スケッチブック 【投稿日 2006/07/29】

カテゴリー-笹荻


 真っ暗な夜空に、冷たい風が吹いている。澄み切った空気の層の向こうに、こぼれ落ちてきそうな満天の星。
 12月28日の夜……正確に言えば、日付はすでに29日に変わっている。年末間近の冬の夜。荻上千佳は、一人ベッドの上で煩悶していた。
「……ダメだ。眠れねー」
 エアコンのないベッドルームだが、着なれたフリースのジャージに厚い布団をかぶっているので寒さは感じない。むしろ体は汗ば
んでいるくらいだ。彼女の眠れない原因は、隣の部屋にいる人物……笹原完士だ。
「笹原さん……大丈夫だろか。けっこう飲んでたみたいだけど」
 ベッドから起きあがり、布団を払いのけた。さっきのやり取りを思い出す。
『ソファで寝るなんてダメですよ、疲れちゃいます。狭いですけど、一緒にベッド使いませんか?』
『ありがとう、でも今夜はまずいよ。俺、100%自制効かなくなっちゃう』
『それなら笹原さんがベッド使ってください、私がソファで寝ますから』
『そんなのもっとダメでしょ、荻上さんこそしっかり寝なきゃ。俺はほら、いい具合に酒も回ってきたし』
 明日はコミフェスの初日だ。二人で始発に乗って冬コミに行く約束をした彼らは今回、新宿のカラオケ屋で夜明かしをする斑目たちとは別行動をとっていた。千佳の個人サークルが落選したため実際には早出の必要はないのだが、朝からあの人の絨毯に加わることもコミフェスの醍醐味のひとつだ。それに二人とも、今回は待ち時間がいくら長くてもかまわなかった。
 千佳の提案で、笹原は今夜彼女の家に泊まることになった。夜半過ぎまで彼らは、笹原はビールを、千佳はあたためたオレンジ
ジュースを飲みながら、翌日のことやチェックしているサークルのことなどをとりとめなく語り合っていた。
 ところが。いざ寝る段になってみると二人とも居心地の悪いことこの上ない。普段のデートでは互いの家で朝を迎えることも多いが、今回に関しては主目的は明日の早起きであり、そのあとの大イベントだ。ここで己の劣情に身を委ねるわけには行かないと、笹原が渾身の理性でとった行動がさきほどの会話だった。

「笹原さんのバカ。自制なんて効かなくなってもいいのに」
 つぶやく内容が支離滅裂になっているのにも気づかず、千佳はそっと床に降り立った。むき出しのフローリングは冷えきっており、思わず素足のつま先を丸める。
 部屋の境の引き戸に手をかけると、リビングの明かりがついたままなのに気づいた。
「笹原さん……?起きてるんですか?」
 小声で呼びかけながら部屋へ入る。彼からの返事はなく、代わりに聞こえてきたのは規則正しい呼吸音だった。
 笹原はソファの上で、千佳の予備の布団をかぶって眠っていた。千佳が寝室に移動した時よりテーブルのビールの缶が1本増えており、右手には読みかけの漫画本。どうやら彼もしばらく眠れなかったらしいことを感じ、千佳は小さく微笑む。
「(飲みながら寝ちゃったんだァ。ったく、しょうがねえ人だな)」
 足音をしのばせ、ソファの傍らに立って彼を見下ろす。
「(セオリーならここで『あなた、こんなところで寝てないでベッドへ行って下さい、明日も早いんでしょ?』、みたいな。……って私ナニ言ってんだ。大体そのセオリーって何のセオリーだっつうの)」
 笹原の寝息は深く、穏やかだ。ともかく彼がゆっくり休むことができたのならよかった。起こさないように、音を立てないように気をつけながら、空き缶と本を片付ける。テーブルを拭いてソファの脇、安らかな寝顔のすぐ横に座り込んだ。
 笹原はよく眠っている。千佳が間近で見つめていても、気づく気配もない。目を閉じ、口を軽く開けた横顔。
「(いま……キスしたら、笹原さん起きちゃうかな?)」
 千佳はそっと唇を笹原の顔に近づけてみる。彼の吐息が彼女の頬にかかる。あと10センチ……と、その時。
「う……ん」
「あわっ」

