどよく車が来たにょー」
クッチーは車の前に飛び出した。
って、やめんかっ!!!
「あ○ち○先生だって、交通事故ネタで手柄立てて出世したんだにょー!」
○だ○充先生まで巻き込む気かー!!

次の日の朝。
大学へと向かうクッチーは、真っ直ぐに前を見て歩いていた。
昨日の後半の伏目がちの彼はもういない。
その代わり頭に包帯を巻いていた。
「クッチー!」
後方から声が掛かって振り返る。
春日部さんだ。
春日部「おはよう」
朽木「おはようございますにょー」
春日部「どしたの、その頭?」
朽木「いやー、バナナの皮踏んで転んでしまいましたにょー」
春日部「お前21世紀にもなって、そんなコテコテのギャグみたいな怪我の仕方するなよ」
朽木「いやー面目ないにょー」

クッチーが言ったことは、必ずしも全てが口から出まかせでは無かった。
結局車の前に飛び出す直前に、本当にたまたま落ちていたバナナの皮を踏んで滑ってずっこけ、アスファルトの道路に思い切りダイビング・ヘッドバットをかます破目になった。
クッチーは額を割って大量出血していたが、クラクラするものの意識はあった。
「そんなバナナ!」
こんな場面でそのギャグを出してくる芸人魂には感服する、寒いけど。
車は急ブレーキをかけて彼の30センチほど手前に止まった。
車を運転していた中年男は、大慌てで彼に駆け寄って来て、大丈夫かと声をかけた。
どうやらクッチーをはねてしまったと思い込んだようだ。
中年男は懐から札入れを出し、かなりの枚数の万札を彼に押し付けるようにして手渡し、早口で一方的に口止めを強要して逃げるように走り去った。
今思うと微かに酒の匂いがしたような気がするから、飲酒運転の発覚を恐れたのだろう。
もしクッチーが車に見事にぶつかって死んでいたら、ひき逃げしていたかも知れない。
クッチーは頭がクラクラしていたので言い返すことも出来ず、その為中年男の目論見はどうやら成功したようだ。
さすがのクッチーもそのまま病院に向かったが、幸い額の傷と打撲と軽い脳震盪だけで済み、入院することも無く徒歩で帰宅した。
さすがは現視研一のタフガイだ。

春日部さんと普通に接していることから分かるように、クッチーは頭を打ったショックのせいか、心を読む能力を失った。
春日部「で、どうよ?昨日の問題は?」
朽木「うーん、無事に解決したとは言えませんが、一応区切りを付けてきましたにょー」
春日部「(笑顔で)そりゃよかった。何だか知らないけど、お前にしちゃ上出来だ」
春日部さんは敢えて問題の内容は、何も訊かなかった。
クッチーの性格なら、言わなきゃならないことや聞いて欲しいことなら自分から言う。
言わないのなら、言う必要が無いか言いたくないかだ。
朽木「(小声で)後は春日部さんにお任せしますにょー…」
春日部「何か言った?」
朽木「何でもありませんにょー」


おまけ
クッチーは昼飯を珍しく学食で取っていた。
なるべく昼飯時の部室を避けて、斑目と春日部さんが2人きりになる可能性を高めようという、彼なりの気遣いだった。
それに、部室で料理をたくさん並べるのも何だし、と思ったというのもある。
あまり大食漢のイメージの無いクッチーだが、本来彼は痩せの大食いなのだ。
今日の彼の懐は暖かい。
昨夜思わぬ臨時収入があったからだ。
中年男が渡した金は、病院で払った分を差し引いても十数万円残った。
それじゃあ当たり屋だよ。
昨夜大量出血したせいか、どうも肉気のあるものが全部美味そうに見えて、10品もの注文をする。
「先ずは前菜からだにょー」
カレーライスに手を出す。
ってお前さあ、それは前菜なのか?

カレーを食べ終わり、ふとクッチーはスプーンを見つめた。
「昔これを念力で曲げる超能力者がいたそうだにょー」
ユリ・ゲラーが流行ったのなんて、お前が生まれる前の話だろうが、何で知ってる?
何気なくスプーンを見つめつつ呟いたその時、異変が起きた。
彼の目の前で、ただ端っこを持っていただけのスプーンが、くの字に曲がった。
「にょっ?」
試しにスプーンをさらに数本取りに行き、もう1度同様にスプーンを見つめる。
数本のスプーンが一斉に曲がって団子になった。
「にょにょにょ、こっ、これは?」
彼はようやく事態を悟った。
「どうやら頭を打ったショックで、今度は念力が出来るようになったみたいだにょー」
もう知らん、勝手にやってくれ。
「天のお父様のバカ~~~~~!!!」
学食にいることも忘れて、クッチーは魂の叫びを上げた。
最終更新:2006年10月06日 05:02