 身じろぐ笹原に、千佳は驚いて身を引く。思いのほか大きな声を出してしまった自分の口を慌てて押さえたが、笹原には聞こえなかったようだ。
「(……はあっ、びっくりしたぁ……なにやってんだ私)」
 熱に浮かされたような自分の行動に赤面する。寝室とは逆に、エアコンが効きすぎて暑いくらいのこの部屋のせいだ、と自分で自分に言い聞かせる。
「(でも)」
 動悸がおさまるのを待って、あらためて笹原の顔を見つめる。
「(けっこう、キレイな顔してんだな、笹原さん)」
 眠りが深まったのだろうか、彼はまた動かなくなっている。また起きやしないかとどきどきしながら、ほっぺたを人差し指でつつく。彼女ができたとは言え、オタクなりの無頓着さで身だしなみを気にしない彼に天が与えた、きれいな形をした眉。その下のまつげも、女の子みたいとは行かないが自然なカールを描いている。傷やほくろもなく、ふっくらとした頬のライン。あごからのどにかけては、大して濃くない髭がぽつぽつと頭を出し始めている。
 恋人の寝顔を見ているうちに千佳の中でおなじみの衝動が沸きあがってきた。立ちあがって中腰のまま机まで行き、ブックシェル
フからスケッチブックを取り出す。シャープペンシルを持ってテーブルに戻り、彼の顔の前に再び座りなおして、千佳は笹原の顔を
スケッチし始めた。
 千佳の使っているノートは、いつもの落書き帳ではない。普段彼女はデッサンや落書きや、形が出来上がってくる前のネームを一冊のスケッチブックに書きこんでいるのだが、今使っているものとは別のものだった。笹原が身動きするたびに胸の鼓動を高まらせながら、ほどなくデッサンは完成した。

「(……ちっとカッコよすぎッかな?)」
 出来上がった素描とモデルを見比べてみて、少し反省する。眠っていても凛々しいノートの中の寝顔と、その向こうで幸せそうに寝こけている笹原。おかしい、描いている時は同じに見えてたはずなのに。
「(ま、いっか。どうせこのノート、全部そんなんだし)」
 このノートを使っている時に、必ず行なう脳内会議。自分のルーティンっぷりに笑みをこぼし、千佳はノートのページを繰った。1ページ戻ると、そこに描かれていたのも笹原の顔だ。その前のページも、さらにその前も。ノートには千佳の描いた笹原が溢れていた。笑う笹原、何かを考え込む笹原、憮然とする笹原。イベント後の飲み会で睡魔に襲われたのか、テーブルの向かいで舟を漕ぐ姿もある。見られているのに気づき、照れ笑いを見せる彼がその後に続く。もちろん目の前で描いたわけではなく、帰宅後着替えもせずにスケッチブックに向かったのを覚えている。ページの中心で笑う笹原は油断だらけの間抜け顔ではなく、爽やかな笑顔でこちらを見つめていた。
 このノートを初めて描いたのは彼女が現視研に入った夏、コミフェスの原稿をみんなで描いていた時期だ。絵の描けない笹原、画力もセンスもあるのにもどかしい久我山と、自分の3人でひとつの作品を練っていた時。強引に進行役を買って出た咲の指示で自分だけ家に帰った夜、寝るに寝られなかった気持ちを静めるために手遊びで描いたのは、かつて闖入者の原口を雄々しく撃退した時の笹原の顔だった。

 そのときはまだ、単に新しい落書きノートの1ページ目のつもりだった。だがそのノートは、それからしばらく姿を消した。どういうことだか今でも不明だが、いつもの場所に戻したはずのそのスケッチブックが翌日には見当たらなかったのだ。そのうち出てくるだろうと思って別の落書きノートを作った千佳が、そのスケッチを見つけたのは1年近く後のことだった。
「(今にして思うと……あれもなんかの御託宣だったのか)」
 先輩の大野加奈子にうまく乗せられてコスプレに追い込まれ、しかもそれを笹原に見られてしまった日。後悔と恥ずかしさで沸騰し
そうな脳と、そこに反響し続ける笹原の『かわいい』という声を抱いて帰宅した時に、本棚から突然落ちてきたスケッチブックの笹原と再会した。千佳の混乱は最高潮に達し……そして不意に、心が静まったのを感じて戸惑った。尊敬してはいたものの当時は恋愛感情などない筈の、『単なる先輩』『やおい妄想の攻め手』の顔。それに癒される自分を当時なりの論理と経験で、自分には絵を描くことしかないのだと結論した。11ヶ月前の笹原の顔の隣には、その日の笹原の照れた笑顔を描きつけることとなった。
 原稿を描いていて行き詰まった時。前期試験の準備の合間。夏コミの前夜にもこのノートを開き、そのたびごとに笹原の姿が増えていく。どうしたわけかこのノートには、彼以外の絵を描く気がしなかった。
「(笹原さん……)」
 目の前で眠っている笹原を見つめながら、ノートを抱きしめる。

 夏コミ初日、千佳の個人サークルを手伝ってくれた笹原と別れたあと。いくつかの事件が起こってしまい、ざわめきつづける胸の動揺を鎮めようと自宅でノートを開いた瞬間、気づいた。長らく封じ込めていた感情が、自分の中に再び顔を出しているのに。
 笹原しか描かれていないノート……『笹原しか見ていない』のは、千佳自身が気づかなかった自分の心の目……千佳そのものだっ
たのだと思い当たった。
 困惑した。
 自分は人を好きになってはならない。自分は人に好かれてはならない。中3のあの日から、意識の表層には決して現れなかった決
意。笹原に惹かれる心と、それに相反する決意の両方を目の当たりにして、結論を出せないままに日々は過ぎた。
 合宿の日の出来事を思いだす。笹原からの告白。逃げた自分をぎこちなく包もうと差し伸べられた手。その手をとってみようと決めた日のこと。帰宅した翌日、彼はその手を振り払うことなく、むしろ千佳の心と体を、強く抱きしめてくれた。笹原が帰ってから、1ヶ月開いていなかったスケッチブックを手に取り、翌朝まで何かに取りつかれたように千佳は、自分を愛してくれたひとの姿を描き綴った。
 あれから3ヶ月。千佳の、笹原を想う気持ちは日ごとに強くなっていく。いつもへらへら笑っていて頼りなげな普段の彼。それでいて心に決めたことには正直で、かたくなにやり遂げようとする強い意思。抱きしめてくれる時の筋肉の力強さや、一緒に眠りに落ちてゆく直前に必ず頬に触れてくる、手のひらの温もりと優しい瞳。
 この人がいてくれてよかった、と心の底から思う。体温で温まったフローリングにぺたりと座り、笹原の頭が載っているソファの肘に反対側から寄りかかる。彼を起こさないようにほんの少しだけ頭を触れさせ、スケッチを抱えたままで千佳は目を閉じた。

 午前4時25分、笹原の頭の下で携帯電話が震える。音はしないが、本人が目覚めるには充分な衝撃だ。
「ん……っと、起きなきゃ……っうわ?」
 アラームを止めながらゆっくり頭をもたげ、目の前の人影に面食らう。
「お……荻上さん?」
 うっかり大きな声を出してしまったが、彼女はよく眠っている。やけに見晴らしのよいテーブルが目に入る。
「(あれ……片付けてくれたのか。いつからいたんだろう……え、ずっとここで寝てたのか?)」
 暖房は入っているが、床に直に座っているのでは体が冷えてしまう。慌てて声をかける。
「荻上さん、こんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ、荻上さん」
「ん……あ、ささはらさん……」
 半目を開けて笹原のほうを見る。ゆっくりと微笑む。
「おはようございます、よく眠れましたか?」
 具合を悪くした様子はない……よかった。
「おはよう。荻上さん、ベッドで寝ててって言ったのに」
「あ……やべ、私こんなとこで寝ちまってたんだァ」
 ようやく自分の状況を掴んだようだ。慌てて身を起こし、抱えていたノートが床に落ちた。
「わ!……っと」
「あ、大丈夫?」
 笹原が手をのばすより早く、千佳がノートに覆い被さる。閉じられたままだったので中身は判らなかったが、いつもの千佳のノート
でないことには気付いた。
「……見ましたか?」
「見てないよぉ。……でも、その表紙」
 なんにせよ彼は、千佳の作品を彼女の許可なしに見たりはしない。恋人に対する、というよりクリエイターに対する礼儀だ。警戒する千佳に、苦笑しながら言った。見えたのは表紙にただひとつ書かれていた文字列。西暦で書かれた日付、それは。
「荻上さんがうちに来た日、だよね?」
「……はい」
 千佳がスケッチブックにタイトルをつけたのは初めてのことだった。これは大切な記録だったのだと気付いた日、千佳はこのノート
の表紙に、その原点の日付を書きいれた。

「え、おととしからずっと描き溜めてるの?1冊のノートに?」
「あ、ええ、まーその……私が現視研にかかわったイベントとかの時だけ、記録っつうかそんな感じで使ってるだけですから……まあ、備忘録みたいなもんで。ほらあの、今日もみんなに会うし、スーたちも来るじゃないですか」
 聞いてもいない理由まで喋り始める。いけない、彼女が自爆する前に話題を変えたほうがいいか。
「わ、ソレってすごく興味あるんですけど……見せていただくワケには……」
「だっ、ダメですよもちろん。尋常じゃない呪い、かけてありますからね。即死ものの」「死ぬのか……じゃダメか」
「ダメです」
 ノートを隠すように抱きしめながら立ちあがる。
「笹原さん、シャワー浴びてきてください。私、その間に朝ごはん支度しちゃいますから」
「うん、ありがとう……あのさ」
 持参した荷物を持ち上げながら、笹原は千佳に話しかける。
「なんですか?」
「……さっき目が覚めて、目の前に荻上さんがいてさ……。なんか、嬉しかった」
「……え」
 千佳の顔が見る間に赤くなる。
「……っば、バカなこと言ってないで早く行ってくださいっ!」
「はいはい」
 照れながら引き戸の向こうに消えてゆく笹原を見送り、千佳はもう一度ノートの表紙を見つめた。
 炊飯器のタイマーはさっきも確認済で、まもなくご飯が炊き上がる。笹原がシャワーから出てくるまでに、焼き魚と味噌汁くらいは用意できるだろう。先に食べてもらっているうちに、玉子も焼いてみよう。たくさん練習した厚焼きを試してもらえるチャンスだ。
 それともその前に、今の笹原さんもスケッチしておこうか?……いや、やめておこう。今はむしろ、愛しい人にあたたかい食事を作ってあげたい。
 それに。千佳は机の脇の本棚にスケッチブックを戻しながら思った。


 それに今の笑顔はノートじゃなく、私の心のほうにしっかりと描かれているのだから。
最終更新:2006年07月31日 01:02